なんとかしてあげたい!

【カトリック上野教会】

2016年6月5日 年間第10主日
・ 第1朗読:列王記:(列王記上17・17-24)
・ 第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ1・11-19)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ7・11-17)

【晴佐久神父様 説教】

 この聖書の箇所を読むと(※1)、先週の、あの見つかった子どもの話(※2)を思い出しちゃいます。
 よかったですよね~。私たち、この一週間、「あの子、いったいどこ行っちゃったんだろう?」「どうなっちゃったんだろう?」って、とっても心配しました。なんか、日本中で心配して。でも、ちゃ~んと子どもは、小屋の中にいたんですよね~。まあ、ついつい、「付近の小屋くらい、もう少しちゃんと調べたら良さそうなものを・・・」って思っちゃいましたけど、ホントに良かったと思う。
 親はね、「しつけのため」と言う。それも親心なんですよ。だから、あんまり責めることはできない。似たようなことを、われわれもやっていると思うし。
 ともかく、私が一番思ったのは、わが子が見つかったときの親の気持ちです。親はもう、「なんてばかなことしたんだろう」って死ぬほど反省したでしょうし、「もう、二度としない」って思ったことでしょう。そして、「なんとか見つかってほしい」「元気で帰って来てほしい」って必死な思いで過ごしたこの一週間、どんな気持ちで過ごしていたかを想像すると、「元気で見つかった!」の一報で、どんなに安心したか、どんなに喜んだかって思うと、胸が熱くなりました。

 子どもを亡くす、子どもがいなくなる、それは親にとっては、ホントに、・・・何ていうんでしょう、「地獄体験」でしょうね。ならば、やがて無事に見つかったなら、それはまさしく「天国体験」でしょう。
 しかも、今日の話(ルカ7:11~17)だと、見つかったどころか、生き返っちゃうわけでしょ(cf.ルカ7:14)
 イエスはその子を、「母親にお返しになった」(ルカ7:15)
 まあ、この母親の驚き、喜び、感謝、神への賛美、それはどれほどだったかと思うと、やっぱり、胸熱くなります。
 私、その先週の出来事とか、この聖書の箇所とかを読んでいて、すごく心に響くのは、この「親の熱~い思い」ですね。子を思う親心っていうのは、親を思う子どもの心をはるかに超えているわけですね。・・・「親思う心にまさる親心」ってやつですね。
 子どもの方は、まあ、親のことを信頼したり、それなりに尊敬したり、甘えたりしているわけですし、総じて「親を愛している」っていえると思いますよ。でも、その百倍、千倍、親のほうは子どもの心配をして、子どもを愛している。ただ、その親心は、子どもには、よく分からない。まあ、分かんなくていいんじゃないですかね。そういうものですよ。親の愛って、ほぼ一方通行。・・・ほぼ(・ ・)一方通行。
 たぶん、見つかった子どもも、やがて自分も子どもを持ったときにね、「ああ、あのとき、おやじはこんな気持ちだったのか」とか、そのとき初めて分かるんじゃないですかねえ。

 ナインの、このやもめ、ご主人を亡くしてるわけですね。まあ、生活は苦しい。一人息子が頼りだったのに、その愛する、かわいい息子も死んじゃった。夫がいなくなった上に、一人息子までいなくなって、ホントに孤独。今の時代みたいな保障や保護があるわけでもなく、これはそれこそ、今後生きていくことも難しいような不遇でもあるんですよね。
 その状況、「子ども亡くして、ホントにつらい・・・」って思っている、その状況を想像してください。それがイエスにはわがことのように感じられ、そのやもめの苦しみがよ~く分かる。・・・ここが、すごく肝心。
 イエスは、熱い心を持ってます。
 イエスは、「なんとかしてあげたい!」っていう心に満ちておられます。
 それを聖書は、「憐れに思い」(ルカ7:13)っていうひと言で済ませてますけれども、この、「なんとかしてあげたい!」って、もう、体の真ん中からあふれてくるような熱い熱い思い、これがイエスの特徴です。
 おととい、「イエスのみ心」(※3)の祭日でしたけれども、なぜ、全教会を挙げてイエスのみ心を祝うかというと、そのイエスの熱~い思い、「なんとかしてあげたい!」っていう、その思い、それがキリスト教そのものだからだし、われわれは、そういう熱い思いの中で生きてるんだということを思い起こすためです。
 つまり、われわれの真の親は神であって、その親心は、この一人ひとりの神の子に、もう、息子を亡くした母親のように、息子がいなくなっちゃった父親のように、熱~い親心をもって、「なんとかしてあげたい!」って思っている。「神さまってそういう方なんだ」って、イエスが教えてくれた。
 イエスは、神と人を結ぶ存在です。ですから、神の熱い思いそのものになって、このやもめに近づいていきます。もちろん、そこに居合わせた人も、「かわいそうだなあ、このお母さん」とかって思ってたとは思うけれども、イエスは誰よりも、一人の神の子に熱~い心を持っています。その熱い心そのものがイエス・キリストだし、神直結の思い、神からあふれてくる思いを持っているんです。

 さっきパウロも(※4)、「わたしが告げ知らせた福音は、人から聞いたものじゃないんだ」って言ってました (cf.ガラテヤ1:11) 。誰かから聞いたものとか、どっかで読んだとかっていうのは、まあ、ちょっとは温かいかもしれないけど、そんな熱くないですもんね。ホントに熱いものは、まさに神から直結で来る。
 「神さまから啓示を受けて」と、パウロはそう言ってます (cf.ガラテヤ1:12) 。イエス・キリストは、神の啓示そのもの。「啓示」っていうのは、「(ひら)いて示す」って書きますけど、神が自分を啓いて、自分を示す。・・・何を示したんですか? ご自分の熱い心でしょう。それを、なんとか分からせようとする。イエス・キリストを通して、私たちに分からせようとする。それが、私たちの、この魂に及んできたとき、私たちの中で本当に、永遠で、完全で、絶対な安心が生まれる。
 ・・・イエスの熱~いみ心。これが、キリスト教の一番真ん中にある思いです。

 子どもを持つ親ならね、それがよくお分かりになるでしょう。私も、子どもは持ってませんけれど、少しは分かりますよ。「なんとかしてあげたい・・・!」と思って、精いっぱい福音を語ったりするとき、自分の中に、神の親心が働いてるなって感じるときがある。で、内容よりも、まずはその思いが伝わるんですよね。
 中身じゃないんですよ。いくら正しいこと言ったって、伝わらないってこと、あるでしょ? 熱い心がなかったら。宗教家の立派な説教聞いても、政治家の立派な演説聞いても、なんだか心に伝わってこないっていうのがありますでしょ。・・・目がうつろなんですよね、心がないと。確かに正しいことは言ってる。でも、「本当に目の前の人を助けてあげよう」「かわいそうなこの人たちのために、なんとかしてあげよう」みたいな熱い思いがないと、立派なことを言ってるけれども、目はうつろ。聞いてるほうも、何も感じない。
 まあ、そういう政治家を、私たち、いっぱい見ておりますから、お分かりになるでしょう。・・・誰とは言いませんよ。皆さんが今、頭に思い浮かべたその人でいいです。(笑) その人は目が泳いでると思う。うつろなんです。
 ホントに目の前の一人ひとりの、国民なり市民なりを愛して、「なんとか救ってあげよう」っていう、そういう思いと違って、「どうにかして、この権力を失うまい」とか、「なんとかして議席を減らすまい」とか、しまいには、「なんとかして、もう少し儲けよう」。・・・それじゃあ、心に伝わらない。
 神さまの愛は、どれほど純粋で、汚れなく、あなたそのものを受け入れて、あなたを「なんとかしてあげたい」と思っていることか・・・! この思いが伝わると、そこに安心、喜びが生まれる。その神と人をつなぐのがイエス・キリストだし、キリストの教会だし、キリストの教会で働く私たちです。なんとかつなぎましょうよ。神さまのあふれんばかりの熱い愛を、なんとか知らせましょうよ。
 ・・・それは、できます。カケラでもいい、そんな熱さを持っていれば。まあ、そんなにうまく言えないかもしれない。目の前の苦しんでいる人にすぐには通じないかもしれない。でも、繰り返し繰り返し、親心を持って触れていく。そのうちフッと、何かが通じるときもあるんですよ。

 つい先日届いたお手紙、読んですぐに皆さんに紹介しようと思って、説教壇に置いといた手紙がここにあるんですけど。たった1枚ですから、お読みしましょうね。

主の平和
 晴佐久神父さま、神父さまの福音宣言のおかげで救われました。
 もう5年間、「福音の村」を読んでまいりました。何度も繰り返し読みました。そのおかげで、「死にたい病」から解放されました。
 今年44歳になりますが、19歳で精神病を発病し、それ以来、ずっと「死にたい病」でした。精神障害2級です。障害者手帳も持っています。障害者年金も受給しています。
 でもこの5年間、ず~っと「福音の村」を読んできて、初めて、今、「自分も生きていていいんだ」と思えるようになりました。自己容認できました。これもみな、晴佐久神父さまのおかげです。ありがとうございます。
 神父さまのご健康を毎日祈っています。これからも福音宣言を続けてください。
 主と聖母の祝福が、神父さまの上に豊かにありますようにお祈りいたします。本当にありがとうございました。 (5月31日)

 こういうお手紙、珍しくないんです。毎日のように来るんですよ、全国から。
 インターネットの「福音の村」で、私の説教が、全国、全世界に流れています。「あなたは愛されている」という喜びの知らせ、「福音」を、神さまの熱い心は、なんとか人々に届けようとしています。でも、空中で叫ぶわけいかないんですよ、いかに神さまでも。まごころ込めて、「あなたは神の愛によって救われている」という福音を、誰かが言わなきゃならない。神さまのお手伝いです。
 「この人、なんとかしてあげたい!」という熱い心を持ったとき、それは必ず伝わります。・・・私が経験してきたこと。
 もちろん、ぼくには、あんまり愛はないし、怠け者だし、自分勝手だし、臆病だし、なんでそんな人間を神が選んだのか分かりませんけれども、でも、少なくともひとつ言えるのは、この神さまの熱い親心を、なんとか伝えてあげたいという、そういう思いが、ほんのひとカケラだけれども、自分の中にあるということです。これを大切にして、それを信じて、恐れを超えて伝えると、目の前で人が救われていくんですよ。これは驚くべきことです。

 上野教会の入門講座で、最近カフェボードを出してるんですよ。これ、先週、浅草ではお話ししたんですけど(※5)。・・・カフェボードってご存じでしょ? 三角形の、喫茶店の前に出てるやつですね。「入門講座やってます。無料です。つらい人、苦しんでいる人、ぜひいらしてください」って書いてある(※6)
 入門講座で、私、福音を語ってます。道から入ってきて、正面の階段上がって、正面の部屋で、語ってます。
 「神は真の親だ」
 「あなたは神の子だ」
 「必ず(・ ・)救われる」
 「忍耐が必要だけれど、生みの苦しみの向こうに、新たな命の世界が始まる」
 「神の愛を信じよう」
 ・・・階段上がった部屋の中では、それは聞けるけれど、階段の前の道を、「死にたい病」の人が通り過ぎてるとしたら、「もったいない」を通り越して、犯罪ですよね。
 でも、カフェボード1枚出したら、もう、一人来たんですよ、隣の郵便局に来た人が。カフェボードを見たら、「どうぞ」って書いてある。最近親を亡くして、ちょっと寂しい思いをして、宗教心に目覚め始めている一人の男性でした。「先週は明治神宮に行った」って言ってましたよ。今週、郵便局に来たら、カフェボードが出ていて、「分かりやすい神さまのお話です」って書いてある。何とかしてあげたいっていう思いが、そのボードから立ち上っていたんだと思う。・・・入ってきて、福音を聴いていきましたよ。私、そういう方が来ると、いつもの1.5割増しで福音語るんです。(笑) 喜んで帰られました。また来てくれるとうれしいですけれど、でも、1回でもいいんですよ。私は、「神さまの熱い思いを、なんとかこの人にも伝えたぞ」という誇りを持てますから。
 皆さんは、誇りを持ってますか? ・・・キリスト者の誇り。救いに(あずか)っている者、救いを語る者としての誇り。

 今日は初聖体(※7)ですね。おめでとうございます。
 ・・・おいしいですよ~♪(笑) パクッとね、食べてください。それは神さまの愛なんですよ。それは一番おいしい。まあ、この世のご飯も、おいしいものはいっぱいあるけれど、そして、この世に愛はいっぱいあるけれど、最高のご飯、栄養、おいしさ、感動、最高の力の源。
 そうです、試練は確かに多い。けれども、神さまの愛を、こうして聴いて、神さまの愛が耳から入って、魂に宿ったならば、もう皆さんは本当に神の子であることに目覚めて、安心して、感謝して歩んでいける。ご聖体はそのしるしなんです。・・・神の愛の目に見えるしるし。

 「下町学生会」っていうのを始めることにしました。まだ準備段階ですけど。
 キリスト者の学生の会ですけど、単なる交流の会ではなく、「同世代に福音を伝えるキリスト者である学生」の会にしたい。救いを求めている友達、福音を聴く機会がない学生たちに、熱い思いで福音を語りかける学生の会を目指してます。
 身近に、そんな熱~い心を持っている学生がいましたら、お伝えください。
 皆さんも身近に、悩んでる学生、熱~い心に触れたいと思っている学生がいたら、ぜひ教会に誘ってくださいね。「教会に行ってみませんか?」「入門講座、出てみない?」「なんか、面白い説教してる神父がいるよ」と知らせてあげてください。

 『天国からの奇跡』っていうアメリカ映画(※8)、ぜひ、お友だちを連れて観に行ってくださいな。いい映画です。6月の半ばくらいから上映されます。ソニーさんにね、「晴佐久神父さん、試写をぜひ観に来てください」って言われたんですけど、私、時間が取れなかったんで、「ちょっと難しいです」って言ったら、「神父さまのご都合に合わせた専用試写会を設けます」まで言われて、(笑) 観に行ったんですけど、観て、すごく励まされました。
 難病の娘を抱えた母親の話です。わが子を治すために、母親が必死に駆けずり回るんです。有名な小児科医の先生のところに、何度電話しても取り合ってもらえない。「順番は半年待ち」みたいな。・・・名医だとそうなりますね。その事情は、分かる。みんな苦しんでいるし、ほかの親だって必死ですし。でも、そこで引き下がれない。わが子は別なんですよ。「わが子は別」です。
 だから、この母親、・・・まあ、映画の前半だから話しちゃっていいと思うんですけど、もう、アポなしで、娘を連れて飛行機に乗って、病院に突撃していくんですね。で、取り次げないっていう受付の人にね、この子どもがどれだけ苦しんでいるかって訴えるんです。消化器官が働かない難病でね、おなかがどんどん膨れていく。食べものも食べられない、そして、痛いんです。腹痛でつらくて、苦しくて、痛み止めもこれ以上飲ませられないという状況。
 「おなか痛いよぉ~」ってのたうち回るわが娘を夜中に抱き締めて、「なんとかしてあげたい・・・!」と思う母親の気持ち、分かりますでしょ? 映画の中で、そのシーンを観ていて、もう、・・・何ていうんでしょう、ホントにこの、「なんとかしてあげたい!」っていう気持ちがグググッと高まってくる。
 アポなしで突撃しても、当然、受付の人は「お取り次ぎできません」と言う。「予約がなければ無理です」と。でも、無理を承知で母親は、「そこをなんとか!」ってねばる。受付の人も、「気持ちは分かるけれど、ルールはルール。私だって、ようやく得たこの職を失いたくないんです」って言うんです。それも分かる。・・・でも、そこをなんとかしようとする、あの母親の思い、まあ、そしてその思いが生み出す奇跡。・・・どういう奇跡かお楽しみに、ですね。
 人間の中に「なんとかしてあげたい!」っていう熱~い思いがあふれていること、神の似姿として、神さまの熱~い思いがちゃんと流れている人間の存在こそが、「奇跡」なんじゃないですか? 「助けてあげたい」って思いがあるっていうこと。
 ・・・「なんとかしてあげたい!」という、この世で最も大切な思い。

 神とはどのような存在か。
 「なんとかしてあげたい!」っていう熱~い親心を持っている方です。そして、
 「神におできにならないことは、何ひとつない」(cf.ルカ1:37)。
 ・・・今はまだ、生みの苦しみの時。
 しかし、私たちは必ず誕生の朝、喜びの日を迎えます。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「この聖書の箇所を読むと」
 晴佐久神父の指摘している場所は、この日2016年6月5日(年間第10主日)の福音朗読箇所で、該当箇所は、以下のとおり。
  ルカによる福音書7章11~17節
   〈小見出し:「やもめの息子を生き返らせる」〉
************
【あらすじ】
 イエスは、ガリラヤのナインという町(ナザレの南東6キロ)の門に近づくと、あるやもめの母親の一人息子が亡くなって、棺が担ぎ出されるところだった。主は、泣いている母親を憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と慰め、棺の中の若者を生き返らせ、この母親にお返しになった。人々は皆、恐れを抱き、神を賛美し、この話は広まっていった。
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※2:「先週の、あの見つかった子どもの話」
 5月28日、北海道七飯町(ななえちょう)の山林で、小学2年生の少年が、「しつけのため」と両親に置き去りにされ、その後行方不明になった。警察、消防、陸上自衛隊も出動して捜索したが、なかなか見つからず、6日後の6月3日、直線距離で6キロ離れた自衛隊の演習場で、無事保護された。このニュースは連日、新聞、テレビ、インターネットなどで、大きく取り上げられていた。
(参考)
・ 「行方不明の男児6日ぶりに保護」(NHK NEWS WEB)6/6閲覧
・ 「北海道七飯町・置き去り事件で不明の男児を無事保護、両親に笑顔見せる【UPDATE】2016/6/3」(THE HUFFINGTON POST)6/6閲覧
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※3:「イエスのみ心」
  (画像はクリックで拡大)
 「イエスのみ心」は、イエス・キリストの心臓を表し、受肉した神の子の償いの愛を、そこに認めようとする信心に由来する。
 イエスの茨に囲まれた熱い愛に燃える心臓をシンボルとし、キリストの人間的本性に現れる神的愛を強調している。
 この信心は、中世にまでさかのぼり、イエスの内から流れ出す命の水(ヨハネ7:38)や、刺し貫かれたわき腹(ヨハネ19:34)に基づき、キリストの愛を、心の座としての心臓に見いだす信心として発展した。
 特に、17世紀、マルガリタ・マリア・アラコックへの私的啓示により、信心の内容と形式が明確にされ、1856年、教皇ピオ9世によって、全教会で「み心」の愛を思い起こし、たたえるためにと、その祭日が定められるまでになった。
 「イエスのみ心」の祭日は、「キリストの聖体」の祭日直後の金曜日に祝われている。
(参考)
・ 「聖心(みこころ・せいしん)」:『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「イエスのみ心の月‐6月」(ひとくちメモカトリック中央協議会
・ 「聖心(みこころ・せいしん)」(ウィキペディア)
・ 「C年 イエスのみ心」(教会カレンダーラウダーテ) など
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※4:「さっきパウロも」
 晴佐久神父の指摘している場所は、この日2016年6月5日(年間第10主日)の第2朗読箇所で、該当箇所は、以下のとおり。
  使徒パウロのガラテヤの教会への手紙1章11~19節
  〈小見出し:「パウロが使徒として選ばれた次第」1章11~24節から抜粋〉
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※5:「先週、浅草ではお話ししたんですけど」
(参考箇所)
・ 「道行く人を救いましょう」(「福音の村」2016/5/29説教)/終わりから2段落目(>> この辺です)
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※6:「カフェボードってご存じでしょ?(中略)『入門講座やってます。無料です。つらい人、苦しんでいる人、ぜひいらしてください』って書いてある」
 
 カフェボードに書いたご案内
  ・・・こんな感じでしょうか。

 (<< 画像はイメージです:クリックで拡大)
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※7:「初聖体」再掲
 「聖体」は、カトリック教会の用語で、ミサで聖別されたパンのこと。その形態の中に復活の主キリストが現存すると信じられ、祈りと礼拝の対象とされている。
 「初聖体」は、その「聖体」を初めて拝領する機会のこと。カトリック教会では、ピオ10世が1910年に、子どもの初聖体の年齢を、理性を働かせるよういなる7歳ごろと定めた。83年に公布された教会法では、特に具体的な年齢は定められていない。成人の場合は通常、洗礼式が行われるミサの中で初めて聖体を受ける。
・ 先週の説教「道行く人を救いましょう」(福音の村 2016/5/29説教)の参照※1※4など。
・ 「初聖体」(『岩波 キリスト教辞典』、岩波書店、2002-2008)
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※8:「『天国からの奇跡』っていうアメリカ映画」
◎ 『天国からの奇跡』
 6月18日(土)公開
 5月28日(土)から、日本で初めて、クリスチャン映画3作品が連続公開されている。そのうちの1本が、この『天国からの奇跡』。この作品は、実際に起こった奇跡の実話を基にした物語。
 監 督: パトリシア・リゲン、原作者: クリスティー・ビーム
 キャスト: ジェニファー・ガーナー、マーティン・ヘンダーソン 他
 原 題: Miracles from Heaven
 初公開: 2016年3月16日、製作国: アメリカ合衆国
 配 給: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
(参考)
・YouTube予告編(YouTube.comで見る

・ 『天国からの奇跡』(オフィシャルホームページ)
    *「上映劇場」、*「最新情報
・ 「日本初! キリスト教映画『復活』『天国からの奇跡』『祈りのちから』、3作品連続公開へ」(CHRISTIAN TODAY 2016年3月31日16時30分 記者 : 新庄れい麻
・ 「ソニー・ピクチャーズ クリスチャン映画3作品連続公開 『復活』5/28(土)、『天国からの奇跡』6/18(土)、『祈りのちから』7/9(土)」(SONY PICTURES 報道資料 2016年2月26日) など
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2016年6月5日 (日) 録音/2016年6月26日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英