2014年3月30日 四旬節第4主日
・ 第1朗読:サムエル記上(サムエル上16・1b、6-7、10-13a)
・ 第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・8-14)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ9・1、6-9、13-17、34-38)
福音書を、短いかたちで朗読しました。今日の朗読箇所を短く編集したものですね(※1)。
長いかたちで読むと、ヨハネの9章ほぼ全部なんですけど、この9章は「生まれつきの盲人が見えるようになった」というエピソードひとつだけで描かれている箇所です(※2)。
それを読めばわかるんですけど、今日読んだ箇所に続いて、イエスが言うんですね。
「わたしは世を裁くために来た。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。あなたたちは、『自分は見える』と言っているから、あなたたちの罪は残る」(cf.ヨハネ9:39-41)。
おおよそ、そういうことを言う箇所が続く。
つまり、このヨハネ9章は、「今、『見える』と思ってる人たちは、実は見えてないぞ」と、「むしろ、今、『わたしは見えていない』という謙遜さの中にこそ、イエスが来られて、本当の意味で見えるようにしてくださる。だから、目を開いていただいて、見るべきもの、すなわち、イエス・キリストだけを見つめようよ」と、そういう世界に私たちを招いています。
特に洗礼志願者の皆さん。皆さんは、「実は見えていない世界」を生きてきました、実はね。「見えてるつもりだった世界」といってもいいかもしれない。
私たちは目を開いて、この瞳孔に光が入ってくれば見えていると思ってますけど、ぜんぜんそんなことはない。何も見えていないに等しい。人間のしていることはすべていい加減で、永遠のものでも、完全なものでもないのに、私たちは、そういう不完全なもの、現世的なものだけをじ〜っと見続けて、それがすべてと思い込み、そのせいで恐れたり、争ったり、裁いたりしている。
いつでも、今、わたしは何を見てるんだろう・・・っていうふうに思ったほうがいいですよ。
袴田さんっていう方が釈放されましたでしょ?(※3)
もう半世紀も前の殺人事件ですけど、当時、血の付いた犯人のシャツを警察が見つけたと。・・・それまではなかったのに、なぜか突然見つかったんですけど、「これが証拠だ!」ってことで、「お前は死刑だ!」と裁かれて、以後48年間、
いつ死刑が執行されるのかと、恐れながら朝を迎える人の気持ちを考えてみてください。
それが何十年と続く。こんな残酷なことあるだろうかと思いますが、まあそれでも、「罪を犯しました。それをこのように裁きます」という法律がある以上、従わなければなりません。それが、なんとこのたび、驚くべきことに、「この証拠はねつ造である可能性があるので、裁き直します」と言って釈放された。ほんの数日前の出来事です(※4)。
「この人は人殺しだ」と、その人を見ていた、その目は何を見ていたのか。
「このシャツが証拠だ」と、その血を見ていた、その目は、何を見ていたのか。
・・・私たちは、いつも、何を見ているんだろう。
私たちが目にしているものって、おおよそ、そのようなものです。
「よくよく調べてみたら、シャツの血は、本人のものでも、被害者のものでもありませんでした」って今ごろ言われても・・・。何てことだ。そんな血で、一人の人が48年間、拘留されていた。
人が見てるものって、いつでもいい加減、実にいい加減だということを、私たち、胸に手を当てて思った方がいい。この私の目は節穴だっていうことを、いつも自分に言い聞かせた方がいい。相手をちゃんと見ているか。神さまのわざをちゃんと見ているのか。・・・「私は、見えていない」って謙遜に思った方がいい。
イエスさまは、「私は見えている」って思い込んでいるファリサイ派の人に、この省略された箇所で、相当厳しいことを言ってるんです(cf.ヨハネ9:40-41、10:1-13)。
ファリサイ派って、「他とは分けられた者」っていうような意味ですけど、「私たちは罪びととは違う者」「きちんと律法を守る者」「救いの道がちゃんと見えている者」「唯一の神を仰ぎ見る者」と、胸張って思ってる人たち(※5)。でもイエスは彼らに、「実は、そんなあなたたちこそ見えてないよ」と、「見えていると思ってるからこそ、罪の内にある」と教えてくれるわけです。
最初の、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」(ヨハネ9:1)の後にですね、省略した箇所ですけど、こういうやりとりがあるんですよ。
弟子たちは、その「生まれつき目の見えない人」を見てですね、イエスさまに聞くんです。
「この人は罪を犯したから、こうやって目が見えなくなってるんですか? それとも、この人の親が罪を犯したから見えなくなってるんですか?」(cf.ヨハネ9:2)
まあ、当時は、そう思われてたんですね。目が見えないとか、そういう障害や
すると、イエスさまがこう答える。
「本人の罪のせいでもない。親の罪のせいでもない。この人が目の見えない状態であるのは、神のわざがこの人に現れるためだ」(cf.ヨハネ9:4)
ここに、「見える」と「見えない」の本質が、はっきり表れてます。
われわれは、見えているつもりでも、実はこの世の罪にまみれた人間のわざを見ているだけで、何も見ていないに等しい。見るべきものは神のわざであり、それを見る目こそが「見えている」目だ、と。
皆さんは、熱心にいろんなものを見ているつもりでしょうけど、実は、見てるのは「罪」なんですね。神のわざではなく、神から離れている人間のわざを見てるんです。それを罪だと知らずに。あるいは逆に、ねつ造された証拠だとか、無実の「殺人者」とか、罪なきものを「罪だ」と見ている。
それは皆さん、自分自身についてもそうなんですよ。「私は罪がない」っていうのも盲目状態ですけど、「私は、こんなに罪があって、救われない」と、自分自身のことを裁いちゃってるような状態。・・・これも、実は見えてない。
第2朗読では、「光の子」っていう言葉が出てきました(cf.エフェ5:8)(※6)。パウロの言い方ですと、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」(エフェ5:8)。
・・・「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」
皆さんは、もう洗礼を受けて「光」となっていますけれど、そもそも本来、この「光の子」となる性質というものを、みんな持ってる。あとは、イエスさまに出会って、「目からうろこ」のように、「光の子」となることが皆さんに望まれていることだし、そのような者だと、相手も自分も見なければいけない。自分の中の救いがたい罪とか、人の中にある罪とかだけを見ていても、イエスさまは見えない。暗闇の状態。
この盲人なんかは、イエスさまの方から近寄って来られたんですよ。感謝ですよねえ。「目を開けてくれ」って、頼んでるわけでもないんです。通りすがりに目を留められて、イエスさまがやって来て、そして、声をかけて、癒やしてくださる。
この盲人にしてみたら、「暗闇の状態」だったのが、突然イエスさまが現れて、目を開いてくださって、そして目を開けてみたら、イエスさまが目の前にまた現れて、イエスさまを見ることができた。
これ、洗礼志願者の皆さん、自分に起こってることだって思ってくださいね。
かつては見えなかった。暗闇の状態だった。イエスさまが見えない。自分で思い込んでいる罪とか、ゆるしがたい人の罪とか、そんなものばっかり見ていた。・・・ファリサイ派状態ですよね。そこから解き放たれて、今や、イエスさまだけを見ている「光の子」となろうとしている。
洗礼志願者の皆さんにとっては、福音に出合ってイエスさまが見え始めたとき、それが「目が開いた」っていうことですし、そして、「主よ、信じます」と言ってひざまずいたときが、洗礼式。「主よ、信じます」と言ってひざまずくとき、イエスさまがホントに輝かんばかりに見えるはず。
洗礼を受けた者は、そうして、「見える者」、光の子として生きていきます。
第1朗読では、こんな言い方がされておりました。主の言葉ですね。
「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(cf.サム上16:7)
・・・いい言葉ですね。覚えといてください。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム上16:7)
私たちは目を開けて、いろんなこの世のものを見るけれども、ホントは何も見ていないに等しい。私たちが見るべきものは、イエスさまだけなんです。
目の前の一人の人を見るんでも、そこにイエスさまが宿っているのを見る。また、鏡を見るときでも、そこに映っているのは、滅びに定められた哀しき罪人ではない。イエスさまが宿って、救いの喜びに与っているキリスト者を見る。
これはやっぱり、ただ、目を開いてれば見えるってもんじゃない。「心によって」見ないと。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」、その神さまのまなざしです。
叙階式が広島であって、先々週ですか、一人の司祭が叙階しました。私は、その彼が神学生の時に、私の教会を手伝いに来てくれていたので、その感謝の気持ちも込めて、広島まで行って、叙階式に参列してまいりました(※7)。
なかなか、進級するのに大変な思いをした神学生です。少し遠回りをしましたけれど、ようやくこのたび、叙階いたしました。とってもいいやつなんですよ、すごくいいやつなんだけど、もちろん欠点もある。かつて、教会の人たちとうまくいかなかったこともあると聞きました。ただ、私は、彼が最初に手伝いに来た時、初めにこうお話ししました。
「ぼくは、あなたが神さまから送られてきた存在だと信じます。二人の間に信頼関係をつくりましょう。ぼくは、あなたを、やがては同僚となる神学生として、誰が何と言おうとも、全面的に味方して守ります」と、そう申し上げました。で、そのとおりに、彼を教会で「育てた」といいますか、「守った」といいますか、ともかく大切にしたつもりです。
その彼の叙階式ですから、やっぱりうれしかったですよ。祭壇上で司祭の祭服着てね、立派な祭服。金色のカズラで、ピカーッと光ってました(※8)。
まあ、その姿は眩しいというか、ともかく同僚になったんですよ、同僚に。その日を私は夢見ておりました。
司教さまが、「桜の季節になりました」って挨拶をしてね、「新司祭は今、桜で言えば満開の気持ちでいるでしょう」と。「しかしやがて、散る日も来る。(笑) これから、試練はたくさんあるでしょう。けれども、どんな試練があっても、もうあなたは叙階の秘跡を受けたのであって、まっすぐに司祭職を生きてほしい。いかなる困難にあっても、その先に、満開の天国の栄光が待ってますから、それを信じ、そこを目指して、恐れずに歩んでいってください」と、まあ、そんなような、あったか〜い励ましの挨拶をしておられました。
一人の司祭が誕生するまでの困難とか、それを超える信仰とか、そこに働く神のわざとか、そういうことって、「目に映ること」じゃないですよね。この世の目では見えないこと。しかし、神は心で見ているし、私たちも心で見ることができる。
確かに「目に映ること」でいえば、その人の欠点だったり、失敗だったり、あるいは自分の罪だったり、弱さだったり、そんなものや、そんな出来事ばっかり見ているわけだけれども、本当に見るべきことは、それじゃない。神が心で見ていること。・・・イエスのまなざし。それを見る。
昨日、遠くから泊りがけでやって来た私の大事な友人は、20歳になって、ようやく大学にも合格して、報告に来てくれました。「おめでとう」ってことです。ホントにめでたい。
以前、高校生の頃は「パイロットになりたい」なんて言ってたんですけどね。最近は何だか「神父になりたい」だなんてねえ、(笑)口走るようになってますけど。
彼にも、きっと満開の日が来るでしょうし、当然、散る日も来るでしょう。いずれにせよ、永遠なる「天の満開」の日、神のわざがついに完全に現れるというそんな日は、これはもう、この世の目で見るものじゃない。心の目で、信仰によってのみ見ることができる。しっかりと、そういうまなざしを持ち続けて、天を仰ぎ見ながらキリストの道を歩んでいってもらいたいですよ。
彼にも、もちろん欠点はあるし、神と本人だけが知っている問題もいっぱい抱えてるでしょうけれども、そんなものを見つめたって、何にもならない。私に言わせれば、結局のところそれは「
いずれにせよ、冤罪を晴らしてくれるのは、天の父です。イエスさまです。
昨日、その友人と、遅くまでいろいろと話してたらね、「ああ、神父さんとこうやって腹割って話せるのは、本当にうれしい」と言ってくれました。腹割って話せる大人が身の回りにいないんだって言ってましたけれど、私は、「腹を割って話す」ってことを何より大切にしてるつもりです。それは、相手と正直に向かい合い、相手がどうであれこうであれ、これは神さまが会わせてくれた大切な相手だという、そのような心の目で相手を見るってこと。
だから、「腹を割って話す」って、大事なことですよね〜。そういうところにこそ聖霊が働いてるし、イエスさまが宿ってるし、そういうまなざしの中でこそ、人は育っていくんじゃないですか?
今日読んだ箇所のすぐ後に載っている、イエスさまが、「私はこの世を裁くために来た」(cf.ヨハネ9:39)っていう意味は、悪い人間を断罪するって意味じゃなく、「見える者は見えないようになり、見えない者は見えるようになる」っていう、そういうことなんです。
この場合の「イエスさまの裁き」っていうのは、「永遠の裁き」の話じゃないですよ、勘違いしないでください。イエスさまによって、この世の目に映るもの、消えていってしまうようなものばかりを見ている人たちと、神のわざを心の目で見る人たちとは、はっきり分かれちゃう。イエスさまと出会うとね。そういう裁きのこと。私はこれを「地の裁き」と呼んでます。自分で自分を裁いちゃってるような裁きです。
これに対して、「天の裁き」ってのがある。これは、やがて死んだとき、あるいはこの世が完成する時、神がすべてを「ちゃんとしてくださる」正しい裁きのことです。これは、皆さん、覚えといてください。「ちゃんとしてくださる」・・・つまり、「神の裁き」っていうのは、うれしいことなんだと。
皆さんは、「裁き」って聞くと、自分の罪は死んだら暴かれ、地獄に落とされるんじゃないかとかって、そんなふうに恐れてるかもしれない。でも、人を恐れに閉ざすのは、「地の裁き」です。いわゆる「断罪の裁き」ってやつですね。罪人を断罪して、「これがあなたの罪だ」と決めつけ、裁く。
しかし、裁きには2種類あるのをご存知でしょ? 「断罪の裁き」と「救済の裁き」。
先日の袴田さんの裁判は? あれは「救済の裁き」でしょう。この裁きを、どれだけ彼は待ち望んだか。「あなたは冤罪でした」って裁かれるだったら、その裁きは待ち望んでいいでしょ?
これが、「天の裁き」です。救済の裁きなんです。神さまの愛によって、すべての人がこの世の罪を許され、悪魔の業である冤罪を解かれ、イエスさまの身代わりの血によって救ってくださる、そんな裁き。
そんな真の裁きをこそ、待ち望みましょう。この世の裁きなんか、信じちゃいけないんです。この世の誰が何を裁こうと、どんな神学や組織が裁こうと、あるいは、それこそ自分自身の裁きでさえも、そんなものからね、解放されなければならないんです。「あの人はもう救われない」とか、「こういう人は救われない」とか、「わたしは決して救われない」とか、よくもまあ神ならぬ身で、そんな傲慢なことが言えるもんだ。・・・そういう「地の裁き」にとらわれちゃいけない。
「天の裁き」は、優しいですよ。「わたしはあなたを罪に定めない」って言ってくださる裁きが待っている。そう思ったら、「天の裁き」こそ、うれしい、待ち望むべき裁きになるんじゃないですか? そのような裁きを信じている者こそ、「見える者」なんじゃないですか。
自分自身を裁いちゃったり、人を裁いちゃったり、神を断罪する方だと思い込んじゃったり。・・・これが、見えない状態です。
さあ、目を開きましょう。
特に洗礼志願者の皆さん、もう、皆さんは、目を開き始めました。今まで恐れていたこと、疑っていたこと、そこから目を開いて、イエスさまだけを見ます。
イエスさまだけを見ていれば、そこには喜びがあり、安心がある。
先週お配りした新聞記事は、もう読んでいただけましたか(※9)?
反響がなかなか面白くって、続々です。なぜかカトリックの人は、あまり反応してくれない。(笑) プロテスタントの方から、反響大きいです。さらには、仏教界からも。
やっぱり、日本の宗教界のすばらしい先輩たちは、救いの本質を見抜いてます。彼らが今のカトリックの普遍主義を知ったらなんて言うだろう。キリスト教は何よりも、そのような普遍的な救いの本質によって出来上がっているし、そのような本質に、他の宗教をお招きしたいというのは、ちょっとおせっかいのようでも、カトリックの使命なんです。
先週、早速に反応がありましたって、一番最初に来たうれしいお手紙をお読みしましたけれども、そのお手紙を書いた方が、翌週、私の寄稿文「下」の方を読んで、またすぐお手紙をくださいました。
で、「上」のお手紙を読んだので、「下」のお手紙も読ませていただきます。(笑) そうじゃないとね、「上」「下」揃いませんから。
3月22日の『宗教の普遍性』(下)を読みました。
歓喜が込み上げてきました。自分の中にあったとらわれから解放され、平安になりました。やっと夜が明け、孤独は癒やされ、幼いころ、親に抱かれて味わった幸せを思い出しました。
うまく言えませんが、『これ! これ!! これが欲しかった!!』、心がそう叫んでいます。
これほど大胆でダイナミックな宗教観というか、本物の愛に出合ったことがありません。
司祭さまには、ただ、『ありがとうございます』と言うだけです。
どうぞお身体大切に、いつまでも健やかでお暮しください。
桜が待たれる季節です。まだ少し、寒いようです。
「これ! これ!! これが欲しかった!!」ってね・・・「幼いころ、親に抱かれて味わった幸せを思い出した」って。よかったねえ、普遍教に出合えて。
これが「宗教」ってもんでしょう。それが「イエスさまと出会う」ってことでしょう。「救い」ってことでしょう。
この人に、まさに、「神のわざ」が現れたんです。
・・・洗礼志願者に、今、起こってることです。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「今日の朗読箇所を短く編集したものですね」
・ 本日(2014年3月30日)の福音朗読は、ヨハネによる福音書の9章1節、6〜9節、13〜17節、34〜38節を、ひとつにまとめて編集し、ミサ中の朗読箇所として、「聖書と典礼」に掲載している。
・・・< 文中へ戻る >
※2:「長いかたちで読むと、(中略)、ひとつだけで描かれている箇所です」
(参考)
ヨハネによる福音書の9章は、全体が1〜41節までで、ひとつのエピソードを物語っている。
新共同訳聖書では、このひとつのエピソードに、3つの小見出しを付けている。
・ 「生まれつきの盲人をいやす」(ヨハネ9章1〜12節)
・ 「ファリサイ派の人々、事情を調べる」(ヨハネ9章13〜34節)
・ 「ファリサイ派の人々の罪」(ヨハネ9章35〜41節)
・・・< 文中へ戻る >
※3: 「袴田さんっていう方が釈放されましたでしょ?」
(参考)
2014年3月27日午前釈放
「袴田事件、再審開始を決定 死刑確定から33年」(msn 産経ニュース)・・・関連ニュースへのリンクあり
・・・< 文中へ戻る >
※4:「・・・釈放された。ほんの数日前の出来事です」
(参考)
・「袴田事件」(「無限回廊」HPより) ・・・参考文献・関連サイトへのリンクあり
・「袴田事件」(<削除審議中〉ウィキペディアより)
・・・< 文中へ戻る >
※5:「ファリサイ派」
「パリサイ派」とも。正教会では「ファリセイ」。
「ファリサイ」は、ヘブライ語で「分離」の意。律法を守らない者と自らを分離するという意味があると考えられている。
古代イスラエルの第二神殿時代(紀元前536年~紀元70年)後期に存在したラビ・ユダヤ教を形成する正統的ユダヤ教のセクト。前2世紀のマカバイ戦争の折、中心になっていた下層民のハンディーム(敬虔派)が起源とされる。モーセ以後のユダヤ教を再興したエズラ(前5世紀)の信奉者であると自認。
1世紀には貴族、祭司などの上流階級に進出し、ユダヤ教の主流となる。世界を創造し歴史を支配する神という正統的な神観を持つ。メシアによる救いと此岸(しがん)<この世>的神の国の到来、体の復活、霊魂の救いを信じる。
学問と学者、学者による律法研究と解釈を重んじるあまり、それが高じて、何よりも律法の遵守を最優先とし、イエスとの対立も深まる。
ユダヤ教宣教に熱心で、1世紀には二万五千人いたと言われる。
現在ではファリサイ派という名称は使われず、「ラビ的ユダヤ教」、あるいは「ユダヤ教正統派」と呼ばれている。
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「ファリサイ派」(「Laudate」‐キリスト教マメ知識)
・ 「ファリサイ派」(ウィキペディア)など>
・・・< 文中へ戻る >※6:「第2朗読では・・・」
・ 本日(2014年3月30日)の第2朗読箇所
使徒パウロのエフェソの教会への手紙 5章8〜14節
・・・< 文中へ戻る >
※7:「広島まで行って、叙階式に参列してまいりました」
(参考)
・ 2014年3月21日 司祭叙階式ミサ〔受階者マキシミリアノ・マリア・コルベ 猪口大記助祭〕
<カトリック広島教区 平和の使徒推進本部HP>:動画や写真も、たくさん掲載されています。
・・・< 文中へ戻る >
※8:「その彼の叙階式ですから、(中略)金色のカズラで、ピカーッと光ってました」
(下の画像をクリックすると、当日の叙階式を紹介する「平和の使徒推進本部」のHPが別ページで開きます)
「カズラ」
司祭が祭儀(ミサ)のときに着用する祭服の種類のひとつで、盛衣。
色は「赤」「白」「緑」「紫」など、典礼暦や祝日などを視覚的に表現しており、
採色や刺繍が施されている。
(参考)
・ 「祭服」(ウィキペディア〉
・・・< 文中へ戻る >
※9:「先週お配りした新聞記事は、もう読んでいただけましたか?」
・ 晴佐久神父の「東京新聞」掲載記事
「福音の村」・・・ご案内ページ
(印刷には、PDFファイルが便利ですが、PDFファイルでご覧になれない方は、JPEGファイルをご覧ください)
※「宗教の普遍性」(上)- 「すべての人は救われる:分け隔てなく愛す」
〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉)
(中日新聞・東京新聞 2014年3月15日付)
※「宗教の普遍性」(下)- 「すべての人を救う宗教:共感、共生する道へ」
〈 PDFファイル 〉〈 JPEGファイル 〉
(中日新聞・東京新聞 2014年3月22日付)
・・・< 文中へ戻る >
※10:「時宗」
鎌倉時代末期に興った浄土宗の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺。(通称:遊行寺)
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。
融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。
時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
(「時宗」<ウィキペディア>より)
(参考)
・ 「時宗」(ウィキペディア)
・ 「時宗 光照寺」
・・・< 文中へ戻る >
Copyright(C)晴佐久昌英