いいから、もうお休み

2014年11月30日待降節第1主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ63・16b-17、19b、64・2b-7)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・3-9)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ13・33-37)


【晴佐久神父様 説教】

 今日、初めて多摩教会を訪れた方がおられると聞きましたけど、ようこそ、ようこそ。でも、晴佐久神父さんの声は、ホントはもっといい声なんです。(笑) すいません、ガラガラ声で。・・・(のど)が荒れちゃってて。今度ぜひ、声のいいときに、必ずまたいらしてくださればと思います。
 まあ、人生には、いいとき、悪いときがある。しかし、一喜一憂せず、くよくよしたり落ち込んだり、はかなんだり投げやりになったりせず、折が良くても悪くても、神さまのほうは、ちゃんとやってくれてますから。それをね、絶対忘れないようにしましょう。
 「目を覚ましてる」(cf.マルコ13:37)ってのは、そういうことですよ。
 自分の方がどうであれ、向こうはちゃんとやってるってことに目を覚ましてる。神さまは、ちゃんとやってます。そのことを忘れないようにする。

 先週の、まるちゃんの洗礼式、よかったでしょう?(※1) 私は感動しましたよ。まるちゃん、私の目の前でね、説教聞きながら、泣いてましたよ。胸が詰まりました。いろいろあったけど、1年半の間に成長して、見事、神さまは、まるちゃんを受洗に導きました。こういうのを「神さまのお世話」っていうんでしょうね。
 第1朗読(※2)でいう、「御手(みて)(わざ)(イザヤ64:7)ですね。御手に安心して任せておけばいい。
 ただ、私たちも、ちょっとだけ協力するというか、お手伝いをすることができる。あえて言えば、お手伝いしなくても、神さまはちゃんとなさるでしょう。でも、私たちに、「お手伝い」の喜びを与えてくれてるんですよ。・・・なんてったって、神さまの(・ ・ ・ ・)お手伝いですよ。お手伝いするの、ホントうれしいです。感動です。その実りは、この世のことじゃないですからねえ。永遠なる世界のお手伝いをしているんだと思うと、身が引き締まるというか、誇らしいというか・・・。そういう思いを、神さまは私たちに与えてくれてるんですよ。
 福音書では、「それぞれの(しもべ)に役割を持たせ」(cf.マルコ13:34)って、ありましたでしょ? イエスさまのたとえです。ほんとは主人が自分でやるのが一番いいんでしょうけれども、ちょっと留守にするから、「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」(マルコ13:34)た、と。
 なんか、「もしかすると」ですよ、「もしかすると」ですけど、そうやって僕たちを育てるために、わざと留守にしたのかもね、この主人。それぞれの僕たちに、それぞれの仕事、役割を与えて、責任を持たせて、主人のお手伝いをする喜びを与えているんじゃないですか?
 だから、私たちもただの仕事と思わず、「ご主人さまのお仕事を分かち持てるなんて、なんて光栄なこと!」って、そう申し上げましょう。・・・神さまの、創造のみわざのお手伝いなんだから。
 神さまは私たちに、偉大なみわざを、「あえて」分け与えてくださってるんです。「ほら、これ、手伝ってごらん」って子どもにやらせるお母さんみたいにね。ホントは、子どもが手伝わなくったって、お母さん、自分で料理した方がいいに決まってんだけど、わざわざ子どもに頼むでしょ。「はい、それじゃ、袋の中からニンジン取ってくれる?」「あら、それは大根よ、ニンジンは赤いやつ。そうそう、それそれ。は〜い、よくできたわね、ありがとう」って、これ、育ててるんですよね。
 まるちゃんのお世話をするんだって、神さまの働きに、ちょっと私も参加させてもらえたってことであって、いやあ、もう、光栄だなあ、うれしいなあ。
 ・・・まるちゃんにお肉いっぱい食べさせましたって先週お話ししましたけど、「何食べさせたんですか?」って後で聞かれましたので、お答えします。三日間とも、豚しゃぶです。(笑)まるちゃん、「豚しゃぶ大好き」「ああ、おいしい、おいしい♪」って言ってくれて、「もっと食べたい、もう一回食べたい」って言ってくれて、結局三日間、豚しゃぶを食べ続けて、「カンボジアでも豚しゃぶ作って、みんなに食べさせたい」って言ってました。
 私は、そうして豚しゃぶを食べさせながら、「まるちゃん、洗礼受けようよ」って言ったんです。「いいんですか!?」って驚いてね、でも、ホント、うれしそうだったなあ。なんか、そういうのって、もう、晴佐久神父が何かしてるとか、そういう話じゃない。私も、神さまのお世話に、ほ〜んのちょっとだけ参加したっていう話でしょう。
 ただ、参加するためには、神さまの愛の働きにいつも目覚めていて、「ここがまさに神の働く現場だぞ、今がイエスの出どころだぞ」ってことを忘れないようにしてないと。そうして、いざ、ここだ、今だってときに、勇気を出して、ちょっとお手伝い。すると、大きな実りがある。
 まるちゃんの地元は山口県ですけど、東京の大学に出てくる前、ちょっとだけ地元の教会に通ってたんですね、キリスト教に興味があって。その後、大学受かって東京に来た4月に、その地元の教会の信者さんが、わざわざ東京までやって来て、まるちゃんを多摩教会に連れてきたんですよ。それで、ぼくは初めて会ったんです。偉いでしょう、その信者さんも。
 ・・・ちょっとうちの教会に通い始めた青年が、東京の大学に入りました。アパートで一人暮らししてます。普通に考えたら、なかなか教会に行く気にならないだろう、たとえ行きたいと思っても、どこに教会があるか分からないし、きっかけもないだろう、ほっとけないな。それで、わざわざ、「そのために」ですよ、東京まで来て、ここに連れてきたんですよ。私、その熱い思いに感銘を受けたから、「こいつを大事にしよう!」っていう意識が生まれたんです。
 このたび、まるちゃんが洗礼受けたことを知って、地元の教会も大変喜んでいるようです。「心から感謝します、ありがとうございます、神父さまのおかげです」って連絡も頂きましたけど、これ、私のおかげじゃないんですね。一人の人が神の子として新たに生まれて、永遠のいのちへの道を、しっかりと希望を持って歩みだす。それをお世話しているのは、まさしく神さまです。神さまが、ほっとけずに連れてくるし、神さまが、豚しゃぶ食べさせる。私たちは、いつもそのことを忘れずに、お手伝いをする。「目覚めていなさい」(cf.マルコ13:37)っていうのは、そういうことです。お世話をするのは神さま。私たちは、せいぜい幼稚園生のような「お手伝い」をする。・・・「神さまの」お手伝いを。

 第1朗読に、私の大好きな言い回しが出てきました。
「わたしたちは粘土、あなたは陶工」(イザヤ64:7)
これ、いいですねえ。分かりやすいですね、「わたしたちは粘土、あなたは陶工」。神がこねて、神が形作って、神が焼いて、そして、神がお使いになる。
 「わたしたちは粘土」
 粘土なんてね、自分では何にもできない。未来永劫ただの「粘土」です。誰かが何かにしてくれなかったら、ただもう、「粘土」でしかないんですよ。でも、そのただの粘土を、神さまが素晴らしい器に作り上げてくださる。美しく飾ってくださる。役に立つものとして用いてくださる。
 ・・・感謝しましょうよ。皆さん、自分をご覧ください、素晴らしい器にしていただいたんですよ。「神さま作」の器です。この世の人間国宝の作だとか、有名な文化財だとか以上の話。最高の器として、神さまはお作りになり、そして用いておられる。
 感謝いたします。神さまがぜんぶお世話してくださってることに全面的に信頼し、必要ならば、こんな器も用いていただく。・・・これが、私たちの「目覚め」方。

 先週月曜日、プロテスタントのナザレン教団(※3)の青葉台教会(※4)で、信徒大会のような集いがあって、お話をしてまいりました。札幌からも信者さんが来てましたよ。三日間の大会で、みんな、付近のホテルに泊まってるんです。
 その中日(なかび)の午前中の講演っていうのを頼まれてお話したんですけど、講師紹介っていうところで、牧師先生が、「晴佐久神父は、神の愛を語り、福音を宣言する神父ですけれど、なぜ今日、この方をお呼びしたかというと、この方、本気だからです」って言ったんですよ。私、心の中で、晴佐久にだまされたな・・・って。(笑) だって、私、本気じゃないから。いや、もちろん本気でありたいとは思いますよ。本気な部分もあります。でも、いつも、ちょっと足りない。だから、「せめて本気のまねはしよう」とか、「本気でやろうって思いだけは、忘れないようにしよう」って、そういう気持ちだけは持ってる。
 私は自分が本気でないことが、よく分かってます。でもやっぱり、神父やってんだから、せめて形だけでも本気な感じにしないとねえ。「ああ、あいつはやる気ないよ、さぼってばっかりだ」なんて言われるの、悔しいですからねえ。ホントはさぼってるんですよ、非常に巧妙に、上手にさぼってるんですけど、だけど、それを恥じるだけの本気さは残ってます。「もっと本気で生きたいな」っていう憧れも持ってます。本気の信者さんたちと一緒に燃えたいっていう夢もあります。結局のところ、「本気でなかったら、教会なんて何の意味もないよね」とさえ思う。
 ・・・なぜなら、神さまが本気だからです。
 神さまの本気度はすごい。「そこまでやるか」ということを、真剣に、誠実に、どこまでも一人ひとりのわが子を愛して、本気で働いておられる。守っておられる。それをちょっとでも知ると、「ああ、これは私も本気でやらなきゃならないな」っていう気持ちになるわけですよ。誰だって、そうなりますでしょ? 「ここまでやってくれたんだから、私もちょっと、本気でやってみよう」って。そうやって結局は、たいして本気でない者さえも、神さまは上手に、ちょっと本気にさせて、使っちゃうんです。
 わざわざ山口から、一人の青年を教会に紹介するために、飛行機に乗って来てくれた。すると、ああ、この人、本気だなって思うし、じゃあ自分も本気で応えようって思っちゃうじゃないですか。「神さまの本気さがどれほどか」ってことを知れば知るほど、私もちょっと本気でやらなくっちゃなっていう気持ちになっちゃいますよ。
 青葉台教会でも、「昨日、素晴らしい洗礼式があったんです」って、まるちゃんの話をしました。ぼくもちょっとだけ本気を出せたって話として。結局は、「今までも本気を求め、ときには本気を出してこなければ、生きてさえこれなかった」ともお話ししました。後日さっそく、「ぐっときました」というお礼状をいただきましたよ。おかげで、またさらにちょっと、本気になろうって思えます。
 これ、本気になればなるほど、イエスさまの本気さも分かってくるんですよねえ。

 イエスさまの本気さっていうのを、今日の福音書(※5)からでも読めますよ。どの箇所か分かりますか?
 イエスさま、「目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)、「目を覚ましていなさい」(13:35)、「目を覚ましていなさい」(13:37)って、3連発していましたでしょ。
 で、「いつ主人が帰ってくのるか」っていうところで、「夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か」って言ってます(マルコ13:35)。・・・なんか、変だと思いませんか、これ。「いつ帰ってくるかわからない」っていうだけなのに、ちょっと、くどいというか。
 「夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か」
 ・・・何かお気づきになりますか? これ、マルコの13章ですけど、直後の14章の受難物語に、この四つ、出てくるんですよ。
 「夕方」、イエスは、最後の晩餐を開きます(※6)
 ヨハネ福音書の13章によれば、「イエスは弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれて」(cf.ヨハネ13:1)、その食事を始めたと。この夕方の、イエスがご自分のすべてを弟子たちに明け渡そうとした最後の晩餐のとき、イエスの愛は、「私を食べろ」とまで言う、ほとばしるような愛でした。弟子たちの泥だらけの足まで洗ったのです(cf.ヨハネ13:1-20)
 その後、「夜中」に、イエスさまはゲッセマネの園に出ていきます(※7)
 そこで、弟子たちのために、全人類のために、天の父に祈り続けます。すべての人の罪を受け止め、すべての人の闇に連なって、苦しみ、もだえながら祈り続け、しかし最後の最後には、「御心(みこころ)が行われますように。神さま、あなたの愛こそが、すべての人のうちに実現しますように。わたしは、そのために身を捨てます」と、決心する (cf.マタイ26:42、マルコ14:36、ヨハネ22:42)
 そして、「鶏の鳴くころ」に、イエスさまは最も信頼し、愛していたペトロからも裏切られます(※8)
 ついに最も身近な人からも裏切られ、完全に孤立しているのに、そのペトロをあったか〜いまなざしで見つめ、どこまでもゆるし続けます(cf.ルカ22:61)
 そうして「明け方」、イエスさまの十字架の道行きが始まり(※9)、その日、十字架にかけられ、十字架の苦しみによって、神と人を結びます。
 すべての人の救いのために、イエスは本気です。あらゆる人が罪に苦しみ、神を忘れてさぼっているときに、イエスさまは、「本気で」生きておられる。
 これが、「夕方」「夜中」「鶏」「明け方」と語られる真意でしょう。
 「目覚めていなさい」ってイエスさまが言うのは、「このわたしの愛に、目覚めていなさい」です。
 このイエスさまの、限りない愛、本気の愛にいつも目覚めていなさい。神さまが、どれほどあなたを愛しているか、目覚めていなさい。そこを忘れちゃったら、私たちは何もしなくなる。でも目覚めていれば、ちょっと本気を出して、「私も何か、神さまのお手伝いをしよう」っていう気持ちになれる。だから、「目覚めていなさい」なんです。目を覚まし続けること。

 でもね、目を覚まし続けるって、究極的には無理なんじゃないですか。結局、神さまの本気にかなうはずもないし。精いっぱい頑張ったなら、最後は、神さまごめんなさいって、寝ちゃってもしょうがないんじゃないですか。
 私は結構、居眠り(へき)があって、目を覚ましているのが、すごくつらい。集中して、前頭葉に血流が来ると、意識がすっと落ちてしまう脳なんですね。「障害」とまでは言わないかもしれないけど、大変生きづらいある種の「困難」をかかえているのは、事実です。そういう脳の人っているんですよ。集中して何かをしようとすると、寝ちゃう脳の人。
 毎月毎月、多摩教会の広報部の人は、『カトリックニューズ』(※10)の巻頭言、巻頭言って、私に言い続けますけど、いつも、「ああ、そうだった!」って前の日に気づくから、しめきり前夜に書く羽目になる。深夜、眠い。そうすると、どんなに集中しても、10行書いては、パソコンの前で座ったまま20分眠る。もう10行書いて、20分眠る。その繰り返しなんですよ。もう、いつもそうです。他の原稿書くときも、だいたいそうです。日中でも、ストンと意識が落ちちゃう。座ったままね。「目覚めている」って、本当に大変なんです、私にとっては。本1冊書くなんて、もう死闘ですよ、死闘。よく、こんな頑張ってるなって自分でも思うし、あの、皆さん、もう少し、褒めてください。(笑)死闘してるんですから。
 この意地、どこから来るのかっていうと、やっぱり、ちょ〜っと本気なんですよね。さぼっちゃいけないな、神さまが素晴らしいことをしているんだからって。私もそれに参加して福音を伝えることに、喜びっていうか、誇りっていうか、・・・別に儲けるために書いてるわけじゃないし、神さまが本気でやってることに応えたいな〜って思って、なんとか目覚め続けたい、と。でも、目覚め続けるっていうのは、ホントにつらい。結局、スコンと寝ちゃう。でもそれを、イエスさま、よく分かってくださってるんですよねえ。

 「夜中」っていうところで、ゲッセマネのこと言いましたけど、マルコ福音書でゲッセマネの所を読めば、そのことが書いてあります(マルコ14:32-42)。イエスさまは、自分が殺されると悟り、そして全人類の罪や、人間の深〜い闇を思って、もだえ苦しんで、「この時から救ってくれ」とまで言って、祈ってます。
 その時、一人じゃとても耐えられないから、愛する弟子たちに、「一緒にいてくれ」って頼むんですね、特に、愛するペトロ、ヤコブ、ヨハネに、「ここに一緒にいてくれ」って。3人は何事かと思って、イエスの後ろについてたんですけど、イエスがあまりに真剣に長時間祈っていて、夜中ですし、寝ちゃうんですよ、3人とも。で、イエスは振り向いて、言うわけですね、「おまえたち、寝ちゃうのか」と、「起きててくれよ、頼むよ。一緒に祈ってくれよ」と。
 そう言って、また必死に祈り続け、再び振り向くと、弟子たち、また寝てるんですよ。「目覚めていてくれ、心は燃えても、体は弱いんだから」、そう言ってまた祈って、3度目に振り向くと、またまた、3人寝てるんです。3回祈って、振り向けば3度とも寝てるんです、弟子たちが。
 その時、イエスさま、最後の最後には、何て言ったか。「あなた方はまだ眠っている。休んでいる。もう、これでいい」、そう言うんですよ。「もう、これでいい」って。・・・なんて優しい! 「いいよ、分かった。お休み」って言ってるんです、「あとはわたしがやるから」と。
 ・・・これが「親ごころ」ってことでしょうねえ。泣けますよ、居眠り人間としては。「もういいよ、あとはぜんぶわたしがやる」って。

 先週、新潟の坂本神父(※11)が立ち寄ってくれましたけど、一緒に食事してたら、「はれママの手紙、読ませてあげる」とか言って、生前私の母が彼にあてた手紙を持ち出したんですよ。彼がまだ神学生のころ、いろいろ悩んでた時に、励ましの手紙を結構送ってるんですね。その一部を読ませてくれたんです。初めて読む手紙でしたけど、懐かしい母の字ですしね、なんだか突然天国から手紙が届いたみたいな感じがして。もう8年たちましたけど、不思議な気持がしたし、思わず胸詰まるような思いもしました。読めば、やっぱり母親ですから、息子のこと考えてるわけですよ。・・・いろいろ。
 だいたい、子どもの方は親のことを、それほどは考えてない。子ども「1」、親「9」くらいですかね。もっとかな。子ども「1」、親「99」くらいですかね。子どもは、親のことなんて、ぜんぜん考えてません。自分が親をどう思ってたかを思い出せば、分かりますでしょ。親が何をしてたか、何を考えてたかって、ほとんど知らないですよね。
 手紙の中に、今にして思えばホントに申し訳ないことが書いてあった
 母が退院する時に、よく私が迎えに行ったんですね。母は何度も入院したし、退院するたびに、私が必ず万難を排して車で迎えに行ったんです。荷物も多いしね、せめてそれくらいはしてあげなきゃと思って。で、私はすっかり忘れてたんですけど、あるとき、築地の国立がん研究センターから退院する時に、「脳が元気じゃないと、体も悪くなる。だから、少し元気出そう」とか言って、退院した母をそのまま、劇団四季のミュージカルに連れてったんですって。『マンマ・ミーア!』(※12)に。
 ・・・考えられないですよ、今にして思えば。ようやく退院したとこですよ。体力も落ちてるし、まっすぐ家に帰って布団敷いて寝かせるところなのに、ミュージカルだなんて。・・・結構長いですからね、3時間近くありますし。そりゃ、悪いミュージカルじゃないだろうけど、きっと疲れただろうと思うんですよね。でも、元気な息子は、自己満足で母を連れまわす。
 手紙にね、そうやって息子に連れてかれたことが書いてあって、「あきれました」って。(笑) そりゃあ、そうだろうなって思う。でも、せっかく息子が励まそうとしてくれてるんだからって、たぶん、向こうが気を使ってるわけです。
 いやあ、子どもなんて、何にも考えてないっていうか、ホント、ごめんなさいです。ただ、「あきれました」のあとに、「でも、元気が出ました」とも書いてあったので、少し救われましたけど。お世辞かね、どうなんだろう。もしかすると、息子が連れてってくれたのよって、自慢したかったのかもしれない。今となっては真意は分かりませんけど、ともかく、「親の思い」っていうのは、子どもたちは、何も知らない。
 神さまなんて、すごいんじゃないかな。こっちが何にも分かってないのに、どれだけ子どものこと考えてくれてるか。イエスさまなんか、一番つらいときに、弟子たちを寝かせてるんだから。「いいよ、もうお休み」なんだから。
 だから、私たち、寝ててもいいんだけど、せめて、せめて、そんな神さまの思いにだけは目覚め続けていれば、もうちょっと、もうちょっとだけでも何かできるんじゃないか。もうちょっと、何か素晴らしいお手伝いが可能なんじゃないか。
 そういえば、母がよく言ってました。
 母にもまたその母がいてね、私の祖母ですけど、母が女学生のころ、一生懸命試験勉強しているとき、座り机で、眠くてウトウトしてたんですね。そのとき祖母が母の後ろにそっとやって来て、母の背中に毛布を掛けながら言ったんですって。「いいから、もうお休み」って。「そのひとことが、忘れられないの」って言ってました。
 中には、「起きなさい!」ってね、(笑)たたき起こす親もいるかもしれませんけどね。
 「母さんが、『いいから、もうお休み』って言ってくれたのよ。忘れられないわ」って。
 ・・・それが、子どもの心に残ります。


【 参照 】

※1:「先週の、まるちゃんの洗礼式、よかったでしょう?」
 昨年の復活徹夜祭に受洗のはずが、当日突然欠席し、その後ずっと音信不通だった青年、「まるちゃん」が、たくさんの大切な経験、体験のあと、また突然に現れて、先週、受洗の恵みをいただいた。
 詳しくは、先週(2014年11月23日〈王であるキリスト〉)の祭日)の説教、「私たちの内なる羊と山羊」をお読みください。説教の後半部分(上から6段落目〜)で触れています。
・・・< 文中へ戻る

※2:「第1朗読」
本日(2014年11月30日〈待降節第1主日〉)の第1朗読箇所は、
 イザヤの預言 63章16b〜17節、19b節、64章2b〜7節。
・・・< 文中へ戻る

※3:「ナザレン教団」
日本ナザレン教団は、「ナザレン教会」という福音主義キリスト教会に属するプロテスタント。
「日本ナザレン教団」というのは、日本における宗教法人名。
宗教改革時代にイギリス国教会の司祭だったジョン・ウェスレーが指導したメソジスト運動(信仰復興<覚醒>運動)から生じたメソジスト派に起源を持つ。ナザレン教会は、19世紀初頭、アメリカでのメソジスト運動のなか、1908年に創立。日本では、1910年から伝道を始め、現在、国内に70以上の教会がある。
 本部は、目黒区。
(参考)
日本ナザレン教団(ウィキペディア)
日本ナザレン教団(宗教情報リサーチセンター)
宗教法人 日本ナザレン教団<本部-目黒区>(ホームページ)
・・・< 文中へ戻る

※4:「若葉台教会」
日本ナザレン教団 若葉台教会(ホームページ)
 〒227-0062横浜市青葉区青葉台1-15-17 
(参考)
 ・ 教会の紹介・歴史
 ・ 11月23〜25日に、礼拝や宣教について学び、礼拝の体験などもする「伝道フェスタ」が開かれ、講師には晴佐久神父のほかに、JTJ宣教進学校の学長、横山英実氏も招かれた。
   今年2月の、同教会の牧師先生、江上環師のブログには、晴佐久神父を招くために、多摩教会にいらしたときのことも書かれている。(>>>江上環礼拝説教 日曜礼拝2014年2月9日
・・・< 文中へ戻る

※5:「今日の福音書」
本日(2014年11月30日〈待降節第1主日〉)の福音朗読箇所は、
 マルコによる福音書13章33〜37節
  〈小見出し:「目を覚ましていなさい」より抜粋〉
・・・< 文中へ戻る

※6:「『夕方』、イエスは、最後の晩餐を開きます」
(参考箇所)
・ 「マタイによる福音書」26章17〜35節〈「過越の食事をする」「主の晩餐」〉
・ 「マルコによる福音書」14章12〜26節〈「過越の食事をする」「主の晩餐」〉
・ 「ルカによる福音書」22章7〜23節〈「過越の食事をさせる」「主の晩餐」〉
・ 「ヨハネによる福音書」13章21〜30節〈「裏切りの予告」〉
・ 「コリントの信徒への手紙 一」11章23〜25節〈「主の晩餐についての指示」〉
・・・< 文中へ戻る

※7:「『夜中』に、イエスさまはゲッセマネの園に出ていきます」
(参考箇所)
・ 「マタイによる福音書」26章36〜46節〈「ゲッセマネで祈る」〉
・ 「マルコによる福音書」14章32〜42節〈「ゲッセマネで祈る」〉
・ 「ルカによる福音書」22章39〜46節〈「オリーブ山で祈る」〉
・・・< 文中へ戻る

※8:「『鶏の鳴くころ』に、イエスさまは最も信頼し、愛していたペトロからも裏切られます」
(参考箇所)
・ 「マタイによる福音書」26章69〜75節〈「ペトロ、イエスを知らないと言う」〉
・ 「マルコによる福音書」14章66〜72節〈「ペトロ、イエスを知らないと言う」〉
・ 「ルカによる福音書」22章56〜62節〈「ペトロ、イエスを知らないと言う」〉
・ 「ヨハネによる福音書」18章15〜18節、25〜27節〈「ペトロ、イエスを知らないと言う」「ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う」〉
・・・< 文中へ戻る

※9:「『明け方』、イエスさまの十字架の道行きが始まり、」
・ 「マタイによる福音書」27章1〜2節〈「ピラトに引き渡される」〉
・ 「マルコによる福音書」15章1節〈「ピラトから尋問される」〉
・ 「ルカによる福音書」23章1〜2節〈「ピラトから尋問される」〉
・ 「ヨハネによる福音書」18章28〜32節〈「ピラトから尋問される」〉
・・・< 文中へ戻る

※10:「カトリックニューズ」
『多摩カトリックニューズ』
 カトリック多摩教会の月報。教会内の月刊広報誌。(毎月一回第3週の土曜日に発行)
 主任司祭の巻頭言ほか、教会委員の代表会議(司牧評議会)の議事録、連載コラム、例会報告、活動報告、教会学校便りなどが掲載されている。
 多摩教会のホームページでも、巻頭言、連載コラム、例会報告などを読むことができる。
(参考)
・ 『多摩カトリックニューズ 最新号』(カトリック多摩教会ホームページ内)
・ 『晴佐久昌英神父 巻頭言集』(同上)
・・・< 文中へ戻る

※11:「新潟の坂本神父」
フランシスコ・サレジオ 坂本 耕太郎神父さま
  新潟教区司祭
  2009年5月6日 司祭叙階
  2013年3月〜 青山教会主任。(2014年11月現在)
(参考)
カトリック青山教会カトリック新潟教区ホームページ内)
坂本耕太郎 司祭叙階式(フォトアルバム/カトリック新潟教区ホームページ内)
・・・< 文中へ戻る

※12:「劇団四季のミュージカルに連れてったんですって。『マンマ・ミーア!』に」
 『マンマ・ミーア!』は、ギリシャにある小島のホテルを経営する母と、女手ひとつで育てられた娘の物語。ABBAのヒット曲にのせて構成されているジュークボックス・ミュージカル。2008年には、ハリウッドで映画化もされた。世界各地でロングランとなっており、日本では、劇団四季が2002年に初演。現在、東京公演の4回目が行われている。(2015年2月8日千秋楽予定)
(参考)
マンマ・ミーア!(ウィキペディア)
マンマ・ミーア!(劇団四季)
・・・< 文中へ戻る

2014年11月30日 (日) 録音/2014年12月6日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英