2014年9月7日年間第23主日
・第1朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル33・7-9)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ13・8-10)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ18・15-20)
【晴佐久神父様 説教】
雨模様の中、大勢集まりました。日曜日の朝にこうして、忙しかったり、天候が悪かったり、体調に問題あったり、いろいろある中こうして集まるのは、本当になんか美しい光景です。
私、ミサ前は2階の窓からいつも、ブラインドの陰から、(笑)「あっ、またタクシーが着いた」「おっ、次々と橋渡って来るぞ」「あっ、バス降りて来たな」って眺めてるんですけど、こう、・・・いい光景なんですよ。神さまの恵みの中、祝福されて集まって来る、信じる人たち。
新しい季節、元気にまた毎週集まって、お祈りしましょうね。
体調、いかがですか? 代々木公園に行ったりしてませんか?(笑) デング熱、新宿の公園もアヤシイらしいっていう昨日のテレビのニュース聞いてたら、街頭インタビュー受けた人が、「代々木の話だと思ってたんですけど、まさかこの新宿で」とか言ってるのを聞いて、思わず画面に突っ込みましたよ。・・・「蚊には、代々木も新宿もないだろう」って。(笑)
これ、「正常化バイアス」(※1)ってやつですね。 みんな、「自分だけは別」って思ってるんですよ。「ここは平気」って思ってるんです。「自分は関係ない」って。
でも、これはキリスト教の信仰にもかかわる問題です。「自分だけは別」って思っちゃう心。「正常化バイアス」というか、「傲慢」というか、自分を特別視する心です。これ、誰もが持ってる脳の傾向だから、ある意味しょうがないんですけどね、少しはこう、何ていうんでしょう、常に訓練っていうか、毎日自分の胸に手を当てる練習みたいなことはしましょうね。
・・・要するに、「私も悪い」っていう話ですよ。
みんなすぐに人を責めたり、罪人だと決めつけて裁いたりしてますけれども、そんなときに、チョット、一瞬、胸に手を当てて、「でも、私もおんなじだよね」と。「そういや、私も若い頃、ああだったよね」とか、「俺もついこの前、同じことやっちゃったよな」とか、「考えてみたら、自分もいつも、心の中ではひどいこと思ってるなあ」とか、常にスッと胸に手を当てる練習、やっぱりしましょうね。
「正常化バイアス」っていうのは、「自分は別」っていう思い込みです。
福音書で、「誰かがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(cf.マタイ18:15)って、イエスさま、サラッと言ってますけど、これがなかなか難しいですね。自分がそうできていないって気づいてる人、少ないんじゃないですか。
ひどいことされると、「あの人はひどい」って、言いふらしちゃいますもんね、どうしても。誰にも言わずに胸に収めたり、その人だけと向かい合って話し合わずに、言いふらしちゃう。本当は、相手と信頼関係をちゃんとつくって、「自分も弱い人間、罪びとだから、君がそうする気持ちもよくわかるけれど、悪いことは悪い。そういうのはよくないよ」って、共感と信頼関係の中で、ちゃんと忠告するべきなんでしょうね。
そうすれば、相手も「悪かった」っていうような思いになって謝るかもしれませんし、こちらも、「いや、こっちにも問題あったんだよ」なんて言えるかもしれませんし、「兄弟を得たことになる」(マタイ18:15)んじゃないですか。・・・これ、最高の方法ですよ。
私たち、本人に言わずに、どうしてもあちこちで言いふらしちゃいますからね。
「神父さま~っ! あの人おかしいんじゃないですか?」なんてね、まず教会に申し出てくる人がいますけどね。(笑) 「本人とはちゃんと話し合ったの?」って聞くと、「いや、まだです」って言うから、「まず、本人とよく話し合いましょうね」っていうケース、多いですねえ。
先週のカトリック新聞で、教皇さまが、「教会の中でうわさ話をするな」って(※2)、これ、以前からあの方、よく言うんですね。たぶん、よほどそういう教会を見てきたんでしょう。
「あの人はちょっとね~」とか、「今度来た人、困るわね」とか、「あいつ、あんなことしたんだよ」とか、「あるとこで聞いたんだけど、あの人にはこんなうわさがあるのよ」とか、まあ、あっちの隅、こっちの隅で、ヒソヒソ、コソコソやるわけですよ。世の中はそういうの大好きですけれど、「教会は、世の中とは違うところであろうね」っていうのが、教皇さまの強い要望です。
たとえ何かあっても、まずはその人に直接会って、二人だけで、「ホントにそうなの?」と確認したり、「どうしてそんなことになっちゃったの?」ってね、いろいろ事情を聞いたり、時にはいさめたり、時には同情したり、励ましたり、まあ、そういう、この「二人だけ」(マタイ18:15)っていうとこからちゃんと始めないと、うわさがうわさを呼んで人を傷つける。しまいには自分をも傷つける。
・・・でも、これをやっちゃうんですよね~。
ついつい嫌なことされたり、誰かに腹立ててムッとすると、本人と解決しないで、いろんな席で
私もムッとくること、結構あるんですけど、たとえばこの前の無人島キャンプ・・・・。
島に渡る前に買い物に行くわけですよ、大きなスーパーで、全員で買い物する。みんなにメモを渡してね、それぞれ分担して買い物をするんです。16人が1週間以上食べるわけですから、結構な買い物ですよ。
ある青年に、「みそ汁80食分」って書いて渡しました。インスタントみそ汁です、生みそタイプのね。小袋に入っているのを80食分。
皆さんはもちろん主婦ですから、「インスタントみそ汁80食分」っていったら、80人分買うわけでしょ。誰も間違えはしない。
でも、彼らはね、スーパーでの買い物なんて、ろくにしたことないんですよ。だから、インスタントみそ汁のコーナーに行くでしょ、そうすると、小分けの一袋なんて、売ってっこないじゃないですか。売ってるのは10袋入りのみそ汁です。ご存じですよね、私もよく買いますよ。時に、「増量サービス12袋」っていうのもある。(笑)
そうするとですね、「みそ汁80食分」っていったら、彼らはなんと10袋入りのみそ汁を、80袋買ってくるんですよ。(笑)
・・・800食ですよ!(大笑) スーパーのレジ袋、二つにいっぱい。
他にも山のように買い物するから、そのまま誰も気づかずに合宿所に着いて、さあ、買ってきたものを開いてみたら、みそ汁が800食出てくる。(笑) 「ホントに、何やってんだ!」っていうか、もう、腹立つんですよ。だって、この無駄になる分のお金、ぜんぶ私持ちですよ。(笑)
一所懸命、無駄のないようにあっち切り詰め、こっち切り詰めしてるのに、台無し。考えりゃわかりそうなもんでしょ、800食も飲めるわけないじゃないですか~。
・・・っていうふうに、他人の悪事をベラベラしゃべりまくるなってことです。(大笑)
言いたくなるんですよね。これ、腹にしまっておけないんですよ。買い物くらいちゃんとやってくれよって。まあ、みそ汁買い過ぎたくらいだったらともかく、他にもね・・・ああ、こうなったらもう、ぜんぶしゃべりたい。
キャンプ後半の話ですけどね。島から帰ってきて、合宿所で3泊、後片づけをするんです。
その3泊分は、また買い出しに行くんだけど、
で、これこれを買って来てっていうメモを若い子3人に渡して、・・・まあ、「若い子3人に任せるのが間違いだ」って言われればそうかもしれませんが、3人で船に乗って、スーパーへ買い物に出かけたんです。およそ4万円分の買い物です。
このスーパーには、「お買い上げ品をフェリーまでお届けします」っていうサービスがあるんです。親切ですよね、申込用紙に自分の名前とフェリーの名前を書いておくと、買った物をぜんぶ、そのフェリーに載せといてくれるっていうサービス。これは便利です。
で、それを申し込んだら、この3人、すっかり安心しちゃって、久しぶりの街ですから、あっちの店のぞいたり、こっちの店で
ところが、あわててフェリーに電話したら、不思議なことに、「いいえ、そんな荷物は載っていません」って言うんです。どういうことかと調べてみたら、なんとこの3人、3人そろってフェリーの名前を書き間違えていて、買ったもの全部、別の船に載って、別の島に行っちゃったんです。・・・4万円分ですよ。
買い直すわけにもいかず、取り戻すしかない。結局、海上タクシーに頼んで、その別の島までわざわざ取りに行ったんですって。この費用が1万円以上。
・・・これ、ぜんぶ私持ち。 ・・・言わずにいられますか?(笑)
まあ、もちろん、責めてるわけでもないんで、こんな笑い話だったら言ってもいいでしょうけどね。言われてる本人も、逆に喜んだりしてました。昨日のミサでこの話したら、「オレのネタだ~♪」なんて。しまいに、「ネタ提供したんだから、感謝して」なんて言うから、また腹立つんですけどね。(笑)
まあ、多くの場合は、言いふらされると傷つきますよね、自分のこと、知らないところで悪く言われてるって。・・・傷つきますよ。
最初っから二人っきりで、ちゃんと解決すればいいものを、大勢に言いふらして、しまいには人民裁判じゃないですけど、囲んで責めるみたいな話になったら、その人傷ついて一生忘れられませんし、そんなのキリスト教徒のすることじゃない。・・・われわれの救い主は、逆に、みんなに囲まれて、悪口言われて、つば吐きかけられて、身に覚えのないことで責められたっていう、そういう人が教祖っていうかね、そこから始まってる宗教なんで、なんか世の中と違ってなくっちゃね。
むしろ、自分がそうされてもしょうがない人間だっていうこと、自分も罪びとだっていうことを、しっかりと見つめて、そして、他の人がそうであっても、ゆるすとか、受け入れるとか。
そうして二人っきりでは解決しなければ、他に一人か二人連れていって解決しましょうと。(cf.マタイ18:15-16)
私思うに、たいていのことは、「二人っきり」とか、せいぜい二人、三人の間で、もう解決するんじゃないかと思うんですけどね~。それでも聞き入れなければ、教会に申し出る。(cf.マタイ18:17)
今日も司牧評議会がありますけれども、でも、そういうことになる前に解決できるっていうのが、キリスト者の誇りじゃないですかねえ。・・・そうあってほしいです。
自分のことを、ついつい棚に上げちゃうっていう、そういう私たちの習性にあらがうためには、やっぱり、「常に胸に手を当てる」っていう、これ、訓練ですよね、一種の。
・・・そうはいっても、私も悪い。
・・・そうはいっても、私も弱い。
そう認めて、胸に手を当てる。
考えてみれば、買い物に不慣れな若い子が、精いっぱいやったけど買い過ぎちゃったら、「それもいい経験だよ、ちゃんと詳しく指示しなかったこっちも悪かったね」って言うべきなんですよ。
フェリーに乗り慣れてない3人を、ろくな説明もせずに放り出して「さあ、買ってこい」っていうのも、酷な話です。乗り遅れた時、どんなに焦ったか。荷物が載ってないって聞いた時、どんなに心配したか、それを高いお金払って取り戻しに行く船の中で、どんなしょげた気持ちだったか。またあのイヤミな神父に、イジワル言われるのかと思って、(笑)暗~い気持ちでいたことでしょう。
私の友人の神父も参加してたんですけど、3人がようやく帰って来た時、その神父が港まで車で迎えに行ったんですね。なんの連絡もしてこなかったので、こっちでは何があったかわからず、なんでこんなに帰りが遅いんだろうって心配してたんですけど、その神父は、港から連れてくる間に、彼らから事情を聞いてるわけですよ。だから、戻って来たら、3人を私の所に連れてきて、
「さあ、何があったか、自分の口で言ってごらん」って、ちょっとおどけて言ったんですね。
それで彼らは事のてんまつを、申し訳なさそうにしょんぼりと話してくれた。
実はそれを聞いてる時、なんだかすごく懐かしいというか、切ない気持ちになりました。
・・・ありましたよね、子どものころに、そんな出来事。懐かしいです。何か壊しちゃったとか、弟とけんかして泣かせちゃったとか、何か失敗したり、叱られるようなことした時に、あとで
叱られることは分かっていて、ぼそぼそと語っているその姿はいじらしいというか、その気持ちはよくわかります。だって、自分もたくさん経験しているから。・・・その気持ちさえわかればね、責めたり裁いたりする気持ちもなくなるはずですよ。
ああ、俺もそういうことあったなあ・・・と。親父に叱られるのをしょんぼりと待っていた、あの切ない時間を思い出します。で、叱られるわけですけど、でも、結局はぜんぶゆるしてもらってね。そうして、結局は何でもゆるしてもらってきたからこそ、「自分もゆるされたんだから、人もゆるそう」っていう気持ちになるわけでしょ。
一人ひとりに、そういう弱いところ、失敗しちゃったこと、それこそ悪霊に取りつかれたかのように魔が差したみたいなこと、そういうこといっぱいありますけど、お互いさまなんだし、キリスト者には、「すぐに胸に手を当てる練習」が、やっぱり必要だと思う。
特にキリスト者の集いであるミサの時なんかは、回心の祈りを唱えたり、「主よ、憐れみたまえ」って言ったり、「世の罪を取り除きたもう神の子羊よ」って祈ったりしてるんですから、この恵みのときにこそ、「いつも胸に手を当てる練習」をしたらいいと思いますよ。
昨日、土曜のミサによく来てる方が話してくれて、私すごくうれしかったんですけど、「回心しました~!」ってね。・・・ホントにうれしかったです。
彼が言うには、晴佐久神父さんの話、説教をいつも聞いていたけど、やっぱりどこか人ごとのように聞いていた、自分のことだってわかってなかったって。
私の話は、「自分もゆるされてるんだから、人をゆるそうよ」とか、「自分も福音を伝えられて救われたんだから、人にも福音語ろうよ」とか、そういう話が多いんですけれど、それ、いくら聞いていても結局は「人ごと」になっちゃうってことあります。まさに自分のことだって感じられない。あるいは、ミサの時はちょっとはそう思えても、門を出たらもう、胸に当てた手が離れてっちゃうみたいな、そういうことばかり。
でも、この昨日の方は、涙声で言うんですよ。
「神父さん、今週はいろいろとみんなからも助けられて、ホントに、目からうろこのように、心が開けました。自分も、みんなから世話になって大切にされているんだから、人をもっと大切にしよう、優しくしようって。いつもは、ついイライラしたり、怒ってクレームつけたりすることばかりだったけれども、今週はそういう気持ちを抑えて、一生懸命お祈りするようになった。それは自分にとっては劇的な出来事で、それを神父さんにどうしても報告したかった」って。
これぞまさしく、回心の体験ですね。ちょっと涙声で話してくれて、うれしかったです。
神の愛、ゆるすこと、福音を語ること、それを「そうか、自分のことなんだ!」って気づく。・・・キリスト教って、そこなんですよ。神は私たちを愛している、ゆるしている、私たちを遣わしている。
・・・ホンットにそうなんです。
ハタと、「あっ、それ、私なんだ」「なんだ、俺のことなんだ」と、こう気づくとき。
・・・どうしても、「自分だけは、ちょっと別」って思っちゃってるんですね。「まあ、こんなもんでしかないよ」なんて思い込んでいたり、「自分なんかには無理だから関係ない」って決めつけていたりしがちなんだけど、ハタと目が覚める瞬間が訪れる。美しいですね。
今日のミサ、そうあってほしいです。
その方が、さらにこう話してくれました。
つい昨日、知り合いの方がね、もう高齢の女性ですけれども、ご主人が病気で家で寝込んでいて、すごくつらいって、その方に打ち明けたんですね。彼女が言うには、「もう希望が持てない、人生が終わっちゃったような気持ちでいる」って。で、彼はちょうど回心したところですから、「ここだ!」と思った、と。「いつもお説教で言われているように、この私が、ここで勇気を持って、福音を語ろう!」って思えたんですね。それで、
「奥さん、そんな後ろ向きじゃいけません」と、
「もっと前を向きましょう。恐れていてはいけません」と、
「信じましょうよ。きっとだいじょうぶです」と、
もう、晴佐久神父の言葉を借りて、一生懸命そういうふうに申し上げた。
そうして、「『ぜひ、教会に来てください。いいお話、いっぱい聞けますよ』と、勇気を持って言えました」って、そう言ってくれたんです。そして、
「この方に、何か本をプレゼントしたいけど、どんな本がいいでしょう」って言うから、
「そりゃ『十字を切る』(※4)でしょう」と申し上げたら、
「今度『十字を切る』を手に入れて、その方に贈る」って言ってました。
・・・うれしいですね。目に浮かぶようですよ。
そのご婦人が本をいただいてね、「まあ、どんな本かしら?」って読んでみて、「ああ、そんなことだったら、ぜひ、短いお祈りでも捧げよう」っていう気持ちになり、つらいご主人の枕元で、本人も暗い気持ちを一生懸命抱えながらも、希望をもって、生まれて初めてそ~っと十字を切る瞬間っていうのがね、もうすぐ訪れるんです。・・・きっとそうなる。
きっと、教会に来てくださるんじゃないですか。もしかしたら洗礼受けるかもしれない。もしかしたらご病気のご主人だって、洗礼を受けるかもしれない。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」(cf.マタイ18:18)って、さっき、イエスさま、言いました。
一人の人が開心(回心)して、勇気を持って、口を開いて関わるとき、「自分も聞いて救われたんだから、自分も口開いて救おう」とか、「自分もこんなにゆるされて、愛されてきたんだから、この瞬間、グッと
「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」(cf.マタイ18:18)
「どんな願い事であれ、そうして心を通わせ合って、心を一つにして求めるなら、天の父はかなえてくださる」(cf.マタイ18:19)
この後、「共同祈願」(※5)もありますけど、お互いのために祈り合いましょう。「心を一つにして求める」ことが大事ですよ。「自分の祈り」「自分の願い」っていうより、隣りにいる、見も知らぬ人かもしれないけど、「この人の心の願いがかないますように」みたいなお祈りがいいんじゃないですか? そうすると自分も祈られることになりますしね。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)
このミサが、イエスさまが共にいるミサであることに、私は感動しますし、そのようなミサとして、今日もこのミサをお捧げします。
まごころから祈りましょう。
今日は特に、私は名前も知りませんけれども、今お話ししたその奥さまと、病気で寝込んでいるご主人のために、みんなで心を一つにしてお祈りしましょう。
今日のミサ自体を、そのお二人のためにお捧げしましょうよ。
きっと、なにかすごいこと、起こるんじゃないですか? 「天の父がかなえてくださる」(cf.マタイ18:19)こと。
【 参照 】
※1:「正常化バイアス」
心理学用語。正常性バイアス、正常化の偏見、正常への偏向、日常性バイアス、恒常性バイアスなどとも呼ばれる。「バイアス」は、偏見、先入観の意味。
異常事態に直面しても、それを正常の範囲内としてとらえ、心を平静に保とうとする働き。
「大事には至らないはずだ」、「自分だけは大丈夫」という思い込み。
災害発生時など非常事態の際にも、危険を軽視してしまい、避難や初動対応が遅れる原因となるケースも見られる。
(参考)
・ 「新しい医療用語 正常性バイアス」(「総合南東北病院」-広報誌『南東北』170号)
・ 「正常性バイアス」(「認知バイアス」〈ウィキペディア〉)
・ 「正常化の偏見」(ハザードラボ)
◆ 「正常化バイアス」については、以前の説教でも話題になった。
>>> 「見過ごしたくない」(2013年8月11日〈年間第19主日〉)の2段落目くらいからお読みください。
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※2:「先週のカトリック新聞で、教皇様が、「教会の中でうわさ話をするな」って」
カトリック新聞「羨望や嫉妬 反キリスト教的 教皇、一般謁見で教会について講話/バチカン8月27日CNS」2014年9月7日号
◆ 記事内では、教皇フランシスコの8月27日、バチカンでの一般謁見での講話として、紹介されており、その講話は、以下から読むことができる。
>>> 「教皇フランシスコ、2014年8月27日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
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※3:加計呂麻島(かけろまじま)
晴佐久神父が「無人島キャンプ」のベースキャンプを置いている島。
(地図)
それぞれの地図は、クリックすると、Googleマップが別ページに表示され、詳細にご覧いただくことができます。
(参考)
・ 「ようこそ加計呂麻島へ!」〈KAKEROMA.COM ホームページ〉(加計呂麻島を紹介する代表ホームページ)
・ 「加計呂麻ウェルカム」〈kakeroma welcome〉(画像がたくさん掲載されている、美しいホームページ)
・ 「奄美・加計呂麻島なんでもありBLOG」(「ようこそ加計呂麻島へ!」の管理人さんのブログ)
・ 「加計呂麻島」(ウィキペディア)
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※4:『十字を切る』
晴佐久神父が司祭25周年を迎えた2012年に初版発行の随筆集。
あとがきには、「特に今、つらい思いを抱えている方、病床にある方、魂の救いを求めている方にこの本が届き、この世に十字の祈りが一つでも増えるならば、何よりの喜びです」とある。
誰でもいつでも、簡単に触れることができ、親しむことのできるキリスト教を、「十字の祈り」と共に紹介している。
(参考)カトリック多摩教会の月報「多摩カトリックニューズ」9月号の主任司祭巻頭言、「十字を切る」にも、晴佐久神父本人によるエッセイが掲載されております。よろしければ、ご一読ください。
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著者: 晴佐久 昌英
出版社: 女子パウロ会
価格: 1,404円(税込)
判型: 四六判/並製/218ページ
初版発行: 2012年10月25日
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◆ 購入をご希望の方は、Amazon、女子パウロ会オンラインショップ、またはお近くのキリスト教書店などでお求めください。
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※5:「共同祈願」
カトリックのミサは、1.開祭 2.ことばの典礼 3.感謝の典礼 4.閉祭 の順に進められる。
「共同祈願」は、「2.ことばの典礼」の締めくくりに当たる。
(「2.ことばの典礼」は、①第1朗読、②答唱詩編、③第2朗読、④アレルヤ唱(四旬節には詠唱)、⑤福音朗読、⑥説教、⑦信仰宣言、⑧共同祈願から成る。)
この「共同祈願」で、会衆は、信仰のうちに受け入れた神の言葉に応じ、神の民として、神に祈りを捧げるが、これは、全世界に広がっている教会の、聖徒の交わりを実現し、具体化するものといえる。
意向は通常、次の順序に従って行われる。
a.教会の必要のため、b.国政にたずさわる人々と全世界の救いのため、c.困難に悩む人々のため、d.現地の共同体のため。
祈りへの招きと結びの祈りは司式司祭、意向は助祭あるいは先唱者が唱え、会衆は、各意向の後に、共同で答唱句を唱和する。このとき、会衆は立って、祈りが自分ものであることを表現する。
(参考)
・ 『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』2006年,オリエンス宗教研究所
・ 「ローマ・ミサ典礼書の総則<暫定版>」(PDFファイル)2004年,p.25-26「共同祈願」,カトリック中央協議会など
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