聖霊に聞こうではありませんか

2013年5月19日 聖霊降臨の主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・1-11)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8-17)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ14・15-16、23b-26)

【晴佐久神父様 説教】

 聖霊降臨、おめでとうございます。
 今日、ここに、確かに聖霊が降っているということを私は証ししたいし、それを皆さんに体験して気づいていただきたい。それが私の使命でもあります。

 昨日は聖霊降臨の前夜祭を兼ねて、受洗者のお祝いがありました。いい集まりでしたよ。
 最初聞いたときは、「今年の新受洗者の有志が中心となった親睦会のような集まりを、土曜日のミサの後にやりますから、ぜひ出てください」というようなことだったので、じゃあ私も出ますってお返事したんですけど。
 どんな集まりだろうって思って出てみたら、結構大勢集まっていて、結構立派な持ち寄りのお料理が並んでるんですね。なんか気合い入ってるなあと思ってたら、幹事の新受洗者が挨拶に立ってですね、「私たち一同、洗礼を受けられて本当にうれしい」と話し始め、「それもこれも、晴佐久神父様のおかげです」「今日は私たちの感謝の気持ちを、ぜひ神父さまにお届けしたくてこの会を設けました」とかって言うんですよ。
 「おいおい、なんだ、これ謝恩会だったんかい」と、(笑)ようやく気が付いた。
 私、そんなことしてもらいたくてお世話をしてるわけじゃないんですけど、・・・でも、ちょっとしてほしい。(笑)やっぱりね、してもらうとうれしいですよ。頑張ってよかったなあと思うし、みんな喜んでくれてるってことがちゃんと伝わってくると、さあ、もう1年頑張ろうかって気になりますもんね。うれしかったですよ。

 皆さんから、お花なんかいただいて、寄せ書きもいただいて、そして感謝の品ですってプレゼントまでいただいたんですよ。「神父さまはワインがお好きなので、ぜひこれを」と、立派なワインオープナーをですね、あの、ソムリエが使ってる本格的な、カッコいいヤツをいただきました。すごくうれしかったんで、つい余計なこと申し上げちゃいました。「ぜひ次は、開けるモノじゃなくて、開けられるモノを」。(笑)
 でも、そのとき幹事さんがステキなこと言ったんです。
 「なぜ、ワインオープナーかというと、もうひとつの理由もあります。私たちはみんな、ワインオープナーで開けられるように、神父さまに開けていただいたからです。閉ざされていた私たちを、神父さまは福音で開けてくださった。それで私たちの中に神さまの愛が流れ込み、洗礼の恵みに(あずか)って、私たちもみんなを喜ばせることができるようになれました。私たちを一人ひとり開けてくださったことに感謝して、ワインオープナーを贈ります」。
 いや、ちょっとうれしかったし、感動しました。
 実際、英語で「オープナー」っていうと、缶切りとか栓抜きとかいう意味だけじゃないんです。他人の閉ざされた心を開く人のことも「オープナー」っていうんですよね。スピリチュアルの業界で使われる言葉です。・・・「相手の閉ざされている魂を開く人」
 それでいうなら、今日、聖霊降臨ですけど、聖霊の働きって、まさにそれなんですよ。
 本当は、神から人へ注がれる豊かな愛の流れがあるはずなのに、それが閉ざされている。素晴らしいワインがそこにあっても、栓があって飲めないのと一緒。それを「栓抜き」、すなわち「オープナー」が開く。この場合、開くのは聖霊であり、開くために聖霊が用いる「オープナー」、それが一人ひとりのキリスト者っていうことですね。
 よいオープナーは、ポン、ポン、ポンッとね、次々抜くことができる。どんなに固い栓でも、ポンッと抜けば、そこにもう、素晴らしい天の恵みの世界が開ける。
 聖霊降臨の今日、皆さんも、心の栓をですね、聖霊にポン、ポンと抜いていただかなければ。私はそれを、聖霊の力で実現するという使命を持って福音を語りますし、栓が抜ければいっそう福音が流れて、皆さんも今度はだれかの栓を抜いてあげることができる。お互いに、そういう福音宣教者として共にやっていきましょう。皆さんの中にいろんな栓がありますでしょ。

 昨日相談に来た方は、過去の失敗にとらわれて苦しんでいるっていう方でした。
 いっつも、かつての失敗にとらわれていて、「ああ、俺はもう、あんな失敗をしちゃって、取り返しがつかない。だから、すべてがうまくいかないんだ。これからも、あの失敗を背負って生きていかなければならないし、きっとなにもかもうまくいかないだろう」って、頭の中でグルグル、グルグル、「ああしなきゃよかった」「こうすればよかった」って。・・・「後悔」ってやつですよねえ。それにず〜っととらわれている。
 でも、実際は違うんですよ。それは、その人がそう思い込んでるだけで、真実の世界においては、その人も、神の恵みの中ですべてうまくいってるんです。でも、その人の心に、古〜いカビの生えた栓みたいなものがギュッと、その人の場合は「後悔」っていう栓がギュッと押し込まれていて、その人の喜びが閉じ込められてるんです。
 実際には、神さまはその人のことを愛しているし、生かしている。まったく裁いてもいないし、惜しみなく恵みを注いでくださっている。なのに、その栓が邪魔をして、私たちは神の愛を飲むことができず、苦しんでいる。ですから、そんな人に、福音を語ります。
 「そんなことは、あなたが勝手に思い込んでいるだけだ。それは失敗じゃなくて、成功への大切なプロセスだ。神の愛は無限であり、永遠であり、あなたはその神の喜びに与かるために生きている。今日もイエスが送ってくださっている、聖霊の働きを信じてください。あなたが心を開いて聖霊に目覚めれば、あなたを閉ざしていた栓がポンと抜けて、神の恵みがどんどん惜しみなく注がれて、これからホントに素晴らしいことが起こりますよ」と。
 こういうのが、「オープナー」の仕事ですね。
 開かれた人は、顔が輝いて、「ホッとしました。もう後ろを振り向くのはやめて、これから神さまが始めてくださる素晴らしいわざを信頼します」という世界に導かれる。

 第1朗読で、聖霊が弟子たちに働いて、その弟子たちから今度、多くの人々に向かって神さまの言葉が流れ出すという、そういうところを読みました。
 五旬祭の日に、弟子たちの上にゴーッと音がして、聖なる霊が注がれる。これが、神さまの息吹ですね。神さまのみ言葉です。愛のみ言葉。これがゴーッと注がれるんです。
 それが「炎のよう」ともありました。「炎のような舌」ってありますけれども、その「舌」って、「言葉」っていう意味でもあります。ゴーッという神の息吹、炎のような神の言葉が弟子たちの上に注がれて、その心の栓をポンッと抜いてですね、弟子たちは「聖霊に満たされた」とあります。満たされて、語りだす。
 「聖書と典礼」の表紙絵を、ご覧くださいな。(※1:画像) 聖霊のシンボルである鳩から、炎のような舌がニュルニュルッと伸びてますでしょう? 神様から溢れてくる聖霊を何とか絵にしたものですけど、私に言わせれば、その絵じゃちょっと足りない。その絵だと、聖霊が天から伸びてきて、弟子たちの頭の上に、チョロチョロッて宿ってるだけですね。オバQの「毛が3本」みたいなのが。
 真ん中の人、ペトロだと思うんですけど、「サザエさん」の波平さんみたいに、チョロチョロッと頭の上に出てますでしょ。それがまあ、「聖霊が宿った」ってことを表してるっていう絵なんですけど、宿るだけじゃ足りないんです。
 聖霊が弟子たちを満たして、今度は弟子たちが語りだすってとこまで描いていただかないと。いうなれば、弟子たちの口から、み言葉が溢れてくる。流れ出す。まあ、そんな絵はおかしいかもしれなけど、弟子たちの口からも、赤い、燃えるみ言葉が、ビヨヨヨヨ〜ンと伸びてる絵にしていただければ、すごくわかりやすい。
 聖霊は弟子たちのうちに、ただ宿って終わりじゃない。弟子たちから、溢れ出していったんです。弟子たちは聖霊降臨を体験し、そこに教会が誕生し、教会からみ言葉が全世界に広まっていきましたっていう、その流れをイメージしてください。それこそが今も続いていることなんだから。
 栓を抜けば、流れが生まれる。聖霊降臨で、この世界は神の愛の流れる場所になったし、皆さんの魂の栓をポンポンポンッと抜いて、その流れに与かっていただかないと。
 「二千年前に、聖霊降臨がありました」っていうのは間違いです。こう言わなきゃならない。・・・「二千年前から、聖霊降臨が始まりました」
 今も続いてるんだから。あの日、この11人の弟子にだけ起こったってことじゃないですよ。その日から聖霊の時代が始まったんです。この日、教会が誕生したんです。
 昨日の集まりでも、「教会の誕生日なんだから『ハッピーバースデー』歌いましょう」って言ったんですよ。(歌い始める)「♪ハッピバ〜スデ〜 ディ〜ア チャ〜チ〜♪」って。それくらいお祝いしていいこと。「お誕生会」ですから。聖霊降臨の日は。
 この日から、教会の時代、聖霊の時代が始まって、地上のイエスになり替わって、聖なる霊が、教会を通して、すべての人に「神は愛だ」と伝える時代が始まった。

 第2朗読で、パウロが「聖霊があなたがたの中に宿って、神に向かって『アッバ、父よ』と呼ぶんだ」と、まあ、そういうこと言ってましたけど、これなんかも、そういう聖霊の生み出す流れのことですよね。
 私たちは神の子なんですよ。神の子なんだけど、みんなそれに気づいていない。分かっていない。だから、聖なる霊が注がれて、聖なる霊が皆さんの中に宿って、親である神に「パパ!」と叫んでくれるから、私たちは自分が神の子だということを味わうことができる。なんて親切な話じゃないですか。
 私たちが単独で、「さあ、信仰を強くしよう!」って力んだって、そんなことできないですよ。自分だけで「さあ、ちゃんと祈ろう」としたって、まともな祈りひとつできないじゃないですか。私たち自身からは、何も湧いてこないんですよ。
 どうですか、皆さん。自分の信仰、強いと思いますか? 「神さま、信じます」なんて、自分の力だけでできるって思いますか。思ってないでしょ? むしろ、「私自身の中には、まともな信仰はない」って思った方が正直なんじゃないですか?
 爆弾発言すれば、私だって、信仰ありません。「自分の」信仰という意味でなら。そりゃあ「私はちゃんと信じてる」って思いたいけれども、正直言って、自分の中につまらない恐れとか、とらわれとか疑いとか、そんなものが渦巻いているのが現実です。でも、だからこそ、聖なる霊が必要なんですよ。聖なる霊への信頼、それだけは最後の砦のように守らなくてはならない。聖なる霊こそが、そんな私のモヤモヤ、恐れやとらわれの栓を、ポンッと抜いて、そんな私の真ん中で「アッバ、父よ」「パパ!」って叫んでくれる。もはや私は、それにのみ信頼して、それに身も心も委ねます。
 さっき、そんな一節がありましたね、皆さんが歌った「聖霊の続唱」に。
 「あなたの言葉を信じて寄り頼む者に、尊い力を授ける方」
 聖霊の働きは、それなんです。聖霊に信頼して、その働き、その言葉に委ねていれば、あとは聖霊がちゃんとやってくれる、力を授け、ちゃんと私の中で祈ってくれてる。だから、任せりゃいいんですよ。私たちは、狭い世界で身勝手な祈りばっかりしているけれど、それは閉ざされた世界の話です。聖なる霊は、流れです。私たちのうちに流れ込み、私たちのうちに宿って、「アッバ、父よ」って呼んでくださる。これ、便利な話じゃないですか。任せときゃいいんですよ。「聖霊来てください!」「聖霊、あとはよろしく!」って。聖なる霊の働きは、ちゃんとなすべきことをなしますから。
 ですから、今日は、自らの心の栓に気づいてね、「これ、抜いてください!」って、聖霊にお祈りしたらいいんじゃないですかねえ。
 聖なる霊の力は、圧倒的です。どんな固い栓もポンッと抜きます。栓の中は死の世界。しかし栓が抜けると命が流れ出す。そしてすべての人に、神の愛が行き渡る。これ、聖霊降臨の恵みです。もう、解放されて、自由になりましょうよ。

 昨日、納骨式した方が、このミサにいらっしゃいますけれど、お父さんとお母さんの納骨式を、4年ぶりにやっとできました。よかったですね。あなたご自身が病気になったせいもあって、ご両親の納骨ができず、それがず〜っと気になっていてわけですから。これまで、亡くなったご両親のこと、その後のご自身の病気のことで、本当につらい思いをしてきたけれども、昨日ちゃんと納骨式ができて、安心なさったでしょう。
 いろいろつらかったでしょうけど、昨日で一区切りです。ポンッとね、栓が抜けたような気持ちになってくださいね。聖霊が働いたんですよ。教会のみんなが納骨のお世話をしたのも、聖霊の働きですよ。
 これからはもう、思い煩うことなく、「両親は神さまのみもとに召されたんだ」「今日、私が生きていることは素晴らしい」「神さまは、こんな私を愛してくださっている」、そういう安らぎを、じゅうぶんに味わうことができるようになりました。聖霊の働きです。
すべて、今起こっている「聖霊降臨」なんです。昔話じゃない。現代のみんなに起こるべき聖霊降臨なんです。

 教皇さまが、先日の一般謁見で、聖霊についてお話をなさいました。5月8日水曜日の一般謁見です。
 皆さん、教皇さまのお言葉をじかに聞くことって、できるんですよ。毎週水曜日、サンピエトロ広場か謁見会場で、教皇さまは「一般謁見」をなさいます。誰でも参加できます。
 一度はね、パパさまの肉声を聞いて、現代の聖霊降臨を体験なさったらいかがかとも思いますが、まあ、あそこまで行くのも大変でしょうから、ちょっと紹介しますと、先々週、5月8日の一般謁見で、教皇さまが聖霊のお話をなさいました。全文、中央協議会のホームページに載っておりますが(※2:参照HP)、私、先日これを読んで、ちょっとビックリしたんですよ。というのは、内容に感動したこともさることながら、・・・なんて言うんでしょう、その話し方に驚いたし、すごく感動したんです。ちょっと読んでみますね。
 前半はまあ、いろいろと、聖霊降臨の日を意識してお話してるので、さっき読んだロマ書の箇所を引用なさったりしてるわけですが、後半のあるところから、ちょっと気配が変わるんです。そのあたりから、最後まで読みますね。
 パパさまが今、ここでしゃべってると思って聞いてくださいよ。多摩教会での一般謁見ですね。パパさま、ロマ書の引用の後で、こう言いだすんです。

 「聖霊がわたしたちの心にもたらす貴いたまものとは、これです。それは、神のいのちそのものです。まことの子としてのいのちです。(原文中略)だからこそ、生きた水である聖霊はわたしたちの人生の渇きを癒やすのです。聖霊は、わたしたちにこう語るからです。『あなたがたは、神の子として、神に愛されています。あなたがたは、神の子として、神を愛することができます。あなたがたは神の恵みによって、イエスと同じように、神の子として生きることができるのです』。
 でも、わたしたちは、聖霊の言葉に耳を傾けているでしょうか。聖霊は、わたしたちに何といっておられるでしょう。聖霊はいいます。『神は、あなたを愛しています』。聖霊は、わたしたちにいいます。『神は、あなたを愛しています。神は、あなたのためになることを望んでおられます』。わたしたちは、本当にイエスと同じように、神と他の人々を愛しているでしょうか。
 聖霊に導いていただこうではありませんか。聖霊によって私たちの心に語りかけていただこうではありませんか。こう語りかけていただこうではありませんか。『神は愛です。神はあなたに期待をかけておられます』と。『神は父です。まことのパパとして私たちを愛してくださいます』と。神は、私たちを本当に愛してくださいます。そして、聖霊だけが、このことを心に語りかけてくださるのです。聖霊に聞こうではありませんか。聖霊に耳を傾けようではありませんか。そして、この愛とあわれみとゆるしの道を進んで行こうではありませんか。ご静聴、ありがとうございます」(※3:引用1)

 これ、何万人もの救いを求める一般信徒の前で、聖霊によって選ばれた教皇が、聖霊降臨を前に語っている言葉です。
 聞いていて、何かお気づきになりましたか。私、これ読んで感動したっていうか、驚いたのは、私も説教者ですからピンとくるんですけど、今読んだこの説教の後半部分、原稿説教じゃないですね。間違いなく、原稿を読んでいる説教じゃないです。
 そのとき、聖霊が降って、パパさまの口を通して、「わたしはあなたを愛している」と、そう伝えてるんですよ、神が。・・・これがキリスト教、でしょ? 今も続いている聖霊降臨ですよ。イエスさまがそうおっしゃったことが、弟子たちの口を通して、何千年たとうとも、ちゃんとそれを聞くべき神の子たちの魂に届く。パパさまの口を通して、神が、今、皆さんに語りかけたんです。「お前を愛している」と。これが、聖霊の働きです。


 これが原稿説教じゃないってことは、一昨日届いたカトリック新聞読んでたら、この5月8日の説教が引用されていて、教皇が、最後の主の祈りのところで、オルガニストを制止して、『聖霊に聞こうではありませんか』とさらに話し始めたっていうようなことが書いてあったので、確信しました。(※4:引用2)
 これが、聖霊の働きなんですよ。聖霊に満たされたイエスさまは、神の愛を語るときに原稿を読まなかった。ペトロも聖霊に突き動かされて街に出て、思わず知らず口を開いた。教皇さまも聖霊に促されて「神はあなたを愛している」と語る。私たちも聖霊によって、福音を語ろうではありませんか。そのとき、私たちは聖霊の流れと一つになり、キリストと一つになって、もはや、永遠なる神の子です。

 先ほど、福音書の最後に、こう読まれました。
 「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」
 それが今、この聖堂で、実現しているんです。これを「聖霊降臨」と、教会は呼びます。


【 参照 】

※1:画像
オリエンス宗教研究所 『聖書と典礼』表紙絵解説2013年5月19日」  → http://goo.gl/XdtLS

※2:参照HP
カトリック中央協議会「教皇フランシスコの7回目の一般謁見演説」  →  http://goo.gl/0hPuz

※3:引用1
引用は原則としてカトリック中央協議会「教皇フランシスコの7回目の一般謁見演説」に従いました。)
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※4:引用2
2013年5月19日 付「カトリック新聞」(1ページ)に実際に掲載された記事は、次のとおりです。
=== 教皇は一般謁見の最後に、ラテン語で「主の祈り」を唱える前に、オルガン奏者を制止し、参加した人々に伝えたいメッセージをあらためて繰り返した。「私たちは、私たちのうちにおられる聖霊に耳を傾けなければなりません!」 ===
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2013年5月19日 (日) 録音/2013年5月23日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英