2014年11月2日「死者の日」
・第1朗読:知恵の書(知恵3・1-6、9)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・31b-35、37-39)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・37-40)
【晴佐久神父様 説教】
何年かに一度、11月2日の「死者の日」(※1)が主日に当たることがありまして、今年はその年です。今日はいつにも増して、亡くなられた方々と深い交わりを持つことと致しましょう。
その交わりによって、弱っている私たちは強められ、励まされます。今日は特別に、そのような恵みのときを頂いていると信じて、このミサを捧げます。
つい最近、親しいご家族を亡くされて、ご葬儀をされたご遺族が、ここに何人もおられますが、それをきっかけに、またミサに来るようになられたというご家族も来ておられます。亡くなられたこと自体は悲しいことですけども、それは実は、その方とより深い、新しい関係に入ったということですし、良いこともたくさん始まっているんです。ただの別れではないということです。
私たちの信仰においては、今ここに生きていることと、神に召されて天の国を生きることは、実はつながっている一つのことです。「私」という、神に愛されている神の子の本質においては、この世を生きるも天を生きるも、そう大きな違いはないし、それこそが、われわれの信仰の特別なところ、面白いところ、われわれにとっての希望となるところでしょう。
死によって、何かが決定的に終わっちゃうわけでも、変わっちゃうわけでもない。本質的に、「神に愛されている私」のままなんです。私のままで、私のまだ全く知らない神さまの世界に、生まれてまいります。
神の恵みの内にあって、「私」は、こう・・・「連続」してるんですね。
今日、「死者の日」は、そのことを思って、単に「死ぬことが怖い」とか、「死んだらどうなっちゃうんだろう」とかいう、恐れの気持ちにとらわれるんじゃなくて、今生きている者と、神のもとに召された者が、同じ神の恵みのうちにあって、互いに結ばれていて、そして、・・・これがまあ、われわれの真の希望ですけど、
その意味では、「死者の日」は、われわれが「死者を思う日」でありますけれども、同時に「死者に思われる日」でもあるんです。
で、どっちが格上かっていうと、向こうの方が格上ですから、・・・それはもう、神さまのみもとですからねえ、こっちが何か思ったり祈ったりするのも、まあ、そこそこ工夫しながら、こうやって「死者の日」とかってやってますけど、向こうこそがね、われわれを思ったり祈ったり、時には不思議な
「死者を」思い起こすっていうよりも、「死者から思われていることを」思い起こす。
今日来られている方のように、お父さまを亡くされたことがきっかけで、もう一度ミサへの信頼を取り戻し、信仰を新たにした、・・・まあ、まさにそういう事実が、ホントに「連続している」ってことを証ししてますよね。まさに、今もつながってる。いや、むしろ生きていた時よりも、お父さまは、自分の愛する家族を大切に守り導き、今も共にある。・・・こういう、連続している感じっていうのがね、この「死者の日」の醍醐味というか。
ですから、11月2日、われわれは「死者の日」なんていってお祈りしてるけれども、あっちでも、11月2日は「生者の日」とか言って、なんかこう、特別に祈ってるというか、働いてくれているんじゃないですかね。もちろん一年中やってくれてるんでしょうけど、「今日は『生者の日』だから、特別に、まだ生きてるあの人たちのために祈りましょう」とかって。・・・よもや「早くこっちに来るように」とは祈ってないと思いますけど、(笑)「まだ、『この世』をがんばって生きてるあの人たちのために、特別に祈り、働きましょう」みたいな日なんじゃないですか、きっと。
そんな連続性っていうのをね、楽しみましょう、今日は。
つい最近、教区司祭がひとり亡くなりました。
岩橋淳一神父さま(※2)。私も親しくしてもらいましたし、ご葬儀ミサは胸に迫るものがありました。
大司教さまもおっしゃっていましたけれども、「最後の4年間は、ホントにお苦しみになったから、それが司祭として、尊い捧げものになっている」みたいなね、そういうお話もまた、胸迫るものがありました。
岩橋神父さまは、4年前の年末の夜に、教会にお帰りになって、階段で足を滑らせて、落ちたんですね。そして頸椎を損傷して、四肢まひになりました。首から下が動かない。呼吸困難。で、倒れたままで朝を迎え、朝来られた信者さんが発見して、緊急入院となりました。
でも、四肢まひはそのまま残り、大変な試練、十字架を背負うこととなりました。自分のこととして思ったら、どうですか、皆さん。首から下がまったく動かない。そして人工呼吸器で、しゃべることもできない。食べることもできない。
しかし、奇跡的に、そして何より、本人の前向きな気持ちもあったからでしょう、人工呼吸器は外れることとなり、食べることもできるようになり、そして、最後のころには電動車いすを
私も一司祭としてですね、岩橋神父さんのことは、結構衝撃でした。現役で事故に遭われ、お亡くなりになったと、かたちとしては、そうなります。私も現役なわけですが、あの事故以来、私、2階に上る自分の階段、なるべく手すりにつかまりながら、上るようにしております。
やっぱり階段って、なかなか危険なシステムですよね、あれね。人類は今後も階段から逃れることはできなさそうですけれど、高低差を移動するための、最も身近な方法としては、なかなか野蛮なシステムでもあるなと、いつも感じております。皆さんも、どうぞお気をつけくださいね。1段でも踏み外すと、大
ただ、どんなに気をつけても、神のみ心には逆らえない。岩橋神父さまも、明るくて才能も人気もあって、あんなに素晴らしいお働きをして、中央協(日本カトリック中央協議会)の事務局長も10年もなさってたのに、神のみ心は、最後に試練の日々をお与えになって、そして、ご自分のみもとにお召しになるというところにあったわけです。
われわれも、何かこう、どんなに慎重に工夫したり、健康に気を使ったり、いろんなサポートを受けたりしたところで、永遠にこの世を生きるわけじゃない。人生の一番の本質は、誰の命であれ、み心によって、ある日ある時、この世界から神の世界に移る日が来るってこと。
ただ、それは断ち切られるのではなく、連続しているんですね。
それを、第1朗読(※3)の知恵の書ですと、5節、
「
「わずかな試練を受けた後、神が彼らを試し、ご自分にふさわしい者と判断された」(cf.知恵3:5)
岩橋神父さん、その4年間、本当に、キリスト者として、司祭として、その試練を受け止めて、いま、「豊かな恵み」を得ておられる。1節にあるように、「神に従う人の魂は、そうして神の手で守られて」るんです。で、「もはやいかなる責め苦も受けることはない」(cf.知恵3:1)。神父さまはもう、「責め苦」のような苦しい思いをすることがない。「神にふさわしい者」として祝福されている。そこに、私たちは希望を持ちます。
逆に、そういう、人は神さまの世界に移るんだっていうことを知らない愚か者たちの目には、ただ「死んだ者」としか映らない。「死」っていうことしか見えてない。だから、「この世からの旅立ちは災い」としか思わない。この、私たちの素晴らしい世界から離れていくのは、「破滅」としか見えない。ところが実は、それは「災い」でも「破滅」でもなく、この世から旅立っていく彼らは、「平和のうちにいる」。・・・「平和」、何ひとつ欠けたところのない状態ですね。もはや、責め苦がない、その「平和」のうちにいる。
岩橋淳一神父さまは今、「平和のうちにいる」。
「人間の目には懲らしめを受けたように見えても、不滅への大いなる希望」が、私たちにはあります。(cf.知恵3:2-4)
ご葬儀の時に、われわれは、こういう信仰にね、よって、希望を新たにし、神への信頼を新たにする。
実を言うと、東京教区の神父さま、最近大勢お亡くなりになるんですよ。
死者の月を前に、教区から1枚の紙が送られてくるんですけど、「東京教区司祭 帰天者名簿」っていうものですが、それで数えると東京教区ではこれまで、77名、教区司祭が亡くなってます。全員20世紀に入ってからですけどね。その77名が、亡くなった順に並んでる名簿です。
これを見ると、帰天者は、おおよそ生年月日順かというと、そうでもないんですね。若くして亡くなった方、90歳を超えて亡くなった方、いろいろですから。私、毎年更新されたこの名簿を見るたびに、ちょっと、・・・何ていうか、不思議な気がする。「俺もいつか載るんだなあ・・・」って。
でも、これ、事実ですよねえ。いつか載るんですよ。果たして何人目に載るのか、全く分からない。ちょっと不思議な気持ちが致します。
で、今年、多いんですよ、帰天者が。10月末日現在ですから、末尾にもうすでに「岩橋淳一」って載ってる名簿ですけど、2000年以降をぱ〜っと見ただけですが、毎年、帰天した教区司祭が、だいたい一人か二人、多い年で三人。去年までそれがずーっと続いてます。
ところが、2014年になって、今年、6人目なんですよ、亡くなられたのが。3月の井上洋治神父さま(※4)に始まって、チェレスティーノ神父さま(※5)、佐久間神父さま(※6)、宮内神父さま(※7)、荒井神父さま(※8)、そして今回の岩橋神父さま。6名の名前が並んでるんですね。
この前、司祭研修会があったんですけど、そこである神父さまが、みんなの前で、「今年は、教区司祭、亡くなる方の当たり年のようです」っておっしゃるんですね。で、「まだ、今年あと2カ月ありますので、どうぞお気をつけください」って。
いや〜、「気をつけろ」と言われてもねえ。・・・でもまあ、おっしゃるとおり、7人目っていうことも、あり得るわけですよね。岩橋神父さまも現役でしたし、そう言われてみると、チェレスティーノ神父さまも現役司祭としてお亡くなりになった。
幸い、現、元にかかわらず、多摩教会って今のところ主任神父の帰天がないんですね。まだ若い教会ですから、初代の寺西神父さま(※9)は、まだまだお元気でいらっしゃいますし、そういう意味ではちょっと珍しい教会っていうことになると思いますよ。私が第一号にならないように、(笑)気を付けたいですけれども、実は司祭って、生きているときより、死んでいくとき、あるいは死んでからの方が司祭だったりするわけで、そこはやっぱり、キリストに似てないとね。
そういえば、岩橋神父さまのご葬儀で思ったんですけど、昔に比べて、ご葬儀に来られる信者さんの数が少ないような気がする。たぶん、教会全体が高齢化していて、現役世代の層が薄いっていうのと、葬儀に来るべき人がご高齢で来られなかったり、先に逝っちゃってるのかもしれないなと、ふと思いました。・・・皆さん、私の葬儀、来てくださいね。私、若い子たちを、可愛がっているつもりですけど、彼ら、不義理なんで、デートが忙しいとか、バイトが入ってるとか言って来そうにないんで。そんな彼らに来てもらいたいんですけどね。葬儀って、やっぱりひとつの目に見えるしるし、秘跡ですから。
司祭が亡くなった時って、特に、天と地が連続してるってことを味わうときじゃないでしょうか。司祭は、仮にも司牧者ですからね、皆さんの信仰を守り導く仕事を一生懸命してるわけですし、それは元気に働いている時はもちろんのことですが、やっぱり特に、その死において何よりも牧者であるはず。一人の司牧者が、ひたすらに天を信じて生き、試練を越えて、確かに天に召されて行く姿を、本当に、希望として見ていただきたいんですよ。
岩橋神父さまは、確かに十字架を背負い、皆さんを天に導くために、一歩先に天国に行かれました。天と地が連続していることを、確かに証ししてくれました。
この、教区司祭の帰天者名簿を見てて、ふと思うんですけど、なんだか、神学校の卒業者名簿に似てるんですね。どういうことかっていうと、神学生の時って、仲間たちが次々と神父になっていくわけですよ。まあ、先輩達から順にですけれど、みんな、卒業して叙階していく。
で、下級生の神学生としては、そんな新司祭はまぶしいわけですね。叙階して神父になって、初ミサをあげに神学校に帰ってきたりするわけでしょ。祭服着て、堂々と司式してるわけですよ。ついこの前まで、だらしない格好でひっくり返って酒飲んでたような先輩が、立派に司式してて、うらやましいというか、憧れるというか、自分もやがてちゃんと卒業して叙階して、ホントにミサを捧げたりする日が来るんだろうかって、心待ちにしているわけですよね。そうこうするうちに、私もだんだん学年が上がって、ある日ついに、司祭に叙階される。それはホントにうれしい瞬間でありました。
この、順に神学生仲間が司祭になっていく感じと、順に司祭仲間が天に召されていく感じって、似てるんですよ。・・・お分かりになりますかね。つまり、「この世」は、まだ神学校なんです。「死」は叙階式なんです。葬儀ミサは、叙階式ミサ。ああ、いよいよ「天」の本番に入ったか、ああ、この神父さまもついに天の叙階を受けたか・・・、みたいなイメージです。
だって、この帰天者名簿なんか、私なんかでも、4分の3くらいは知ってる司祭、会ったことある人ですもんね。僕の子どもの頃、主任神父だった平田忠雄神父さん(※10)とか、あるいは私を神学校に推薦した小林五郎神父さん(※11)とか、もう、み〜んな、この名簿に入ってるわけでしょ。きら星のごとき先輩司祭たちが、みんな天国に行かれて、あちらでお働きになって、いよいよ本番を生きておられる。天上のミサを捧げておられる。・・・「私もやがて、そこに叙階されていくんだ」みたいな気持ちです。
死は、この世の卒業式。卒業って、いいことでしょう。いつまでも学校にいるわけにいかない。ある意味、卒業するためにこの世であらゆる経験を積んでいるわけです。もちろん、死は怖いことでもあるんだけれども、もう、そんなこと考えてもしょうがない。むしろ、やがて、そこの本番に私も入っていくという憧れを持ってね、うらやましいくらいの気持ちでいたいものだなあと、あの名簿は、私にそういうことを語りかけてくれました。今年は特に、6人の仲間が先立っていかれたんで。いずれも親しい方でありましたから。
おととい昨日と、また釜石に行ってまいりました。皆さんの献金を直接、お届けしてまいりました。ただ、だんだん額も減ってきてですね、「これくらいでスミマセンッ(汗)」っていう感じでお渡ししてまいりましたけど、どうぞまた私が大きい顔できるよう、ご協力ください。
皆さんのご協力もあって、新たに立派に立ち上がったベース、大活躍ですよ。ちょうど2階の一部屋で、インターネットカフェ的なスペースを始める準備をしてたところでした。釜石の方たちが集まって情報交換をしたり、励まし合ったり、被災地での様々な市民活動の拠点ともなるような場所になります。
そんなふうに、もうすでにあそこのベースはたくさんのいい仕事をしていますし、地元の多くの人たちがそこを拠点に、さまざまな地域活動をしている所となっています。このたびの地元の大きな復興会議にもNPO法人カリタス釜石が呼ばれたとかで、すごく喜んでました。絶大なる信頼と期待を寄せられてるっていうことです。
こういう活動も、
彼らは、ただ水に流されて、ただ消えてったわけじゃない。確かに釜石を生きた一人ひとりとして、今は天を生きているわけだし、それは連続してるんです。
今日の福音にあるように、みんなイエスのところに集まってる。イエスは、神から与えられた人を「一人も失わないで」復活させてくださる。
あれほどの死を体験したところは、その分、天と地が近いんです。釜石では、神さまのみ心のうちに、また新しい世界が始まっています。生きている人たちは、亡くなられた人たちに支えられ、導かれて働いているし、そうしてその人もやがて、神のもとに召されていく。その間、まだこの世を卒業するまでの間の「わずかな試練」(知恵3:5)を生きてるんですね、ぼくらは。活動もいろいろ大変かもしれないけれども、恐れちゃいけない。やっぱり、何と言ってもまだ卒業前にすぎないんだから、ぼくらは。やがて卒業するために、やること、精いっぱいやりましょうね、と。
釜石に行くと、もうホントに、毎日が「死者の日」みたいな、そういう死者との密接な現場があり、死者との交わりが満ちてますから、逆に、天に向かう私たちの真の使命とか、今なお生かされていることのホントの意味とかいうものが際立ってくる。・・・そういう場所のように感じます。
一人の、もう何年もボランティアを続けて、ベースで職員同然に働いてる方がいるんですけど、今回、私がまたベースの皆さんを励ますための大盤振る舞いをした時に、このベースに来たきっかけっていうのを話してくれました。
彼は、津波ではないんですけど、息子さんを亡くされたんですね。で、「それまで私は、仕事人間で、ともかく毎日、仕事、仕事だった。でも、息子が亡くなった時に初めて、自分は息子のことを全然知らないっていうことに
・・・そういうこと、ありますね。亡くなってから、いろんな人から話を聞いたりしているうちに、「え? お父さん、そういうところあったの?」とか、あるいは、「妻はこんなことしてたのか」とか、集まって来る大勢の友だちを見てね、「ああ、娘は、そんなにみんなに愛されてたのね」とか、ようやく分かってくるってこと、よくあります。
特にこの方の場合は、もう、仕事、仕事で頭がいっぱいだったので、息子のこと、何も知らなかった。それで、息子が亡くなられてから、ある意味、息子と共に生きる人生を始めたわけです。それはもう、まったく変わっちゃった。生き方を変えたんです。で、釜石に入って、まあ、罪滅ぼしっていうんでもないですけど、日々、ず〜っと、精いっぱいの奉仕をし続けている。
息子さんが先に「卒業」してね、お父さまを、本当に「生きる者」としてくれている。
・・・連続しているんですよ。
まさに、息子が生きている時はちゃんとした親子じゃなかったけれど、神さまの摂理によって、亡くなってから、本当に親子になれた。これからますます、親子以上の仲間になるでしょう。
・・・連続しているんですよ。
「死者の日」に、亡くなられた方を思い起こします。
奉献文(※12)の中で、皆さんが申し込まれた方々のお名前を全員、呼名いたします。今日は、その方たちと、生きていた時以上に一致します。
死者との一致の喜びを、永遠なる神さまにお捧げ致します。
【 参照 】
※1:「死者の日」
教会の典礼暦で、11月は「死者の月」、11月2日は「死者の日」と呼ばれ、帰天した、すべての人を記念する。
キリスト者の間では、2世紀ごろから死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、間もなく、これにミサが伴うようになった。このミサでは、死者の霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のもとで永遠の幸福に与れるよう祈願して捧げられる。
当初は、埋葬から3日目と、1年に1度の命日が、死者を記念する日とされていたが、後に7日目、30日目、40日目も加えられ、7世紀初めから、帰天したすべてのキリスト者を、1年の特定の日に記念するようになった。
998年に、クリュニー会の修道院長オディロが、「諸聖人の祭日」の翌日に当たる11月2日に、すべての死者の記念を行うように定めて「死者の日」とし、以来、これが、フランス、英国、ドイツなどに広まって、ローマには13〜14世紀頃伝わった。
11月が「死者の月」として定着した時期は定かではないが、「諸聖人の祭日」や「死者の日」にちなんでの祈りや行事などが、やがて伝統や習慣となっていったこと、また、11月は典礼暦の最後の月で、主を待ち望む終末的性格が強いことなどのために、死者のため特別に祈る月となっていったと考えられる。
(参考)
・ 「死者の月」(カトリック中央協議会)
・ 2002年『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会)
第2部 キリスト教の信仰宣言 第3章 聖霊を信じます
第5節 聖徒の交わり946
第5節 聖徒の交わり953 – 1 霊的善の分かち合い – 愛の分かち合い
第5節 聖徒の交わり958 – 2 天上の教会と地上の教会との交わり – 死者との交わり
・ 「死者の日」「死者ミサ」(2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店)
・ 「2014年11月」(ラウダーテ>教会カレンダー)
・ 「死者の日」(ウィキペディア) など
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※2:岩橋淳一神父さま(1940年3月21日生-2014年10月24日帰天 74歳)
- 東京教区司祭 故 ペトロ 岩橋淳一神父さま -
1940年3月21日、長崎県長崎市生まれ。1946年受洗。1968年司祭叙階。
1969年洗足教会、高円寺教会助任司祭、以後、関町、高輪、立川、関口、上野教会の主任司祭として、また、日本カトリック中央協議会事務局長として働かれ、ロサンゼルス教区・日系人共同体への司牧、さらに清泉女子大学、東京純心女子大学など、多くの学校で教鞭も取られた。
2010年の暮れ、転倒事故によって頸椎損傷。呼吸機能、運動機能を喪失された。地道で忍耐強い機能回復訓練により、自発呼吸や口からの接触は可能となり、さらに電動車いすの操作をと頑張っておられた。
2014年10月24日、急性肺炎のため帰天。享年74歳。
通夜は10月29日、葬儀ミサと告別式は10月30日に、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて執り行われた。
(参考)
・ 訃報(カトリック東京大司教区>東京教区からのお知らせ>2014年10月24日)
・ 教区司祭紹介第31回(東京教区ニュース2013年3月号)
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※3:「第1朗読」
この日、2014年11月2日(死者の日)の第1朗読箇所
「知恵の書」3章1〜6節、9節
〈小見出し:「神に従う人の受ける報い」から抜粋〉
===(聖書該当個所)===
神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。ところが彼らは平和のうちにいる。人間の目には懲らしめを受けたように見えても、不滅への大いなる希望が彼らにはある。わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの献げ物として、受け入れられた。
主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。 (知3:1~6、9/赤字引用者)
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※4:「井上洋治神父さま」
- 東京教区司祭 故 十字架のヨハネ 井上洋治神父さま -
1927年3月28日生-2014年3月8日帰天(86歳)
・ 訃報(カトリック東京大司教区>東京教区からのお知らせ>2014年3月12日)
・ 「究極の普遍主義」(2014/3/23説教)でも話され、【参照】の※5で、少しご紹介しています。
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※5:「チェレスティーノ神父さま」
- 東京教区司祭 故 チェレスティーノ・カヴァニャ神父さま -
1953年10月20日生(イタリア・ベルガモ生まれ)-2014年4月14日帰天(60歳)
・ 訃報(カトリック東京大司教区>東京教区からのお知らせ>2014年4月15日)
・ チェレスティーノ・カヴァニャ神父 葬儀ミサ説教(幸田和生補佐司教 2014年4月21日)
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※6:「佐久間神父さま」
- 東京教区司祭 故 ヨハネ・マリア・ヴィアンネ 佐久間
1928年2月25日生-2014年7月27日帰天(86歳)
・ 訃報(カトリック東京大司教区>東京教区からのお知らせ>2014年7月28日)
・ 「じっと天井を見つめながら」(2014/8/3説教)でも、晴佐久神父との関わりが話されています。
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※7:「宮内神父さま」
- 東京教区司祭 故 使徒ヨハネ 宮内
1920年2月24日生まれ-2014年7月30日帰天(94歳)
・ 訃報(カトリック東京大司教区>東京教区からのお知らせ>2014年7月31日)
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※8:「荒井神父さま」
- 東京教区司祭 故 ルカ 荒井 金蔵神父さま -
1918年1月8日生まれ-2014年8月23日帰天(96歳)
・ 訃報(カトリック東京大司教区>東京教区からのお知らせ>2014年8月23日
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※9:「寺西神父さま」
- 東京教区司祭 フランシスコ・ザビエル 寺西 英夫神父さま -
1929年4月5日生まれ、1958年3月21日司祭叙階。
カトリック多摩教会の初代主任司祭。(1972〜1985年)
(参考)
・ 教区司祭紹介 第14回(2011年5月号)
・ 「『想定外』の25年」(『多摩カトリックニューズ』2012年5月号主任司祭巻頭言)
>>> 寺西神父さまとの関わりが書かれています。
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※10:「平田忠雄神父さん」
- 東京教区司祭 故 ヨアキム 平田 忠雄神父さま -
1974年6月3日帰天(64歳)
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※11:「小林五郎神父さん」
- 東京教区司祭 故 フランシスコ・ザビエル 小林五郎神父さま -
1983年2月8日帰天
・ 「親父代わり」(2012/10/7説教)でも、晴佐久神父との関わりが話されています。
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※12:「奉献文」
「感謝の祈り」を意味するラテン語prex eucharisticaに由来する。ミサでパンとぶどう酒を聖別し、神に感謝と賛美をささげる際に司式者が唱える祈りであり、ミサ全体の頂点かつ中心となる祈り。<参照:『キリスト教辞典』2008、岩波書店>
晴佐久神父は、ミサの中で、この奉献文中、すべての教役者と全教会のための祈りの後、会衆から事前に申し込みのあった、亡くなった方々の名前を一人ひとり呼名した。
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