2014年12月7日待降節第2主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ40・1-5、9-11)
・第2朗読:使徒ペトロの手紙(二ペトロ3・8-14)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・1-8)
【晴佐久神父様 説教】
待降節第1主日から、教会の
マルコの第1章第1節が、今日読まれました(※2)。美しい宣言ですよ。
「神の子イエス・キリストの
「福音」とは、何か。たとえば、今日読んだ、最後のところにあります。
「優れた方が来られ、その方は、
この「聖霊による洗礼」を、私たちはもうすでに受けております。といっても、もちろんそれは洗礼式の時に受けた聖霊でもありますが、それだけじゃない。
「すべての神の子が、神の愛のうちに、このイエスによって、
・・・これが、福音なんですよ。素晴らしいことでしょ?
全人類が「聖霊による洗礼」を受けた。すでに、受けている。「皆さん、おめでとうございます!」っていうことです。だからそれを伝えに行きます、
「聞いてください! あなたも、『聖霊による洗礼』を受けてるんですよ、信じてください!」と。
そしてやがて、全人類が、ホントに神さまの
その意味では、洗礼者ヨハネの洗礼では、やっぱりちょっと足りないんですよ。それは、本人も分かっていて、そう言ってます。
「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(マルコ1:7)
なぜなら、彼の洗礼は「悔い改めの洗礼」(cf.マルコ1:3、8)だからです。
「悔い改め」っていうのは尊いことですけど、まあ、結局は人間の
ヨハネは、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けた」(マルコ1:8)って言ってますけど、これ、川にドボンと沈める洗礼なんですね。当時はそうでしたし、洗礼の原語は、そういう意味です。誰かが、ドボンと沈めてくれる。本人が個人的に望み、ヨハネが、頭をぐいっと川に沈めたんでしょう。つまり、人間の業なんです。
「聖霊による洗礼」っていうのは、そういうものなじゃない。聖霊は一方的に天からくるものですから、人間の世話になんかならないでいいんです、本来的には。水は、誰かがかけるか沈めるかしなきゃなりませんけど、聖霊は勝手に降ってきて、人を勝手に覆っちゃうんです。人間が回心してようと、してまいと、覆っちゃうんです。どんな極悪人であろうが、すべての人を覆っちゃうんです。みんな聖霊の宿る魂を持ってるんだから、当然です。そこにおいてこそ、真の意味での人類の回心が始まる。
・・・これが、「聖霊による洗礼」。それは、もはや「個人の救い」なんていうケチな話をはるかに超えた、人類の救いとも言うべきダイナミックな神の愛のみ業です。
こういう洗礼を、私たちは信じます。すべての人が、わが魂においてそのような洗礼を受けていること、すべての人がそれに目覚めて、やがてすべてが完成していくことを、待ち望みます。
それが「一人残らずだ」って、さっき、ペトロの手紙でも言ってましたね。(※3)
9節、「主は約束の実現を遅らせてるんじゃない。一人も滅びないで、み〜んな悔い改めるように忍耐しておられるのです」(cf.二ペト3:9)
そう。神さまは、すべての人が救われるように、一人も滅びないように、すなわち、すべての人が「聖霊による洗礼」を受けていることに目覚めて真の回心ができるように、「忍耐して」るんですよ。だれもがすでに神の子として救われているのに、それに気づいていないから。人々は、それに気づいていないからこそ、どうでもいいもの追い求めたり、もう終わったと絶望したりしてるわけでしょ?・・・そんなことする必要がない。
「私たちはもう、救い主によって、聖霊による洗礼を受けてるんだ。そしてやがて、聖霊による洗礼がすべてを完成させるんだ」
このような天の救いに目覚めて、信じ続けることがこの世での救いだし、これに気づいていないことがこの世での滅びの状態。
いつの日かみんなが目覚めて、一人も残さずに神の国に入るまでと、神さまは忍耐して導いておられる。そのプロセスが、「宇宙の歴史」「世界の歴史」っていうことなんでしょうね。
「千年は一日のよう。一日は千年のよう。」(cf.二ペト2:8)
この世のものは、すべて滅び去ります。しかし、私たちの魂に授けられた「聖霊による洗礼」、神の御手によって聖霊にドボンと浸っちゃたというその事実は、永遠なることで、滅びることがない。この世のものはすべて消えていくが、私たちの魂は、永遠に消えない「聖霊による洗礼」を、もう受けている。
・・・このことを信じたとき、なんだか、勇気が出ますね。
この世のことでちょっと悩んでいても、この世のものをちょっと失っても、この世のことがちょっとうまくいかなくても、「聖霊による洗礼」を思ったとき、ちょっと勇気が出ます。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう」 (cf.二ペトロ3:12) って、ペトロの手紙では言ってますが、同時に、「しかしわたしたちは、新しい天と新しい地を、神の約束によって待ち望んでるんだ」(cf.二ペト3:13)と。
この世の心も体も、ぜんぶ溶け去りますけれども、魂は溶け去りません。焼け崩れないし、燃え尽きない。永遠なる喜びに入っていくんです。・・・なんて素晴らしい約束でしょう。
そういえば、オリンパスのコマーシャルに「心と体」っていうのがありましたね。「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ オリンパス」っていうコマーシャル。(※4)
私、このコマーシャル見るたんびに、テレビの画面に突っ込みます。
「魂(タマシイ)があるだろ!」って。
心と体は、「にんげんのぜんぶ」じゃない。
オリンパスは、かつてカメラの会社でしたけれども、それだけじゃやってけないっていうことで、医療機器も始めた。つまり「カラダ」のことも始めたんで、「心と体」、人間の全般にわたってサービスする会社ですっていうことを、コマーシャルで訴えたいんでしょう。
「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ オリンパス」
・・・違うんですよ、人間には、魂(タマシイ)があるんです。
それが分かってなければ、もうこの、「聖霊による洗礼」なんていう喜びは分からない。心も体も、燃え尽きるんです。溶け去るんです。(cf.二ペト3:12) しかし、燃え尽きない魂があって、そこに、「聖霊による洗礼」が授けられているから、私たちは、永遠なる存在として、神の国の完成を待ち望むことができるんです。「みんながそうなんだ」っていう、この福音を、教えてあげましょうよ。
うちも、コマーシャルやったほうがいいね。
「ココロとカラダと、タマシイ。にんげんのぜんぶ カトリック」(笑)
・・・こういうのが、今、一番かっこいいんじゃないですかねえ。
「心」と「体」と「魂」、神さまはそれを私たちに与えてくださった。私たちは、すでにそれを持っている。そして、たとえ心では何も分からなくなっても、体が焼け尽きても、永遠なる魂がある。
待降節第1主日、先週から洗礼シーズンが始まりました。早いですね〜。また今年も、復活祭の洗礼式に向けて、出発いたしました。
待降節第1主日の週から、入門講座で、「洗礼志願書」を配ります。「洗礼動機書」や「洗礼許可証」と一緒にお渡しします。そして、「洗礼動機書」と共に「洗礼志願書」を提出した人は、司祭の面談を受けて、「洗礼許可証」にサインをもらいます。(※5)
去年のシーズン、私は40人にサインをいたしました。さあ、今年はどうでしょうか。
実は、先週もう早速志願書を提出した方がいて、昨日、洗礼面談をいたしました。第1号の面接ですね。その方もさまざまな苦しみを抱えてきた方ですけれども、1年間、入門講座で熱心に学びましたし、福音を聴きましたし、そして今、ホントに救いの喜びに満たされて、まごころから洗礼を望んでいることを知って、私は感動しましたし、共に祈り、「洗礼許可証」にサインいたしました。今シーズンの、第1号の洗礼許可です。
これ、私にとって、どれほどうれしいことか、お分かりになりますでしょうか。たぶん、分からないと思う。・・・皆さんも喜んでくださるとは思いますし、入門係も「よかったわねえ」と言うとは思いますけど、ひとりの司祭として、この第1号がどれほどうれしいことか、たぶん本当のところは、分かっていただけないんじゃないかなあ。
新しいシーズンが始まり、第1号の方が面談に来られて、「洗礼許可証」にサインする。それは、「来年の復活祭に、洗礼式がある!」っていうことなんですよ。復活祭に一人も洗礼を受けない教会、いっぱいありますよ。多摩教会だって、「ゼロ」っていう可能性があるんです。・・・ありますよ、可能性としては。幸い私は、復活徹夜祭に洗礼式をしなかったという体験が、過去の司祭生活において、一度もありません。しかし、未来は分からない。来年の復活徹夜祭は、ないかもしれない。それが、どんなにさみしいことか。司祭として、どれほどの空しさか。洗礼盤のない復活徹夜祭!
そんなときに、第1号の方が来て、洗礼を希望し、「洗礼許可証」にサインをする司祭の気持ちを、お分かりになりますでしょうか。来年も、洗礼式がある!! 昨日、私は、ほんと〜に、うれしかった。・・・その方に「ありがとう」って言ったもん。「ありがとう。私も、これで、喜んで復活祭を待ち望めます」と。「頼むから、気を変えないでね」、(笑)そうも、言いました。本人が今日もこのミサにおりますけれど、ありがとう。・・・尊い、「一人」。ゼロじゃない。
もちろん、神に愛されている以上、すべての人が「聖霊による洗礼」を、受けてるんですよ。イエスによって、もう受けてるんです。受けてるんだけど、それに目覚めて、それを信じて、教会に交わるために水をかけられる人がいるとき、それこそは、目には見えない「聖霊による洗礼」が確かにすべての人に注がれていることの、目に見える
「聖霊による洗礼」を受けていることを、すべての人に教えてあげたいし、まずは、それを知らない人にそれを福音として伝えることこそが、私たちの真の愛でしょう。それは、「教会での洗礼」に招くこと以前の使命です。愛っていうのは、押し付けることじゃない。本当に相手の立場に立って、相手の喜びに奉仕することでしょう?
まずは「聖霊による洗礼」のことを伝えてあげて、それを信じて目覚めた者の中から、「教会の洗礼」を受けて、確かなしるしとなる人も出てくる。これが、キリストの教会の喜びです。
先週の待降節第1主日から、「ここヤシ」の集いを始めました。
そういう名のキャンプは、試しにこの夏にやりましたけど、せっかくそこで知り合ったのだし、とりあえず仲間内で毎月集まってやってみようかっていうことで、「心のいやしを求める青少年の集い」として、第1回を、先週やりました。
夕方集まって、少し分かち合いをし、ミサをして、一緒に食事をします。別に難しい集まりじゃないです。心の問題で苦しんでいる者同士、お互いにちょっと近況を分かち合ってですね、中心は、共にいるだけで癒やされるというような思いで捧げるミサです。
ただ、この聖堂でやると、ちょっと緊張するというか、硬い雰囲気になるし、少人数ならではの家庭的な雰囲気を出そうっていうことで、2階の会議室でやりました。テーブルを一つにして、みんなで回りを囲んで、座ったままでミサを致しました。心和む優しい歌を選んで、小さな歌集を作って。準備は大変だけど、その分、あったか〜い、ほのぼのした、ホントに、聖霊に満たされたミサになったと思います。
そういう集いでみんながちょっとでも安心したり、癒やされたりすることを、私は心から望んでいたし、その第1回ができて、うれしかった。そこに、信者ではない方ですけど、ちょうど相談に来ていた方も参加してくれたりして、まさにあれこそ「聖霊による洗礼」を受けた人たちの集いであり、その目に見えるしるしのミサでしたよ。ホントにやってよかったし、もっとみんなを呼んできたいなあ、とも思いました。
完成の日をただ待ってるだけじゃなくてね、一人ひとりに声をかけて、相手の立場に立ち、その喜びに奉仕して関わるとき、その人が「聖霊による洗礼」に目覚める第一歩が始まります。
この集まりに、一人のカトリックの精神科医も参加してくれました。これまた、とてもうれしいことでした。私が、たってのお願いで頼んだんですけれども、快く受け入れてくれたんです。地方の有名な精神病院の院長を長く勤めておられて、このたびリタイアして名誉院長になり、東京に戻ってこられました。それと、私がお願いの電話したのとが、ちょうどぴったり重なって。・・・こういうの、偶然じゃないんですね。神さまが用意してくださってるんです。まさに聖霊の導き。「ちょうど、東京に戻ってきたところです。私もぜひ、これから何か、そういうことに関わりたいと思っていたので、喜んでお引き受けします」と言って、「ここヤシ」の顧問医師になってくださり、さっそく先週の第1回の集まりに来てくださいました。
彼とは数年前、私がカトリック医師会の講演会でお話しした時に出会ったんですけど、講演会の後であいさつに来てくださって、「専門家である医師と、専門家である司祭が協力し合えば、心を病んでいる人をもっと救うことができる」というようなことを、おっしゃった。私は感動して、この人を信頼しようと思いましたし、だからこそ、このたび、お電話差し上げたわけです。大学でも教えておられたし、本も書かれている立派な先生ですけれども、こんな小さな集まりにボランティアで来てくださり、若者たち一人ひとりの悩みや質問に丁寧に答えている姿を見て、胸が熱くなりました。
彼が、みんなを前に、最後にひとこと話してくれた言葉に、とても励まされました。
「私は長く精神科医をやってきたけれども、結局、精神科医っていうのは、自分の診察室に座って待ってるだけだ。まるでクモの巣を張って待っているように、患者が来るのを待ってるだけ。それでは救われない患者さんが、大勢いる。精神科医は、もっと出かけていかなければ。
それに気づいたのは、ある企業から招かれて、会社の一室でメンタルケアをしたとき。企業で働いている人たちは、本当にみんな疲れているし、ある意味病んでいる。相談に来る人の中には、これ、本来なら病院に来て治療しなければならないっていう人たちが、忙しくて休めずに、ホントにギリギリのところで、精いっぱい頑張っていて、驚かされた。
こういうことは、診察室で座っていては分からない。これほど多くの人が、心を病んで苦しんでいるんだから、こちらから出かけていかなければならないと思っていたところへ、神父さんからお招きいただき、うれしかった。私は、これこそ神の声だと信じて、お手伝いいたします」
そうおっしゃったんですよ。「精神科医は診察室に座ってるだけじゃだめだ。出かけていかなきゃ」って。
・・・これ、すべての神父に聞かせたい。「司祭は司祭館に座ってるだけじゃだめだ。出かけていかなきゃ」ってことでしょ? なんだか、教皇フランシスコの言葉を聞いてるみたいでしたよ。
『福音の喜び』(※6)の第1章の最後の所にありましたでしょ? ・・・皆さん、もうあれ、買いました? アンジェラにまだ売れ残ってるようですけど、ちゃんと買って読んでくださいよ。・・・第1章の最後の所に、こんなふうに書いてあります。
「出かけていきましょう。イエス・キリストを差し出すために、出かけていきましょう。私は出かけていって事故にあって傷ついて、汚れている教会が好きです。閉じこもって、安全地帯にいて、病んでいる教会よりも」(※7)
そう言ってるんですよ、「閉じこもって、安全地帯にいる」のは、「病んでる」ことだって。まさに、社会と教会のどっちが病んでるのかって話ですよね。
「ここヤシ」もね、場所は教会でやってますけど、その心は、出かけていく教会です。本当につらい思いをしている人は、なかなか向こうからやって来れませんから、せめて来やすい集いを工夫するってことですよ。愛っていうのは、こっちの都合を押し付けることじゃない。やっぱり、相手の立場に立つことですから。
この「ここヤシ」を始めた第一の動機は、数年前の実際の体験からです。ある精神病を患った青年が救いを求め、洗礼を望んで教会の門をたたいた時、そこで「病気を治してからいらっしゃい」って言われたって。その人は、私の所に来て、そう言われてどれほど傷ついたかと打ち明けてくれた。住まいは遠かったんですが、この教会がお世話しますと約束し、翌年、洗礼をお授けしました。やっぱり、「それはないだろう!」って思ったんです。「病気を治してからいらっしゃい」・・・。
私たちの中に、もし、そんな気持ちが少しでもあるとしたら、それはキリスト者ですかねえ。
「良く来てくださいましたね、つらかったでしょう。もうだいじょうぶですよ、あなたこそ、ここに来るべき人です。安心しておまかせください」
・・・教会って、そういうところでしょ?
そうして、「聖霊による洗礼を、あなたは受けてるんだ。もう救いは始まってるんだ」って、ちゃんと教えてあげて、本人がホントにそうだって気づいて喜んで、水による洗礼を救いの
出かけていきましょう。
イエスを差し出すために、出かけていきましょう。
救いを求めている人は、すぐ近くに大勢いるんですから。
多摩市も、ようやくちょっとホッとしましたね、先週、放火犯が捕まって(※8)。ご存じでしょう? 安心しましたよ。事件以来、消防車の音がするたんびに、ドキッとしてたわけですから、ああ、よかったと思った。正直、そう思いましたよ、捕まってよかったなあ、と。
そうは思いましたけど、テレビの画面で、犯人の顔、どこにでもいるような22歳のひとりの青年の顔を見たときに、やっぱり胸が苦しくなりました。かわいそうだなあって。すぐそこに住んでるんですよ。すぐそこ。
だって彼、こう言ってるんですよ、「学校も仕事もやめて、将来がすごく不安だった」。で、家の中で暴れたりしてね、壁にボコボコ穴開けてたそうじゃないですか。「学校も仕事もやめて、将来がすごく不安」で、家では荒れたりしてる22歳の青年。・・・そういう青年、この教会にいっぱいいますよ。受ける相談もそんなんばっかですし。・・・放火した君もね、ここ来りゃよかったのに。私はそう思う。
「火を見ると落ち着いた」って、そうも言ってた。分かるなあ。・・・分かります。放火犯の気持ちが分かるなんて言ったら「え?!」って思うかもしれないけど、考えてみたら、リストカットとか、みんなそうですよね。いろんな
「あなたが燃やさなくったって、やがて体も心もぜんぶ、それこそ『天すら燃え尽きる』って、聖書に書いてある。『天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る』(二ペト3:12)、と。しかし、決して燃やせないもの。あなたの美しい魂、聖霊の神殿(cf.一コリ6:19)がある。そこであなたは、もう聖霊による洗礼を受けている。誇りを持ってほしい。どれほど状況が悪くても、どれほど将来が不安でも、何も心配がない。神はあなたを愛している。信じる素晴らしい仲間がいる。あなたは愛されている存在だ」と。そのことを、やっぱり誰か、教えてあげなくっちゃ。
・・・「百草」ですって。百草地区の人、ここにいるでしょう? 助けてあげてくださいよ。あれ、新築中を何軒も燃やしたから、賠償金、すごいですよ。おうちの方も、今、生きた心地しないでしょうから、励ましてあげたらいいんじゃないですか。みんなでお金集めて、「どうか賠償金の足しにしてください。お祈りしてます」って、訪ねて行ったらどうですか?
私は、いつの日か、火をつけて回った彼が、ひとりの神の子として「ここヤシ」に来て、信じ合える仲間と一緒に祭壇を囲むことを、心から祈ります。可能だと信じます。本人が、無意識のうちにそれをどれほど求めているかを思う時、すでに祭壇を囲んでいる私たちのうちに、聖霊の炎が燃え上がります。
あなたが燃やすべきは、この世のものじゃない。聖霊による炎をこそ、燃やしてほしい。
【 参照 】
※1:待降節第1主日から、教会の暦は新年ですけども、今年はB年、マルコの年」
>>>「教会の暦」、「B年」、「マルコの年」とは? (類似既出)
① 「教会の暦」
カトリック教会には、特有の暦(「典礼暦」または「教会暦」)があり、キリストの神秘を、1年を通して思い起こしていく。教会の「1年」は、1月1日から12月31日でくくられるのではなく、「待降節(※☆)第1主日」に始まり、「王であるキリスト」の祭日で終わる。
たとえば、2015年の大半は、その教会暦によると、2014年11月30日の「待降節第1主日」から2015年11月22日の「王であるキリスト」の祭日となる。
(☆待降節・・・降誕祭<クリスマス>に向かい、この世にいらしたキリストの降誕を思い起こし、また、終末のキリスト再臨への待望に心を向ける季節)
② 「B年」
一年間、主日、祭日のミサを、ふさわしく捧げることができるよう、聖書の朗読箇所も定められている。できるだけ、聖書全体に渡って親しむことができるよう、主日のミサの朗読箇所は、A年、B年、C年の3年周期で繰り返され、週日のミサは、奇数年、偶数年の2年周期で繰り返されている。
A年にはマタイによる福音書、B年にはマルコによる福音書、C年にはルカによる福音書が読まれ、だいたい章を追って、朗読されていく。(ヨハネによる福音書は、主に復活節に読まれる)。
2014年11月30日(待降節第1主日)に始まった本年の主日はB年にあたる。また、週日は奇数年(第2周年)にあたっている。
③ 「マルコの年」
B年の教会暦でいう「今年」(2014年11月30日〜2015年11月22日)の主日は、主に、「マルコによる福音書」が朗読されていく。
(参考)
・ 『カトリック教会情報ハンドブック2014』(カトリック中央協議会、2013年 p.93 )
・ 「教会暦」(ウィキペディア)
・ 「典礼解説 待降節」(カトリック中央協議会)
・ 「待降節とクリスマス(降誕祭)とは?」(カトリック中央協議会)
・ 「A年、B年、C年」(ラウダーテ:「キリスト教豆知識」)
・ 「カトリック 移動主日・祝祭日表(2015年)」(はてなダイアリー) など
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※2:「マルコの第1章第1節が、今日読まれました」
本日(2014年12月7日〈待降節第2主日〉)の福音朗読箇所は、
マルコによる福音書 1章1〜8節。
〈小見出し:「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」より抜粋〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※3:「さっき、ペトロの手紙でも言ってましたね」
本日(2014年12月7日〈待降節第2主日〉)の第2朗読箇所は、
ペトロの手紙 二 3章8〜14節。
〈小見出し:「主の来臨の約束」より抜粋〉
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※4:「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ オリンパス」っていうコマーシャル」
オリンパス株式会社は、2007年4月から、「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ、オリンパス」をキーフレーズとした企業広告を展開。俳優の真田広之さんを起用してコマーシャルを始めた。キーフレーズや、企画意図については、以下のオリンパスが2007年3月に出したニュースリリースを参照。
(参考)
・ 「オリンパス、「ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ」をテーマに新企業広告を展開」(オリンパス 2007年3月29日ニュースリリース)
・ CMサンプル
「オリンパス OLYMPUS ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ オリンパス『特別な30分。』編CM(30秒)」(OlympusJP/YouTube)
・ 「オリンパス株式会社」(ホームページ)
・ 「オリンパス」(ウィキペディア)
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※5:「待降節第1主日の週から、入門講座で、『洗礼志願書』を配ります。・・・・」
カトリック多摩教会での洗礼までの外的な流れは、教会月報の主任司祭(晴佐久神父)巻頭言「洗礼シーズン到来」(2013年1月19日発行分)に詳しく書かれていますので、そちらをお読みください。 >>> 「洗礼シーズン到来」(晴佐久神父)
ここでは、書類を画像で紹介させていただきます。
左から、「洗礼志願書」、「洗礼動機書(洗礼動機記入欄)」、「洗礼許可証」です。それぞれの画像は、クリックすると拡大されます。
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※6:『福音の喜び』
教皇フランシスコ著。
「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマとした世界代表司教会議(シノドス)後の使徒的勧告。
共同体、聖職者、そしてすべての信者に、自分自身の殻に閉じこもることなく外へと出向いて行き、弱い立場にある人、苦しむ人、貧しい人、すべての人に福音を伝えるよう強く促す。「熱意と活力に満ちた宣教の新しい段階」への歩みを望む教皇の思いが力強く表現された、希望と励ましに満ちた文書。
原文発表は2013年11月24日。日本語翻訳初版発行(カトリック中央協議会)は2014年6月20日。
「福音の村」のサイト内でもご紹介しています。宜しければお読みください。
> 使途的勧告『福音の喜び』(「福音の村」サイト内ご紹介ページ)
*****
ご購入は、Amazon、パウルスショップ、ショップ・パウリーネ(女子パウロ会オンラインショップ)、または、お近くのキリスト教書店などでどうぞ。
カトリック多摩教会の教会売店「アンジェラ」でも、2014年12月7日現在、在庫があるようです。お近くの方は、ぜひお立ち寄りください。
価格:1,728円(税込)
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※7:「『出かけていきましょう。・・・」
(参考)
『福音の喜び』(51ページ)
第一章:「教会の宣教の変革」-Ⅴ:「開かれた母の心」-49
カトリック中央協議会版の翻訳による本文は以下のとおり。
「出向いて行きましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いて行きましょう。(中略)わたしは、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです」
・・・< 文中へ戻る >
※8:「先週、放火犯が捕まって」
以前の説教でも取り上げられたように、多摩市では、9月12日から20日にかけて、6件の、新築建築中の住居を狙った連続放火事件が発生し、警戒が続いていた。
(参考)
・ 「皆さんが居場所になるんです」(2014/9/28日説教)の冒頭部分(【参照】は※1)で話されています。
・・・< 文中へ戻る >
※9:「オアシス広場」(既出①、②)
2010年春、晴佐久神父考案で造った、カトリック多摩教会の聖堂向かって左側にある、小さな広場。
大きなパラソルの下には、テーブルとベンチ。特に、日曜日のミサ後には、歓談や軽食のテーブルに使われている人気スペース。
詳細は、「トンネルの向こうには」(2014/8/31説教)の、【参照】※2に、画像と共にご紹介してありますので、そちらをご覧ください。
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