2013年7月14日 年間第15主日
・第1朗読:申命記(申命記30・10-14)
・第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・15-20)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ10・25-37)
【晴佐久神父様 説教】
今朝もおいしいスイカをいただきましたが、先週の説教でスイカの話をしたら、皆さん、次々とスイカを持ってきてくださって。(笑)ありがとうございます。
「スイカの赤はきれいですね」っていう話をしたら、本物のスイカが現れる・・・あの、マンゴーのオレンジ(※1)もきれいですよ。(大笑)メロンの黄色(※2)もなかなか・・・冗談ですよ。(笑)
皆さん、親切ですね〜。神父のこと、気にかけてくださってるんですね。もちろん、神父も信者を気にかけてますけど、この「気にかける」って、今日のテーマでいうなら「隣人になる」ってことでしょうから、私たち、隣人になってるんでしょうね。相手に近寄って、相手の必要を考えて、相手のために何かをする。そんな相手が、「隣人」です。
まあ、この世の中では、「隣人になる」っていっても、なかなかうまくいかないんで、皆さんそれなりに悩んだりなさってるんでしょうけど、とりあえずは、教会ですでに「隣人」っていうのをやってるってことに、ちょっとね、自信と希望を持って、さらに「隣人」をやっていこうって思いつつ、今日ここから出発する、それでいいんじゃないですか。
一昨日の聖書の会で今日の福音書を読んだとき、先日、ホームレスの女性にお金を出せなかったことを悔やんでた方がおられました。駅でその方を見かけて、いくらか差し上げようかなあ・・・と思って、でも、通り過ぎちゃったって。まさにこの祭司状態ですよね、「道の向こう側を通って行った」っていうやつ。で、帰りがけに、また同じ場所で、どうしようかなあ・・・と思ったけど、やっぱり通り過ぎちゃったっていう正直な告白を聞いて、感心いたしました。だって、思うだけ立派じゃないですか。何も思わずに通り過ぎて、そのまま忘れるっていう人の方が多いのに。
大切なのは「隣人になりたい」って思う、その気持ちですから、少しはその気持ちがあったということで、少しは「隣人」になったんじゃないですか? 何も出せなくても。そして「次はきっと出すぞ」って思う、それが大事なんじゃないですか?
この教会、やっぱり「隣人になりたい」って、そういう思いが溢れているって思っていいんじゃないですか? お互いにそれを目指して集まってるんだし、「それを分かってるんだから、あとは行って、実際にやりなさい」と、イエスさまに励まされました。
で、今日の大事なポイントですけど、「隣人」になるってことにあたって、実は「サマリア人にのようにしなさい」と言っているイエスさま自身が、このサマリア人なんですよね。
要するに、まずイエスが、私たちの「隣人」になってくれたんです。
これを忘れちゃったら、「隣人になりたい」っていうモチベーションも深まらないでしょう。
まずは、イエスが「隣人」になってくれたんです。私たちが傷つき倒れているときに、私たちが罪に苦しんでいるときに、イエスが近寄って来て、手当てをしてくださった。これがキリスト教の出発点ですから、これ抜きにして、「隣人」も何もないです。
そもそも、今捧げているこの聖なるミサは、イエスが私たちの「隣人」になってくれたという記念なんですよ。記念どころか、今日も今ここで、この罪深い私たちの「隣人」になってくださっているという、目に見える救いの出来事なんです。
ご聖体をいただく時、罪深い私たちの中にイエスさまが来てくださるんでしょ。第2朗読でパウロがコロサイの教会への手紙で言っておりました。
「すべてのものは御子によって支えられています」
「御子はその体である教会の頭です」
イエスさまはご自分の体として、この教会をお定めになり、その体の頭として、今もここにおられるんです。私たちの「隣人」となって。私たちが傷ついているとき、苦しんでいるとき、イエスさまはそれをすべて知っておられる。そして、憐れに思って、駆け寄って来て手当てをしてくださる。
「ああ、ありがたい、ありがたい」と私たちは思い、そこから、私も誰かのそばに行こうっていうモチベーションが起こってくるんです。
だから、もし「もっと優しくしたい」とか、「もっとちゃんと向かい合いたい」とか、誰かについてそう思った時は、その人を見る以上にイエスを見ればいいんです、イエスを。
目の前に助けてあげたい人がいて、でもちょっと近寄りがたい、そんなことがあるかもしれない。そんなときはイエスを見ればいいんです。
イエスを見つめて、イエスとひとつになって、教会の一部となっていれば、まるでイエスが近寄っていくかのように、その人に近寄れるかもしれないですよ。
そこがコツですね。イエスが私たちに近寄ってくれて、ちゃんと癒やして、赦して、手当てをしてくださってることを、まずは信じて、感謝して、イエスとひとつになって。今まさに、このミサでそれが実現しているからこそ、私たちはここで癒やされているし、ここから出発すればいいんです。
初めてこの教会のミサに来たっていう方が、昨日の夜いらっしゃいました。おととい、初めて入門講座に出られた方です。その方、昨日の入門講座にも来てたんですよ。二日続けて来たから、「入門講座は、週に一回でいいんですよ。毎日おんなじような話をしてるんで、どれかの講座に出ればいいんですよ」って言ったら、「はい、わかってます。でも、出たかったんです。ここに来るとホッとするんです」って言ったんですよ。もうこの言葉で、私は、すっごく励まされて、癒やされました。
「ここに来るとホッとするんです」って言われたんですよ、カトリック多摩教会。うれしいじゃないですか。「ここに来ると何だかイラつく」っていう場所も、(笑)世の中いっぱいありますからね。
その方、多摩教会に「ホッとする」って二日連続して来て、昨日は午前中の入門講座でしたけど、夜のミサにもまた来てたんです。
今、いろいろ悩んでるってことでしたけれども、イエスさまの体である教会で、イエスさまが手当てをしてくださってるわけだから、そして、ミサはそれが実現する最高の現場なんだから、まあ、昨夜のミサでは、ホントに「ホッと」したことでしょう。
皆さんも今、手当てしてもらってるんですよ、その心の傷を。感謝以外の何ものでもないじゃないですか。・・・大切にしましょうね、ミサをね。イエスさまが隣人になってくださってるんです。
昨日、都内の教会で集まりがあってミサをしたんですけど、ミサの後でひとりの信者さんに言われました。とても元気な女性ですけど、「神父さん、心のこもったミサ、ありがとうございます。私の通ってる教会の神父、ミサがいいかげんなんです」。(笑)「それで私、この前、ミサ中に、『もっとちゃんとミサしてください!』って言っちゃいました」って・・・すごいですねえ。「もっとちゃんとミサしてください!」って。でも、言うだけ立派ですよね。
どうぞ、皆さん、そう思ったらいつでも言ってください。「ちゃんとしろ!」と。
でも、同業者として、わからないでもないんですよ。バタバタしてて、忙しくて、疲れていて、何度も何度も繰り返しているうちに、だんだんこう、日常業務みたいになっちゃって。そうなっちゃうのも、わかるんですよ。ちょっと気を抜くと、そうなっちゃう。
簡単ですよ、いいかげんになっちゃうのって。気を抜き始めると、すぐです。
香部屋から、とととって入って来て、ちょいと頭を下げ、(抑揚なく猛スピードで立て続けに)「父と子と聖霊のみ名によってアーメン、主イエスキリストの恵み神の愛聖霊の交わりが皆さんと共に・・・皆さん神聖な祭りを祝う前に心を改めましょう、全能の神と〜」って(笑)すぐそうなる。簡単です。人って、何でも慣れっこになっちゃうところがありますよ。
だけど、もしもミサにおいて、イエスさまが今、ここで、私たちに近寄って「隣人」になって、十字架上で私たちを赦し、癒やし、手当てをしてくださってるって本当に思ってたら、とてもそんなふうにはいかないですよ。・・・「言葉」と「しるし」でできてるんだから、ミサっていうのは。言葉に心をこめ、しるしを大切にしようって、いやでも思うはず。
今、イエスさまがここで私に触れてくれている、その感動、安心、それがあったら、ホントにそのミサが「ミサ」になる。まずはわれわれがそれを信じて、受け入れないと。
確かに、先週の説教の「ATM理論」じゃないですけど、どんなミサでも恵みはあります。あるんだけれど、果たしてその恵みに、どれだけ気づいているかってことですよ。
イエスはもうすでに隣人になってくれてるんです。それに気づけば気づくほど、「私も丁寧にやろう」「私も丁寧に関わろう」、当然そうなっていくと思う。
信徒館にポスター(※3)を張りましたけれども、素晴らしい映画の話、させてください。
エルマンノ・オルミ監督(※4)の『楽園からの旅人』(※5)っていう映画です。
私、かつて映画評論っていうのやっていて、年間100本近く試写室回って映画観て、評論書いたり、紹介記事書いたりしてましたけれど、わが生涯ベスト10に絶対入る映画に、エルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』(※6)っていう映画がある。素晴らしい映画です。カンヌ国際映画祭で、グランプリを獲りました。地味な映画ですけど、私はもう、大好き。リバイバルの時には、劇場用パンフレットに原稿書きました。「祈りの映画だ」って。
イタリアの、カトリックの監督でね、名もない普通の人の尊厳の美しさや、人々の中に宿っている普遍的な「神さまの愛」が、淡々とした静か〜な映像のうちに、ちゃんと映っているっていう、そういう映画を撮れる監督です。
もう80才過ぎて、新しい映画はないと思われていたのが、なんと、新作劇映画を発表したんですよ。これは、エルマンノ・オルミ・フリークにいわせれば、もうホントに驚くべきうれしい出来事で、その映画がどんな映画かって楽しみでしたし、それがこのたび、ついに日本でも公開されることになり、先週、ホントに久しぶりに、試写会に行ってきました。
懐かしい映画関係の方が、「ああ、晴佐久さん! ご無沙汰です〜」ってね、そんな感じでしたけど、「いやあ、オルミの新作とあっては、出て来ないわけにいきませんよ」ってご挨拶いたしました。
映画の内容は、イタリアの郊外の、とある小さな現代の教会が舞台。舞台劇みたいに、その教会の聖堂の中だけで撮られてるんですけど、あれは、バチカン公会議以降の聖堂でしょうね、わりとモダンなコンクリート造りで、300人くらい入るかな。
イタリアは、昔に比べればカトリックが衰退してるというか、信者が減っている。そこの教会も信者が減ったためか、統廃合なのか、ともかく廃止されることになっていて、ついに聖堂が取り壊されるんです。
主人公は、そこの老司祭なんですけど、50年間その教会で、ず〜っと司牧活動してるんです。50年住んでるんですよ、そこの司祭館に。若い頃からでしょう。たぶんその聖堂建てたのも、彼じゃないですか。思い出もいっぱい詰まってるはず。だけど、その教会が次第に衰退し、ついに廃止され、取り壊されることになる。
で、次々と作業員がやって来て、例えば多摩の聖堂でいうなら、このイコンを外し、「十字架の道行き」を外し、その祭壇を裸にしてって感じで、黙々と作業を進めるわけですよ。それを見守るのは、司祭にとっては断腸の思いだろうと思う。
しまいには、重機みたいのがガーッと入って来て、長いクレーンでね、天上の高〜い所から吊るしてある大きな十字架を下ろすんです。等身大のイエスが付いてる十字架像ですけど、それを吊り下ろすと、十字架がクルクル回っちゃってね、もう見てられない。老司祭は顔を覆って香部屋にこもり、「キリエ エレイソン、キリエ エレイソン、クリステ エレイソン、クリステ エレイソン」って唱えるんです。ミサの時の「主よ憐れみたまえ、キリスト憐れみたまえ」ですね。必死に唱え続けるんです。「主よ憐れみたまえ、キリスト憐れみたまえ、主よ憐れみたまえ!!」
私も司祭の端くれですから、この老司祭の気持ちは、よくわかります。皆さんはわからないだろうとは言いませんけれども、いや、やっぱりあれはね、ある意味、司祭じゃないとわからないっていう部分もあると思う。・・・あれはつらいよ。
しまいにこの神父、祭服着て出てきて、みんなが作業してるっていうのにね、もうすでに脇の方に片付けられちゃってる祭壇の上にカリス置いて、「父と子と聖霊のみ名によって!」って、ミサ始めるんですよ。そうすると責任者みたいな人が、「神父さん、もうやめてください、そういうこと。無駄ですよ」みたいなこと言って、やめさせちゃう。
司祭にとって、聖堂ってのは、やっぱり特別な場所です。ある意味、自分の魂を込めた、聖なる現場ですから。ご聖体が安置され、ご聖体を拝領し、主とひとつになるところ。そこでキリストの体そのものであるミサを捧げ続けてきたし、そこで福音を語り続けてきたわけで、その現場が汚されるというか、壊されるというか、そんな、非常につらい思いをしたんでしょう。まあ、ご時世ですしね、司教さまがお決めになったことだから、そこは受け入れざるを得ないんだけれども、・・・それは、単に建物のことではなくって、現代の教会の中で、何かが壊れているという象徴でもあって・・・つらい。
この司祭、夜、みんなが帰った後でね、誰もいない聖堂に入って来て、説教を始めるんです。深夜、誰もいないんですよ、もちろん。だけど、説教始める。このシーンには打ちのめされました。「わかるなあ・・・」って思わされて、胸詰まりました。
「皆さん、長い間皆さんに、ここから語りかけてきました」とかって、話し始めるんですけど、そのうちに、こんなことを話し始めるんです。
「ここが信徒でいっぱいだったこともある。私はそこで神の愛を語った。けれども、今、正直に告白すると、語りながら、空しい気持ちになったこともあった。今、こうして誰もいなくなり、すべてが取り払われたこの聖堂で、ようやくわかる気がする。あの空しさは、私の中の迷いだったと」
うろ覚えですけど、そんなようなことを言う。でもこれ、何を言ってるのか、司祭としてよくわかります。現に、こうして皆さんに説教を語っていても、正直に言っちゃいますけど、どこか空しいものを感じる瞬間がある。迷いが生じる瞬間。それは何かというと、
「本当に私はイエス・キリストを信じてるのか」
「本当にこの人たちは、主はここにおられると信じているのか」
「本当にこのミサは、神さまが私たちのうちに宿っている聖なるミサなのか」
・・・「みんな、どうなの? 自分は、どうなんだろう」。
そういう、魂のスキに忍び込んでくる、迷いなんですよ。
そりゃそうですよ、人間なんだから、信じるって言っても100パーセントっていうわけにはいかない。いつも「かくいう私は、本当の信仰者だろうか」「そういう俺は、本当の神父だろうか」、そんな迷いと、いつも向かい合わざるを得ない。当たり前のことです。まだ、神の国は完成してないんだから。悩みの世、迷いの世を、われわれは生きております。だから、自らに問いかけざるを得ない。
・・・「本当に信じているんだろうか?」と。
そんな今日、この福音書が読まれるんですよね。つい先日あの映画観て、そして今日この箇所を読むと、イエスさまにすごく励まされる気がする。
・・・「わたしが救う!」「わたしが、そんな迷えるあなたの隣人になる!」と言ってくださってるような気がする。
実際、西欧のキリスト教は、ちょっとこう、偽善的になっちゃったというか、制度になっちゃったというか、閉鎖的になっちゃったというか、そういうところが実際あります。だからこそ、生まれ変わろうとしている。
映画の中では、そんな現実の中で、裸になっちゃったその教会で、むしろそんな時にこそって、この老司祭は、生まれ変わっていきます。
ちょうどその夜、アフリカから、命がけで小さな船で渡ってきて、イタリアに不法入国してきた黒人の難民たちが、隠れ場所を求めて、この閉鎖された教会にぞろぞろと、20人くらい、忍び込んでくるんですね。もちろん、みんなイスラム教徒です。
この人たちを、老司祭は、全面的に受け入れるんですよ。
中には子どももいるし、身重の女性もいる。その夜、この女性は出産するんですけど、赤ちゃんを見て、老司祭は「アデステ」を歌うんです。「来たれ友よ」ですね。クリスマス・キャロル。つまり彼にとって、まさに難民はキリストであり、隣人なんですよ。
で、彼らを追っかけてくる行政の保安係の人たちもいるんですけど、老司祭は調べに来た人たちを追い返すんです。「危険ですよ」って言われると「愛の業
しかし、権力がそれを許すはずもなく、翌日には、強制執行が行われそうな雲行きで、果たして、難民たちの運命は。・・・続きは、どうぞ映画館でご覧ください。(笑)
8月17日より、岩波ホール(※7)で公開されます。・・・『楽園からの旅人』です。
あの老司祭、私は一生忘れられないですね。つまり、やっぱり「司祭」なんですよ。「キリスト者」なんですよ。傷ついて、弱くって、いつも迷っている。しかし、・・・しかし、本当に司祭でありたいと願い、キリスト者でありたいと願い、そうあろうとする。
混迷の時代への、オルミ監督の呼び掛けでしょう。
この律法学者だって、たとえ話の中の祭司だって、レビ人だって、悪い人じゃないんですよ。迷ってるんじゃないですか? 本物を求めてるんじゃないですか?
そんな私たちを、憐れに思って近寄ってくださるイエス。それが、私たちにとっての救いです。私たちは、この聖堂で、今日もイエスとひとつになります。
そのイエスが私たちに言う。
「神を愛し、人を愛せ」
「行って、あなたも同じようにしなさい」
【 参照 】
※1:マンゴーのオレンジ(参考画像)
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※2:メロンの黄色(参考画像)
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※3:映画『楽園からの旅人』ポスター
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※4:エルマンノ・オルミ監督(1931年〜)
ウィキペディア(フリー百科事典) → http://goo.gl/MYPc7
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※5:『楽園からの旅人』(2013年8月17日<土>岩波ホールほか全国順次公開)
オフィシャルサイト → http://www.alcine-terran.com/rakuen/
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<<9月11日(水)11:30の回上映後、晴佐久神父のお話が予定されています。(岩波ホール)>>
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※6:『木靴の樹』(1978制作)
ウィキペディア(フリー百科事典) → http://goo.gl/uS3vp
映画.com → http://goo.gl/ccrM1
ぴあ映画生活 → http://goo.gl/CoiSl
・・・< 文中へ戻る >
※7:岩波ホール(東京都千代田区神田神保町2-1)
オフィシャルサイト → http://www.iwanami-hall.com/contents/top.html
交通案内 → http://www.iwanami-hall.com/contents/access.html
(関東以外での上映場所は、『楽園からの旅人』のオフィシャルサイト内、「THEATERS」でご覧ください。)
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