神の国ファイターズ

【カトリック本所教会】

2016年10月30日 年間第31主日
・ 第1朗読:知恵の書(知恵11・22-12・2)
・ 第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ1・11~2・2)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ19・1-10)

【晴佐久神父様 説教】

 本所教会の皆さんに、改めてごあいさついたします。
 下町宣教協力体(※1)の晴佐久神父です。ふだん、浅草教会と上野教会におりますけれども、宣教協力体の理念でいうならば、この本所教会(※2)も併せて三つが一つの教会ってことですから、皆さんにとって、晴佐久神父も「うちの神父さん」ですよ。私にとっては、ここは「うちの教会」ですし、「うちの信者さん」です。着任以来、なかなか会いに来れませんでしたけれども、今日は「よろしくお願いします」っていう気持ちで参りました。
 また、私にとっては、この聖堂では、初めて捧げるミサでもあるので、大きな喜びがあります。司祭にとって、その聖堂で初めてミサを捧げるっていうのは、まあ、ちょっと皆さんの想像を超えた喜び、しみじみとした思いってのがあるんですよ。・・・正直に、とてもうれしいです。

 ただ、司式は初めてでも、この聖堂でミサに(あずか)ったのは、初めてじゃない。50年以上前に、ここでミサに与っております。ここは二十六聖人教会(※3)ですから、二十六聖人の祝日に、お祝いのミサをしますでしょ。あのころ、その後で、ホールでパーティーがあって、子どもたちのためのゲームとかあって、にぎやかにお祝いしてたんですよ。 ・・・今もしてるのかな?
 50年前、私、小学校1、2年生でしたかねえ、その頃は所属は本郷教会(※4)だったんですけど、何か縁があったんでしょうね、二十六聖人のお祝い日には、両親は子どもたち連れて本所教会に来て、ミサに与ったわけです。そして、その後に教会の幼稚園のホールでお祝いがあって、そこでビンゴゲームがあって、なんと私、ビンゴを当てたんです!(笑) もう、忘れられない。
 私はちょっとした記憶障害みたいなのがあって、小学生時代の思い出もホントに少ないんですけれど、あのビンゴは忘れられない。・・・ろうそくが当たったんです、こ~んなに太いろうそくが。宝物みたいにして、その後、わが家の家庭祭壇にずっと置いてあった。え~、50年ぶりですけれども、改めて、お礼申し上げます。(笑) 感謝、感謝です。ろうそくというよりも、そんな思い出を頂いたことに、ホントに感謝です。
 小さいころの思い出、それは、かけがえがない。
 今は亡き両親と、初めての教会に一緒に出かけていって、ミサがあり、お祝いがあり、ビンゴをしたら当たって、そんなこと生まれて初めてだったし、自分はなにか特別な者であるかのような気持ちになった。忘れられない。当たった人は、ホールのステージに上げられて、「おめでとう!」とかって言われて、みんなが拍手してくれて、なんか恥ずかしいような、得意なような、「自分は持ってる男だ!」みたいな、(笑) 「選ばれてるぞ!」みたいな、そんな気持ちになったの、よく覚えている。私もそんな体験を繰り返しながら、少しづつ自信をつけてきたんでしょうね。感謝の気持ちです。懐かしき子ども時代の、「原点」ともいうべき思い出です。
 すごく大切なこと。・・・自分の原点、自分が自分である根拠。それは、自分ではつくりだせない。与えられたものです。皆さんにもあるはずですよ。大人になった今は、なんだか迷ったり悩んだり、バタバタと落ち着かずに暮らしてますけれども、だれにでも、本来の「原点」っていうのがあるんですよ。
 ・・・それは、神からくるもの。私は、その原点を、両親の信仰によって知ることができました。毎朝、本郷教会に、ミサに通ったあのころ、その原点を日々、体験していたんでしょう。神さまは確かに、私を望んで生み、愛して育て、ご自分の愛という原点に、ちゃんと置いてくれた。人は、なかなか、それに気づいていないけれども、実は、その原点は、すべての人に与えられています。
 私は教会の恵みの中で、「ここが私のあるべきところだ。本来的なところだ。私は大いなる力に生かされているから、何の問題もない」という、その原点を頂いた。それは、ここに集まっている皆さんも、みんな、持っています。神さまに招かれて集まっている、この集いなんか、私たちのその「原点」の、目にみえるしるしなんですよ。

 第1朗読は、旧約聖書の中で、私の一番好きな所のひとつだって言っていいと思います、今日の知恵の書(※5)。・・・カッコいいんですよね、言い方が。
 「神の前では、全宇宙は(はかり)をわずかに傾ける(ちり)にすぎない」(cf.知恵11:22)
 ・・・おっしゃるとおりです。神はどれほど偉大か。
 ところが、その偉大なる神がですよ、「お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、そもそも造られなかったはずだ」(cf.知恵11:24)と。
 ・・・これが、私たちの原点です。すごくないですか? この永遠なる、偉大なる神が、この私を、天地創造の初めから選んで望んで、ちゃんと生んで、今ここに生かしている。「神が」望んだ。神が望まないなら、いるわけがない。神が憎んでるんなら、造るはずがない。だから、「この私は、永遠なる存在だ」という、「神の愛の中に、今、確かにいるんだ」という・・・。

 私の中学時代に同じ教会だった友人が、今、たまたま目の前に座っております。あなたはここの教会だったんですね。久しぶりにお会いしました。ミサの前に、少しお話ししましたけど、最近、ご自身の病気のことで、心配しているようです。しかし、「何も恐れるな」と、私はあなたに言いたい。
 あなたの原点は、不滅だからです。
 「主よ・・・あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある」(cf.知恵12:1)
 その病気、恐れるに足りません。先ほど、症状を聞いて、「ああ、不安だろうなあ・・・」と、「病名を知ったときはショックだったろうなあ・・・」と想像しましたけれども、現実がどうであれ、あなたの原点は、不滅です。神さまが、不滅の霊を注いでくださった。それが、すべての者の中に、つまり、あなたの中にある。これを、揺るがぬ原点として、それを私たちは忘れちゃならない。
 創世記の最初にも、神さまが、その「不滅の霊」を鼻に吹き込んだってありますよ(cf.創2:7)(※6)、決して失われることのない、永遠の恵みを、ふ~っと吹き込んだ。それで、私たちは生きるものになった。あなたも、神の息を吹き込まれた存在なんです。医者が何て言おうが、科学がどう説明しようが、私たちは不滅です。神に不滅の霊を吹き込まれた者だという、その原点から離れちゃいけないんですよ。
 「皆さんのふるさとはどこですか?」と、そう言われて、「私は文京区です」とか言うとしたら、そんなものは大したもんじゃない。・・・私たちは、「真のふるさと」を持っております(※7)。神に息を吹き込まれて、不滅の者となったという原点です。

 皆さんは、プロ野球、どこのファンですか? 私は両親が札幌なので、今回の日本シリーズ、広島対日ハムでは、とりあえず、「日本ハムファイターズ」。まあ、なんとなく親近感があって、応援してましたので、昨日の優勝で、大変おいしくワインなど飲ませていただきました(※8)。(笑) ねえ、8回ツーアウトからの、あの猛攻撃。すごかったね。一挙6点もぎ取って。
 ところで、ふとこうして見ると、あそこに、カープファンがおられますね。広島生まれ、育ちのシスターが、そこに座っておられます。私の、古くからの友人である親しいシスターですが、彼女は、「私はカープファンだ!」と公言してはばからない。え~、このたびは・・・ご愁傷さまです。(笑)
 しかしですね、なんていうんでしょう、この、地元のひいきをするっていうのは、どうなんでしょうね。当然と言えばそうですけどね。私だって、子どものころはジャイアンツファン。文京区でしたからね、後楽園があるでしょ。で、引っ越して東村山に行ったら西武球場があって、青春時代は西武ファン。・・・まあ、そんなもんです。それはある意味、自然な感じですね。自分のふるさとの球団を応援する。
 だけど、あそこまで広島に肩入れし、あそこまで札幌に肩入れするっていうのは、ちょっと不思議な気もする。どうしてそこまで、人はふるさとにこだわるのか、と。きっと、「あそこに、自分の原点がある。それはステキなものだ。よいものだ。だから自分は、意味ある者なんだ」って、そういうことを感じたい、信じたいんでしょうね。
 「自分は、そこの生まれだ。そこに愛されて生きてきたんだ。そこを大切に思ってるんだ」、その思い自体は、悪いことじゃない。悪いことじゃないんだけれども、行き過ぎると、「中国は嫌いだ」「日本が最高!」みたいな変な話になってくる。まあ、これがプロ野球ならね、ご当地同士が争っても、ご愛敬で楽しいですけれど、そういう思いが行き過ぎると、どうなんだろう。
 たぶん、みんな、この不安定な世の中、自信を持てない人生の中で、ふるさとなら信じられると思い込んで、必死なんじゃないか。人は不安だから、自分を信じられないから、・・・つまりは、真のふるさと、神から与えられた不滅の霊という原点を知らないから、たまさか生まれた場所なんかに、こだわっちゃうんじゃないですか?
 「広島東洋カープの熱烈なファンのシスター」なんていうのはね、もしかして、「自分の原点は、神の国にあり」と、分かってないんじゃないか。(笑)
 人は不安になると、何かにこだわり、すがりつくんですよ。「そこがすべてだ」っていうふうに思いたがるんです。そうでないと、「何でもない自分」になっちゃうんじゃないかって、恐れちゃうんですよね。そういう意味では、ぼくらは本来、神の国の住民であって、私の原点は、神の恵みのうちにある、神から息を吹き込まれた不滅の原点にあるっていう、そこを知っていたら、すごく自由。みんなを受け入れられる。どんなチームもたたえられる。
 昨日、ファイターズが優勝したら、カープファンが礼儀正しく、ちゃんと拍手してましたよね。ああいうの、いいですね、やっぱりね。私たちも、本当の自分の原点というものを知っていたら、永遠なる安心があって、どんな宗教も民族もたたえることができる、何にもとらわれない自由を生きることができる。神の国ファンの喜びは、そこにあるんじゃないですかねえ。

 ザアカイさんのふるさと、どこだったんでしょうね(※9)。たぶん、エリコで徴税人をしてるんだから、エリコなんじゃないですか?
 私、エリコに行ったことがありますよ、巡礼旅行でね。観光バスでエリコの町を通り過ぎたんですけどね、ガイドさんがバスの中で、エリコの町の歴史を話してたんですけど、急に、「あっ、左手、ご覧ください。あれがザアカイの登った木です」って。(笑) 「?・・・ほんまかいな;」と思って、私、思わず写真撮っちゃいましたけど。(笑) まあ、そういう伝承があるんでしょうけど、二千年たってますからねえ。・・・まあ、第何代目かのいちじく桑なのかもしれませんけど。
 ・・・余談ですけど、そこから今度、エルサレムの丘に向かう坂を上っていってら、また、ガイドさんが、「あっ、右手の建物、ご覧ください。善きサマリア人(cf.ルカ10:25-37)の宿(※10)です」って言うんです。(笑) 「いや~、そうかあ、ここかぁ・・・」ってまた写真撮って、通り過ぎた後で気づいた。「あれ? あの話、たとえ話だよね」って。(笑)
 でもまあ、確かに、現地ならではのリアリティーってのがあって、私、エリコの町を眺めながら、ザアカイさんがどんな暮らしをしていたか、何を思っていたか、リアルに感じるものはありましたよ。
 「ああ、ザアカイさん、ここで生まれ育ったんだろうな。ここで徴税人になり、ここで嫌われ、ここで悩んでたんだろうな。この町にイエスさまがやって来て、思わず、なんとか見ようと思ったんだな。不安な思いを抱え、満たされない気持ちの中、みんなから嫌われるような仕事をしながらも、生きていかなければならない現実があり、そんな中で、何か真実なるものを求めていたんだな・・・」
 そんなザアカイが木に登ってたら、なんとイエスが、「あなたのところに泊まりたい」って言い出した(cf.ルカ19:5)。ザアカイにとっては、もう、ゆめゆめ、まったく、想像もしてなかったこと。・・・どれほど喜んだか。もう、「俺、持ってるぜ」じゃないですけど、「自分は選ばれた」「特別な存在だ」「このイエスから、『あなたのところに泊まりたい』と言われた」。・・・その日のこと、その夜のことは、ザアカイ、一生忘れなかったはず。
 そもそも、ザアカイの中にだって不滅の霊があり、そもそも、ザアカイだって神の国の住人なんです。「この人もアブラハムの子なのだから」ってイエスさま、言ってますでしょう?(ルカ19:9)、それは、「この人はそもそも救われている。本当に神の子として愛されている、この人も特別な存在なんだ」って言ってるんです。・・・でも、本人は、そのことに気がついていない。周りの人も分かっていない。そこに、イエスさまがやって来て、ザアカイのもとに泊まり、「あなたは神の子だ。救われてるんだ。ここに、天国が始まってるんだ」って、そう宣言をする。
 ・・・ザアカイは生まれ変わります。
 その夜が、ザアカイの原点、真のふるさとになった。原点に目覚めた、かけがえのない瞬間。
 自分が本当にいるべき原点を見出したザアカイは、「主が来てくださった! 神の愛を証ししてくださった。もう、ここから私はぶれない。・・・財産、半分でもほどこします」みたいな思いになります。
 なんか、そういう気持ちって、大切ですよね。私たちの本来あるべき原点に目覚めるってどれほど大切かってことですよね。

 皆さんの原点、もうちゃんとあります。
 ミサのたびに、私たちは真のふるさとを思い起こし、神さまの愛の中を安心して生きる力をいただきます。「教会」っていうのは、神の国のしるしですからね。
 ちょうど、札幌のシンボルがファイターズであり、広島のシンボルがカープであるように、神の国のシンボルは、教会なんです。ぼくらは、名付けるなら、「神の国カープ」?・・・いや、「神の国ファイターズ」か。まさに「神の国ファイターズ」みたいな仲間なんです。単に応援をするだけじゃなく、そのチームの選手として、この世にあって戦う。・・・ワクワクすることじゃないですか?
 「神の国ファイターズ」、必ず優勝しますよ。それはもう、神さまが働いておられるんだから。そういうチームであるっていうことに、ワクワクしましょうよ。どんなことでもできます。「教会の仲間たちと共に生きる」っていう守りの話でもいいし、「ここから宣教に出てくぞ!」っていう攻めの話でもいいし。・・・「二刀流」ってやつですよね。
 ファイターズにいますでしょ? 昨日もニコニコしてましたよ、大谷君。彼、すごいですよ、第何戦だったか、決勝点を打ったときに、ヒーローインタビューで、「昨日はピッチングでふがいなかったから、今日はバッティングで取り返そうと思いました」って。そんなこと言える人って、彼以外にいないわけですけれども、それでいうなら、われわれ、大谷以上になれますよ。
 ・・・信仰の力で、何でもできます。守りも、攻めも。
 不滅の霊を与えられた者として、神さまの御国のために、「何でも」できる。

 原点がしっかりあるならば、私たちは、永遠です。やがて本当に、・・・本当に、原点であるふるさとに生まれ出ていく、その時まで、われわれは、この悪しき世の中で、希望を持って戦います。そういう仲間であることを、誇らしく思いましょう。
 特に今、病気で心配している人、さまざまな問題を抱えて悩んでいる人に申し上げたい。
 今日、イエスさまが言ってくださいました。
 「今日、ここに、救いが訪れた」(cf.ルカ19:9)
 ・・・そういう「今日」を日々、原点として、生きてまいりましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「下町宣教協力体」
 カトリック東京大司教区では、教区内のすべてのカトリック教会が「福音的使命を生きる」ことをより活性化するため、22の宣教協力体に分かれ、典礼や行事などを通し、協力して活動を行っている。「下町宣教協力体」は、カトリック浅草教会、カトリック上野教会、カトリック本所教会の三教会。
【住所】
・ カトリック浅草教会: 〒111-0053 東京都台東区浅草橋5-20-5 Google map
・ カトリック上野教会: 〒110-0004 東京都台東区下谷1-5-9 Google map
・ カトリック本所教会: 〒130-0011 東京都墨田区石原4-37-2 Google map)(周辺マップ
(参考)
・ 「宣教協力体」(カトリック東京大司教区
・ 「福音的使命を生きる‐新しい一歩のための提案‐東京教区 再編成プロジェクトチーム」(同上
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※2:「本所教会」
カトリック本所教会 (以下の情報は、2016年10月現在)
=今年で創立136年を迎える(創設:1879年/明治12年)=
住所: 〒130-0011 東京都墨田区石原4-37-2 Google map)(周辺マップ
教会堂名: 日本二十六聖人殉教者
主任司祭: ステファノ・ボナベントゥラ 加藤英雄神父
主日ミサ: 日曜 9:30
週日のミサや、講座のご案内は、>本所教会HP:「主な典礼・教会スケジュール」へ。
電話: 03-3623-6753
交通アクセス(詳細: 本所教会HP:「交通・地図」
 ◎ 都営地下鉄・浅草線 「本所吾妻橋(ほんじょあづまばし)」下車
 ◎ 東京メトロ・半蔵門線 「錦糸町(きんしちょう)」「押上(おしあげ)」下車 ほか
ホームページ: カトリック本所教会(Church of the 26 Japanese Martyrs
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※3:「二十六聖人教会」
 カトリック本所教会は、「日本二十六聖人殉教者」に捧げられているため、その教会堂名も「日本二十六聖人殉教者」という。そこで、晴佐久神父は、「26聖人教会」と呼んだ。
 本所教会の創設は1879年(明治12年)6月。当時、浅草教会の助任司祭となったフォリー神父が、本所・浅草地区に増え続ける信徒・求道者のために教会堂を建てようと日本家屋を買い、その家屋を利用して本所教会開設あたった(本所教会現在地)。
 1880年(明治13年)4月11日、この小聖堂が、ミドン副司教によって祝別され、「日本二十六聖人殉教者」に捧げられた。
 その後の本所教会の歴史は波乱万丈で、興味深いものです。宜しければ、以下、(参考)に挙げるサイトをご覧ください。
 また、説教中に出てくる「二十六聖人のお祝い日(祝日)」は、2月5日。
(参考)
・ 「本所教会の略歴」(カトリック本所教会
・ 「カトリック本所教会(東京教区)」(教会をたずねてラウダーテ
・ 「カトリック本所教会」(ウィキペディア)
・ 「日本26聖人殉教者」(カトリック中央協議会) など
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※4:「本郷教会」
カトリック本郷教会 (以下の情報は、2016年10月現在)
住所: 〒113-0021 東京都文京区本駒込5-4-3 Google map
教会堂名: 聖ペトロ
主任司祭: ビアンネ 浦野雄二神父
主日ミサ: 日曜 9:30
講座のご案内は、>本郷教会HP:「講座のご案内」へ。
電話: 03-3941-5916
交通アクセス(詳細: 本郷教会HP:「交通・アクセス」
 ◎ JR山手線 「駒込」(南口)下車 徒歩7分
 ◎ 東京メトロ南北線駒込駅1出口 徒歩7分 ほか
ホームページ: カトリック本郷教会(Hongo Catholic Church
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※5:「今日の知恵の書」
この日、2016年10月30日(年間第31主日)に読まれた第1朗読の箇所。
 旧約聖書続編:「知恵の書」11章22節~12章2節
  〈小見出し:「神の力は忍耐によって示される」11章17~22節、「神の愛は忍耐によって示される」11章23~26節から抜粋〉
************
【第1朗読】(知恵11:22~12:2)
〔主よ、〕御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
――
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。
――
あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
悪を捨ててあなたを信じるようになるために。 (知恵11:22~12:2/赤字引用者)

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※6:「創世記の最初にも、神さまが、その『不滅の霊』を鼻に吹き込んだってありますよ」
===(聖書参考箇所)===
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」 (創世記2章7節/赤字引用者)
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※7:「私たちは、『真のふるさと』を持っております」
===(聖書参考箇所)===
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」 (フィリピ3章20節/赤字引用者)
*******
(アブラハム、イサク、ヤコブなど、旧約の義人たちは)皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。(中略) 彼らは(自分が出て来た土地よりも)更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。 」 (cf.ヘブライ11章13~16節/赤字引用者)
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※8:「昨日の優勝で、大変おいしくワインなど飲ませていただきました」
 プロ野球の日本シリーズが、10月29日(土)の夜、広島市のマツダスタジアムで第6戦が行われ、日本ハムが10対4で勝って対戦成績を4勝2敗とし、10年ぶり3度目の日本一を飾った。
(参考)
・ 「ファイターズが10年ぶりに悲願の日本一!」(北海道日本ハムファイターズ 2016/10/29)ほか
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※9:「ザアカイさんのふるさと、どこだったんでしょうね」
 「ザアカイさん」は、この日、2016年10月30日(年間第31主日)に読まれた福音朗読の登場人物。福音朗読の箇所は、以下のとおり。
  ルカによる福音書19章1~10節
   〈小見出し:「徴税人ザアカイ」19章1~10節〉
===(ストーリー)===
 イエスはエリコという町を通っておられた。そこにはザアカイという人がいた。彼は「罪深い」と嫌われていた徴税人の頭で金持ちだった。通りかかるイエスを見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができず、先回りして、いちじく桑の木に登った。
 イエスはその場所に来ると、ザアカイに、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まりたい」と声をかけられた。
 ザアカイは急いで降りて、大喜びでイエスを迎え、財産の半分を貧しい人に与えることや、だまし取っていたものを4倍にして返すと約束した。イエスは言われた。
 
今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (ルカ19:9~10/赤字引用者)
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※10:「善きサマリア人の宿」
◎「善きサマリア人」
 ルカによる福音書10章25~37節に出てくる、イエスのたとえ話。
 「わたしの隣人とはだれか」と聞いた律法の専門家への答えのかたちで話される。
 ==ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で追いはぎに襲われ、半殺しの目に遭った。祭司やレビ人のような神殿に仕える者は、この人を見捨てて通り過ぎた。しかし、ユダヤ人に非常に嫌悪されていたサマリア人のある人は、この人を見て憐れに思い、近寄って傷の手当てをし、自分のろばに乗せて
宿屋に連れて行き、宿の主人に世話を頼んで費用まで出した。==
 このたとえ話のあと、イエスは、質問をしたその律法学者に、「行って、あなたも同じようにしなさい」と諭された。
***
◎「善きサマリア人の宿」
 エルサレムからエリコに上る途中(エルサレム東方約5キロの場所)に、マアレー・アドミーム(赤い坂)と呼ばれる場所があり、見通しが悪く、強盗が多い。地表が酸化鉄のために赤く染まって見えたせいもあるのか、強盗に遭って多くの血が流されたという言い伝えもある。
 オスマン・トルコのイスラエル征服時代に、この街道に巡礼用の宿ができ、イエスのたとえ話にちなんで、この宿を「善きサマリア人の宿」と呼んでいるという。
(参考)
・ 「梶田百子聖地旅行アルバム No.26」(桜台教会
・ 「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(みことばを語る 2012/10/23
・ 「良きサマリヤ人の宿」(テマサトラベルStaff Blog 2015/3/26
・ 「聖地旅行・クムラン遺跡、死海写本、レビ記写本:聖書の旅-イエスの足跡 47」(サウロの力のブログ 2013/1/31) ほか
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2016年10月30日(日) 録音/2016年11月16日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英