2011年11月27日 待降節第1主日
・第一朗読: イザヤの預言 (イザヤ63・16b-17、19b、64・2b-7)
・第二朗読: 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・3-9)
・福音朗読: マルコによる福音(マルコ13・33-37)
【晴佐久神父様 説教】
イエスさまの教えの最後の総まとめのところです。この後、受難に向かっていくわけで、イエスさまは最後にどうしても弟子たちに言いたいことを言っています。キーワードとして、3回同じことを言ってました。「目を覚ましていなさい」「目を覚ましていなさい」「目を覚ましていなさい」。
だから目を覚ましていましょう。難しいことじゃないですよ。目覚めるとは、福音に目覚めると言うことですから。福音を聞いて、福音に感動して、福音を信じて、福音を語る。これが、「目を覚ましている」キリスト者のあり方です。福音、福音、何をおいても福音です。神さまの愛の御言葉を聞いて、その素晴らしさに感動して、信じて受け入れ、それをみんなに語る。すなわち、「証し」する。目を覚ましている人は、当然そうします。
眠っている人とは、福音を知らない人。この世のことを見て恐れたり、この世のことを聞いて悩んだり。この世のことにこだわって、とらわれて、恐れている。これこそが眠っている状態です。せっかく福音を受ける神の子として生まれてきたのに、眠りこけている状態。
皆さんはこうしている今も、自分は起きていると思っているでしょうが、もしも福音を聞き、「本当にそうだ」と感動し、「あなたも救われてるんです、もう大丈夫ですよ」と福音を語っていないならば、それは眠っているも同然。神さまは、そのように福音を聞いて語るためにこそ、人を生み、育て、導いておられるのですから、そうしていないならば、それは神の望みを果たしていないわけで、生きていても生きていない。死んだも同然。起きているつもりでも、眠っている。
目覚めていましょう。神さまが私たちをそのように、福音を聞き、語るものとしておつくりになった以上、そうするほかに選択肢はありません。第1朗読で読まれました。
「わたしたちは粘土、あなたは陶工」(イザヤ64:7)
粘土は、陶工がこねたとおりりになります。粘土が勝手に「私はもっとこんな形になりたい」などと言ったところで、なんの意味もない。陶工が、粘土をこねて、自分の作りたいものをつくるのです。まさに神さまが、ただの粘土にすぎない私たちを、こんな素晴らしい存在につくってくださいました。私たちに命の息を吹き込んで、生きるものとしてくださいました。福音を聞いて救われ、福音を語るものとしてくださった。神がそうしたのです。なんという恵みでしょうか。私はただの粘土のかけらだったのに。未来永劫、福音を知らずに死の世界にいたかもしれないのに。神さまが、命の息を吹き込み、福音を与えてくださったのです。
さあ、目覚めたものとして、主イエス・キリストがすべてを完成させてくださるその日まで、福音を生きて行きましょう。本当に来るんですよ、皆さん。主イエス・キリストが神の国を完成させてくださる栄光の日っていうのが、本当にくるんですよ。その日を待ち望みます。待降節っていうのはその日を待つ日々ですから、今日から特別な思いで、目覚めていましょう。
福音を知らずに眠っている様子って、人を見ていても自分を見ても、すぐ分かります。イライラしているとか、焦っているとか、不安だとか、恐れているとか、そんな状態。心に怒りがある。恨みがある。妬みがある。自分の心にそんなものがあるときです。そう言われれば毎日そうでしょう? なんだかイライラする。なんだか不機嫌だ。そんなときに、ハタと気付けばいいんです。「あ、私今、眠ってる。これが眠っている状態だ」福音を忘れて、この世のことばかりにとらわれているから、イライラする。福音を聞いてイラつく人はいません。この世のあいつにイライラしているわけじゃないですか。こんな出来事に、こんな自分にイライラしているわけでしょう。
そんなとき、ああ、これが眠っている状態なんだと気づいたとき、目覚めなければなりません。それ、簡単なんです。福音を聞けばいいんですから。
たとえば、誰かにイライラしているときでも、「みんな神に愛されている神の子だ」という福音を聞けば、「そうだよね、あいつも神の子なんだから敬わなくっちゃね」とか、「自分は神に愛されているんだから、あいつに愛されないからってイラつくこともないよね」とか、「同じ親を持つ神の子同士、切っても切れない兄弟の縁があるんだよね」とか、福音を聞くことで目覚めたものとなり、そこに真の安らぎと希望が生まれてくる。これが目覚めたものの状態です。
「夫が悪い、彼が変わればこんなにイライラしないですむのよ」なんて思っても、永遠に解決しません。余計な話ですけれど、どんなに頑張っても旦那は絶対変わりません。イライラするだけ無駄です。損するだけです。損なことをするのを「愚か」という。眠りこけた状態です。目覚めた人は、そんな愚かなことはしない。目覚めた人は、福音を聞き、信じるのです。そして、「神さま、生んでくださってありがとう。粘土でしかない私に命の息を吹き込んでくださってありがとう。あの人と出会わせてくださってありがとう。福音を語ってくださってありがとう。この今日を感謝します」と祈るのです。
皆さんはキリスト者ですから、いつも目覚めているはずです。今日もまた目覚めた一日を過ごしたことでしょう。福音に生き、魂は熱く燃え、希望に満ちた一日をお過ごしになったことと思います。嫌みにしか聞こえませんか。でも実際、どうだったんですか、この今日は。神さまが、福音を生きるために与えてくださった、このかけがえのない一日。
私は神父なんかやっているおかげで、一日中福音語らなきゃならないんで、幸い、福音が非常に身近です。朝、福音を語った、午後も語った、夜も語った。どこでも福音、福音。そうすると、時々自分の中にイライラすること、クヨクヨすることがあっても、なにしろ常に自分の口で福音を語っているので、否応なしにその福音に救われてしまう。福音が身近にあるって、ありがたいことです。皆さんも、福音をもっと身近に置いて、もっと親しむといいですよ。そのためには、なんらかの工夫や訓練も必要でしょう。いつも福音を聞く工夫。すぐに福音に立ち返る訓練。なにもイライラする時間を延ばすことないですよ。5分でも10分でも早く自分のとらわれにケリをつけて、スッキリと、さわやかに生きていきたいじゃないですか。
第2朗読に「証し」って言葉が出てきましたでしょう。「キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがない」。この、キリストについての証し、福音の証しが、すごく大事なんですよ。福音を身近にするための最高の訓練です。証しって、事実を語ることです。つまり、福音が本当に福音であることを事実として知り、事実として語ること。
私もこの「証し」っていうやつを、今までもやってきたし、それを今日もやっているし、皆さんにもやって欲しい。福音には本当に力があって、その福音によって確かに人が救われている事実を知ってもらいたいし、それをこそ語ってもらいたい。その意味では福音って、非常に論理的なことなんですよ。フィクションじゃない。事実です。科学的と言ってもいい。「実際にこのような福音があって、現実にこのように救われた人がいるから、この福音には力がある」というのは科学的なことでしょう?「福音には力がある」という仮説を現実が検証しているんですから。現実の世界で、福音によって実際にどれだけの人が救われているか。それをちゃんと「証し」すること、それこそが生きた福音であるキリストについての証しとなり、その結果、賜物に何ひとつ欠けるところがない救いが実現している。この説教でも、毎週毎週、福音を語っていますが、聞いてますか。目覚めてますか。多摩教会に来てもう3年たちますが、そろそろ折り返し地点です。6年1期ですからね。いつも同じ話をしているようでも、その福音は、その日、あなたに、神が語っている福音なんです。それをちゃんと聞いて、証ししましょう。私は救われた、あの人も救われたと。
一番最近の証しをしましょう。いま、このミサの15分前の電話ですけど、2年前に御葬儀をした女性の息子さんからの電話です。信者なんですけど、お母さまの御葬儀の時にちょうど入院しててね、葬儀ミサに出られなかったんですよ。とてもつらかったようです。実はお父さまも、お母さまが亡くなるそのちょっと前に亡くなっているんですよ。退院しても、独りぼっちになってしまった。しかも病気の後遺症で要介護になって歩くのも大変。そんなさみしい一人暮らしで、次第に心も閉ざされて、ずっと家に閉じこもっていました。誰か訪ねてきても対応するのが負担で、あまり会いたくない。
その方が、「相談したいことがある」と、先週来られたんです。タクシーで、杖ついて、よろけながら来られました。私も初めてお会いしたんですけど、彼はこう言いました。「家に両親の遺骨があるけれども、なかなか納骨できずにいる。一人暮らしのせいもあり、遺骨が手元にあるのがなんだか怖くて、とても気にかかる。けれど、歩くのが大変なこともあって、一人ではどうやって納骨したらいいかわからない」。彼はそんな不安を抱えてこの2年頑張ってきたけれど、ついに耐えられなくなり、一縷の望みを持って、よろけながら教会に来たわけです。私は、シンプルな福音を語りました。
「ご両親は神さまの愛に包まれて天に召され、今は神さまのみもとで、息子のあなたをちゃんと守ってくださっていますよ。ご両親は今も、この世を生きていたとき以上に生きてます。この世に残したお骨なんていうものは、単なる形見みたいなものですから、何の心配もないですよ。納骨の心配もしないでください。私たち教会の仲間は、家族ですから。家族の納骨なんだから、みんなでやるのは当然でしょう? 車で送り迎えもできますから、安心してください」
そうお話してるところへ、たまたま次々と信者さんが来ました。一人の方は亡くなったお母さまのお友達で、「私、お母さまと親しかったんですよ。今度お訪ねしますね。納骨式もぜひ出席させてください」と言い、別の人は病床訪問グループのメンバーで、「運転はまかせてください。お墓まで送り迎えしましょう」って言ってくれて、あっという間に解決しちゃった。彼が本当に心配して苦しんできたことが、一瞬のうちに晴れちゃったんですよ。それが、彼にとっては、どれほどうれしいことだったか。それで、さっきお礼の電話が来たわけです。
「この前お会いして『私たちは家族だ』と言われて、本当に胸がジーンとしました。ずっと自分が抱えていた寂しさが晴れました。遺骨についても、気にならなくなりました。これからは、なんとか頑張って、車いすを使ってでも、時々ミサに来ようと思います」
私、神父だから当然こういう相談を数多く受けますけれども、こんなことだったら、皆さんだってできるはずでしょう。「遺骨があって心配です、納骨どうしましょう」。そう言われたら、「心配しないで。お父さまは天であなたを守ってます。私たちはキリストの家族なんだから、安心して下さい。みんなお手伝いしますよ」。そう答える。簡単なことです。お父さまとお母さまが亡くなってからの数年間、彼がどれほど恐れて心を閉ざして孤独で生きてきたか、不安の中を生きていたかを思うとき、もっと早く福音を伝えてあげられなかったものかという思いにもなりますが、ともかくも「福音に触れて救われた人からの電話が15分前にありました」というこのお話、これが、証しです。福音は人を救います。事実です。作り話じゃない。なるほどそれは本物だと思える、その「証し」によって私たちは力づけられる。
昨日の入門講座でも、求道者の一人がこんな証しをしてくれました。
「最近、神父さまの説教集の福音や入門講座で聞いた福音をそのまんま使って、みんなを救ってます。本の一節をそのままメールに引用したり、入門講座で聞いた話を使って答えたりしてるんです。先日も友人の娘さんが妊娠したんだけど、いろいろな事情があって生むかどうかですごく悩んでたので、神父さまの言葉を使って答えました。『望まれずに生まれてくる人は一人もいない。その子を授かったのは神さまの恵みだ。いかなる事情があれ、それは神さまがお望みになったことだから、その子どもは生まれるべきだし、必ず幸せになれる。感謝して、祝福して迎えましょう』そんな福音を伝えたら、本当に喜んで、安心したという返事がきました」
これが、キリスト教です。証しを聞いて、信じて、人にも証しする。キリスト教は証しで成立しているのです。弟子たちがキリストについて証ししたから、キリスト教は2000年たってもこうして賜物に何ひとつ欠けることなく、人を救っている。ほかにも、昨日の入門講座に出ていたある方なんか、「入門講座に通うようになってから不眠が解消しました」って言ってましたよ。「今まで眠れなくて薬を飲んでいたんだけれど、薬に依存するのはやめようと思って、その代わりに入門講座で聞いたお話を頭で思い浮かべているとスッと眠れようになった。どうもありがとうございます」って証ししてくれました。よかったじゃないですか。どうぞ、不眠の方、入門講座にいらしてください(笑)。入門講座でなくてもいい。ミサで聞いた福音でもいい。いらだつとき、孤独なとき、福音に救われてください。そしてその事実を証ししてください。
もうすぐ2011年のクリスマスがやってきます。3・11以降、初めてのクリスマス。私はこの3・11以降も、幸いなことに福音を信じているから動揺することも落ち込むこともなく生きてまいりましたけど、みんながそうじゃないことは、肌で感じています。2010年とは違う。今、この国はドヨーンとしている。先の見えない不安、何一つ解決できないいら立ち、持っていきようのない怒り、そんな思いでドヨーンとしている。そのドヨーンとした中で、潜在的に福音を求めている人が非常に増えているのをひしひしと感じます。そんな意味でも、2011年のクリスマスは、今までと違うクリスマスです。今こそ、キリストの教会が福音を証ししなければならない、そんな闇の時代です。いっぱい福音を伝えて、いっぱい救ってください。説教でこう聞いたと伝えるだけでもいいじゃないですか。不眠で悩んでいる人に、「それだったら、うちの教会の入門講座に出てみたら? 眠れるようになった人がいたのよ」うそじゃない。事実なんだから。それを「証し」っていうんです。そんな証しで、その人の不眠が治るだけじゃなく、キリストに出会えるなら、そんな素晴らしいことないじゃないですか。「証し」は何か難しいことを説明するってことではない。事実を語るんです。事実を語るんだから、別に勇気も才能も必要ない。「みんな救われてますよ。信じてください」と、「証し」をする。その「証し」が、「賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」っていうね、目覚めた生活を実現させるのです。
福音を信じる私は、もはや怖いものはありませんけれど、ただひとつ眠るのが怖い。つまり、その福音を忘れて、この世の滅びる物だけにとらわれて、不安やいら立ちで心をいっぱいにして、福音から離れてしまうことが怖い。本当に怖い。それこそが「死」だから。だからこそ、人一倍、オレは絶対眠らないぞ。そう自分に言い聞かせてきたし、「いつも目を覚ましていよう」って、自分に課し続けてきた訓練みたいなことに関しては、自信もあります。目を覚まし続けるそのコツこそは、常に福音を聞くこと、語ることです。それで命を守れるのです。
テレビドラマの「南極大陸」見てますか? 南極越冬隊の木村拓也が同僚に叫んでたでしょう? 「眠ると死ぬぞ!」って。
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