「信仰年」を始めましょう

2012年10月14日年間第28主日
・第1朗読:知恵の書(知恵7・7-11)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ4・12-13)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ10・17-30)

【晴佐久神父様 説教】

 「信仰年」が始まりました。
 今日、「信仰年」開始のミサにあたって、皆さんに「一緒に福音を告げ知らせましょう!」と呼び掛けたい。「信仰年」の心は、「今、もう一度信仰を新たにして、自分の信仰を人々に語り、みんなを信仰の喜びに導こう」ということです。そういう思いを大切にして、この「信仰年」を始めましょう。
 今年の10月11日から、来年2013年11月24日までの1年間、信仰を新たにし、自分の信仰をみんなに証しして、信じることがどれほどうれしいか、このつらい現実の中で、神の愛を信じることがどれほど素晴らしいことかと、みんなに伝えてほしい。

 信仰年開始のこの1週間、私もず~っと福音を、語って、語ってまいりました。皆さんはこの1週間を振り返って、どこで誰に、どんな福音を語りましたか。なかなかそういうチャンスはないって言うかもしれませんが、いやいや、その気でいればチャンスは必ずあったはず。あの時、あの人に、語れたはず。つらい現実を生きている人、こうしている今も、そのつらさを抱えているあの人、この人に、福音をほんのひとかけらでも、届けることができたはず。どうでしょう。語るべき人、思い浮かびませんか? 今、思い浮かべてくださいよ。このミサでひとりでも思い浮かべることができたなら、ここに100人いればこの後100の福音がこの世界にあふれていくことになるのです。「あなたはもう救われているよ」「だいじょうぶだよ」と言ってあげてほしいのです。

 月曜日に、高円寺教会が、私の司祭銀祝25周年のお祝いをしてくれました。以前の教会から招かれてお祝いしてもらうのは、ホントうれしいこと。しかも驚いたことに、私があそこで洗礼を授けた人、500人以上いるんですけども、そのみんなに招待状を出したって言うんですよ。うれしかったですねえ。おかげで、ああ、あのときの方、このときの方って集まっていて、今まで福音いっぱい語ってきてよかったな~って思えるのは、まさにこういうひととき。
 毎年、受洗者の写真撮るでしょ。司祭を囲んで、全員並んで写っている写真。高円寺教会のときは、一度に70人、80人、90人っていう写真になるわけですけれど、高円寺で私の在任中6年分の写真が、全部、拡大してパネルに貼って飾ってあったんですよ。私を励まそうと思ったんでしょう。私、それはすごくうれしかったというか、その6枚の写真をパッと見たときに、とってもテンションあがった。「そうだ、そうなんだ。一人ひとり、一つひとつ、福音を語っていくと、ホントに神の国っていうのはどんどん広がっていくんだ・・・」、そんな思いをいっぺんに目にできたようなうれしい気持ちになって、テンションあがって、「よし! これから25年、また頑張るぞ!」って。皆さんが口々に、「金祝まで頑張ってください」なんて言うもんですから、「よーし、あと25年、もっと頑張るぞ!」って思って、その日の夜から、私、多摩教会の前の並木道を走り始めました。(笑)
 この何年か、まったく運動してなかったんで、なんか足腰弱ったな、階段上るのも疲れるなとか思ってたんで、「こんなことじゃ金祝なんて無理だ。あと25年、福音語りまくるためには、まず足腰から!」って、・・・ちょっと恥ずかしいので日が暮れてからですけど。(笑)筋肉痛になりますね、珍しいことすると。でも、3、4日走るとそれも治まってきて、またフツフツと走ろうって気持ちになってくる。これ、ダイエットのためじゃないです。ストレス解消でもない。自分のためじゃない。「この口で、ひとりでも多くの人に、1秒でも長く、福音を語りたい」っていう、そういう願いからです。

 火曜日には、横浜のプロテスタント教会で、福音を語りまくってきました。20くらいの教会から人が集まっていて、牧師先生もおられましたけど、カトリックの神父を呼んでくれるって、すごくうれしいことです。大きな教会で、うらやましかったです。聖堂も広くって、ホールが何より大きくって。「私、ここに赴任したいなあ」って言ったら、みんな笑ってましたけど。そこでも福音を語って、語ってきました。
 ・・・そう、あの教会では、多摩教会の宅急便の話をしたんだ。
 入門講座のとき、みんなでテーブル囲んでお話ししてますでしょ。私がこう、壁を背にしてしゃべってるんで、入口が見えるんですよ。で、ここは入り口がガラス張りですから、誰が入ってくるか、すぐわかる。午前10時半からの入門講座ですと、たいてい11時ちょっと過ぎたころに、宅急便が届くんですよ。で、受付の人も入門講座聞きたいから、こっち側にいるんで、「こんにちは~!」って宅急便が来ると、「は~い」ってドアを開けて対応するわけです。そうすると、荷物持った宅急便の人が、私と目の合う真正面に立つわけですよ。で、受け付けの人に「こちらにサインお願いしま~す」とか言って、受け付けがサインしている間にチラリとこっちを見て、あっ、なにか勉強会みたいのやってるなって気づく。
 その状況で、私、すかさず話が変わるんです。(笑)(大きな声で)「神さまはすべての人を愛してます!」「だれでも必ず救われます!」「どれほど今、つらい思いや問題を抱えていても、あらゆる人に神さまは、恵みを注いでいます。洗礼受けている、いないにかかわらず、みんな神の子です!」・・・当然声は聞こえてますから、宅急便のお兄さんもこっち見ますし、目が合うわけですよね。で、いつも大体おんなじ人が来ますから、この前ここまでしゃべったから、次はここからって。(笑) まっ、それでも少しずつでも聞いていると、ホントになにかつらいことあった時、あそこに行ったら、もしかしたら何か答え見つかるかもって思ってくれるかもしれないでしょう。
 火曜日、その教会でそんなお話したら、みんなも笑って聞いてましたけれど、「そうだよね。それくらいやって当然だよね。福音の喜びを知ってる者として、黙っちゃいられないはずだよね」っていう思いを、分かち合ってくれたと思いますよ。

 木曜日は、まさに信仰年の初日だったんですけれども、すぐそこの女子大でお話をしてきました。
 一般学生ですからね、講演頼まれてうれしかったですよ。ホールに先生方も含めて大勢集まっていて、比較文化学部の主催ということで、まあ、カトリックの文化を紹介してくれみたいな注文だったんで、私、「信仰の話していいんですか?」って聞いたら、「いや、そこはまあ、それなりに配慮していただいて」とか言われて。まっ、そうだろうな、とは思ったんですけど。
 でも、壇上に立って口開いたら、もう聖霊降っちゃうから無理なんですよ。あれはほとんど「入門講座」でした。福音語りまくってしまいました。普遍的な神の愛の話です。まあ、ちょっと、こんなに宗教色の濃い話をしていいものかって内心思いつつも、よもや壇上から引き下ろしはしまいと、高をくくって語りまくっちゃいました。
 学生さんたちには、ぜひ、近くですから、多摩教会にもいらしてくださいって。まさか今日、いらしてませんよね? あの、木曜日、私の話聞きましたっていう人、ここにいますか? ・・・いませんか? いてくれると、ますますテンションあがるんですけどね。お茶とケーキも出しますって、言ったんですけどねえ・・・。

 ぜひぜひ、皆さん、「信仰年」にはですね、信仰を新たにして、その信仰を広めてください。信仰って、何を信じるかっていうと、「神はすべての人を愛して、すべての人を救ってくださった。イエス・キリストという最高のしるしがその証であって、私たちはそれによって神の愛を知った。もうすでに救われた!」・・・それを知らない人にも伝えようっていう、それだけのことです。
 教皇さまがどうしても「信仰年」が必要だと思ってお始めになったこの1年間、「その心はこれだ、ここを強調したい」と、教皇さまの自発教令が、「信仰年」開催の告示として出てるんですけども、そこには「新しい福音宣教」っていう言葉がありました。すべての時代に、キリストは私たちに呼び掛けて、福音を告げ知らせる使命を与えている。いつの時代にも、キリストはご自分のもとに教会を呼び集めて、私たちを遣わす。私たちは「新しい福音宣教」に強力に取り組む必要があると。
 「信仰を伝える熱意」っていう言葉もあった。熱い情熱をもって信仰を語ってほしい。新しい福音宣教にチャレンジしようと。この1年、共にやってまいりましょう。

 「信仰年」は、第二バチカン公会議開始50周年ということで、10月11日からです。
 この「第二バチカン公会議」っていうのは、私に言わせれば、それまですごく内向きだった教会が、「みんなのことも考えようよ」って言いだした、そういう会議です。もちろん、もともと教会は、そうだったんですよ。ペトロもパウロも、弟子たちは皆、「みんなのことを考えよう」って世界中に散っていって、みんなに福音語ってたんです。でもいつの間にか、教会が自分たちだけの福音になっちゃって、「自分たちが熱心に祈って救われればそれでいいや」っていう教会になっちゃってて、周りのこと、みんなの救いのことを考えなくなってしまった。だから、50年前にこの美しい公会議が始まって、そこで「すべての人の救いのことを考えようよ」と。
 だって皆さん、考えてみてくださいよ。天国、天国って言うけど、まあ、どんなイメージでもいいんですけど、自分が天国に入って、で、自分の大切な人がそこにいなかったら、そこに天国の喜びありますかねえ? そこは本当に天国ですか? おかしいって思いませんか? 自分は救われて「ああ、うれしい!」と。「なんと美しい、なんと清らかな、なんと愛に満ちた幸せな世界だろう! 神さまの顔を仰ぎ見て、私はこのために生きてきたんだ。ああよかった!」と、自分の家族が地獄にいるのに思えますか?・・・あり得ないでしょう?
 「みんなで一緒に」っていう、「ひとり残らず」っていう、そういう福音のために、私たちがこうして出会って、お互いに励まし合って、「あなたも救われている」と伝え合って、生きてる間に天国に入り始めて、やがてはみ~んな神の国に迎え入れられるという喜びの日が来るって、それを信じるんですよ。信じてくださいね。

 ちなみに信仰年は「バチカン公会議50周年」、そして同時に「カトリック教会のカテキズム発布20周年」、この両方を記念しています。バチカン公会議がみんなのことを考えて、「すべての人の救いのために働こう」って言いだして、そんな会議のすべてを30年かけてまとめたのが『カトリック教会のカテキズム』で、ちょっと厚い本ですけども、それが20年前に出た。
 私にとって、あの『カトリック教会のカテキズム』で一番うれしかったのは、「聖霊を信じます」の項だったかな、そこにおおよそ、こういうことが書いてあるんですよ。
 「キリストの教会はだれひとり滅びることのないように祈り続けます。確かに自分で自分を救うことは決してできません。それと同時に確かなことは、神はすべての人の救いを望んでおられ、そして神は何でもできるということです」(※1)
 これが今のカトリック教会の教えです。この、「神はすべての人の救いを望んでおられる」というのは、新約聖書第一テモテの2の4に載っている言葉です。そして「神は何でもできる」。これは福音書の中の、イエスの言葉です。
 ちょうど、そこを先ほど読みました。「それでは、いったいだれが救われるんだろう」と弟子が驚いて尋ねると、イエスが答えます。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。この箇所です。もっとも、引用してあるのは、『カトリック教会のカテキズム』ではマタイの箇所ですけれど、19章26節だったと思いますけど。・・・「神には何でもできる」。
 美しいですよね〜。聖書の言葉をふたつ並べてある。「神はすべての人の救いを望んでおられる」そして「神は何でもできる」って、こう並べると、もう、言ってることは明らかですよね。それが今のカトリック教会の教えです。私たちはそれをみ~んなに伝えていきましょう。「だれひとり自分を自分で救うことはできません。救うのは神です。そしてその神が、この私の救いを、そのあなたの救いを望んでいるし、その神は、何でもできる」って伝えてあげてください。・・・安心しますよ。「ああ、ホントにそうなんですか」って、喜んでくれますよ。このことは、今月のカトリックニューズ(※2)にも書いてますので、皆さん読んでいただいてますか? もう一度読んでみてください。そうして一緒に信仰年を始めましょうよ。
 バチカン公会議という尊い実りが、ホントにこの多摩教会においても、50年たってちゃんと実っていくようにと、教皇様も望んでおられますし、『カトリック教会のカテキズム』を発布したヨハネ・パウロ二世教皇も、私たちみんなが、このバチカン公会議の実りであるカテキズムを大切にしてほしいと、そうおっしゃってます。
 公会議は、救いを救ったんです。それまで「自分の救い」とだけ思っていたその救いを、みんなに開いたんです。

 今日読んだ、マルコの福音書の「イエスさま、何をすれば永遠の命を受け継げるでしょうか」とひざまずいて尋ねた人、他の福音書では、これは議員であったとか、若者であったとかありますけれども、なんとなく想像つきますねえ。とってもいい青年だったんだと思うんですよ。そしてお金持ち。いいとこの坊ちゃんですね。まじめで、掟をぜんぶ守って、何とか救われたいと願って、一生懸命努力している青年。そしてさらにその救いを完璧なものにしようと、「どうしたらいいんですか?」って、イエスに尋ねに来た。
 なんかこのタイプの青年、想像つきますでしょ? こういう人って、案外イケメンだったりするんですよ。(笑)なんとなく想像つく。純粋でキラキラしててね、謙遜でひざまずいて尋ねる。・・・悪いことじゃない、救われたくって一生懸命努力している、このひとりの恵まれた青年。この青年に対して、イエスさま、あれやこれや言ってますけれども、私、言いたいことはただひとつだと思うんですよ。・・・「人間にできることではない」っていう、この最終的な結論じゃないですか。「あなたがどれだけ、がんばって正しく生きて、掟を守って立派に祈っても、その努力によって救われるんじゃない。救うのは神だ。神はご自身の愛によってすべての人を救う。あなたは自分の努力、自分のわざよりも、まず、このすべての人を救う神の無限の愛を信じなさい」と、イエスはそれを言いたいんだと思う。
 本当はこの青年は、イエスにこう尋ねればよかったんです。
 「イエスさま、なにをしたら、すべての人を救えるでしょうか」
 もしこれを尋ねたならね、イエスさま、うれしかったと思いますよ。もちろん、その問いにも「救うのは神だ」と答えたでしょうけれど、この青年が「自分の救い」ってことだけじゃなく、「あの罪人も、この病んででる人も、異邦人も、み~んな救われるためには、私、どうしたらいいでしょう?」っていう思いをもってくれたらなあって思ったことでしょう。
 イエスさま、この青年を慈しみのまなざしで見つめておられますから、たぶん、かわいい青年だなあと思ったんじゃないですか。「君もだんだんに気づいていくよ」ってわかってるんじゃないですか? おそらくは、このときは悲しみながら立ち去ったけれども、その後イエスの十字架の話を聞き、復活の主が現れたという弟子たちの喜びに満ちた証言を聞いて、もう矢も盾もたまらず、「そうだった! 自分の救いの話じゃないんだ。人類の救いの話なんだ!」そう気づいて、すべてを捨てて、すべての人が救われたという福音のために働く人生に、主の復活後、入っていったんではないか、と私は勝手に想像いたします。
 きっとそうなんじゃないですかねえ。イエスさま、そこまで見越してね、「いいよ、いいよ。君はまだ分からないだろうけど、わたしは君のために死ぬから、そして君の中に復活するから、そんな神の働きに任せておきなさい。君は、今は悲しみながら立ち去るけれども、やがて君は、福音のためにすべてをかけていくことになるよ」と、イエスさまの慈しみのまなざしは、そこまで見通してたんじゃないですか。
 福音を語ること、福音を宣言すること、それはこの世でのあらゆる財産に勝ることです。この青年は、いろんな財産で自分を守り、救いのために役立てようと思ってたんでしょうけれど、そんなものは救いに役立たない。むしろ全部みんなと分かち合ったときに、ホントにそこに救いの喜びが生まれる。それが、今日のイエスさまの宣言ですね。
 「わたしのためまた福音のために、すべてを捨てたものは、誰でも百倍受けて、後の世では永遠の命を受ける」
 私たちが、もうすでにこの永遠の命を受けているという信仰を新たにして、そしてそんな喜びの中で、本当に永遠の命の世界にみんなが入っていくというその日のために、今それを知らないでいる人たちに、せっせと伝えてあげましょう。「神の国の喜び」「キリストの十字架がすべての人を救う」「復活の主がここにおられる」。
 勇気をもって、この「信仰年」、一日一日、一つひとつで。

 先日の入門講座で、11時にクロネコの宅急便が来たときは福音を語れたのに、11時半に佐川急便が来たときは、受付の人がドア閉めてドアの向こうで対応したんですよ。(笑)覚えてます? その時いた人、ここにいると思うんですけど。私キレまくりましたよね。「開けてくれぇ~!」と。(笑)
 だって、その扉、天国の扉なんだから。「開けてくれ!」と。


※1:『カトリック教会のカテキズム』#1058より要約
===(参考個所)===
 
教会はだれ一人滅びることのないように、「主よ、〔わたしが決して〕あなたから離れることのないようにしてください」と祈ります。確かにだれも自分で自分を救うことはできませんが、これと同じく確かなことは、神は「すべての人々が救われること」(一テモテ2:4)を望んでおられ、神には「何でもできる」(マタイ19:26)ということです。
 『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002)「第3章 聖霊を信じます」317頁、1058項を参照
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※2:「多摩カトリックニューズ」(9月号)巻頭言「あなたはもう救われている
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2012年10月14日 (日) 録音/10月19日掲載
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