決して冷えさせてはならないもの

2014年1月5日主の公現
・ 第1朗読:イザヤの預言(60・1-6)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ3・2、3b、5-6)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ2・1-12)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さんの今年のお正月はいかがでしたでしょうか。
 お天気にも恵まれて穏やかなお正月でしたが、私のとこは、相変わらずお湯は出たり出なかったりで、年末年始は人の出入りも多く、バタバタのお正月でした。その上、いろいろ頑張り過ぎたんでしょうか、腰を痛めてしまってですね、お気づきでしたか、ちゃんとお辞儀ができない。
 今日初めて晴佐久神父のミサに与ったという方、私がちゃんとお辞儀しないのは、サボってるんじゃなく、腰が痛いからです。(笑) いつもは祭壇前で、もっと深々と頭を下げてるんですよ。それが自分のスタイルというか、「神さまのみ前に、私は本当に小さな者です」っていう気持ちで、丁寧にお辞儀をしてるつもりですけど。
 まあ、だんだん体が衰えて、時にお辞儀もできなくなるなんていうのは、ますます、神さまのみ前に小さな者となってきたということでもあります。体がいうこと聞かなくなったりする分、ますます、信仰は自由になっていくんじゃないですか。実際、体が元気で、自由に好き勝手動けるときって、やってることは、結局自分のことばっかりなんですよね。むしろ、体の自由が利かないとか、何かが足りないとか、問題が生じているときこそ、自分を振り返る恵みのときなんですよ。本来の自分には何もないと知り、しかし神に生かされてここにあると知る。だから、もっとみんなのために奉仕しよう、特に、次の世代のために尽くそう、何かを残していこうって思える、恵まれたチャンスのときだって思ったらいい。
 やっぱりね、元気なとき、何でもできるときっていうのは、どうしても、自分の考え、人間の計画にとらわれてますから、そのために動き回ってしまう。けれど、不自由になってくると、その分神の働きに頼るわけですから、どうしても「みこころ」に委ねざるを得ず、結果、神が働きやすいというか、祈りの世界で聖霊の自由な働きに加われるというか、そういう、見えない世界に深~く入っていけるんじゃないですか。何かが欠けた分、足りない分を信仰によってカバーするっていうような、そんな恵みのときを頂いてるんだと思って、皆さんもそろそろ、あっち痛み、こっち痛みですから、信仰によって、・・・ただもう信じることによって、生きましょうよ。

 ついさっき、ミサ前の電話は、この教会の方ではありませんけれど、教会に行っても自分だけ信仰が足りないように感じて、お友だちもいなくって、「見捨てられた感」があるって言ってました。この「見捨てられた感」っていう言葉に、なんか私、すごく切ない気持ちになりました。
 「心の調子が悪くて、私なんかいなくてもいいんだっていう気持ちになっちゃって、今日も、これから教会に行こうかどうか迷ってるんです」って、そう言うんですよ。ここで、「ぜひ行きなさい」って励ますのもいいんだけど、私は、「行っても行かなくても、あなたは愛されているし、教会とひとつだし、安心して休んでいてもいいですよ」とお答えしました。
 「今日は、どうしても教会に足が向かない。洗礼受けてから欠かさずミサに行っているけど、最近、自分なんかが洗礼を受けて良かったのかなっていう気持ちになっちゃって、なんだか神さまからも見捨てられた感にとらわれて、教会に行きたくなくなってしまった」って言うので、お答えしたんです。
 「絶対行かなきゃならない、行かないと悪いことしたって思わなくて大丈夫ですよ。行くとか行かないとかいう以前に、洗礼受けたなら、もう、いつでも神さまの愛の中にいるし、ちゃんとイエスさまとひとつになって、教会の中にいるんだっていう安心感を持ってください。もうすぐ始まるミサで、あなたのためにみんなでお祈りするから、大船に乗った気持ちでいてください。ミサに行こうと行くまいと、実はみ~んな、神さまの大きな恵みの中にいるし、その意味ではいつだってミサに与ってるに等しいんだから、あなたは安心して寝ていてもいいですよ。もちろん、行けるんだったら頑張って行きましょう。でも、たとえ行けなくても、「ああ、やっぱり私は見捨てられてる」とか、「悪いことした」とか思わないでくださいね。教会は家族なんだから。病気の子は、おうちの中で一人で寝てるでしょう? だからと言って見捨てられてるわけじゃない。あなたも、自分のおうちで寝ているからと言って、教会家族でなくなるわけじゃない。むしろ、みんな心配してお祈りしてるし、そんな時こそ、いつにも増してお母さんは看病してくれる。今も、神さまはあなたに愛を注いでくださっていますよ。信じてくださいね。今日は安心して休んでいてもだいじょうぶですよ」ってお話しました。
 「見捨てられた感」ってね、なんかすごく、切ない言葉ですね。
 まだお若い声だったんですけど、まさにそんな思いで孤立している人、特に若い人たちに、そんなときこそ本当に救いになる信仰を、実際に力になる、役に立つ信仰の喜びを伝えましょうよ。

 こうしてミサに出ている皆さんの中にも、そういう人、いるんじゃないですか。
 「洗礼を受けたけど、自分の信仰は本物だろうか」「みんな立派な信者で、一生懸命やっているのに、自分は信仰薄いし、こうして信じているような顔して通ってていいんだろうか」「神父は『福音語れ』『福音語れ』って毎週吹っかけて煽るけれど、私、何にもできてない」・・・なんかそんなような気持ち、「私、これでいいんだろうか」「こんな私、洗礼受けてよかったんだろうか」「私、もしかして、教会にふさわしくないんじゃないか。実は、神さまに見捨てられてるんじゃないか」って、もし、そんなふうに思うとしたら、それは、あなたの(・・・・)考えであって、・・・間違いです。
 神は、絶対見捨てない。
 そのしるしとして、ここに教会があって、もちろん、まだ完全な教会ではないけれども、こうしてミサが捧げられていること自体が、あなたのためなんだって伝えたいんです。
 なんだったら、皆さんも、おうちでゆっくり寝てても、代わりにお祈りしときますから、だいじょうぶですよ。・・・って、あんまりこういうこと言うと、「それじゃあよろしく」って、来週のミサで信者激減しないでしょうね。(笑) でも、「おうちで寝ていても、自分は神の子だ、イエスとひとつだ、教会の一部なんだ」って、その感覚、ぜったい忘れないでください。特に次の世代に、ちゃんと、「あなたのための教会だ、あなたの家だ」ってわかって欲しい。
 「教会に行ったときだけ、教会にいる」っていう感覚だとね、行かなくなったら、ホントに離れちゃうでしょ? 洗礼を受けたんだったら、いつでもどこでも、離れているかに見えても、目には見えない大きな教会の中にいるし、目には見えない大いなるミサの中で生きてるんだっていう、その感覚はね、忙しくなって、あんまり来られなくなった中高生や大学生にも、「どこにいても、教会の中で生きている」っていう安らぎを、伝えておきたいですよね。「信仰の喜びを次の世代に伝える」って、やっぱりキリストの教会の最大の務めだし、今日は、「公現の主日」(※1)ですから。
 「公現の主日」っていうのは、神さまがその栄光を、この世に、イエスさまによってパーンと現したことをお祝いしているわけですけど、その現された栄光の世界に向かって、私たちはこの世を旅していくわけでしょ? 三人の博士のように、星に導かれ、大事な宝ものを携えて。そして、ついには救い主に会って、もうすでに救いは訪れていて、神さまの栄光の世界の中に私たちはいるんだという真理を見出す。このプロセスを、若い人たちに体験してもらいたい。
 もう栄光は現れている。それにまだ、気づいていない。でも、現れたしるしを信じて出発し、仲間と共に捜しに行く。ついに星は救い主の上に輝き、私たちは実はずっと導かれていた、照らされていたことに気づいて喜びに満たされる。そして、この私を待っている、いのちの主と、出会う。・・・そんな旅路。

 お正月に、皆さんもご覧になったでしょう、2日と3日、箱根駅伝を見たんですよ。あれ、毎年楽しみにして見ておりますけれども、感動します。箱根駅伝は、アスリートにとっては最高の栄誉ですからね、そこでの優勝は。各大学とも、それに向けて1年間頑張ってきたし、それを本番で全部出し切る姿、10人の走者とそのスタッフ、あるいは、走者に選ばれなかったけれども一緒に頑張ってきた仲間たちのチームワークに感動させられる。チーム全員が信頼し合って、箱根の山に登って、また下りてきてっていう、まあ、たかが駆けっことはいえ、あれは感動いたします。
 特に私は、区間を走り終え、全ての力を出し切って駆け込んで、たすきを渡した後で倒れ込む姿に感動する。見ていて、「これは倒れるぞ、さあ、倒れるぞ」って期待したりして、ちょっとひどいですけど、(笑)ともかくあれに感動するんです。ぜんぶ出し切った姿に。倒れ込んで、仲間に抱えられてね。
 倒れた選手って、結構みんな、泣きだすんですよ。つまり、それだけ余裕がないからこそ倒れ込むわけで、余裕がないということは、思うように走れなかったってことなんです。結果が出せなかった人は、結局最後、相当無理して走ってますから、倒れ込むし、泣き出す。「申し訳ない!」って感じで。
 うまく走った人は、倒れません。優勝した選手なんて、ニコニコしながら走り込む。もちろん、それだけ、とてつもない練習をしたってことです。体調悪かった、走りに失敗したっていう人は、倒れ込んで、泣く。もちろん、これまたすごい練習をしたってことです。ああいう姿を見ていると、ホントに感動させられる。そして、思うんです、「こんだけ俺、全力出し切ったこと、あるだろうか」ってね。

 特に、あの駅伝っていうのは、たすきをつなぐ競技なんですね。たすきを掛けて走り、次の選手に渡す。10区間、10人で、行って帰って、最後そのたすきがゴールに届くっていう競技です。だから、ある意味、たすきはチームワークのシンボルでもあり、だからこそ、優勝した学校にとっては最高の宝であり、選手にとっては、何にも増してかけがえのない価値ある物なわけです。ですから、その「たすきが途切れる」っていうのは、その学校にとっては、最も屈辱的というか、あってはならないこと。これは、たとえば、途中で棄権しちゃうとかでも途切れるわけですけど、よくあるのは、既定の時間までにたすきが届かないときに、「繰り上げスタート」っていうのがあって、そうすると、たすきが途切れるんですね。
 どういうことかっていうと、大会全体の時間制限があるために、ある既定の時間までにたすきが届かないと、次の区間の選手が繰り上げでスタートさせられちゃうんです。もちろん、間に合わなかった人も、その後そこへ走って来るんだから、その時間は加算されるんですよ。だから、総合順位は見た目の順位ではなく、実際には、全員が走った時間の合算での勝負になるわけです。「そんな、せっかくだから、みんな最後まで走らせりゃいいのに」って思うけれど、順位が最後の方のチームになると、既定の時間に足りなくなって、たすきが届かなくても、パーン!ってピストルが鳴って、次の選手がスタートさせられちゃう。仮のたすきを掛けられて。・・・これが、「たすきが途切れる」。
 今年、今まで一度も途切れたことなかった國學院大学が、ついに、9区から10区、あと一人ってときに、たすきを渡せなかったんですよ。しかもね、渡す相手がもう見えてるんです、すぐそこに。だけど、あと何秒だかって差で届かなかった。必死に走ってきて、「何としても、このたすきを渡したい!」っていう思いで肩から外して、手に握り締めて、腕伸ばして、もうあと少しっていうとき、「何秒かくらい、待ってやれよ」って思うんだけど、ダメなんですよね、ルールだから。パーン!って、無情にも出ていってしまう。見えてるんですよ、すぐ目の前に。でも渡せない。・・・無念でしょうね、ゴールに走り込み、ガックリと地面に膝を折って泣きじゃくるわけですよ。片手にたすきを握り締めてね。
 これをまた、番組のアナウンサーが煽るんですよ、(笑) そこを。感動のシーンだからしょうがないんでしょうけど、なんとも、大げさでね、「ああっ、何ということか! 二日間、150キロにわたり、ここまで仲間がつないできたたすきが、ついに途切れてしまったあーっ!! 9人の仲間の、肌のぬくもりで温められてきた、そのたすきが、今、握り締めた手の中で冷えていくぅーっ!」(笑)
 いやあ、煽るね~と思いましたよ。「握り締めてんだから冷えないだろ」って思わず画面に突っ込んだりしましたけど、まあ、温度のことじゃないんですね。まさに、「冷えて」しまう。決して冷えさせてはいけないものが。
 あの悔しさっていうのはわかりますし、胸しめつけられるし、ああいうの見ていて、つくづくと思うんです。
 「俺は、ここまで頑張ったこと、あるだろうか」
 「倒れ込むほどに、何かやったこと、あるだろうか」
 「本当に大切なものを、あそこまで真剣に握り締めて、渡すべき相手にちゃんと渡そうと思って、精いっぱいのことをやったことがあるだろうか」。

 「渡すべき相手に、ちゃんと渡す」って言うなら、ぼくらキリスト者は、箱根駅伝どころじゃないはずでしょう。まあ、こう言っちゃあ何ですけども、駅伝はたかが、駆けっこですから、たすき渡せないからといって、命取られるわけじゃない。勝つところもあれば、負けるところもある。でも、われわれが握り締めているはずの、この「信仰のたすき」っていうのは、これ、絶対渡さないとならないものでしょう。魂の生き死にに、関わることなんだから。永遠の命に関わること。次の世代がまことの命に目覚められるのか、それとも「私は見捨てられた」という「見捨てられ感」に絶望するのかに、関わること。絶対に負けられない、なんとしても、渡さなきゃならないもの。
 神父が、執拗(しつよう)に、福音を「伝えてくれ」「伝えてくれ」って言うのは、それは本当に必要なことであるし、まことの命に関わることだから。そしてまた、「それを渡すことは、あの箱根駅伝の優勝に勝るとも劣らぬ名誉でもあるんだ」と、「教会チーム一丸となってそれをつないだときの喜びはもう、はかり知れない大きなものがあるんだ」と、それはやっぱり申し上げておきたいですよ。
 私たちが握り締めている、この「信仰」っていうたすきは、イエスさま、そのものです。これをやっぱり、次にちゃんと渡さないと。そのために、このたすき、私たちに託されたんじゃないですか。まあ、腰も痛いし、目もかすむけれど、信仰は年齢でも体力でもないですから、何かこう、「渡したい!」っていうモチベーションさえあれば、チーム全体がそれを持って心ひとつになっていれば、わが教会、総合優勝も夢ではない。
 パウロは走り抜いてね、「あとは天で冠をもらうばかりだ」って言いましたけど(※2)、天での表彰台も夢ではないと。

 今年優勝した東洋大学、素晴らしい走りでした。徹底して、攻めの走りでした。もちろんどの大学も頑張ったんでしょうけど、やっぱり、最後の最後、ぎりぎりのところではモチベーションの違いが出るんじゃないですか。東洋大学の選手が、腕にマジックで今年のチームのスローガンを書いてましたけど、何て書いてあったか、知ってます?
 「その1秒をけずり出せ」
 すごいでしょう? 「その1秒をけずり出せ」ですよ。
 つまり、「任された一人ひとりが、自分に何ができるか考えて、工夫して、モチベーション高めて練習して、『あと1秒』『もう2秒』を、お前がけずり出してくれ」と、「みんなの1秒がつながったときにこそ、ギリギリのとき、最後の数秒の勝利につながるんだ」と。
 ゴール寸前、最後の区間を走った選手が、自分の腕のスローガンを指で差してましたよ。そして、笑顔の仲間に迎えられ、抱きしめられ、もみくちゃでした。
 「その1秒」の差、去年もありましたでしょう? デッドヒートで、早稲田と法政でしたかねえ、最後、記録では同タイムでしたけど、ほんの一瞬で早稲田が負けたんです。そうすると、みんな後で後悔するわけですよ。「俺が、あのとき1秒稼いでおけば」「俺があの区間で、ゴール前の5メートルを流さなければ」みたいな。・・・そういうことがあるからこそ、「その1秒をけずり出せ」。
 信仰の世界において、その1秒がどういうことなのかは、ホントにそれぞれの人に任されていることで、「そうしないと救われないぞ」とか、そういう恐れの話にならないように気を付けなければならないんだけど、なんにせよ、もっとみんなで喜びを持って、誇りを持って、自分も、「その1秒をけずり出して」「たすきをつないでいく」っていうような、憧れというか、誇りみたいなものだけは、絶対忘れたくないと、私は思う。
 ・・・ああいうアスリートに憧れます。
 今年、もうちょっと、何か、「我慢するべきことを我慢したり」とか、「恥ずかしいけれど勇気を持って声をかける」とか、「今までは後回しにしてきたことを、そろそろちゃんと」とか、何かこう、一人ひとりが「その1秒をけずり出して」いけば、わがチーム、キリストの教会として輝きだすんじゃないですか。

 今年の1月3日の、晴佐久家の新年会、親戚一同が集まったんですけど、うれしい知らせがあって、盛り上がりました。
 ちょうどみんなでね、すき焼き食べてたら、弟の長女から電話が来たんですよ。弟のところは、夫婦はもちろん、子どもも長男と次男と次女と3人来てたんですけど、4人の子どものうちのひとり、長女だけが去年結婚して、旦那の実家の正月に行ってる。そこから電話が来た。
 「パパとママに電話したけど出ないんで、神父さんにかけた。でも、神父さんに最初に言うね。・・・子どもができたの♪」って。私、思わず弟夫婦の顔、見ちゃいましたよ。初孫ですから。・・・「知らないんだ、まだこの二人は・・・」(笑)
 「神父さんが結婚式もしてくれたし、神父さんに報告!」って。
 「ああそう、おめでとう。よかったね。神さまからの贈り物だね。今、パパに代わるね」・・・「パパ、娘から。なんか、いい知らせみたいだよ」
 パパ、聞いて、びっくりして、「おお! そうか。体を大事にするんだぞ」
 で、今度ママに渡すと、ママは聞いてね、ポロポロ泣きだして。・・・おばあちゃんに、おじいちゃんになったんです。もうそういう世代なんですよね。
 私は電話を切った後、弟に、まず最初に言いました、「おめでとう。絶対洗礼授けろよ!(笑) 自分がどれだけ教会に救われたか、どれほど伝えられた信仰が大きいか、それを思って」。「おじいちゃん、ちゃんと伝えてくれよ」と、真っ先に、私はそれを言いました。その愛する初孫が、ホントに試練の中、神さまの栄光を仰ぎ見て生きていくことができるかどうか、「おじいちゃん、お前にかかってるんだぞ!」っていう思いがありました。

 私たちが渡されたたすき、どれだけの人が汗まみれになって、握り締めて、どれだけのぬくもりがそこにこめられているか。このミサで、皆さんがその手に渡されるご聖体なんて、命がけで伝えられてきたものでしょう。自分の手の中で、決して冷えさせてはならないもの。しっかり次の人に渡せたなら、もう、倒れ込んだっていいじゃないですか。仲間がちゃんと抱きしめてくれますよ。
 ゴールの向こうに、大勢の先輩たち、天国の仲間たちが、笑顔で待っているのが見えますか。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「公現の主日」
・ 「公現の主日」は「公現の祭日」ともいわれる。/「公現祭」(ギリシア語:Epiphaneia)(英語:Epiphany)
 この日は、キリストの人類への顕現の秘儀を祝う祭日で、本来、1月6日に祝われる。しかし、日本のようにキリスト教国でない国では、1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われている。
 エジプトで冬至に当たる1月6日に祝われていた太陽神の祭りやナイル川での祭りに起源があるとされる。
 2-3世紀から、この日にキリストの降誕、洗礼、カナの婚礼などを記念するようになった。
 4世紀以降、西方教会と東方教会(正教会)との間の交流が進み、12月25日に主の降誕を祝う西方教会の習慣が定着すると、東方教会でもこれに従うようになった。西方教会では東方教会の影響を受けて、1月6日を全世界に対するキリストの顕現を記念する日とし、イエスの洗礼とともに東方3博士の来訪(マタイ2:1-12)を記念することが一般的となった。
 また、8世紀には、その8日目にイエスの洗礼を記念するようになった。

『岩波 キリスト教辞典』(岩波書店、2008年)から要約
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※2:「パウロは走り抜いてね、『あとは天で冠をもらうばかりだ』って言いましたけど」
・ 「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(使徒パウロのテモテへの手紙二 4章7-8節)
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2014年1月5日 (日) 録音/2014年1月9日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英