邪魔を取り除け

2012年12月9日 待降節第2主日
・第1朗読:バルクの預言(バルク5・1-9)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ1・4-6,8-11)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・1-6)

【晴佐久神父様 説教】

 おととい、揺れましたねえ。どうしてました? 皆さん。グラグラッときて、スワッ!首都直下、ついにきたか! みたいに一瞬思うわけですけど。私はパソコン打ってたんですけど、何するかと思いきや、突然立ち上がって、ロッカーの中バタバタ探して、揺れる中、必死にガムテープ探し始めたんですよ。(笑)
 なんでガムテープ、って思うかもしれないけど、3.11の時、帰ったら食器棚の扉が開いて、中のグラスがたくさん落っこって割れていて、大変だったんですよ、掃除が。だから、食器棚の扉にストッパーを付けとこうと思いながら、いつかやろう、いつかやろうでやってなかったんで、おととい、揺れ始めた時に、ああ、またあそこ開くかも! どうしよう・・・って思って、あわててガムテープ探し始めて、結局、もう揺れが収まった頃にようやく食器棚にガムテープ張りながら、オレ、何やってんだろう・・・って。(笑)
 とっさの時にね、一番しなきゃならないことがパッと分かるのって、やっぱり日頃の訓練とか準備とか、大事ですねえ。おとといも、テレビでは盛んに「高台に逃げてください!」って放送してましたけれど。一番大事なことといえば、そりゃ、家財道具も大事、あれもこれも必要。でも、「まずは高台に逃げましょう」と、そういうことです。
 この前の大震災の教訓で、われわれはそれを学んだはずですけれども、さあ、でもいざというとき、その場で最も必要なこと、今自分が何をなすべきか、ここで、このタイミングで、一番大事なことは何であるか。それをその場で判断できるとか、パッと気がつくとか、信じて速やかに動けるとかって、すごく大事なことですよね。とりわけそれが、人生のこと、信仰生活のことであるならば。
 地震のときにどうやって逃げるかなんていうのは、こんな言い方もあれですけど、しょせんはこの世の話です。われわれ、この世を超えた世界、霊的なことを何よりも大事にする者としては、いざ、何かが起こりました、怖くなりました、さあ、どうにかしなきゃなりませんっていうときに、「今一番なすべきことは何であるか」って、魂の世界ですぐに判断できるかどうかこそは、何よりも重要なことなんです。
 キリスト者は「いつも目覚めて祈れ」といわれるわけですが、目覚めている状態って、そういうことでしょうね。いつも、「今、最も重要なことは何であるか」に目覚めて、祈りのうちにある日々。人生にはしょっちゅう、つらいことやイヤなことがありますから、その現実に飲み込まれて、大切なことを見失っちゃわないように生きる訓練が必要です。目先のことにとらわれたり、この世の力につながれたりしている現実からサッと離れて、自由に神さまの世界を生きられるように。
 パウロが、第2朗読で言っておりました。「わたしはあなたたちのために祈ります」と。「知る力と見抜く力とを身に着けて、本当に重要なことを見分けられるようにと祈ります」(cf.フィリ1:9-10)。・・・そういうことなんです。
 「知る力と見抜く力とを身に着けて、本当に重要なことを見分けられるように」
 結局、私たちは、本当に重要でないことをいつも大事にしているんです。それもあっていいんだけれども、それを第一にしていたら、それと一緒に滅びてしまう、そんなことばっかりを大事にしている。こうして大勢集まってますけれども、一人ひとり、いろんなとらわれを持っているわけで、その重荷というか、手かせ足かせというか、それは、もし目に見えたとしたら非常に奇妙な格好で、変なもの背負っているその様子に、お互い笑い合うと思いますよ。大きな(よろい)みたいなものを着てたり、必要ないガラクタを必死に背負っていたり、身動きとれないような状況の中で、さあ逃げなきゃ! って、エッサエッサと歩いている、その様子がもし見えたら、お互いに「お前、何やってんの?」って笑い合うんじゃないですか。目に見えないもんだから平気でいるけれど、私たちはいつも、何だか妙なものを背負って、つまらないことにとらわれて、非常に窮屈。
 「もっと、もっと自由になれたら!」って、そう思うでしょう? その自由を、イエスさまがくださってるんです。自由そのものであるイエスが、私たちの重荷とか、手かせ足かせとか、背負っているものとか、そういうものを全部ご自分が引き受け、手かせ足かせを外してくださり、呼びかけてくださっている。「さあ、自由になろう!」と。

 昨日、羽生君と高橋君が争って、なかなかの名勝負でしたねえ。日本の男子フィギュアの話ですよ。高橋君1位、羽生君2位で、ワンツーフィニュッシュでした。感動して見てましたけど、あのフィギュアスケートのトップクラスの選手たちの軽やかさっていったら、ホントに、見てても気持ちがいい。あの軽やかさっていうのは、まさに、心がどれだけ自由か、とらわれていないかっていうことです。彼らのクラスになると、「あれを気にしてます」とか、「これを心配してます」とか、そういう心のちょっとしたことで、0.1秒踏み切りが遅れたり、0.1ミリ着地がずれたりしちゃうわけでしょ?
 ショートの時の小塚選手が言ってました。「トリプルアクセルに入る時、二つの入り方があるんだけど、どっちにしようか一瞬迷って失敗した」と。そんな極限の世界。ああいう世界になると、さあどうするってときに、何かにとらわれていたり、恐れたり緊張したりしていると、軽やかに飛べない。そういうものをかなぐり捨てて、ちょっとこう、「天然」な感じでね、たとえば「ゾーンに入る」って言い方がありますけど、自分に与えられている力が、そのまんま、何の邪魔もなく発揮できる、そんな神がかり状態に入れば、自由に飛べるし、素晴らしい結果に結び付く。・・・これって、でも、皆さんのことなんです。
 フィギュアスケートみたいな、そんなすごい才能持ってないとお思いかもしれませんが、そんなことないんです。魂の世界では、だれもが、金メダルもらうくらいの素晴らしい才能というか、チャンスをみんな与えられている。自由、喜び、安らぎ、一致・・・。そんな、魂の真の幸いなる世界に目覚め、生きる力をみんな持っているけれど、それを何かが邪魔している。いろんなものが私たちを縛りつけているし、われわれは、わざわざそれを抱え込んで、「重くて飛べないよ〜!」って言ってるんです。イエスさまは、そういう重荷や、私たちの迷いをぜんぶ引き受けて、「私が背負っているから、あなたたちは自由に飛びなさい」と言ってくださる。その自由は、世界大会の金メダル以上に価値がある。

 私のところには、いろんな方が相談に来られますけども、・・・(雑音が入る)これ、マイクの雑音が入りますね。あちらのマイクに変えましょうか? ああ、はい。業者の方が雑音の調査に来ておられて、「そのままそこで話せ」と言ってます。(笑)・・・ね、こうして福音を一生懸命語っていても、マイクが邪魔をする。(笑)アンプが邪魔をする。(笑)そして、一番大切なことがみんなに届かない。・・・そういうお話ですよ。
 皆さんにも、神さまがちゃ〜んと語り掛けているのに、何かが邪魔をしてる。神さまと完全にまっすぐにつながってるのはイエスさまだけで、あとはどんなかたち(・ ・ ・)でかはともかく、み〜んな邪魔されてるんです。でも、その邪魔、その重荷を、イエスさまが「私が背負ってあげるから」って言ってくれてる。そのイエスを信じて、すべて預けきったとき、私たちは本当に、トリプルアクセルでも何でも、ひじょ〜に軽やかに、4回転でも5回転でも、驚くほど、魂の世界で自由になれる。ホントにそうなんです。
 昨日も大勢の方が相談に来て、5人の方の相談を聞きましたけど、私は、相談受けたとき、その人に「あなた、もっとこうした方がいいですよ」みたいに、何かを背負わせないようにしてます。まあ、そういう言い方が必要な時はしますけど、本来的になすべきことは、すでに背負っているものを取り除くことです。その人は、大きな意味ではすでに救われているんだから、むしろそれに気づかせないでいる、救いへの目覚めを邪魔する、その邪魔を取り除く。それが、私の仕事、というか奉仕ですね。邪魔を取り除くと、神の愛とスッとつながって、肩の荷を下ろしたようになり、涙ひとつこぼし、自由を取り戻して、お帰りになる。応接室の窓から見ると、道を帰っていく足の軽やかなこと!
 昨日、洗礼の面接もありました。今、洗礼シーズンで、受洗希望者が相談に来たり、許可を求めて面接に来ます。それは本当にうれしい日々ですけれど、洗礼っていうのは、何かこう、今までの自分に、洗礼っていう新たな力を付け加えるって話じゃないんです。「洗う」ですから、むしろ、ベッットリくっついていた重荷というか、邪魔を洗い流して、原点に帰る。神のみ前に裸になる。自由になる。「そんな鎧着てちゃ、スケートできませんよ」っていうようなことを、われわれはいつもやってるので、それを外す。で、「外してもだいじょうぶなんですか?」って思う、その気持ちを応援して、「だいじょうぶだよ」と。「いいから外してごらん。楽になるよ」と。
 その「自由」っていうのに、私も憧れるし、かなり極めてきたつもりですが、さあ、いざというときに、どれだけホントに魂の世界で自由になれるか。それにはやっぱり、日頃目覚めて、祈り続けて、訓練しないと。その意味では、ミサのときなんかは、相当、そういう恵みのときなんで、一番訓練にいい時ですよ。ここで、普段背負ってるものとか、抱え込んでいるものをイエスさまに預けて、ホントに軽やかになる。自由になる。
 福音書では、イザヤの預言が引用されてましたけど、洗礼者ヨハネのことを、イザヤが預言していました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに」(cf.ルカ3:4-6)なる。これは、何を言ってるかっていうと、「邪魔を取り除け」って言ってるんですね。「谷」は邪魔になります。「山」と「丘」が邪魔になります。それをみ〜んな、埋めて、削って、曲がってるものをまっすぐにすれば、どうなるか。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3:6)んです。・・・ということは、神の救いはもう来ているんであって、ただ、われわれの心の中に何か邪魔があって、それが見えなくなってる。さあ、では、皆さんにとって、まさに今、その邪魔は何であるかっていうことですよね。
 聖なるミサ、ここはもう、邪魔のないところ。まっすぐに、神さまとつながってるところ。それを信じましょう。自分の中で「こんな自分はダメだ」って思うようなところとか、「あんなことを後悔している」とか、「明日はどうなるだろう」とか、そういう自分の思い込み、思い煩いもまた、邪魔なんですね。ミサの恵みの中で、そんな邪魔を取り除き、永遠なる天とまっすぐにつながっていると、天の喜び、安心と、まっすぐにつながることができて、自由になれます。

 聖なるミサを、高齢者の施設で、二日続けてやりました。「ロイヤルライフ」と「いなぎ苑」と。片方は7人、片方は5人のミサでしたけど、どちらの施設での出張ミサも、ホントに邪魔がない感じでしたよ、「天国直結〜!」みたいな。それはなんかこう、高齢だからっていうよりは、集まったその方たちが、とらわれがない、こだわりがないから。
 「ロイヤルライフ」の方なんか、皆さん90歳過ぎているんですけど、共にミサを捧げ、福音を語り、ご聖体をいただきました。ミサの後、「よかったわね〜♪」ってみんなニコニコしながら話してるんです。「これでもう安心。いつでも行けるわ。私が天国行ったら、あなた、私の葬儀ミサで、お祈りしてね」って、ある方が別の方に言うんですよ。すると、そのお友達が「あら、私の方が先に行くから、私の葬儀に出てね」(笑)「いえいえ、私の方が先よ」「いやいや、私の方が先よ」って、この人たち、何争ってるんだろうって。(笑) こんなに元気な方たちだと、私の方が先かもって気になりましたけど。(笑)
 あの「とらわれのない感じ」っていうのが、信仰です。目覚めてる。まあ、確かにね、高齢っていうか、神さまにいただいた、その年月に育てられた信仰なんでしょうけど。いいこともあったけど、大変なこともあった。でも、ちゃんと導かれて、今、天国先取りのミサがここにある、こんなミサに(あずか)っているだけで、もうあと、何もいらない、これでもう行けるっていう、そんな気持ちこそ、「目覚めて祈る」ってことでしょう。イエスさま直結の喜びです。
 ここに集まっている皆さん、今、何にとらわれているんですか? ホントに重要なことって何なんでしょう。パウロは私たちのために祈ってくれています。「それを見分けられるように」(フィリ1:10)と。今、心にひっかかっていること、恨んでいること、ゆるせないでいること、そんな邪魔はもう、ちょっと脇に置いて、この聖なるミサでは、天国直結のイエスとひとつになって、天を仰ぎます。

 先週、新宿の葬祭場で葬儀ミサをやりましたけど、葬儀ミサこそは天国直結のミサですから、真心込めてお捧げしました。これが、40代のお母さんの葬儀ミサで、母ひとり、子ひとり、残された男の子が小学校3年生。まあ、ここでは「健太くん」としましょう。この健太君が、葬儀ミサの間、健気にがんばっていてね、そういう姿を見ていると、こっちも胸が痛くなりますよ。両手をギュッと握って、シャンと背筋伸ばしてるんです。お母さんの葬儀ミサ、一番前の席で、口をキュッと一文字にして、こっちをジッと見て。
 「ああ、今、一番重要なことは何だろう?」って、やっぱりそういうときに、思うわけですよ。この状況で今、一番重要なことは何か。それは、福音を伝えることでしょう。この子に最も必要なことだから。神さまが与えてくださる救いです。この子が、母親の死を、単に悪いことが起こったとか、もう自分の人生は駄目になったとか、神も仏もあるものかとか、そんなふうに思わないでほしい。この試練を、信仰をもって乗り越えてほしい。でも、信者じゃないわけでしょ? お母さんが臨終洗礼なんですよ。臨終洗礼を授けたシスターが、「ぜひ、晴佐久神父さんに、カトリックの葬儀ミサをしてほしい」って電話してきたんで、私が、新宿区の葬祭場でミサをしてる。そんな事情なんで、健太くんにしてみたら、「なんでキリスト教?」って感じなわけですよ。だから、手をギュッと握ってこっち見てる子に、やっぱり一番大事なことは、この子に神さまの救いが及ぶこと、この子が福音を知ることだと、そう思ったから、健太君に一生懸命福音をお話しました。
 「健太くんのママ、すばらしいママだったことだろうね。健太くんの悲しい気持ちはよくわかるよ。ママが亡くなるのを見るのはつらかっただろう。でも、ママは、ただ死んだんじゃなくて、天国に生まれていって、神さまに迎えられて、今、ちゃんと生きてるんだ。そして、これからは、目には見えなくても、健太くんと一緒にいて、健太くんのことをいつも守ってくれるよ。神さまがすべてちゃんとしてくださるから、安心して、優しい神さまを信じよう。そして、いつか、みんな天国で再会できるんだ。だから、それまでの間、神さまを信じて、一緒に歩んでいこうね」
 健太くんにピンポイントで、一生懸命お話しました。健太くん、私のその話を聞いて、「また再会できるんだよ」っていうところで、健気に顔色ひとつ変えずに、つぶらな目から、ポロポロポロポロッって涙こぼして、こんな言い方申し訳ないけど、ああ、きれいだなぁ・・・と思った。・・・美しい涙。大粒のね。ポロポロポロポロッと、でも、顔色は変えないで、シャンと頑張ってるんですよ。
 私、「そうだ、この子に絶対洗礼授けよう!」って心の中で思いました。だからその後、火葬場に行ってね、待ってる時間があるでしょ。健太くんの隣に座ったんですけど、・・・さあ、どうしようか。一番大事なことは、今、ここにも聖霊が働いているんだから、その聖霊が何をしようとしているか、それを見極めることだ。それでいうならば・・・。そうだ、ここでは、健太くんと友達になることだ。友達になるにはどうしたらいい?・・・
 で、「健太くん、何が好きなの?」って聞いてみたんです。「ぼく、電車が大好きです」って言った。かわいいですねえ。
 「そう。晴佐久神父さんも、電車大好きだよ。ついこの前、長野に講演旅行に行ったときは中央線の『あずさ』に乗ったんだ。モノレールで立川まで行って、長野県の岡谷っていうところまで行ったんだけど、中央線はね、立川から言うと、日野、豊田、八王子、西八王子、高尾、相模湖、藤野、上野原、四方津、梁川、鳥沢、猿橋、大月、初狩、笹子、甲斐大和、勝沼ぶどう郷、塩山、東山梨、山梨市、春日居町、石和温泉、酒折、甲府、竜王、塩崎、韮崎、新府、穴山、日野春、長坂、小淵沢、・・・(笑)子どものころ丸暗記した駅名を、ず〜っと最後の岡谷に至るまで、一気に言ったら、もう尊敬のまなざし。(笑)
 すると健太くん、やおらですね、「ぼくは京王線が好きです」とか言い出して、「新宿、初台、幡ヶ谷、笹塚、代田橋・・・」(笑)って、ず〜っとこっちまで。京王永山に来るかと思ったら、調布から聖跡桜ヶ丘の方に行っちゃった。(笑)
 私も尊敬しましたし、ぼくらはもう、友達になりました。「多摩教会に遊びにおいでよ」って誘ったら喜んでました。ママに洗礼を授けたシスターが、「健太くんを、今度、多摩教会に連れて行きます」って言ってたんで、いつかそんな日が来たら皆さんにも紹介しますね。
 ホントに健気な健太くん。涙拭いて、顔輝かせて、電車の話を一緒にしました。

 友達になる。信頼関係をつくる。聖霊が働いて、そこに福音が届く。神さまの恵みの世界が始まる。一番大事なこと。
 私たちはみ〜んな神の国に向かってるんであって、いうなれば、まあ、神の国行の電車に乗ってるようなもんだ。途中には「試練」の駅名もあるかもしれないけれど、やがて最終的には、必ず「神の国」という、恵みの終着駅に到達するんだから、まずは邪魔になってるものを取り除いて、まっすぐに恵みの世界を信じる。そこに新しい人生が始まる。

2012年12月9日 (日) 録音/12月13日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英