十字架は重くない

【カトリック浅草教会】

2016年6月19日 年間第12主日
・ 第1朗読:ゼカリヤの預言:(ゼカリヤ12・10-11、13・1)
・ 第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ3・26-29)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・18-24)

【晴佐久神父様 説教】

 今日は千客万来!
 右側におられる方々は、三軒茶屋(さんげんじゃや)教会(※1)の「ヨゼフ会」で、紳士がずらりと10名ほど座っておられます。左側に座っているのが、二俣川(ふたまたがわ)教会(※2)の中高生会。・・・ぐっとお若いです。(笑) こうして、三軒茶屋教会の紳士たちと、二俣川教会の若者たちが、浅草教会で出会う。・・・いいですねえ。神さまが結んでくださいました。この素晴らしい仲間たちで、今日のミサを感謝のうちに捧げます。
 年代も、経歴も、それぞれの思いもぜんぜん違いながら、「キリストにおいて一つに結ばれている」っていうこの仲間たちが、こうして集まってミサを捧げている。これがどれほど素晴らしいことか。ミサは「天の(うたげ)の先取り」です。先ほどパウロが言っていたように(※3)、やがて私たちは、ユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷の者も自由な者も、男も女も、そういうこの世の区別や差別なんかまったく関係なく、み~んな神の子として天の国に迎え入れられて、今のわれわれには想像もつかないような恵みの世界を始めます。・・・まだ私たちは、その日々のことを詳しくは知りませんけれども、でも、私たちは信じて、憧れて、天の宴の先取りのミサを捧げます。
 ここにいるのは、年配の方も若い方も、何教会であれ教会に所属していない人であれ、いい子悪い子関係なしに、みんな神さまの恵みの世界に向かう旅人なんです。仲間なんです。共に歩む家族なんです。そういう旅する家族がこうして集まって、まあ、ある意味、「もう着いたも同然!」みたいな気持ちで、この天の宴の先取りをしている。
 さらに言えば、今ここには、もうすでに天の宴の世界へ生まれていった大勢の人たちも共にいます。目には見えませんけれども、ここにいる私たちよりもはるかに(・ ・ ・ ・)多い、先に宴に入っていった人たちがみんな共にいて、天に向かう旅路を守り導いてくれる。・・・ミサはやっぱり励みになります。
 旅路の途中、この世では、いろんな試練があります。先ほどイエスさまが言ったみたいに(※4)、「十字架」(ルカ9:23)もあります。でもそれは、ものの数ではない。パウロに言わせれば、「与えられる栄光に比べれば、この世の苦しみなんて取るに足りない」(cf.ローマ8:18)と。・・・もちろん、つらいことはつらいですよ。病気は苦しいし、災害にもあうし、確かにいろんな苦しいこともあるけれども、でも、その先の恵みの世界に比べたら、「取るに足りない」って。だから、それを想像しましょう。・・・どれほどの恵みの世界、喜びの世界が待っているかと。
 実を言うとですよ、私たちはそれを、まったく知らないわけじゃない。先週上野でお話ししたんですけど、「失楽園」(※5)ってご存じでしょ? 創世記の一番最初に書いてある。ぼくらはもともと(・ ・ ・ ・)そこにいたけれど、今はそこから離れている状態だと。・・・まあ、なぜかはともかく、神さまのもとから離れているんですね。それを「罪」と呼んだりもするわけですけれども、重要なことは、われわれは、そこに「帰る」んだということです。・・・新しい楽園を開拓するわけじゃない。まったく知らない所に、「すいません、私も入れてください」って恐る恐る入っていくわけじゃない。「帰る」んです。本来、われわれが、そこにいるべき所、そこに私たちは、「ただいま~!」って、堂々と帰るんです。
 記憶にはないけれども、私たちの中に、そのような本来いるべき所に戻ろうとする力があるし、そこを本質的に、だれもが魂の世界では、もう知ってるんです。
 私たちは、実はもう、本人が気づいていなくとも、楽園の恵みを先取りして持っております。イエスさまご自身こそが、天の国の究極の先取りですから、しっかりとつながって、私たちは主と共に、主に導かれて、楽園に帰ってまいりましょう。

 先ほど、ミサの直前に、「愛するペットを失って、とてもつらい。なにか、追悼ミサのようなことはできないか」という方のお話を伺っていたところです。「ペットロス」で、本当にさみしく、つらい思いをしている方が、今、このミサに出ておられるので、少し励ますお話をしましょうね。
 まあ、ペットも家族同然ですからね、「ワンちゃん、ネコちゃんは寿命も短いし、しょうがないでしょ」とかって、周りの人が簡単に言うことはできないです。ホントに、わが子同然に、愛して、大切にしてきたわけですから。・・・実際、今までにも、何度も頼まれたことがあります。「愛するペットの葬儀ミサをしてくれないか」って。
 実を言うと私の祖母も、愛する犬を亡くしたときに、葬儀ミサを教会に頼みに行って、神父さんに断られたっていうのを、私、目の当たりにしてます。(笑) まだ子どもでしたけど、「え~? 別に、ミサくらいしてあげたらいいんじゃないの?」って心の中で思ったのを覚えてます。「動物には魂がないから」とか、そんな理由だったと思いますけど。
 だけどね、これ、実は、動物たちには葬儀ミサとか必要ないんですね。葬儀ミサでは、残された者が神さまに、「亡くなった人が天の国に迎え入れられますように」ってお祈りしたりするわけですけど、動物たちには、そんなお祈り必要ないんです。なぜなら、彼らは失楽園してないから。
 創世記によれば、人間たちは罪の結果、神さまから離れてしまいます。約束を破り、恐れが芽生え、すなわち「罪」によって、「死」を知ってしまった。でも、動物たちは、罪を犯していない。楽園で、神さまと一緒に楽しく暮らしてる。そこから離れていったのは人間だけです。
 だからある意味、動物たちは初めから死を超えた存在なんですね。神さまの永遠の恵みの中を生きているわけで、その意味では「救われる」必要がないんですよ。動物たちは、生きてる間も決して罪を犯しませんでしょ? 彼らは楽園の住人なんです。
 だからこそ、ペットは人を癒やすんですね。天使のように楽園から遣わされて、罪に苦しむ人たち、汚れた人間たちを慰め、励まし、癒やしてくれる。澄んだ目をクリクリッとさせてね、私たちを見つめる。そのまったく汚れのない彼らが、人間たちの寂しさとか、いら立ちとか、恐れとかを癒やしてくれる。
 ペットっていうのは、そういうことでしょ? 天使みたいなもんですね。天使に葬儀ミサは必要ないんですよ。彼らはこの世の生を終えたら、本来の楽園に真っすぐに帰って、この世以上に楽しく走り回ってるでしょうし、やがて飼い主さんもそこに帰って行くわけですけれども、その日、ペットは飼い主のもとに真っ先に走り寄ってくれるんじゃないですか? そうして、また抱き締めることができますよ。・・・あなたも、いつの日かそんな日が待ってるって、信じてくださいね。
 今日、お骨を持って来たっていうことですけれど、葬儀ミサこそしませんが、ミサの後でね、聖水で祝福して、お祈りいたしましょう。でも、それで十分でしょう。というか、むしろ彼らの方が、楽園でわれわれのために、いっそう天使的な働きをしてくれている。・・・そう信じていただきたい。
 楽園は、本来われわれがいるべき所。やがてそこで、すべての生きものが、すべての人たちが、今争っている何とか国だとか、何とか人とか、もうそんなバラバラなものが、ぜんぶ神さまの恵みの中で一つになるときを、私たちは待ち望みます。この世はそこに向かう旅路ですから。
 ・・・試練はある。しかし、それは何ほどのものでもない。やがて、この世のものは、まったく必要なくなるのですから。

 先日、浅草教会の最高齢の方が、104歳で亡くなりましたけれども、なんと、最後は八日間、何も飲まず食わずでした。最期を在宅で看取られたんですけど、最後まで点滴とかも一切やらなかった。確かに、針を刺したりチューブを入れたりするのがね、その人をホントに楽にする、幸せにするとは限りませんから。周りのサポートもあって、ご自分の家で、最期はまったく飲まず食わず、水一滴も口にせずに八日間。私、お訪ねしたときはもう何も召し上がらなくなって二日目くらいでしたけど、その姿を見たとき、なんか、清らかで、天国がもう始まっているような、そんな恵みの世界を感じました。
 「何も飲まず食わず」って、つまり、もうこの世のものは必要なくなるってことなんですよね。・・・必要なのは、「神の愛」のみ。
 神から頂くまことのいのちに至る水、神から頂く永遠に消えることのない恵み、それに生かされていれば、この世で経口で何か飲むとか、管で栄養を入れるとか、もう必要ない。本来的に人間って、そういう生きものなんですね。もちろん、この世を生きる上では、この世のものを必要とします。この世のものを食べたり飲んだりしますけれども、それは決して最高のものではない。最後の最後は、この世のものをぜ~んぶ手放して、しかし、この世とは比べものにならない、最高の楽園が待っているのだという希望に支えられて、私たちは、この人生という旅路を歩んでいくわけです。・・・清々しいですね。
 昨日その話をしてたら、ある青年が、「うちのおじいちゃんは、最後はいろんなチューブをたくさん差されてかわいそうだった」って言ってました。病院だと、鼻から、のどから、両手にも、すごいたくさんの管差しますもんね。それはある意味、「この世に引き留めよう」っていう、そういう管に見えなくもない。・・・もちろん、象徴的な意味ですよ。医療は大事ですし、お医者さまの判断も大切にしますけれども、象徴的に言うと、「この世に引き留めよう」っていう管の数々は、「なかなか天国に行かせてもらえない」とも見えて、やっぱりつらそうですもんね。
 その青年のおじいちゃんは、最期に、何かしゃべりたそうにしてるんだけども、気管に管を差し込まれているし、酸素マスクも付けているしで、しゃべれない。それで、周りの家族が、「おじいちゃん、何か言いたそうだし、もう最後の言葉になるかもしれないので、管を外してほしい」って言ったら、お医者さまが、「外すと死んじゃいますよ」って言う。でも、どのみちもうすぐなわけですし、最後の言葉ってやっぱり聞きたいじゃないですか。だから、「ちょっとだけでもいいから、外してください」って頼んだら、お医者さまが、「じゃあ、ちょっとだけですよ」って外した。すると、おじいちゃん、ひと言、「この病院は、刑務所よりもひどい!」(笑) するとお医者さんが、すぐにまた、口にマスクを・・・。(笑)
 私、その話を聞いてね、やっぱり「この世に引き留める」っていうことしか知らなかったら、医療も、本人も、周りの家族もつらすぎるなって、そう感じました。
 この世しかないんだったら、必死に、たとえ何分かでもこの世に引き留めようとする。・・・それが悪いことだとまでは言わないけれども、もしも、「本来帰るべき所にもうすぐ帰るんだ」「この世の十字架の道を終えて、復活の栄光の世界に、今、向かってるんだ」っていう信仰があったら、病院も、家族も、本人も、「今、とても大切なときを迎えている」という信仰のうちに、無理をせず、苦しめず、祈りのうちに、最後のとき、すなわち真の誕生のときを迎えることができるんじゃないか。・・・われわれの信仰は、そういう信仰でしょう。

 イエスさまが、「自分の十字架を背負ってついてきなさい」って言いました(cf.ルカ9:23)
 普通はそう聞くと、十字架だなんて、つらいものですからね、「背負ってついてこい」って言われても、「なんか重いなあ・・・」というか、「十字架なんて、ない方がいいのになあ・・・」って、普通はそう思う。でもイエスさまは、「重荷を負わせよう」って言ってるんじゃなくって、「十字架は重くない、背負えるから大丈夫だ」って言ってるんです。「もうすでに、みんな十字架背負ってるだろ」と、「でも大丈夫だ、おれについて来い」と、「それはただの十字架じゃない。栄光の世界への入り口なんだ。復活に変えられる恵みなんだ。背負ってみれば、たいして重くない。心配するな。恐れるな。もうすぐだ。安心して、おれを信じて、ついて来ればいいんだ。その背負った十字架が、とてつもない喜びに変わるぞ。ホントだぞ。・・・ああ、どうしても信じられないなら、私がそのしるしを見せてあげよう」と。・・・それが、イエスの十字架と、イエスの復活でしょ。そして、われわれは、それを信じた者です。
 皆さん、若い方も年配の方も、大切なペットを失った方も、それぞれ、いろいろな十字架を背負っているでしょうけれども、「永遠のいのちへの希望」というものを持って、この試練のときを乗り越えていきましょう。

 先ほど、ミサの前に、そちらの中高生に「何か質問があったら、なんでも答えますよ」って言ったら、「選挙権の年齢引き下げって、どうなんでしょう」と。(笑) 「18歳になったところで、投票率は下がるだけじゃないですか? 私たち、あんまり投票に行かないと思います」なんてね、言っておりましたけれども、いや~、そうおっしゃらずに投票に行ってくださいよ。
 もっともね、いい候補者いませんからね~。なんかこう、永遠のいのちへの希望を感じさせるような候補者でもいればね、その名前を書いていただきたいですけれども、いないにしても、棄権っていうのもなんだから、行って、書いた方がいいですよ。ホントは、「イエスさまのような人」とか、(笑)「苦しんでる人を大切にしてくれる人」とか、「永遠のいのちへの希望を、はっきり語ってくれる政治家」とか、・・・なんか書いて出せたらいいんですけどね。
 まあ、そういう政治家が身近にいるとは、なかなか想像しにくいですけれども、それでもやっぱり、この世を救うのは神さまなんだから、神さまの香り抜きにね、われわれがホントの幸せなんか生きることができるはずがない。・・・少なくとも、ここに集まった私たちは、「この世がすべてだ」なんていう現実の、この資本主義、消費主義社会、強い者がいい思いをして、運の悪い人たちはただ苦しんでいるこの社会の中で、この「楽園を目指す希望」というものを、はっきりと掲げたい。
 この世だけならね、もう、しょうがない。でも私たちは、まだ始めてもいないんですよ。始まってもいない。

 亡くなったのはネコちゃん、・・・らしいですけれど、「アユ」というお名前だと聞きました。ミサの後でアユちゃんのためにね、お祈りいたしますけれども、われわれの祈り、・・・汚れた人類の祈りはね、まあ、ホントにささやかです。むしろ、アユちゃんの祈りに耳を澄ませたい。アユちゃんが跳び回っている、その楽園で、104歳の方も、苦しんで死んだおじいちゃんも、みんなみんな、「本当に神さまは素晴らしい!」「本当に十字架は尊い!」「すべての試練は、なんと素晴らしいことだったか!」と、神を賛美してるんです。先に行った方たちは今、み~んなそれを知って、喜んで、私たちに語り掛けてるんですよ。
 「本当だよ、本当だよ!」と。
 その声が聞こえてくるのが、このミサのとき。
 耳を澄ましましょう。・・・ね、アユちゃんの声も聞こえてくるでしょ?


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「三軒茶屋教会」
◎カトリック三軒茶屋教会
1952年、フランシスコ会ローマ管区の宣教師たちが、日本最初の宣教区として東京の三軒茶屋に修道院設立。翌、1953年に小教区として認可され、修道院付き教会としてスタートした。
 当初の修道院は日本家屋の民家を改修したものだったが、1970年には新しい修道院と聖堂が完成。現在に至っている。
・ 教会堂名(教会の守護聖人): 聖ペトロ・聖パウロ
・ 信徒数: 1,586人(2015年12月31日現在)
・ 主日のミサ: 土曜日18:30、日曜日8:30(子ども向け)、10:30、(第2、4日曜日は手話ミサ)
・ 住所: 〒154-0024 東京都世田谷区三軒茶屋2-51-32
(参考)
・ 「カトリック三軒茶屋教会」(オフィシャルサイト)
・ 「カトリック三軒茶屋教会」(カトリック東京大司教区>「教会案内」)
・ 「カトリック三軒茶屋教会」(ラウダーテ>「教会をたずねて」)
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※2:「二俣川教会」
◎カトリック二俣川教会
 1964年、プラド会のフランス人司祭、ヨゼフ・ド・ドバール神父の二俣川周辺で行われた司牧活動に始まる。大変な苦労のすえ、1965年2月、最初の聖堂建設。
 1995年5月に、新聖堂が献堂され、現在に至る。
・ 教会堂名(教会の守護聖人): 日本二十六聖殉教者
・ 信徒数: 2,060人(2014年12月現在)
・ 主日のミサ: 土曜日17:00、日曜日7:00、10:00
・ 住所: 〒241-0821 神奈川県横浜市旭区二俣川2-36
(参考)
・ 「カトリック二俣川教会」(オフィシャルサイト)
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※3:「先ほどパウロが言っていたように」
該当の箇所は、この日2016年6月19日(年間第12主日)の第2朗読から。
 この日の第2朗読箇所は、以下のとおり。
  使徒パウロのガラテヤの教会への手紙3章26~29節
   〈小見出し:3章21~29節「奴隷ではなく神の子である」から抜粋〉
===(聖書該当箇所)===
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26-28/赤字引用者)
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※4:「先ほどイエスさまが言ったみたいに」
該当の箇所は、この日2016年6月19日(年間第12主日)の福音朗読から。
 この日の福音朗読箇所は、以下のとおり。
  ルカによる福音書9章18~24節
   〈小見出し:9章18~20節「ペトロ、信仰を言い表す」、21~27節「イエス、死と復活を予告する」から抜粋〉
===(聖書該当箇所)===
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」 (ルカ9:23/赤字引用者)
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※5:「失楽園」既出
◎失楽園 [英]Paradise Lost
 人類の始祖アダムとエバ(英語:Eve/「イブ」とも表記)(ヘブライ語:hawwāh/ハヴァ)が蛇にそそのかされて「善悪を知る木」の実を食べたために、エデンの園を追放される創世記2~3章の物語(エゼ28:12-19に類似の伝承)。
 この物語は広く人類の堕罪物語として読まれ、原罪の教理がここから導き出されてきた。(エズラ7:118;ロマ5:12他)。しかし物語は「罪」という語を用いてはいない。この「失楽園」においては、さまざまな考察がなされている。
(参考)
・ 「失楽園」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)ほか
・ 「福音の村」で「失楽園」について触れた説教については、こちら をご覧ください。
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2016年6月19日 (日) 録音/2016年7月8日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英