2014年1月26日年間第3主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ8・23b~9・3)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・10-13、17)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ4・23)
また、いつものように、私の愚痴から聞いてください。
目がかすんだとか、腰が痛いとか、いつも愚痴っておりますけれど、まあ、私、愚痴を聞いてくれる妻もいないんで、(笑)ぜひ、皆さんに聞いていただきたい。
今度はですね、歯が痛いんですよ。(笑) 半端じゃないです。もう抜かなきゃならないんでしょうかね。奥歯が炎症を起こして、三日前くらいから激痛です。今も結構、痛いです。
歯が痛いときって、皆さんも経験してますでしょ? 何にも考えられない、何にもする気が起きない。そんな中、神父は苦しい人たちの相談を受け、悩みを聞き、洗礼前の面接をしておりますが、皆さんの苦しい胸の内を聞きながら思ってるんです、「俺だって苦しいんだよ!」って。(笑)
でもね、ありがたいですね、痛み止めは。手を合わせたくなります。(笑)痛くて眠れないときなんかは、やっぱり飲んで寝るわけです。で、必死に祈るわけですね。「神さま、助けて!」って、祈るんだけど、奇跡なんて、そうそうは起こらない。
そういうとき、さすがに神父、この世を離れて、魂の世界で祈ります。
ともかく体が痛いわけだから、体から離れるしかない。とはいえ、心の話でもない。体と心って一緒ですから。心だって痛くなるでしょ。体とも、心とも、離れるんです。その痛い現実から離れて、「魂」の世界に逃げ込むんですよ。これは皆さんね、ちょっと覚えておいていただきたいと思いますよ。・・・魂の世界に逃げ込んで、そこで祈るんです。
そこはもう、この世ではありません。神さまの分野です。永遠なる世界ですし、この「私」の本質である世界です。この世の体はいずれは傷んで、滅んでいくわけで、いつかはこの体の世界から、魂の世界に移行しなきゃなんない。だれもがね、完全に。ですから、体が弱ってきたとき、痛いときにこそ、その移行の準備を始めるんです。祈りの内に、ひととき魂の世界に逃げ込むことは、いずれそちらへ完全に移る準備でもある。
そこはもう神さまに守られている世界ですから、体がどれほど痛もうと、現実がどれほどひどい現実であろうと、完全なる世界ですし、そういう世界があること自体が希望です。
それに、そこは一つの魂が大勢の魂ともつながってる世界でもあるので、孤独な世界じゃないんですよ。世界中の魂とも、さらには天上の魂ともつながっている世界。
私の母も、
苦しい時は、どうしたって自分の苦しみだけ考えますけど、そんなときこそ、全世界のすべての人の苦しみとつながる時でもある。魂の世界において、私たちは一つなんだって、そこへ思いを沈めていって、世界中で苦しんでる人と、そして、苦しみをくぐり抜けて今は天上で解放されている人たちとも一つになって、何とかこの苦しい夜をやり過ごす。
そして、あらゆる苦しみは、単に自分のために苦しんでるんじゃありません。だれかのため、すべての人のために苦しんでいるんですね。・・・イエスの十字架がそうであるように。だから私も、この苦しみを、同じくつらい思いをしてる人に捧げましょうと祈るんです。
それで、昨日と、おとといの夜は、祈りを捧げながら思いました。今一番祈りを捧げるべきは、身近な人でいえば、多摩教会で洗礼の準備している人たちだ、と。苦しみの中、洗礼の希望を支えに耐えている人も多いし、中には悩みの中で、洗礼を迷っている人もいる。そういう人のために祈りを捧げようと思って、痛~い思いを、ぜんぶお捧げしました。
今、洗礼準備の面接のシーズンなので、多くの方の話を聞いてますけど、「いや~、私はまだ、『洗礼』っていうところまでは、決心がつきません。洗礼志願の締め切りまで、あとひと月あるので、もう少し考えさせてください」っていう人もいるんですよ。ですから、そういう人のために、私は、「どうか神さま、求道者が本当にあなたの愛を受け止めて、あなたの救いを信じることができますように」ってお祈りしてるんです。
昨日の入門講座でもそんなお話をしたんですけど、目の前にその迷ってる人がいたんで、その人の顔を見ながらですね、「今、歯が痛くて苦しんでいるけれども、この苦しみを、洗礼を迷ってる人のためにお捧げしてるんですよ」って言ったら、ちょっと目をそむけた。(笑)
でも、私はですね、迷ってもしょうがないってこと、よく知ってるんです。だから、今も本人がそこにおられますけど、あなたにこれだけは、お伝えしたい。洗礼は、体の話じゃない。精神の話でもない。魂の話なんです。
「あとひと月考えさせてください」って言うけど、私は知ってます。あなたの考えは、何の役にも立たないっていうこと。「少しは」じゃないんです。
だけど、永遠なる魂の世界には、本当の平和がある。
皆さん、「魂」って、ちゃんと信じてますか?
「ホントに魂なんてあるのかしら?」なんて思うとしたら、もうそんなのキリスト信者じゃないですよ。これ、信仰箇条ですから。
僕が子どもの頃は、公教要理(※1)で、魂のこと、習いました。大まかに言えば、第1課が「神」、第2課が「創造」、第3課が「人」なんですね。で、その「人」のところで、最初に何を言ってるかというと、「人とは何ですか」っていう原点です。
あれ、問答形式だからね、まず問いがある。
「人とはどういうものですか」
すると、答えがある。
「人とは、魂と体とから成っているものです」
で、次の問いは、
「魂とは何ですか」
それに対する答えは、
「魂とは、神さまにつくられた霊で、人の生命や感覚、精神の働きの源です」
っていうようなことが書いてある。つまり、魂は心とも違うんです。むしろ、その人の体の生命とか、感覚とか、心の働きを生み出す、根源なんですね。
で、その次の質問。
「魂は死によって体と共になくなりますか」
答え。
「魂は、死によって、体と共になくなりません。キリストは、魂の不滅について教えてくださいました。『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな』(マタイ10:28)」
『公教要理』、もう最近、あまり開くこともありませんが、信仰の基本ですね。
人は、魂と体でできてるんです。魂は神によってつくられた霊で、すべての人に与えられ、人間の考えとか、さまざまな働きの源であって、それは体と共に滅びない。永遠なんです。そういう世界が、私たちのうちに確かにあって、その世界で私たちは神さまと出会っているし、本当につらいとき、そこに逃げ込むことができるんです。・・・永遠なる魂の世界に。
最終的には、だれもが、体を離れるんですから。皆さんももうすぐ、死ぬわけでしょう? そろそろ。(笑) 準備を始めましょう。最後の最後に「この世」を握り締めてどうするってことですよ。そこは離れて、魂の世界に移んなきゃなんない。その練習をしといた方がいいですよ。
「ああ、いよいよその瞬間が来たなあ」と思ったら、「晴佐久神父さん、説教で言ってたなあ」って思い出して、「この世の体の
むしろ、魂の世界でつながっている大勢の聖人たち、不滅の魂として生きているわが母、その手を握って、そして何よりも、この私の苦しみを背負ってくださっているイエスさまの手をこそ握って、不滅の魂の世界に引き上げてもらいましょう。
歯が痛いときとか、いいチャンスなんですよ。「ああ、痛くて痛くて、もうこれはかなわん」って思ったら、そろそろね、「あっちの
まあ、「洗礼」っていうものが、そもそも、そういう移行なんですけどね。この世に死んで、神さまの世界に生まれるってことなんだから。・・・あっちの世界はいいですよ♪
イエスさまが、「神の国は始まった」って、今日、宣言しています。
マタイでは、「天の国は近づいた」(マタイ4:17)ですけれど、この「近づいた」の意味する所ところは、「始まった」っていうことだと、私は思います。
「神の国は始まった」っていうふうに、読んでいただきたい。
「近づいた」っていうと、10キロ先から9キロ手前でも「近づいた」だし、3センチ先から2センチ手前でも近づいたですけど、そういう相対的なことじゃなく、もう「始まった」んです。決定的に。まったく新しい段階です。さっき、「新しい歌を主に歌え」って歌いましたけど(※2)、まったく新しい段階に、私たちは入ってます。もう始まっちゃったんですよ。
これは、魂の世界において、いよいよ神さまの国が完成していくっていう、その段階です。
もちろん、魂は体と心の源ですから、この世においても完成していくわけですけど、まずは、目には見えない魂の世界が、全く新しい段階に入ったんです。
「神の国は始まった!」
もうそこからは、私たち、元に戻りません。神の国を知らなかった時代には。
・・・安心してください、感謝してください。
教皇フランシスコの言葉を毎週お伝えしておりますけれども、先週もお伝えしたとおり、あのインタビュー記事(※3)で、教皇さま、おっしゃってましたよね。
「一番大事なことは何かというと、主イエス・キリストはすべての人を救われたという、幸いな知らせだ」と。
これは、まさに魂の世界における救いのことです。
それを知って信じることでこそ、この世において救われる。
しかも、「
「
ミサの初めに、鐘がカラカラ~ン♪って鳴ったら、「あっ、始まった!」って立ち上がるじゃないですか。その時点でミサはまだ完成してません。その後に福音が読まれ、ご聖体をいただくわけで、その時点ではまだ福音を聞いていませんし、ご聖体もいただいていませんっていう段階ですけれども、ともかく、ミサは始まったんです。誰も、このミサが途中で終わるなんて思ってない。「ああ、始まった! 救いがここに実現している!」、そう信じて、喜んで立ち上がったんでしょう?
今日のイエスの宣言、今の私たちへの宣言は、その段階です。
この宣言によって、私たちのうちに、もう神の国は始まってます。ミサは、もう始まってます。これをどれほど喜んだらいいか。ミサが始まらないことだってあるんだから。
この前の、侍者会の新年会の集まりに来た青年が体験談を話してくれましたけど、神父がたくさんいる、ある大きな教会で、ミサの直前に司式の神父さんが交通事故に遭って来れなくなったって連絡が入って、慌てて信者さんが他の神父さんに「代わりにミサをお願いします」って頼んだら、「いや、私は今日の担当じゃないから」と言ってやってくれなかったって。「集まっていた信者さんは、みんながっかりして、すごすごと帰っていきましたけど、あれ、どうなんでしょう?」って言ってた。なんだか悲しい話聞いちゃったなって思いましたけど、ね、ミサがないことだってあるんですよ。ミサがあるだけ、感謝しましょうね。
それどころか、信者が減って、神父も減って、毎週のミサがなくなっちゃったなんていう所、日本中にいっぱいありますよ。今日のミサ、晴佐久神父さん、3分遅れましたけど、そんなことで、あれこれ言ってはいけない。(大笑) ミサが確かにあるっていうことが、どれほどありがたいか。日本の隠れキリシタンたちは、200年以上、ミサを待ってたんですよ。最後の神父が殉教してから、200年以上ミサを待ってた人たちもいるんだから、5分や10分待ってなさい。(笑)
ミサが、確かにここに始まったんだったら、もうそれは、すごいことなんですよ。
今日もここでミサがある。これは、この世の出来事であると同時に、魂の世界の出来事です。ミサっていうのは、この世にありながら魂の世界を生きる神秘です。この世の論理とか、体や心の世界を超越してるんです。
こういう魂の世界が、確かに今ここにあることは、ホントに私たちの救いです。どれほどこの世で苦しんでいても、どれほど痛い思いをしていても、こうして魂の世界に入って来たら、ここはもう、幸い。
そして私たちは、「行きましょう、主の平和のうちに」(※4)と言われて、また、さまざまな問題のある現実世界に戻っていきますけど、私たちの本体、根源はここにあるんです。この魂の世界に。イエスさまがおられる、このミサの中に。
これを信じて、このミサに、ぜひ入って来ていただきたいっていうのが、「洗礼を受けましょう」っていうお誘いなんだから、顔をそむけないで、にっこり笑って、「はい」と言っていただきたいものですねえ。
教皇フランシスコも、魂の話をしておられるのをご存じですか。
これは、また別の編集長ですけど、いつかもお話した、左翼系の雑誌の無神論者の編集長との対談です。(※5) これ、教皇さまの方から電話かけたんですよ。「ぜひお会いしましょう」って。その編集長、ビックリ仰天して、「はい! 参ります」って、バチカンに行って対談しました。あのほら、その編集長が、「私は聖職権主義者に会ったときは反対者になるでしょう」って言ったら、教皇さまも、「私もそうです」って答えたっていう、あの驚くべきインタビューです。
無神論者のその編集長、「あなたは、神さまを感じられますか?」っていうような、ちょっとぶしつけなことを聞くんですね。正確には、「あなたは、神の
「恩寵は感覚で感じたりするものではないので、それは誰にもわかりません。恩寵は、自分の意識の一部ではないのです。知識や理屈でもない。恩寵は、魂の中に差し込む光なんです。あなたのうちにだって、知らないうちに恩寵が注がれてるんじゃないですか?」
すると、その編集長が、
「信仰も持っていないし、神も信じていない私のうちにですか?」
って言ったら、教皇さまは、
「はい。恩寵は、魂に働きかけるものです」
と、お答えになった。すると、編集長は、
「でも、私は魂なんか信じていないんです」と言った。
それに対して教皇さまは、
「あなたが信じていようといまいと、あなたには魂がありますよ」
ってお答えになった。
そうすると編集長が、こう言ったんです。
「・・・教皇さま、私は回心してしまいそうです」(大笑)
美しいやり取りじゃないですか。私、この素朴なやりとりに感動しますし、実際、回心したらいいと思いますよ。
だって、自らの魂も信じられずに、どうやって生きてくの?・・・ってことですよね。
教皇さまはその対談の最後の方で、こうもおっしゃってた。
「神は暗闇を照らす光です」と。
ちょうど今日の第一朗読のイザヤの預言と同じですね。(※6)
「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ9:1)
この「光」がね、私たちの魂に差し込むこと、これこそがすべてなんですよ。だから教皇さま、こんな言い方をしています。
「たとえ、私たちがその暗闇を理解できなくとも、神さまからの光は、私たちの魂のうちにあります。人類に終わりはあるけれど、神さまの光は永遠です。そして、やがていつか、神の国が完成する終わりの時には、
・・・美しいお言葉ですね。
教皇フランシスコが皆さんに、ちゃんと公教要理してくださいました。
「あなたが信じようと信じまいと、魂はある。あなたに理解できなくとも、その魂に神の光が差し込んでいる。その光はやがて
話しているうちに、痛みも和らいでまいりました。(笑) 皆さんの心の痛み、苦しみ、本当につらいその現実が、神さまの光で照らされますように。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)
※1:「公教要理」
・ 「カトリック要理」ともいわれる。現在は「カテキズム(英:catechism)」といわれているが、第2バチカン公会議以前は「公教要理」の訳語が用いられていた。
「カテキズム」は、キリスト教の信仰を伝授する教理入門教育のことをいうが、特に、近世以降に広まった書物としての教理提要(公教要理)や教理問答(問答形式で書かれた教義)を指すことが多い。(参考 : 2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店)
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※2:「『新しい歌を主に歌え』って歌いましたけど」
・ 本日(2014年1月26日〈年間第3主日〉)の入祭の歌は、典礼聖歌第3番「新しい歌を主に うたえ」で、答唱部分は「新しい歌を主に歌え」という歌詞。
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※3:「あのインタビュー記事」
・ 「教会は野戦病院であれ」 (「福音の村」2014年1月12日<主の洗礼>説教)
・ 「主に見つめられているもの」(「福音の村」2014年1月19日<年間第2主日>説教)
*****
〔参考〕インタビューの掲載記事は、以下の雑誌に掲載されています。
・『中央公論』 2014年1月号(2013年12月10日発売)
同誌で「教会は野戦病院であれ」のタイトルのもと、12ページにわたり掲載。
「La Civiltà Cattolica」・・・「(カトリック文明)」イエズス会の雑誌に2013年9月19日号で掲載された記事の翻訳版。
インタビューの質問者 : アントニオ・スパドロ神父〈Antonio Spadaro, S.J.〉(Civiltà Cattolica編集長)
「中央公論」(2014年1月号)の記事での翻訳 : 門脇佳吉神父(上智大学名誉教授)
(2014年2月1日現在、Amazonでは古書が販売されていますが、楽天ブックスなどでは、完売となっています。購入したい方は、『中央公論』のHP、「中央公論.jp」の「バックナンバー」からどうぞ)
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※4:「『行きましょう、主の平和のうちに』と言われて」
・ ミサの終わり、「閉祭の儀」で、司祭が会衆に「閉祭のあいさつ」として呼び掛ける言葉。
「閉祭のあいさつ」
司祭 : 感謝の祭儀を終わります。行きましょう、主の平和のうちに。
会衆 : 神に感謝
この後、閉祭の聖歌を歌い、司祭は退堂、ミサは終了となる。
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※5:「いつかもお話した、左翼系の雑誌の無神論者の編集長との対談です」
・ 「ずぶぬれの教皇フランシスコ」(「福音の村」2013年10月27日<年間第30主日>説教)
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※6:「第一朗読のイザヤの預言」
・ 本日(2014年1月26日〈年間第3主日〉)の第1朗読、「イザヤの預言 8・23b~9・3」
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※7:「神がすべてにおいてすべてとなるのです」
・ (参考) 使徒パウロのコリントの信徒への手紙(一) 15:28
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