2014年4月13日受難の主日(※1)
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・福音朗読:マタイによる主イエス・キリストの受難(マタイ27・11-54)
2014年の聖週間を始めます。今日はミサ後に洗礼式のリハーサルがあるので、目の前に39人の洗礼志願者がほぼみんな揃っておりますので、洗礼志願者たちに、そして、先輩の信者たちにも、この聖週間(※2)の意味についてお話したい。
「聖週間」というのは、これは誰がやってるのかというと、
いろんな儀式をしたり、祈ったりもしますけど、本質的には、人間のしていることじゃない。
まあ、「聖週間くらいはキリスト者として立派に生きよう」と、そう思うのは
そんな人間を、イエスさまが聖なる三日間によって、救ってくださった。ですから、聖週間は、神さまの恵みにふさわしく、清く正しく生きるとき・・・というよりは、ちっとも清く正しく生きられないこんな自分を、神さまがキリストによって救ってくださるとき。
洗礼志願者の皆さんも、今まで一生懸命準備してきたでしょうけど、「さあ、いよいよ洗礼を受ける直前の、この聖週間くらいは、いつにも増して一生懸命やろう」・・・ではなくて、
「私は本当に弱く小さく、何ひとつ一生懸命できないような人間だけれども、天の父がそんな私たちを憐れんで救ってくださるし、主イエスがそんな私たちのために十字架を背負ってくださる。すべて神さまがちゃんとなさって、洗礼を授けてくださるのだと信じて、本当に感謝して、安心して、なにもかもお委ねいたします」という一週間です。
まあ、平たく言えば、「何もするな」と、「信じて任せろ」と、どうしても何かしたいって言うんだったら、「『信じて任せる』ということをしなさい」と、そう申し上げたい。
いよいよ、あと一週間で、洗礼式ですねえ。
この聖なる祭壇の前で水をかけられて、神の子として新たに生まれる。そして、永遠の天へ向かう旅路を主と共に始める。そしていつの日か、「死」という究極の洗礼、正確に言うなら「死からいのちへ生まれる、永遠のいのちの中への誕生」という洗礼を受ける。
そのような天へ生まれる洗礼の先取りとして、皆さんは一週間後、この世の洗礼として、ここで水をかけられるのです。
すべては神さまがなさってること。皆さんをここに集めたのも神だし、そもそも、皆さんを生んだのも神だし、そもそも、その皆さんを望んで、この世に準備なさったのは神さまなんだから、その神さまがなさっておられる
皆さんがしてることじゃないんですよ。
脳みそ使って、からだを使って生きてるつもりの私たちは、どうしても「自分でやってる」と思っちゃうんですよね。あるいは、「自分がやらなきゃならない」と思い込んじゃうんですよね。あるいは、「自分もやってるんだからおまえもやれ」だなんて思いだすんですよね。・・・人間中心という勘違い。
しかし、この一週間は違う。
神中心です。キリストが主人公です。
誰ひとり、キリストに「十字架にかかってくれ」と頼んでません。「イエスさま、死から復活して人類を救ってください」と願った人、誰もいません。イエスさまが、なさってるんです。誰も信じてないのに、十字架を背負ってるんです。信じてない人を救うために。
われわれは、何もできないんです。望んで生まれたわけじゃない。われわれに権利があって、今朝目覚めたわけじゃない。
さあ皆さん、
この、聖週間の初めの日に、皆さんにそういう覚悟を求めたい。「自らの考えや業によらず、ぜんぶ神さまに委ねられますか?」と。
皆さんの後ろに座っている信者さんたちは、そのような、「委ねる」ということに、受洗後延々とチャレンジし続けてきた先輩たちなんですよ。
せっかく洗礼を受けてすべてを神のみ手にお任せしたはずなのに、またまた自分の小さな頭で考えて悩み始めたり、またまた自分の力に頼って頑張りすぎたり、またまた人間の貧しい判断で物事を決めつけて苦しんだりなんてことを繰り返しては、そのたびに回心してきたんです。
「いいや、こんなことではいけない、いつの間にか自分の力に頼っていた。自分で自分を救おうとしていた。人間を救うのは神だ。もう一度信仰の原点に立ち返って、今こそ神のみ心にすべてを委ねよう」と、もう、事あるごとにチャレンジし続けてきた先輩たちが後ろにいる。
とりわけ今日は、その先輩の中でも、2年前にこの祭壇の前で洗礼を受けたひとりの女性のことをお話したい。
彼女は、2012年の4月7日に、ここで洗礼を受けました。そして、ちょうど2年後、2014年の4月7日に倒れて、4月8日に亡くなった。そして昨日、この聖堂で、ご葬儀ミサをいたしました。自らが洗礼を受けた、その聖堂の同じ祭壇前で、洗礼のちょうど2年後に、まことの洗礼である葬儀ミサを行ったんですよ。
彼女の娘さんがね、お母さんの洗礼の翌年に洗礼を受けましたけれども、その娘さんがつくづくと言っておられました。
「母は、お慕いしていた晴佐久神父さんから洗礼を受けられて、本当に喜んでいた。そして、その晴佐久神父さんの司式で葬儀ミサを出すことができて、きっと喜んでいることでしょう」と。
そう言われて、一司祭として、胸熱くいたしました。
洗礼志願者の皆さんも、この聖なる祭壇の前で洗礼を受けたからには、それは究極の洗礼の先取りなんだから、「もうこれで、死ぬに死ねる」という気持ちでいてほしい。そうしていずれは、この祭壇前に横たわって、葬儀ミサという究極の洗礼を受けるんです。
ちなみに、「どうしても、お慕い申し上げている晴佐久神父に葬儀ミサを司式してほしい」というんであれば、私がこの教会にいる間にしていただかないと。(笑)
いや、誰が洗礼授けようが、誰が葬儀ミサしようが、実はどうでもいい。実を言うと、洗礼を授けたのは「神」であり、葬儀ミサを司式しているのは「イエス・キリスト」なんだから。天へ召されるときって、これは神がお召しになるわけで、その先取りの洗礼も同じでしょう。
そうして私たちは、神から洗礼を受け、もう、「永遠なる神の国に生まれる」先取りをしちゃったんだから、「これで、死ぬに死ねる」んですよ。
亡くなった彼女は、そういう信仰をもって、この2年間を過ごしました。それは、私が証言いたします。・・・というか、入門講座の皆さんは、そういう彼女の証言を、たくさん聞いたはず。
彼女は、ホントにもう、生きているのも嫌だというような日々を過ごして、しかし、お姉さんと妹さんに連れられて来て、・・・まあ、その姉妹もかつて私が洗礼を授けた方なんですけど、連れられてこの教会に来て、そしてミサに
素朴な方だったし、単純な方だったし、幼子のような信仰を持っていて、それは、私たちのように、頭で考えて、複雑に思って、あれこれ悩んで・・・っていうのとは、ちょっと違う、神さまから特別に恵まれた信仰を生きた方でした。
ここに並んでいる洗礼志願者たちの中には、ああでもない、こうでもないって言い訳して、洗礼受けるんだか受けないんだか、受けると言ったのに、やっぱ止めると言ったり、やっぱり受けると言ったり、(笑)あれこれ考えて悩んでる人が何人もいましたけど、・・・その、そこで一番笑ってるあなた(※3)、あなたが一番最後に、(笑)決心して、ようやく志願者になった。そんなあなたこそ、亡くなった彼女の素朴な信仰にあやかってくださいよ、今後ね。
彼女はもう、最初に来た日に、洗礼決心。司祭としては、こんな楽な話はない。(笑)いや、ほんと、シンプルなのがいいです。単純なのがいいです。「すべては神さまがなさってることだ」って信じて、「もう私には何もできません、お手上げです、ぜんぶお任せします」と。
彼女は、だから去年、心臓手術の時も、信仰によって乗り越えました。
心臓手術、怖いでしょ? 手術が終わったら、もう目が覚めないかもしれない。そんな手術に向かうのは怖いことですけれども、彼女は、入門講座で、みんなの前で話してくれました。
「これから心臓の手術に参ります。でも、私は何も怖くない。信仰を持つ前だったら、私は、恐れて、苦しんで、絶望的な気持ちになったに違いないけれども、今は何も恐れていない。昔だったら、どの医者が切るかとか、そんなことをすごく気にしたけれども、今、私は、誰が手術をするのか、そんなこと、どうでもいい。ぜんぶ神さまにお任せしましたから」。・・・私は、感心しました。
そのときは神さまのみ心によって、手術は成功し、また教会に戻って来られましたけれども、先日は、脳溢血で倒れて、倒れてから7時間後に亡くなった。まあ、突然死と言っていいでしょう。
突然死、なんだか、わかるなって気もしました。だって、彼女は死の先取りの洗礼だって一瞬のうちに決めちゃったわけで、本番も、一瞬のうち。でも、神さまにぜんぶ任せ切っていた方ですから、本人にしてみれば突然でも何でも、全く悔いなく受け入れたことでしょう。
何しろ、洗礼を受けた日と、倒れた日が一緒なんですよね。シンボリックというか、私たちにとっての、ひとつの、神さまからの素晴らしいしるしに見えます。
昨日、葬儀ミサを司式しながら、彼女の、受洗記念文集の内容をお読みいたしました。皆さんにも、今日、ご紹介いたします。2012年の受洗者記念文集です。(※4)
これ、多摩教会は、毎年こんなに立派に作ってるんです。2014年の皆さんにも書いてもらいますよ。そのうち、こんなふうに読まれたりすることもあるから、(笑) しっかり書いていただきたい。
読みますね。
―――――――――――――*―――――――――――――
「今までの私は真っ暗なトンネルの中にいるようでした。
そんな私を見かねた妹が教会に行くことを勧めてくれました。妹は高円寺教会で晴佐久神父さまから神の福音を聞き、心に光が灯ったと言うのです。姉も同じように言って私を誘いましたが、私はまったく信じられませんでした。
長い間、悩み苦しみ人を憎み、私は自分でも嫌になるような人間でした。夜、床に入るとこのまま目が覚めなければよいのに、といつも思っていました。
姉も妹も何度も勧めます。晴佐久神父さまは今は多摩教会にいらっしゃるからと、彼女たちは多摩教会の住所や電話を調べて、私を引っ張るようにして連れてきてくれました。あまりに勧めるので「一回ぐらいは行ってもいい」と応じたのです。美しい川沿いをしばらく歩き、ふと見ると「カトリック多摩教会」の文字が目にうつりました。そして優しいまなざしのマリアさまの像の隣の階段を上り、
ミサが始まり、晴佐久神父さまが静かに登場なさいました。聖歌が流れ、聖句を聞き、何かが少しずつ変わってきました。その場に集う人々の
ミサ後、神父さまとお話しする機会を得られましたが、何と申し上げたか覚えていません。ただ、いただいたお言葉だけは鮮明に記憶に残っています。「あなたは何もしなくてもよい」とおっしゃってくださいました。このひと言は私にとって忘れることのできないものです。姉や妹の話をもっと早く信じていればよかった、もっと早く神を知りたかったと感じた瞬間でした。
その後は何のためらいもありませんでした。洗礼を授けていただきたいという気持ちでいっぱいになりました。実際、洗礼志願書をいの一番に提出したのは私だったそうです。
この世のことなどちっぽけなものにすぎない、自分は今まで何をしていたのか、と過去の自らを恥ずかしく思えるようになりました。私の気持ちをこのように変えてくださった神さまに、今は本当に感謝しています。
私は入門講座を受け始めて、まだ半年です。教会のことも、聖書も、ほとんど何もわかりません。それでも、これから信仰を深め教会のために、そして人々のために貢献していくつもりです。
今の私には怖いものはありません。教会という、鍵のかかっていない安らぎにあふれた家に帰ることが、いつでも可能だからです。「私は幸せです!」と大声で皆に伝えたいぐらいです。
本当にありがとうございました。
神父さま、どうぞ私がこの先も迷うことがないよう、再び暗闇に入り込んでしまうことがないよう、お導きください」
―――――――――――――*―――――――――――――
「お導きください」っていうけど、いまや彼女の方が、天から私たちを導く側になりました。
彼女はそもそも、いつも入門講座で、手伝ってくれてたんですよ、「証し」をね。
彼女の素朴な証し、「私は本当に救われた。すべて神さまにお委ねした」っていう証言が、あまりにもわかりやすくって、シンプルで、心に届くので、私、何度もそれを使ったんです。「使った」というのは、私が言ったんじゃなくて、彼女に言わせたんです。入門講座、去年、おととしくらいの方なら、よくご存じでしょう。
たとえば私が入門講座で話していて、「人間が自分で自分を救うわけじゃない。すべては、
「私は本当に苦しんでいたけれども、教会に出会い、神さまに救われました。私たちは何もできないけど、神さまのほうは、ちゃんと私たちを愛して救ってくださいます。もう、私は何も怖くありません。皆さんも、神さまを信じて、すべてを委ねましょう」
そんなふうに、彼女がお話ししてくださるんで、これはもう、百人力というか、だから何度もこう、話を振ったんですよ。何度もやりました。そのやりとり、聞いた方も多いでしょう。
彼女の文章にある通り、初めてお会いした時、「あなたは、何もしなくていい」って、確かに言いました。「あなたを生んだのは神、ここに連れてきたのも神、洗礼を授けてくださるのも神、救うのは神です。あなたはなにもしなくていい。ただ、愛の神を信じなさい」と。
それからも、ことあるごとに福音を語りました。「神さまがなさっておられることにすべてを委ねなさい。あなたは神さまの子どもとして、ただ天の父を信じなさい。何があろうと信じなさい。もうこれで『死ぬに死ねる』というくらい、神さまにぜんぶ委ねなさい」と。これを彼女は、幼子のように受け入れて、みんなにも証ししてくれたんです。
その彼女、なんと昨日、ご葬儀ミサの日に、もう亡くなってるのに、証しをしてくれたんですよ。
昨日の午前中の入門講座で、「今日初めて教会に来ました」っていう方が、私の左隣に座りました。
「どうして来られたんですか?」って言ったら、その方はみんなの前で、
「私は今まで自分の力で頑張って、頑張って生きてきたけれども、もう無理です。限界です。家族の世話をし、親の介護をし、もう私が壊れてしまいそう。私は無力です。何もできない。だから、何か大きな力に委ねたい、信じたい、そういう気持ちで、ここに参りました」と。
で、その方のすぐ後ろに、ちょうど、午後のご葬儀のために、彼女のお写真が飾ってあったんですよ。その写真のお顔が、目の前のその人を、じ~っと見ているんです。(笑) だから私、その方にね、
「今、背後霊・・・(笑)じゃないですけど、あなたを後ろからじ~っと見守っている、この方のお話をしましょう」と言って、さきほどの彼女のお話をして、その方を励ましました。
「あなたは神に望まれて生まれてきた。愛されて生きている。人間だから、どんなに頑張っても限界があるけれど、あなたが神の愛と力を信じるなら、必ずあなたは幸せになれる。みんなも幸せになれる。あなたが家族のお世話や介護は大変でしょうけど、あなたが頑張ってご家族を、親を救うんじゃない。救うのは神です。神さまの愛と力が救うんだから、たとえあなたは何もできなくても、だいじょうぶ。もちろん、やってできることは、できる限りやったらいいんだけれども、必ず限界はあるし、神はそれをよくご存じ。だから、最後の最後は、ぜんぶ神さまに委ねていいんだよ。かつて、この写真の彼女にも、『あなたはなにもしなくていいよ』っていう福音を語ったら、それで救われて、洗礼を受けたんですよ」と、そういうお話をいたしました。
そうしたらその方は、なんと、その入門講座の後、彼女のご葬儀ミサにも出て、一番後ろの席で、じ~っとそのご葬儀を見つめておられたんです。だから、説教では、「一番後ろのあなたに申し上げたい」と前置きして、お話いたしました。
「亡くなられた彼女が、あなたを導いてくれる。あなたが初めて教会に来た今日、ご葬儀ミサをしているのは偶然じゃない。ぜひとも、この一人のキリスト者の信仰を受け継いでほしい。洗礼名は、彼女と一緒の『マリア・ベルナデッタ』がいいんじゃないですか?」って、(笑)申し上げたら、涙こぼしてニコニコしながら
彼女は、ひとりのキリスト者として、すべてを神さまに委ね、亡くなってからも働いてるんですよ、もう早速。
洗礼志願者の皆さん、覚悟はよろしいですか?
もう、これで「死ぬに死ねる」、それはイコール、「これでもう、神の国に入ったも同然」っていうことです。
聖週間は、イエスを迎える一週間です。
枝を振りかざしてお迎えしました。それは「十字架を迎える」ということであり、「復活を迎える」ということです。
【 参照 】
※1:受難の主日(枝の主日)
◎受難の主日 (枝の主日)【英:Passion Sunday】
「受難の主日」(枝の主日)は、復活祭の1週間前の日曜日で、この日から聖週間が始まる。
カトリック教会のこの日のミサでは、主イエスの「エルサレム入城」と「受難」という二つの出来事を記念する。そのため、通常の福音朗読(この日の場合、「受難の朗読」)に加え、開祭の折にも「入城の福音」が読まれる。
*****
イエスの受難は、過越祭の時期に始まる。過越祭とは、旧約時代、イスラエルの民が、神から遣わされたモーセに導かれて、奴隷状態に置かれていたエジプトから脱出したことを記念する祭りのことで、小羊を屠って焼き、種なしパン(酵母を入れないパン)を食べて、それを祝った。(出エジプト12章「主の過越」参照:特に21~27節)
これは、イスラエルの信仰の原点でもあり、祭りの日には多くの民が神殿のあるエルサレムに集まっていた。イエスも、敬虔なユダヤ人として、それを大切にされ、弟子たちとともにエルサレムに入城した。(しかし、実はそれに終わらず、この過越祭が「最後の晩餐」となったことに注意したい)
*****
この時、子ろばに乗って入城するイエスを、群衆がナツメヤシ(シュロ)の枝を手に、賛美しながら迎えた(ヨハネ12:12~15)ことに因んで、教会は今日でも、この日に枝を持って行列する式を行い、主イエスのエルサレム入場を記念している。(現在、日本のカトリック教会では、ソテツで代用している)
信徒は、司祭によって祝福されたこの枝を、各家庭に持って帰って飾り、翌年の「灰の水曜日」頃に、教会に持ち寄って、この枝を燃やして灰を作り、灰の式に用いる。
(参考:「岩波キリスト教辞典」(岩波書店、2008)、Laudate、Wikipediaなど)
※ 下の写真は、枝の主日に、多摩教会で準備された「枝」です。画像をクリックすると、大きくご覧いただくことができます。
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※2:「聖週間」
受難の主日(枝の主日)から始まる復活祭直前の1週間。「受難週」「聖週」とも呼ばれる。
受難と死を通して復活の栄光を受けたキリストの過越(すぎこし)を盛大に記念する典礼が行われる。
キリストの死と復活は週の初めの日である日曜日ごとに記念されていたが、2~3世紀には、1年に1度、復活祭の前晩から始まる復活徹夜祭でも祝われるようになった。やがて、復活徹夜祭に洗礼を受けることが一般化し、そのための直前の準備として1週間の断食を守る実践が起こった。
エルサレムはキリストの受難と使徒復活の地であることから、できる限り聖書の記述に忠実に従って、キリストの受難と死と復活の出来事にゆかりの場所にその出来事が起きたとされる時刻に集まり、ふさわしい聖書朗読、祈願、聖歌などによる典礼が行われた。
特に木曜日の晩から始まる3日間は盛大に祝われ、これは後に「聖なる過越の3日間」と呼ばれ、教会暦でも最も重要な3日間となった。
聖週間中の特徴的な典礼としては、
受難の主日に行われるイエスのエルサレム入場の記念(枝の行列)と受難朗読、
聖木曜日(復活祭直前の木曜日)の晩に行われる最後の晩餐の記念(聖体の制定、洗足式)、
聖金曜日に行われる主の受難の典礼(受難朗読、十字架の礼拝)、
聖土曜日の晩(教会暦上はすでに翌日の復活の主日)に行われる復活徹夜祭の典礼(光の祭儀、天地創造からキリストの復活に至る救いの歴史の聖書朗読、洗礼式)などがある。(「岩波キリスト教辞典」岩波書店、2008より)
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※3:「その、そこで一番笑ってるあなた」
(おまけ)
※ ちょうど、晴佐久神父がそうおっしゃっている時の写真。画像をクリックすると、大きくご覧いただくことができます。
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※4:「受洗者記念文集」
カトリック多摩教会では、その年に洗礼を受けられた方に、受洗を記念して一文を書いていただき、記念の文集にしています。
ホームページにも、許可をいただいた上で掲載し、皆さまにご紹介していますので、ぜひご一読ください。
・ 「目次」2012年 受洗者記念文集
・ 「目次」2013年 受洗者記念文集
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※5:「優しいまなざしのマリアさまの像の隣の階段を上り、御聖堂の中に入りました」
(参考画像)
多摩教会の聖堂入口正面の写真です。画像をクリックすると大きくご覧いただくことができます。
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