2013年11月10日 年間第32主日
・第1朗読:マカバイ記(二マカバイ7・1-2、9-14)
・第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ2・16〜3・5)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ20・27-38)
【晴佐久神父様 説教】
今日のミサは、七五三の祝福式ということで、子どもたちがいっぱいですし、また、中高生のお泊り会明けなので、中高生も大勢いて。
いい眺めですね、小さい子どもたちとか、10代がいっぱいいる風景は。これはやっぱり、教会として希望ですね。
子どもたち、中高生の皆さん、ぜひ、教会に来てください。「たま〜に」じゃなくて、(笑)「しょっちゅう」来てください。あなたたちにとって一番大事な場所ですし、まさに、あなたたちのためにあるような場所なんだから。中高年に独占させてはいけません。この方々は、もう、立派な信仰を持ってるんです。・・・イヤミじゃないですよ。(笑)みんな、信じて洗礼を受け、福音を聞いて救われ、神の国を目指してさまざまな困難をくぐり抜けて生きてきた、信仰の先輩たちです。
しかし、10代の皆さんは、まだまだ、教会がどれほど尊いか、試練のうちにあるときには、福音がどれほど値打ちがあるかっていうことを知らないでしょう。知ってたら、どんなに大変でも、毎週でもね、来るはずですよ。
皆さん、学校で大変でしょうね。成績のこと、友だちのこと、将来のこと、いろいろ悩むでしょうし、不安もあるでしょう。でも、それらすべての答えが教会にありますよ。ウソかホントか、福音をよく聞いてみてください。真剣に、この教えに耳を傾けてみてください。なにしろ、ここでは、この世の話を超えた話をしてるんです。この世を超越しているイエスさまの話、あるいはイエスさまの語った真理。普通の学校じゃ絶対教えませんから。
イエスさま、さっき、何て言ったか聴きましたでしょう? 「次の世」の話してましたよ。い〜い言葉ですね、「次の世」。
「次の世に入った者は、もはや死ぬことがない」(cf.ルカ20:35-36)
永遠なる「次の世」。若い皆さん、そんなものあるものか!と思わないでください。実はそれこそが本番であって、私たちはその「次の世」の素晴らしさを信じて、「この世」で準備してるとこなんだから。この世に限界があって、争いや悲しみに満ちているのは、今はまだ準備期間だからだし、「次の世」に希望を持って生きるために神さまが用意してくださった、いわば前段階だから。
皆さんが今、学校で勉強してるのは、これから社会に出て、本番の人生を生きていくためでしょう? それとおんなじです。この世で勉強して、いつか本番の「次の世」を生きるんです。そのことを知らずに、この世だけだと思っていると、虚無感にもとらわれるし、生きる意味もわからないし、友だちや人間関係だって、何のためにあるんだろう・・・みたいなことになる。この世が大事なのは、次の世があればこそです。ぜひ、この「次の世」にね、照準を合わせていただきたいですよ。
次の世では、イエスさまが教えているとおり、われわれには想像もつかないけど、「天使に等しい者」になるんですよ。この世のとらわれから解放されて、真の自由を生きるようになる。
私もこうして神父なんかをやっていても、この世では、自分の限界というか、情けない現実というか、いつもそういう弱さにとらわれている。でも、ある意味、この世はそういうものだから、これはこれでいいと、私は思ってるんです。まだ途中なんだから、次の世をちゃんと信じて生きていけばいいと。この世では、完成することは許されてないんですよ。完全な人間はどこにもいない。
この世での私の信仰なんて、いいかげんなもんですよ。迫害にでもあったら、もうヘロヘロじゃないですかね。さっきの第1朗読、マカバイ記で、律法で禁じられてる豚肉を食えって言われて、「いいや、律法を破ることはできない」って立派に殉教していった人たちのこと読まれましたけど、さっき聴きながら、これ、私なんかだったら、豚肉バクバク食っちゃうだろうなって。(笑)
これ、でもしょうがないですよ。この世にあっては、雄々しい殉教者たちもいるけれども、情けな〜い、弱〜い、罪にまみれた現実というのもある。だからこそ、私たちは次の世で「天使に等しい者になる」っていうことに、なんかホントに心から憧れる。真の自由、真の喜び、そんな恵みの世界が、確かにあるんであれば、この世がどれほど閉ざされていても、その希望に支えられて、もう一歩、もう一歩と歩いていけるじゃないですか。
「次の世」、どんなんでしょうね。想像もつかないけれど、確かにある。
変な話ですけど、私の司祭館の食堂に、最近、羽虫が飛んでるんですよ。ちっちゃな蛾みたいなやつですけど。で、手でパンッ!てやっつけても、また1匹飛んでくる。それをパンッ!てやっつけても、また翌日も、ふらふら飛んでる。窓開いてるわけでもないのに、いくらやっつけても出てくるんです。1センチもないくらいで、パンッ!てやると、手に粉が付く、蛾みたいなやつ。
で、数日前、こんなにやっつけても出てくるんだったら、どっかから湧いて出てるに違いないって思って、まあ捜したわけですよ。そしたらね・・・この話したら、皆さんこの後食事できなくなるな。(笑)・・・部屋の隅に段ボール箱があって、その中に、おととし、震災の後、いざってときのために米くらい備蓄しとこうかって、ビニール袋に入った安〜い米を買って入れてあったんですよ。すっかり忘れてたんですけど。その米の袋の中の、米の上に隙
私、前に見たことがある。米びつの中にこう、ニョロニョロッとしている幼虫みたいなの。(※1) 昔は結構、普通にいたみたいですけど、最近はもう、そんなの見たことない。でもそれが、いらっしゃったんですよね。(笑)で、それが、この1年半くらいの間に繁殖したんでしょう。変な糸みたいなのがからまって、サナギだかなんだか、グチャグチャ、いっぱいいる。で、さすがにその中じゃ狭くなったみたいで、頑張って、諸君、中から穴開けたんですね。ちっちゃ〜い穴。そこから、まあ、頑張ったやつが、1匹、また1匹と出てきては飛びたっていったと。
袋の中は、それはまあ、気持ちの悪い光景でしたけど、なんかね、ふと思ったんですよ。確かにそれ気持ち悪いんだけど、それ以上にコワいなと思ったのは、私、閉所恐怖症なんで、閉ざされた状況の中で生まれ育ってるっていう、その状況なんですね。
だって、あの方たちはもう、生まれたときから、その袋の中なんですよ。外の世界を知らない。段ボールの中の袋の中で、段ボールの隙間から差し込む光を見てる。生まれたときから、その狭い世界。まあ、一応、食べ物は山のようにあるわけだけど(笑)、外には出られない。光の向こうはどうなってるんだろうって思いながら生きて、死んでいく。それはやっぱり、コワイ状況です。
でも、なんとか穴があって、そこから出て行くことができたわけですけど、かすかな光に憧れて外へ出てみたら、そこはもう、想像もつかない広い世界なわけですよね。もっとも、せっかく出て行ったのに、神父にパンッ!!なんて、(笑)やられちゃうわけですけど。でも、考えてみたら、実はぼくらだって、袋の中なんじゃないですか。
私、閉所恐怖があるって言いましたけど、それ、狭い場所が苦手だってのもあるけれど、さらに言えば、「この世」に対する閉所恐怖っていうのも、あるんですよ。この世っていう、閉ざされた世界への恐怖。もしもこの世だけだったらっていう恐怖。それを、信仰で乗り越えてきたんです。
私たちの考えとか、認識とか、そんなものは、ヒジョーに狭くって、閉ざされています。仮にこれがすべてだったら、この閉ざされた世界に何のために生まれてきて、死んでくのか。これがすべてであるはずはない。あの、かすかに入ってくる光の向こうに、「次の世」があるはずだ。・・・それを教えてくれたのがイエスさまですよ、「これだけじゃないよ」と。
今日の「集会祈願」(※2)、先ほどお祈りしましたでしょう? 感動しましたよ、その祈りに。開けてみてくださいよ(※3)。「命の扉を開いてくださいました」ってありますでしょう? イエスさまが、「命の扉」を開いてくれたんです。小さなビニール袋の穴どころじゃない。広く大きく、死と復活によって、全人類に命の扉を開いてくださって、「次の世、あるぞ!」と。そこに、私たちの本番、「天使に等しい者」として働く本番がある。そのためだったら、この世の生みの苦しみを一つひとつ背負ってこなして、一緒に生まれていきましょうよ。
若い皆さんに、そう呼び掛けたい。
ニュースで、昨日、インターネットでいじめにあって自殺した子どもたちの特集をやってましたけど、世界的に見ると大勢いるんですよね。
私思うに、インターネットの空間なんて、まさに「閉ざされた空間」でしょ? 閉所恐怖を感じさせる空間じゃないですか。一見無限に広がっているネットのようでいて、実はすべて人間の脳ミソがつくったもの、結局は人間が流している情報。その中でいじめられて自殺しちゃうなんて、なんてかわいそうなって思うし、「おまえなんか死ね」と流す、いじめてる側もかわいそうだと思う。次の世のことを知らないから。閉ざされて苦しんでいるみんなに「次の世」の話を、私はしてあげたい。「この世」だけだったら、私たちには希望はないし、今ここだけだったら、結局は争いと恨みだけになって、ホントの自由、解放された幸せを生きてくことなんて、できっこない。
イエスさまが、「次の世では、天使に等しい者になる」っていう、その「天使に等しい者」を、もう、今から始めましょうよと、10代には特に言いたいですよ。少しずつでいいからチャレンジしようって。
天使はね、イエスさまが言っているとおり、「めとることも嫁ぐこともない」「死ぬことがない」「神の子だ」ってことですから、つまりは、「この世のいかなるとらわれをも超越して自由に生きる、永遠なる神の愛に与
天使は、天で働きます。天使の働き、ご存じですか? 主
われわれ、次の世で、そんなワクワクする働きができるんですよ。次の世でのんびりしようなんて、とんでもない。(笑)結構、忙しいですよ。神さまを心から賛美する・・・最高の音楽、最高の歌声、最高の楽器、そして最高の言葉で、神さまを賛美する。
まだこの世を生きている、大勢の愛する人たちに、最高のメッセージを上手に伝える。私が今こうやって、いろいろしゃべってるのも、天のメッセンジャーが、私を使ってるんじゃないですか?
そして、守ってあげる。皆さんも、自分の子どもを守ったり、お孫さんを守ったりしてるでしょうけど、「天使に等しいもの」の方が、ず〜っと格上ですから、次の世で天使のようになって、子どもたち、孫たちを守ることこそが、本番です。・・・それができるんですよ。結構忙しいんじゃないですか。
天の自由、それに憧れます。天使の翼が、自由の象徴ですけどね。この世で閉ざされ、いろいろとらわれている現実を考えると、まさに、天使に等しい者になりたい。
私は憧れます。自分のこの世での、こんな自分を抱えて生きているっていう、その重さに耐えていられるのは、そういう軽やかな憧れがあるからこそ。
おととい、亡くなりました(※4)。 広島教区の重鎮で、87歳でした。私の恩師であります。
私が神学院に入ったときの神学院長で、大変お世話になりました。あの院長がいなかったら、私は今、ここにおりません。神父にしてもらえなかったでしょうし、また、「私には無理だな」と、こちらからおいとましてたかもしれない。
でも、早副院長は、まさに私のようなタイプ、こういう、しょ〜もない人間を、まあ大切に大切に育ててくれました。
あの院長はね、司教がですよ、司教が、「もうこれはだめだ。辞めさせる」っていう神学生を守るんですよ。司教がダメって言ったら、もう実際はアウトなはずなんだけど、あの院長が、「神さまから預かった神学生を、私は辞めさせるわけにはいきません!」って言って守り抜くんですよ。いやまあ、「おかげで」ですよね、私が生き延びたのは。ホントに、ありがたいというか、何というか。
ぼくが、神学校で「荒
だいぶたってから、次第に元気になってきて、階段歩いてたら、後ろから院長の声がしてですね、「おお、ちゃんと歩けるようになったのお」って。振り向いたら、院長がニコニコしてた。「お前はここんところ、ず〜っと地面から3センチくらい上を歩いておった」って言うんですよ。確かに「心ここにあらず」っていうか、自分では平静を装っているつもりでも、歩き方に出てたんでしょうね。それを院長はじっと見てるんですよね。ずっと見守っていて、ある日、おっ元気になってきたぞ、これならもうだいじょうぶだと思って声を掛ける。・・・ありがたいじゃないですか。部屋に戻って泣きましたよ。
後年、今や私、全国飛び回るようになってですね、広島も何度も行きました。当然、彼と会うこともあるわけですよ。で、院長は、・・・今でも「院長」って呼んじゃうんですけど、まあ、この全国飛び回っている私をですね、目を細めて見るんですよね。ホントに目を細めるんですよ。ニコニコしながらね、「活躍しとるのお・・・」って。
で、みんなに言うんですよね。「晴佐久神父はのお、神学生時代、実に個性的じゃった〜」って。「個性的」って、ギリギリの褒め言葉ですよね。(笑)悪く言えば、自分勝手だったり、周りに馴染まなかったり、やりたいことばっかりやっていて、組織や制度に馴染まない。だけど、彼は言うんですよ、「今、こうして飛び回ってる神父は、みんな個性的だった」。
彼のまなざし。彼は見守ってくれた。つまり、私のことを信じてくれたんです。これが彼の秘密です。人間を信じる。・・・それにしても、この信仰、この忍耐はどこから来るのか。
彼は広島で生まれ育って、19歳のときに被爆しておられます。ちょうど8月6日は30キロ先の宮島の方に動員されていて、朝、ピカーッと光って、その後、ドンッときてですね、何があったのかと思って外に出たら、きのこ雲がモクモクと。そのうち、広島の方から次々とトラックが来て、荷台には、ぼろ雑巾のように皮膚がだらだらと下がった人たちが大勢運ばれていく。・・・二日後に汽車が動いて、西広島に入って、そこから広島の自分の高専まで歩いて、入市
彼は科学を勉強してたんですけど、それまで、科学が人を幸せにすると思って一生懸命勉強していたのに、こういうことになっちゃったわけです。一流の科学者が核爆弾を造り、一流の政治家がそれを使って、この地獄。「どこが問題なんだろう」「何がいけなかったんだろう」、彼はそれを求めてイエズス会の修道院を訪ね、アルぺ神父(※5)からキリスト教を学び、これだ、この教えが世界を救うと確信して21歳でカトリックの洗礼を受け、その後4年間理科の先生をしたうえで、神学校に入りました。
彼の得た結論は、はっきりしてるんです。
「何で地獄になっちゃうかというと、人と人が信頼し合っていないからだ。相手を疑って、攻撃を恐れて、やられたらやりかえせ、やられる前にやってしまえ、その恐れが戦争を起こす。科学が悪いんじゃない、人の悪しき思いが悪いんだ。これをもう二度とさせないためには、徹底して相手を信じ、ゆるし、相手のために自らを犠牲にする生き方をするしかない。人を徹底的に信じて愛する。それがイエス・キリストだ。それがキリスト教だ」
こういう信仰を根っこに持った人にとっては、まあ、しょうもない神学生を忍耐して見守り、その存在を許すことなんて、お手のものなんですよ。「晴佐久君を信じよう」と。
私も私で、こんな自分だけど信じてくれよと思ってるわけでしょ。「今はこんな自分で、ちっともうまくできないけれど、そのうちにきっと、ちゃんとやるから。やがて本当に、神さまのために、きっと働けるようになるから。なんとか、見守ってくれよ」って思ってる。
こちらは「信じてくれよ」と思い、それに「よし、信じるぞ」と応えてくれる。そこに、信頼関係っていう、かけがえのないものが成り立つ。「それこそが世界を救うんだ」と、それこそが、早副院長が身をもって教えてくれた教えです。私はそれを信じます。
それもこれも、神さまが、ちゃんと私たちを信じてくれているからこそ。だから、一人ひとりに、この世という準備期間を全面的に任せてくれている。それに応えなくてはなりません。次の世に向かって、私はなすべきことを、やってかなきゃならないって思うし、そしてたとえ今はうまくいかなくとも、信じて待っている神に応えて、「いつかは!」って思うし、「次の世ではとことんやるぞ!」とも思う。
早副院長、晩年はご病気で、大変つらい思いをなさった。いろいろやりたいこともできなくなっていたようです。彼の金祝のお祝いのとき、広島に教え子が集まりましたけど、おつらそうでした。それでも、毎日、精いっぱい生きておられた。彼はもともと、いろんなことをやりたがるたちで、院長時代に聞いたのは、「台湾に行って宣教したい」でしたし、その後は、「幟町
だけど、院長は今や、次の世です。
院長、本当にありがとうございました。さあ、これからは、どうぞ「天使に等しい者」となって、自由に、いっぱい働いてください。そして、こんな私を、守り、導いてください。
明日、広島へ、ご葬儀に行ってまいります。
※1:「ニョロニョロッとしている幼虫みたいなの」
( 参考 )
・ 生活協同組合ユーコープ:「商品Q&A」
Q: 米に虫がわいたが、何が原因かを知りたい
→ こうした食品害虫の種類と写真(メイガ類、コクゾウムシ)、防ぎ方、保管方法などが記載されています。
・ ノシメマダラメイガの画像 (食品総合研究所貯蔵害虫研究室[貯穀害虫・天敵図鑑]より)
・ コクゾウムシの画像 (食品総合研究所貯蔵害虫研究室[貯穀害虫・天敵図鑑]より)
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※2:「集会祈願」
「集会祈願」とは
・ カトリック教会におけるミサで、ミサ開祭後、はじめの方に行われる。司祭が会衆を祈りに招き、一同は司祭と共にしばらく沈黙する。それは自分が神のみ前にいることを意識し、自分の願いを思い起こすためである。それから司祭は、「集会祈願」と呼ばれる祈願を唱える。この祈願によって、祭儀が聖霊において、キリストを通して、神なる父に向けられるという性格が表現される。会衆は、心を合わせ、「アーメン」という応唱によって、この祈願を自分のものとする。
(参考: 「カトリック中央協議会「公開文書」 ― 「ローマ・ミサ典礼書の総則」[PDFファイル])
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※3:この日の「集会祈願」 (2013年11月10日年間第32主日)
・ 「すべての人の救いを望まれる神よ、ひとり子イエスは、死からの復活によって、永遠のいのちの扉を開いてくださいました。ここに集められたわたしたちに希望の光を注ぎ、尽きることのない喜びで満たしてください。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
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※4:「早副神父の・・・おととい亡くなりました」
(参考)
・ 早副神父様帰天のお知らせ (「カトリック広島教区情報サイト」より)
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※5:アルペ神父
・ ペトロ・アルペ神父 (1907年11月14日-1991年2月5日)
(参考)
略歴など: ウィキペディア(フリー百科事典)
イエズス会日本管区→ 「希望をもたらす人、ペトロ・アルペ神父」
イエズス会「霊性センター せせらぎ」→ 「特集14:アルペ神父」
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※6:幟町
・ カトリック幟町教会 平和記念聖堂
所在地: 広島市中区幟町4-42
→ 「カトリック幟町教会 平和記念聖堂」公式ホームページ
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