あなたはすでに救われている

2012年9月16日年間第24主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・5-9a)
・第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ2・14-18)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ8・27-35)

【晴佐久神父様 説教】

 ペトロのようにね、イエスさまを前にして「あなたが救い主です!」と、信仰を宣言できる。それ、私たちキリスト者の特権というか喜びというか。今日もちゃんと、イエスさまはここにおられるんですから、心を開いて「主よ、あなたが私の救い主です」と信仰告白いたしましょう。
 もうすでに、イエスは私たちを救ってくださっていますから、私たちは、これから救ってくれってお願いするんじゃなくって、「主よ、あなたが救い主です」「私を救ってくれた救い主です」「あなたに感謝いたします」「あなたを信じます」「あなたにすべて委ねます」と、そう申し上げます。それは私たち、ここに集まっている者の大きな喜びであり、もうすでに主イエスによって救われている「すべての」人に伝えるべき福音です。
 私は最近、「すべての人が救われる」というテーマで、あっちでもこっちでもお話をし、あっちにもこっちにもそれを書いて、そして、多くの共感、感謝をいただいております。今日もここで強調しましょう。
 「神さまは、尽きせぬ親の愛をもって、すべての神の子を救ってくださる」
 私たちは、ただただそれに感謝し、信頼し、「私も救われている」という喜びに満たされます。

 今日、シニアの集いということで、大勢のご高齢の方々が来られていますけれども、皆さんもまた、「救われている」という信仰を新たにいたしましょう。これからさらに立派な努力を重ねて救われようっていうことではなくて。
 振り返ってみれば、生まれる前から神は私を愛していた。人生のすべてにおいて、神さまは導いてくださっていた。あのつらかったことも、あの嬉しかったことも、ぜんぶ神の救いの御手のうちにあった。私は神の救いのうちに生きてきた。そして、主イエスに出会って、私はそのように救われているということに、目覚めることさえできた。それは何という幸運か。神さまは私を選んで、本物の信仰の喜びをちゃんと与えて下さった。今日は特別にそのことを感謝したい。・・・シニアの方々にはそう祈っていただきたいし、私たちもそのような先輩たちに倣えと、まぶしい思いで見つめます。
 「すでに救われている」という信仰の喜びを知っている先輩たち。そういう意味で模範的なシニアの方々でいていただきたいですね。自分がもうすでに救われているってことに、なかなか気づけないでいる人は多いですから。実際には。

 教会に電話してくる方に、そういう方が多いです。今週も何度も電話してきた方、「私は罪深いから、絶対救われない」って、すごく強調する。何度も何度もそうおっしゃる。で、私はいつものように、「いいや。あなたはもう救われている。神の愛はあなたに及んでいるし、主イエスは十字架を背負ってすべての人の罪を赦してくださったし、あなたはあと、それに気づけばいいんだ。救いに目覚めて、『私はもう救われてたんだ』っていう喜びを知ってほしい」と、何度も言うんだけれど、自分の罪深さをとっても深く重く考えているので、なかなかそこから解放されない。「私は救われてない、こんな私は救われない」って、言い張る。そうするとだんだん、なんていうか、ケンカになってくるんですよ、(笑)電話口で。
「い〜や、あなたは救われてますっ!」
「いえ、私は救われないっ!」
「あなた、救われたくないんですか?」
「いや、救われたい」
「だったら信じなさい。『もう救われてる』って言ってるじゃないですか」
「でも、こんな罪深い私は救われないんです」
 そのやりとりは、ちょっと、よく考えてみたら滑稽でもある。しまいには私も、逆ギレっていうのか、ちょっとけんか腰で言い放つ。
「いいから、私を信じなさい。私に働いている力を疑うんですか? 私はイエスさまに成り代わって、あなたはもう赦されている、あなたのその若い頃の罪は、すでにぜんぶ神さまの愛のうちに清められている。あなたがそれを感謝して受け止めるときに、この世にあってすでに救われているという恵みに心が満たされて、ホントに嬉しくなるから、頼むから私を信じてほしい」
 ・・・まあ、そういう言い争いのような感じ。
 それでも何度もお話をしているうちに最後は受け入れてくれて。彼女は自分が罪を犯したっていう若い時から、ずーっと長いこと教会から離れてるんですけど、ようやく「今度ミサに行きます」って言ってくれました。今日、来てるんでしょうか。来られてたらですね、あなたに申しあげたい。
「あなたはもう、生まれる前から救われてたし、今も、その救いの中にあるんだし、これから究極の救いに向かってるんだから、大いなる救いの流れの中にいるってことを信じてほしい」
 そう申し上げたい。
 なにしろ、こっちから頼まなくても、神さまの方から救いを下さってるんだから、あとは「ありがとう」って言って受け止めるだけなんですよ。それをちゃんともらってくださいよ。ただなんだから。

 そういえば、「人は道端の無料の物を持って帰るか」っていうのを、テレビでこの前やってたんですけど、東京のおばちゃんと大阪のオバチャンのどっちが持って帰るかを、比較実験する番組。(笑)これがですね、タダっていっても、生きたタコとかを道端の水槽に入れて、「どうぞご自由にお持ち帰りください」って書くんです。生きたタコが、水槽の中でにょろにょろ10匹、動いてんですよ。(笑)それを隠しカメラで撮ってるんですけど、道行く人はびっくりして見るじゃないですか。
 東京のおばちゃんは、気味悪そうにじ〜っと見てですねえ、持って帰らないんです。ところが大阪のオバチャン、むんずとつかんで、(笑)レジ袋に無理やり入れて。中には自転車のかごにボンと入れて(笑)持って帰った人もいましたよ。
 私、思うにね、大阪のオバチャンの方が救われるんじゃないかって。(笑)だって神さまがね、タダなんてもんじゃない、ホントに、「どうかわたしの救いを分かってくれ」「わたしはあなたを救ってるっていうこと、信じて受け入れてくれ」「わたしの愛を、何の見返りもいらないからもらってくれ」って言ってるんだから、素直にもらったらいいじゃないですか。・・・親ってそうでしょ? 子どもに、ただただ与える。それをもらってこその子どもでしょう。それを受け入れないとしたら、これほどもったいないことはない。タコの1匹や2匹ならもらわなくったってかまわないけれど、永遠の命の喜び、神に愛されている救いの感動、それはやっぱり受け止めてほしいし、「さあ、どうぞ」って神さまが差し出しているものを、素直にむんずと「ありがとう!」って、拒否しないで、ちゃんと受け止めてほしいなと。

 私、卒論、「救済論」だったんですけど、神学校を卒業する時に「救いとは大いなる潮流のようなものだ」っていうのを書きました。「すべての人が、初めっから大いなる潮流のような救いの流れの中に生まれてくるし、その救いの流れの中を生きていくし、その救いの流れは、ちゃんと神の国にまで届くのである。自分がそのような大いなる救いの流れの中に生きていることに目覚めたとき、私は真の私になれるし、それこそがキリストの道であり救いである」。そんな内容の論文です。つまり、「もう救われてるんだ」っていうことを知ったときに、私たちは救われる。そういうこと。最近お話ししている、「天の救いに目覚めることが地の救い」っていうあれですが、それが、その2年前に私が絶望から救われたときの体験だったので、それをなんとか言葉にしようとして、卒論に書いたんです。
 その絶望から救われた時は、恩寵(おんちょう)の光に包まれて「ああ救われた」と思ったんだけど、その時の実感は「あっ、救いがやって来た!」じゃないんですよ。「ああ、初めっから救われてたのに気づいていなかった!」なんです。最初っから救いのうちにあったのに、それに気づかずに自分で自分を閉ざして絶望していた。・・・今もそういう方、いないですか? だいじょうぶですか?
 私の実感では、まっ黒い風船のような、光を通さないものに閉じ込められていて、で、それに閉じ込められているとは知らずに、ただただ真っ暗なんだって思いこんで苦しんでた。でも最後の力を振り絞って「助けて!」って叫んだら、パンッと割れてか、割ってもらってか、「ああ、なんだ私、最初っから光の中にいたんだ」って気づいた。つまり、自分で黒〜い、なんていうんでしょう、闇というか罪というか、そんな覆いをつくり出して、その中で絶望していたにすぎない。・・・そういう体験だったので、「救い」っていうものは、もう生まれる前からすべての人にちゃんと用意されていて、私たちはその救いの大いなる流れに乗っていて、でも、流れの中にいると、流れ自体には気づけないので、イエスさまによって気づかせてもらった。「これなら分かるだろう」と、十字架と復活でちゃんと目覚めさせてもらった。そうして、すべての人が救いのうちにあるんだから、それに気づかないでいる人がいたら、ぜひ教えてあげましょう。それが私たちの使命ですよ。
 救われない、救われないって心閉ざしていると、それこそホントに救われない。この世においては。でも「天の救い」っていうのは、誰にもすでに実現しているんだから、そこに目覚めてくださいよ、大勢の人に教えてあげてくださいよってことです。

 最近、韓国の教会で、カルト教団が非常に流行しているという記事が、今週のカトリック新聞に載っておりました。そのカルト教団はですね、既存のキリスト教会に入ってきて、あらぬ噂を流したりトラブルを起こしたりして教会を分裂させ、牧師を追い出したりするっていう方法をとるんですって。ひとつはね。
 もうひとつの方法は、すごくいい信者としてその教会に入り込んできて、信徒会長まで上り詰めて、信者たちを引き抜く。現に、婦人会長が400人引き抜いて連れて出ていったって話が、韓国で実際にあるんですって。ウチの信徒会長は、非常に古くからの信者ですから安心ですので、(笑)どうぞご心配なく。(笑)
 で、日本でその対策をしている牧師先生が『カトリック新聞』に、そのカルト教団が最近日本にもやって来たんで気をつけてほしいと、対処法を書いてました。それによると、カルト教団に狙われやすい信者がいるって、4つのタイプが書いてありました。
 ひとつはですね、教会や牧師に不満を持っている信者。(笑)だいじょうぶですか? 皆さん。(笑)神父に何かご不満がありましたら、どうぞいつでもお聞きいたします。2番目が説教中に寝ている信者。(笑)・・・いや、ホントに『カトリック新聞』にそう書いてあったんです。これもだいじょうぶですか? 見たところ今日はだいじょうぶなようですけども。(笑)で、3番目が献金に不満を持っている信者。お金のことね。で、4番目が、問題や悩みを抱えている人。この4つのタイプが狙われやすいとか。
 これ読んで思うに、この4タイプに共通しているのは、文句がある、不満がある、不安があるってこと。「こんな牧師、気にいらん」とか、「こんな教会ろくでもない教会だ」とか、もうともかく、文句タラタラなんですよ。「金ばっかり取りやがって」とか、「つまんない説教しやがって」とか、文句タラタラなんです。「俺の悩み、俺の不安をちっとも解消してくれないじゃないか」。・・・この、文句タラタラが狙われやすい。そりゃそうですよね。「ご不満がおありでしたら、こっちに救いがありますよ、さあどうぞこちらへ」って言われたら、「じゃあ、ひとつ行ってみようかな」ってなるからね。でも行ったら最後「こうしないと救われないよ」と脅されて抜け出せなくなる。
 で、この牧師先生が言ってたのは、これに対抗する最も重要な方法は、「私はすでに救われているということを確信することです」。そう書いてありましたよ。
 そりゃそうだ。自分はすでに救われているって確信してたら、別によそに行かなくてもいいわけですよね。「この10万円の壺買ったら幸せになりますよ」って言われたら、「いえ、私もう十分幸せだからいいです」と言えばいい。「この100万円のハンコ買わないと滅びますよ」って言われても、「いや、私もう救われてるんで結構です」と言えるじゃないですか。
 「私は救われてない」と思うから、もっとこうしなきゃならんとか、ああしちゃいかんとか、そうすりゃ救われるって言われたときに、フラフラするんです。皆さんはもう救われてるんだから、安心してくださいね。その意味では、どんなカルトでも、多摩教会ならどんと来いですよ、ねっ。

 多摩教会の人たちがみんな救われた顔、安心した顔してるのを見て、この教会に来たくなったっていう方、今一番後ろに座ってますねえ。そう、あなたのことです。(笑)昨日「洗礼受けたい」って言った、あなたのことです。
 私うれしかった。ホントにうれしかったですよ。ようやく「洗礼受けたい」って言ってくれたって。
 半年前、最初に来られた時は混乱してましたよね、いろんなところ回ってきたけれど、救いを感じられなかったって言ってました。あなたは聖書のこと、結構ご存じなんですよね。二コリントの3章6節の話、してくれました。「文字は殺し、霊は生かす」っていうところ。自分はホントにそれを体験してきたって。いろんな集会、いろんな教会行ったけど、「文字」のことばっかりで、ちっとも「霊」が感じられなかった、と。そんなふうに「私はホントに救われるのか」っていう恐れを抱えていたとき、ちょうど聖蹟桜ヶ丘駅でひどく混乱して、「そうだ、この近くのカトリック教会にも行ってみよう」って思って多摩教会に来た。そしたら晴佐久神父が出てきてですねえ、あなたが興奮して一生懸命話しているのを、ちゃんと聞きもしないで、「まあまあ、だ〜いじょうぶです♪ だって、あなたはもう救われてますから」って。そう言われて、ふ〜っと力が抜けるような思いになり、うれしくなり、それから半年ここに通って福音を聞き続け、昨日ようやく「お話があります」って言ってきた。で、「洗礼かな?」って、思いましたけど、「洗礼受けたい」って、そう言ってくださった。
 この教会には「霊」がある、「文字は殺し、霊は生かす」、その「霊」があるってあなたは言ってくれた。この教会の信者はみんな安心した顔してる。・・・そう言ってくれた。私、うれしかったですよ。安心した顔なのか、ただボ〜ッとしてるのか(笑)分かりませんが。でもまあ、こんなふうに幸せな、福音のもとに集まってみんながほっとしているその顔、その姿が、なによりの証しになるんですよね。私、すごくうれしかったし、もうすぐにでも洗礼授けたいけど、まあ、来年の復活祭までお待ちくださいっていうことです。
 あなたはもう、最初っから救われていたし、その救いに気づかせるために、ちゃんとイエスさまがあなたに出会ってくれて、この教会を通して「霊」の働きで宣言してくれたんです。「あなたは救われている。その救いから、もう離れるな!」と。
 これ、多摩市のみんなに教えてあげてくださいよ。いっぱい教会求めて来てますから。

 そうそう、うちの同居人の若い彼は朝早起きでね。いつも朝早く教会の前庭に出るんだけれど、最近おじいちゃんがね、教会前のオアシス広場のベンチに座ってるんですって。脳梗塞かなんからしく、左半身だか右半身だかが不自由な方。リハビリのために遠くからずっと川沿いを歩いてきて、ここのベンチに座ってる。で、うちの若いのが出て行くと、「ああ、すみません。ここ、座っていいですか?」みたいになるわけです。でも君は偉いよ。そこで「どうぞどうぞ、ここはみんなのベンチですから。自由に座っててください。いつでも来てください」って、ちゃんと言ってくれたんだよね。おじいちゃんも「ありがとう、歩いてきて、ここのベンチが見えるとホッとする」って言ってくれたとか。
 それは褒めてあげるけれども・・・。ぜひですねえ、その時に「あなたはもう救われている!」と(笑)言ってほしかったなあ。事実、体のこと、家族のこと、不安を抱えてるかもしれない。「いろいろ大変ですねえ。何かお困りなことないですか? でも、神さまは、あなたをもう救ってくれてますよ。安心してください。そういうこと、この教会でお話してますから、ぜひ聞きに来てください」。・・・そう誘って、今日このミサにその本人が座っていたら、もう100点あげたんだけどね。
 君もね、まだまだ駆け出しだから、「ベンチに自由に座っていいですよ」までは言えたけど、「聖堂の中にもいいベンチ、いっぱいありますよ」って、(笑)な〜ぜ言えない? そこですよ。多摩市に何万人いるか分からないけど、み〜んな自分が救われてること知らずに苦しんでるんだから。
 イエスさまは、もう十字架の上で、すべての人を救ったんです。ヨハネの12章に書いてあるでしょう? 「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」って。もうイエスは上げられたんだから、もうすべての人を引き寄せているんです。それを知らないでいる人に、「あなたはもう、イエスによって救われてるんです」って教えてあげましょう。
 そう知った人たちが、次々とこの聖堂で感謝の祭儀に(あずか)り、洗礼の恵みに満たされて、永遠の命を生きている喜びで感謝してくれるならば・・・。

 今日、シニアの方々に、これから病者の塗油の秘跡をお授けいたします。老いは病ではありませんが、やはり、不安とか、弱ってくることとか、さまざまな痛みとか、老いならではの試練を抱えておられます。この病者の塗油の秘跡で、信仰を新たにし、「私はすでに救われている」という喜びを、しっかりと受けていただきたい。
 病者の塗油を受ける方は、どうぞ前にお進みください。

2012年9月16日 (日) 録音/9月19日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英