金色の光に包まれて

2014年6月15日三位一体の主日
・第1朗読:出エジプト記(出エジプト34・4b-6、8-9)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント13・11-13)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ3・16-18)

【晴佐久神父様 説教】

 三位一体(※1)の主日、本日6月15日の午前10時からミサがあるという、(笑)これは、あの~、なんのことかお分かりでしょう、ワールドカップ(※2)日本の初戦が、つい先ほど、午前10時から始まっているわけで。
 ・・・いったいどうなっているのか、気が気じゃないという巡り合わせですが・・・。ま・さ・か、みんなテレビ見ててミサはガラガラじゃないだろうなと、(笑)心配しましたけど、皆さん、ここに集まってくださいました。というわけで、必勝祈願ミサを・・・そんなことをするわけにはいかない。(笑)
 ワールドカップ、もちろん素晴らしいお祭りですから、私たち、このお祭りを、やっぱり応援したらいいとは思いますけど、わが国の必勝祈願ミサなんておかしいですよね。
 むしろ、このチャンスに、私たちがお互いに出会い、知り合い、尊敬し合えたらいいですし、それを願うミサを捧げようじゃないですか。これだけ、世界中の人が一つのことに心を合わせてるって、なかなかないことですからね、このチャンスを生かしましょうよ。
 教皇フランシスコも、実はサッカーファンで、まあ、南米出身ってこともあってね、ワールドカップに向けてのビデオメッセージまで出したっていうニュースを新聞が載せてましたけれど(※3)、教皇さまも、やっぱり、アルゼンチンを応援するんですかねえ。どうなんでしょう。・・・応援するんだと思いますよ、ふるさとですからね。ただし、単に勝って喜び、負けて悔しがるだけじゃない。
 教皇さま、ビデオメッセージでこんなこと言っていたと報道されてました。
 「このワールドカップで、われわれの内に、利己主義を超え、差別や偏見を捨て、敵を尊敬する心を育てようではありませんか」
 そういう機会になるのなら、このお祭り、ホントに神さまに祝福されたお祭りっていえるんじゃないですか?
 そういう思いが世界に満ち満ちれば、世界、変わるんじゃないでしょうかね。
 もし自分の国が優勝して、優勝パレードなんていったら、みんな、ホントにうれしい気持ちになるでしょうし、また、よその国がそのように優勝して喜んでいるのを、「ホントによかったね~♪」って、お祝いしてあげるような気持ち、こういうのって、いいですよね。自分たちがうれしいときもうれしいし、人がうれしいときもうれしい。
 ・・・「敵を尊敬する心」

 でも実は、優勝パレードっていうならば、キリスト教的にイメージするならば、全人類が優勝パレードしているようなもんなんですよ。
 たとえばもし仮に日本が優勝してですね、銀座あたりで優勝パレードなんていってね、みんなが笑顔で、何十万っていう人がニコニコしている。これ、最高に幸せな状態だな~ってイメージできますでしょう?
 今日、三位一体の主日に、ぜひイメージしていただきたいのは、そんな優勝パレードの、一万倍、百万倍の喜び、恵み、栄誉が、神さまから全人類に与えられている、・・・まさに「神さまから」与えられているということです。この世のイベントの主催者からじゃなく、この世界の主宰者である神さまから最高の栄誉を与えられて、全人類は今、優勝パレードをしている最中なんだっていうようなイメージを持っていただきたい。
 だって、イエスが与えられたんだから。
 優勝パレードの途中に、心重くする人、いないでしょ? 確かに現実はつらいけれども、いろんな問題を抱えているけれども、「今はホントに喜ぼう!」って、みんなで顔輝かせるのが、優勝パレードってもんでしょう。
 それでいうなら「イエス・キリストが、この世界に救いをもたらした」「神さまの愛が私たちのうちに実現した」っていうことは、そんな「優勝」の一万倍、百万倍の喜びなんですよ。顔、輝かせてくださいな。
 ワールドカップの表彰式で金色の紙吹雪が噴き出してきますけど、今、この新約の時代、キリスト者である皆さんの上に、そのような神さまからの栄光が、惜しみなく尽きることなく降り注いでいるっていうイメージをお忘れなく。

 さっき、イエスさまがね、「神さまがその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためだ」(cf.ヨハネ3:16)って、ほんの2、3行で読んじゃいましたけど、これ、とてつもないことなんですよ。
 この天地万物の主宰者である神が、この私たち、その「あなた」、今そこに座っているあなたたち一人ひとりをとことん愛して、栄光を、永遠の栄誉を、惜しみなく注いでくださってる。・・・三位一体の主日にイメージするべきは、そこです。
 「三位一体」と聞いたらですね、これは覚えといてください、「あふれるお方」をイメージする。・・・これが大事です。
 神さまが、ご自分の愛、恵み、いのちを、私たちに惜しみなくあふれさせてくださる。神さまはね、尽きることなく「あふれるお方」なんです。ちょうど太陽から、光と熱が一方的にあふれてくるように、神さまからはすべての恵みが尽きることなくあふれてくる。とめどなく、あふれてくる。・・・私たちは、そのあふれくるものを受けている。
 その「あふれくるもの」を「聖霊」と呼んだりもするんですけども、何と呼ぶか以前に、イメージが大事です。
 私たちがそれを受けるつもりがあろうとなかろうと、ともかく神さまはもう、ご自分をあふれさせてます。こんこんと、尽きぬ泉のように。私たちはその、あふれ出る神の恵みの中で、つくられ、生かされ、そしてそのあふれ出る恵みによって、永遠の命を得ている。
 この「天の父」、そこからあふれてくる「聖霊」、そしてそれを100パーセント受け取る「イエス」、この交わりの中に、私たちはいるんだっていうイメージ、大事ですね。
 イエスは、このあふれ出てくるものをすべて受け止める、完全なる神の子です。
 ・・・私たちは、ちゃんと受け止めていない。
 だから、不完全な私たちは、その完全なる神の子をこの身に迎え入れることで、聖なる霊をちゃんと受け止めることができる。それが、「洗礼」ってことでしょう。
 洗礼を受けている人は、いうなれば、すでにイエス・キリストが標準装備されてるんですよ、全員。もう皆さん、イエス・キリストが、ちゃんと備わってます。だから、そこにおいて、神からあふれくるものはぜんぶ受け止められてるんです。
 ちょっとこう、神の子として心を開いて、目先のつらいことだけを見るんじゃなくて、今、天からあふれくる恵みを、今日、ここで、受け止めようじゃないですか。それはもう、この世の優勝パレードなんてレベルじゃないんですよ、永遠のいのちに関わること。真の喜びに関わること。
 この世の喜びはすぐ消えます。前回優勝のスペインなんか、5点も取られて負けたじゃないですか。まず連覇できないでしょうね。栄枯盛衰は世の習い。この世界に、永遠の喜びなんて、どこにもないんですよ。・・・神さまこそが本当の喜びだし、そこから尽きぬ喜びが、ちゃんと私たちに注がれている。
 三位一体の主日は、頭で神学的なことを考える日じゃなくって、今、私たちは、主イエスと一つに交わることで、天の父からあふれくる聖なる霊の恵みを確かに受けている、その中に生かされているっていう、安心をね、喜びをね、味わう日です。

 天の父を太陽にたとえるんだったら、昨日、美しい光景を見ました。
 教会前の川沿いの遊歩道を歩いてたときです。・・・最近、ガシガシと歩き回ってるんですよ、いい習慣がついたと思います。前は走ってたんだけど、すぐ膝とか腰とか痛めちゃうんで、ウォーキングにしました。結構、毎日のように歩いてますよ。
 昨日の夕方、川の岸辺に金色の光が斜めにサーッと差してね、美しい夕方でした。
 ミサの1時間前だったんですけど、川の向こう岸を、ちょうどミサに向かっているご夫婦が歩いてるのを見かけたんですね。今、万緑(ばんりょく)でしょ、青葉茂れる遊歩道を、斜めに差し込む金色の光を浴びながら、ご夫婦が一緒に歩いてるんですよ。古~くからの、多摩教会の信者さんで、・・・名前は言わないでおきますけど、とっても仲のいい夫婦。あっ、時にはけんかもするとも聞き及んでますけど、(笑)まあ、ほほえましいご夫婦。
 ご主人がちょっと前を歩いてね、奥さまが半歩後ろを歩いてね、で、ご主人が時々、「あれは何だろうね?」みたいに指さすと、奥さまがニコニコしながら、何か答えてる。それを金の光が包んでる。・・・思わず、「ああ、美しい光景だな~」と思って見ほれてしまいました。
 そんな様子を、ず~っと、反対側の岸から見てたんですよ、ストーカーみたいに。(笑) でも、私には、それがもうホントに美しく見えて、うっとりしちゃったんです。
 二人を包んでいるそんな金の光に、二人は気づいていませんけど、本人たちはその光に望まれて生まれてきましたし、その恵みによって出会わされましたし、そうしていろんなつらい思いをしながらも年月を重ね、今、二人で、ゆっくりと、一歩一歩、三位一体の主日のミサに向かっている。青葉茂れる川のほとりを。・・・その姿に、しみじみと胸打たれたし、その二人を包んでいる三位一体の神のあふれくる恵みが、一瞬見えたようでしたよ。
 本人たちは、気づいてない。むしろ「この日常は意味があるのかねえ」とか、時には「これからどうなるのかしら」とか、いろんな不安を胸に歩いてたりする。だけど、そういう人間の心の中の思いと、まったく関係なしに、一人ひとりに、常に、惜しみなく注ぎ続けている、金の光。そのあふれくる神さまの恵みに、もっともっと、みんな気づかなきゃいけないんじゃないか。
 今日、こうしている今も、あふれくる神の恵みが、私たちに注がれてるんですよ。
 優勝パレードの紙吹雪みたいに。表彰式のときなんか、金色の、キラキラするものがバアッと降り注ぐじゃないですか、選手たちの上にね。
 ・・・「今、そうなんだ」っていうこと。

 今、そうなんだという真の喜びの瞬間を、このミサでね、特に味わいましょう。普段はそれを味わうことが難しいけれど、ミサの1時間は、それをこそ味わいましょうっていうときなんだから。
 「三位一体の主日」のミサは特にそういう主日ですけど、実はすべてのミサが、「三位一体の主日」のミサのようなもんなんですよ。先ほどミサの始めに「開祭の儀」(※4)ってやりましたけど、ミサの始めからもう「三位一体」づくしだって、ご存じでしたか?
 最初にみんなで十字を切りますね、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」。・・・いうまでもなく、三位一体の尊いしるしです。
 そしてその後、司祭が宣言する。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」
 これさっき、ちょうど第2朗読で読まれたとこですよね。パウロのコリントの教会への手紙の最後の所、13節
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(二コリ13:13)
 まさに三位一体の神と私たちを結ぶ美しいあいさつですね。
 その後で、「栄光の賛歌」(※5)を歌いますけれども、「栄光の賛歌」なんて、三位一体の神をほめたたえる賛歌なんですよ。「天のいと高きところには神に栄光」って歌いますけれど、その神は三位一体の神なんです。ですから、「全能の父なる神」をほめたたえ、「主なる御ひとり子イエス・キリスト」をほめたたえ、「聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに」と、・・・三位一体の神をほめ歌う賛歌を歌ったんです、さっき。
 そして、「集会祈願」(※6)の最後には、毎回必ず、天の父に向かってこう唱えます。
 「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子(おんこ)、わたしたちの主イエス・キリストによって」
 ・・・美しい祈りです。
 三位一体の聖なる交わりが、このミサのうちに満ち満ちているっていうことを、もうすでに「開祭の儀」において、私たちは深く味わって、このミサを捧げているんですよ
 天の父に向かって、聖霊に満たされたイエス・キリストが捧げるミサ。ここにおいて、三位一体の神がすべての人を救っているのであり、これこそは三位一体なる神の勝利であり、ミサはもはや優勝パレード・・・。そんな感じでしょうか。

 教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』が、ついに出版されました。(※7)
 今日から教会ショップアンジェラで売りますから、ぜひお買い求めください。
 これは読めば読むほど、非常におもしろい。
 昨日読んでて、ちょっと、へ~って思ったのは、全体の一割近く、説教について書いてあるんですよ。「長々と説教するな」とか、(笑)・・・私、なんか、スミマセンって感じですけど、「退屈な説教するな」とか、「相手のこと考えて話せ」とか、いろいろ書いてある。
 でもそれはともかく、神さまからあふれてくる、それこそ三位一体の恵みをね、教会こそがちゃんと伝えなくちゃならない、みんなに与えなければならないという、熱い思いからなんです。
 ともかく、「閉ざすな」と。「開いて、伝えに出ていけ」「開いてみんなを受け入れよ」と。
 まあ、説教でも何でもそうですけれど、教会っていうのは、神からあふれくるものを、本当に人々が深く受け止められるように奉仕するチームですよね。あるいは、神からあふれくるものに気づいていない人たちが、み~んなそれに気づいて真に喜べるように、お世話するチーム。
 だから、「教会こそが出掛けて行け、教会こそが受け入れろ」と、まあ、それを、教皇さまが自ら口を酸っぱくして、一生懸命信徒たちに語っているという勧告です。
 この熱い思いをもって、教皇フランシスコ自身が、あたかもイエスさまであるかのように語り掛けている。あたかも聖なる霊の働きそのもののように、私たちに、精いっぱい語り掛けてる。
 そうなんです、その「語り掛ける」っていう、姿勢というか、口調がね、非常に特徴的だと思いました。まるで、なんだか、神さまご自身から語り掛けられているかのようで。
 本の帯にね、中の文章が引用されてるんですけど、こうあるんです。
 「教会は、つねに開かれた父の家であるよう招かれています。開かれていることの具体的なしるしの一つは、どの教会でも門を開いたままにしておくことです」
 ・・・「閉ざすな」ってことなんですよ。
 「神からあふれくるもののじゃまをするな」「ふたをするな」「門を閉ざすな」「受け入れるんでも、出ていくんでも、ともかく閉めるな」と、この勧告は、それを言ってるんだと思います。

 以前いた教会ですけど、伝統的に、門を閉めてたんですね。
 これが立派な門で、ちょうどあの、よく校庭の門に使われているような重~いやつでね、ガラガラガラガラ、ガッシャ~ンって閉める、(おり)みたいになってるすごく重いやつ、それをしっかり閉めて鍵までかけるっていう、そんなことをしていた。
 だから私、その教会に赴任したとき、「これもう、開けたままにしましょうよ」と申し上げ、委員会で話し合って、開けっぱなしにすることにしたんですけれど、やっぱり習慣っていうか、いつの間にかまた閉じちゃうんですよ。だから私、「もうこの門、撤去しちゃいましょう」って、業者に頼んで撤去しちゃった。これでもう閉められない。次の神父が閉めようとしても、もうない。(笑)
 だって、ガラガラ、ガッシャンって、何から何を守ってるんですか?
 まさに閉ざされた信仰のシンボルでしょう。
 それはもう、教皇さまがおっしゃる通りです。
 「開かれた教会の具体的なしるしは、門を開いたままにしておくことです」と。
 そうして、この多摩教会に来てみたら、なんと、初めっから門がない。(笑) ・・・素晴らしい教会ですよ。うれしかったですよ。
 道から入ったスペースを「オアシス広場」と名付けてね、私、「オアシス広場」って、自分でペンキで書いた看板を、カンカンカンッて(くい)打って取り付けました。これが教会だってね。
 さあ、教皇さま、「門」とは言ったけど、「扉」とは言ってない。しかし、同じことですよね。
 扉もそろそろ検討しましょうか? 取られるもの何にもないでしょ? ベンチ持ってかれるわけじゃないしね。常に開けといても、いいんじゃないですかね。・・・まあ、何にしても、教会の門は、扉は、私たちキリスト者の心の門なんです。信仰の扉なんです。これはいつでも開けとかないと。
 いつでも、あふれくるキリストの愛を迎え入れるために。

 教会のすぐ上の病院から、時々、信者さんが来られるんですよ。・・・よその教会の方ですけどね、入院してる方。
 昨日の午後に来た方は、「ゆるしの秘跡を受けたい」と言って来られた。秘跡受けて、ぽろぽろ、ぽろぽろ泣いてましたよ。・・・感動してね。
 私はもうともかく、「あなたはすべてゆるされている、神さまの愛があなたにあふれてきている、だいじょうぶだ」って、こう、一生懸命励ましました。入院、つらいですから。
 その方が、「ここのミサに来たいけど、規則で10時にならないと外出できない。だからどうしても、ここのミサに遅れてしまう。だから、来られない」って言うんで
 「いやいや、ぜひ来てください。10時に出たら、10時10分か20分には来れるじゃないですか。うちの神父の説教長い。聖体拝領も11時に近いから、安心して来てください」と、「ぜひお出でください」とお招きしました。今日来られてるかな~と、さっきから、眺めてるんですけど、まだ来られてないみたいです。
 「ぜひ、『心の病で苦しんでいる人のための夏祭り』(※8)にも来てください、7月6日16時から いやしのミサがあり、その後お祭りです」ってお誘いしたんだけど、「規則で16時には帰ってなきゃならないんで、来れない」って言うから、「じゃあ、その前に来てください。あなたには特別に秘跡をお授けしましょう。とにかく、神さまは、あなたに恵みを与えたいんです」と申し上げました。
 常にさまざまな門を開いて迎えて、神さまの愛をいっぱい知ってほしいし、安心してほしい。
 「ありがとうございました」と言って、本当にうれしそうに帰っていく後ろ姿を、そこの坂のとこまで見送りましたけど、三位一体の神の愛がキラキラして、それこそ金色の光に包まれているようでしたよ。


【 参照 】

※1:「三位一体」
・ キリスト教において「父」と「子」と「聖霊(聖神)」が「一体(唯一の神)」であるとする教え。
正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントといった大半の教派が、この教えを共有している。三位一体は、「三神」(三つの神々)ではない。(ウィキペディア

・ キリスト教神学において、神の内的構造と働きを示す教義で、「父なる神と、子なる神と、聖霊なる神とが、各々3つの自存者であり、かつ一つの実体として完全に一致・交流することを意味する(以上はギリシア定式)。
 ラテン定式では、3つの位格(ペルソナ)が、一つの本質であると表現される。
 神学的にはそれは父による子の派遣、受肉の根拠を示し、哲学的にはキリスト教的絶対者の三位一体的交流性や歴史・他者への関与性を意味する。
 さらにこの表現は、個人の祈りや教会の典礼、洗礼、信仰告白の際に用いられる。(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)

(参考)
・ 「A年 三位一体の主日」(Laudate>教会カレンダー)
・ 「三位一体」(ウィキペディア)
・ 「」(Laudate>キリスト教入門>カテキズムを読もう)
・ 「父」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002年、「父」pp.75~84)
・ 「三位一体」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
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※2:「ワールドカップ」
「2014 FIFAワールドカップ」
 2014年6月12日から7月13日までの予定で、ブラジルで開催されるFIFAワールドカップであり、同大会としては節目の20回目となる記念大会。
・ スローガン : ”All in one rhythm”(すべてをひとつのリズムに)
・ 参加チーム数: 32(6連盟)
・ 開催地数  : 12(12都市)
・ 試合数   : 64試合
(参考)
2014 FIFAワールドカップ(ウィキペディア)
2014 FIFA ワールドカップ ブラジル大会(Sportsnavi)
ワールドカップのデータベース(ワールドカップのデータベース) ほか
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※3:「教皇フランシスコも、実はサッカーファンで、(中略)ワールドカップに向けてのビデオメッセージまで出したっていうニュースを新聞が載せてましたけれど」
・ 「ブラジルW杯:法王『差別ではなく団結力を見せる場に』」(毎日新聞 2014/6/13)
 (※ 新聞記事へのリンクは、一定期間後リンク切れになる可能性がありますので、ご了承ください。)
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※4:「開祭の儀」
 カトリックのミサは、1.開祭の儀 2.言葉の典礼 3.感謝の典礼 4.閉祭の儀 の順に進められる。
 「開祭の儀」はミサの導入部に当たり、①入祭の歌、②あいさつ、③回心への招きと祈り、④あわれみの賛歌、⑤栄光の賛歌、⑥集会祈願から成る。(2006年『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』オリエンス宗教研究所より)
(参考)
・ 2006年『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』オリエンス宗教研究所
・ 「ミサについて」(カトリック東京大司教区>ようこそカトリック教会へ)
・ 「ミサの式次第-開祭の儀」(ウィキペディア)など
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※5:「栄光の賛歌」
 栄光の賛歌(Gloria)は、ミサの式次第において「キリエ(あわれみの賛歌)」の後に来る賛歌で、三位一体の主なる神をたたえる内容。
 ルカ2:14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」を冒頭の句として、神への賛美とキリストへの賛美を歌う。
 4世紀ごろに東方教会でギリシア語で成立し、カトリックでは6世紀から主日や祝日における教皇ミサに行われるようになり、カロリング朝時代(8、9世紀)からはミサの通常式文となった。現在、待降節、四旬節以外の主日や、祭日・祝日にミサの開祭で歌われるものとされる。
 (「典礼解説-四旬節」カトリック中央協議会、『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年 他)
 以下は「栄光の賛歌」の一例です。(サンプル版につき、導入部)

(YouTube:Giovanni Recordsの制作・流通CDの視聴チャンネル)
<[CD]豊中混声合唱団による高田三郎作品集vol.7 高田三郎 混声合唱のための典礼聖歌Ⅱ(Track14)>より
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※6:「集会祈願」既出
 カトリックのミサの導入部、「開祭の儀」(※4参照)の最後(⑥)にあたるのが、「集会祈願」。
 栄光の賛歌の後、司祭は会衆を祈りに招き、一同は、司祭とともにしばらく沈黙する。
 それは、自分が神のみ前にいることを意識し、自分の願いを思い起こすためである。
 その後、司祭は、「集会祈願」と呼ばれる祈願を唱える。この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
 教会の古くからの伝統に従い、集会祈願は通常、聖霊において、キリストを通して、父なる神に向けられ、三位に言及することばによって結ばれる。
 詳細は、「ローマ・ミサ典礼書の総則<暫定版>(PDFファイル)」カトリック中央協議会、2004年、「集会祈願」p.22 参照
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※7:「教皇さまの使徒的勧告が、ついに出版されました」
『使徒的勧告 福音の喜び』(下の画像はクリックすると少し大きく表示されます)
 
・ 著者: 教皇フランシスコ
・ 訳・監修: 日本カトリック新福音化委員会
・ 発行: カトリック中央協議会(2014/6/12)
・ 単行本: 272ページ
・ 価格: ¥1,728 (税込み)
・ 判型: 四六判 上製
・ ISBN: 978-4-87750-184-6
・ 原文発表: 2013年11月24日
・ 初版発行: 2014年 6月20日
・ 内容紹介:
 「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマとした世界代表司教会議(シノドス)後の使徒的勧告。共同体、聖職者、そしてすべての信者に、自分自身の殻に閉じこもることなく外へと出向いて行き、弱い立場にある人、苦しむ人、貧しい人、すべての人に福音を伝えるよう強く促す。「熱意と活力に満ちた宣教の新しい段階」への歩みを望む教皇の思いが力強く表現された、希望と励ましに満ちた文書。

・ ご購入は、Amazonパウルスショップショップ・パウリーネ(女子パウロ会オンラインショップ)、または、お近くのキリスト教書店などでどうぞ。

(参考記事)
・ 「使徒的勧告『福音の喜び』」(カトリック新聞オンライン June12.2014)
・ 「使徒的勧告『福音の喜び』」(カトリック中央協議会)
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※8:「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り」
(下の画像はチラシです。クリックすると大きく表示されます。)
 「ここナツ」チラシ
 愛称は「ここナツ」。
 「お祭りなんてにぎやかなこと、私はとてもじゃないけど、そんなの無理」とか、「自分もお祭りで楽しんだりしたいけど、そんな勇気はない」とか、そう思っているような、こころの病で苦しんでおられる方のための夏祭りです。(場所:カトリック多摩教会所在地と交通アクセス〉)
 7月6日(日)午後4時から「こころの癒やしのミサ」、午後5時30分から「夏祭り」です。
 かき氷やフルーツポンチ、焼きそば、カレーにフランクフルトなどの食べものや、楽器演奏などもあり、楽しいひと時をご一緒したいと企画しました。
 どうぞご遠慮なくお越しください。お待ちしております。(無料)
 詳細は、「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り(7月6日)」(カトリック多摩教会ホームページ)でご覧いただくことができます。
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2014年6月15日 (日) 録音/2014年6月22日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英