皆さんが居場所になるんです

2014年9月28日年間第26主日
・第1朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル18・25-28)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・1-11)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ21・28-32)

【晴佐久神父様 説教】

 今、多摩市在住の人は、何やら落ち着かない日々を過ごしていることを、よそから来た方はご存じでしょうか。
 多摩市内では、8日間で6回、連続放火事件がありました(※1)
 この一週間ちょっとは、収まっているわけですけれども、いったい、いつ7件目が起きるんだろうか、あるいはこのまま収まるんだろうかと、どうにも落ち着かない気持ちで毎日過ごしております。
 というのも、火をつけられた家というのが、みんな揃いも揃って建築中の家なんですよ、新築中の。まだこう、壁もできていないような時に、中に入り込んで、灯油をまいて火をつけるという。
 ・・・で、ご存じのとおり、多摩教会のお隣、建築中なんですよ。すぐ隣です。気が気じゃないとはこのことでしょう。私、午前2時ごろ寝たりすることもあるんですけど、だいたい午前2時か3時ころ火がつけられているんですよ。だから、夜中2時ごろ寝る時に、ブラインドの隙間(すきま)から、外をじ~~っと。(笑) で、じ~っと見てると、見終わった後で誰か来るような気がして、なかなか、(笑)やめられない。
 で、隣の建築中の、そのまた隣に新築の家があって、先日あいさつに行って、「お互いに気をつけて頑張りましょう」って話し合いました。
 で、こちらの教会の駐車場の蛍光灯をぜんぶ、夜通しつけておくことにいたしました。大変喜んでおられました。すごく明るくなって、隣の建築中の所にも明かりが差して、ちょっとこう、悪いことしたくなくなるような感じになった。すごく喜ばれました。
 ちなみに隣の奥さま、今お子さんがおなかの中にいらして、家にいることが多いので、余計に心配でっておっしゃっていました。このお隣の奥さまのためにも、ぜひ、お祈りくださいね。元気なお子さんが生まれて、幸せな家庭を築けますように。

 それにしても、そういう幸せを、一瞬にしてふいにしてしまうような、「火をつける」っていう、その心はいったいどんな心なのか。どういう闇を抱えているのか。われわれの抱えているストレスとか、時々魔が差したような、悪霊の働きのような、なにか自分の心の奥にある変な気持ちみたいなものと地続きなのか。その、火をつけてしまうような心を抱えた方のためにも祈りたいと思います。この1、2週間、放火を気にしながらも、その本人の心の奥のことを、ずっと思っておりました。
 そういう性質(たち)なんですよね、私、どちらかというと。排除して、退けて終わりとか、捕まえて、罰して終わりとかっていうんじゃなくって、何でそんなことになっちゃうんだろう、どうしてそういうことまでするんだろう、どうしたらそんな思いにならないで済むだろう・・・っていうことを、結構しつこく考えちゃう性質なんで。「どこかに悪魔みたいな悪い奴がいて、自分たちは被害者で」っていう乱暴な二元論が嫌いなんですよ。
 もちろん、悪いことは悪いことですよ。すごい社会不安を起こしてますしね。この前、庭のオアシス広場でバーベキューやってたら、ちょうど前の道を、ウー、ウー、ウーって消防車が通ってですね、それは実際には蚊取り線香が燃え過ぎたかなんかだったってこと、後で報道で聞きましたけど。夜の8時過ぎごろでしたか、そのサイレン聞いて、隣のご主人、道に飛び出してきましたもんね。ああ、緊張してるんだなって同情しました。
 せっかく家を建ててね、子どももできてねってときに、もしかしたら隣に火がつけられるかもしれないなんんて、そりゃあ、もう、ウーって鳴ったら飛び出しますよ。私、それ見て、何か胸がぎゅっとしました、「大変だなあ、これは・・・」って。
 間が悪いことに、そのとき私たち、バーベキューなんかしてて、しかも平気で、「ほら、もっと火、燃やして!」とかって、叫んでたんですよ、その時。(笑) だから、余計に、飛び出してきたの見て、ホント、同情するというか、その彼の気持ちが、すごくよく分かるような。
 まあ私だってね、北寄りの風でしたら、教会に燃え移って、そのまま私も燃え尽きるわけで、来週元気にお会いできることを祈っておりますけれど。

 われわれは、どうしても、「被害者」っていう気持ちにだけ、なっちゃうんですよ。社会不安。被害者。悪魔のような人がうろうろして、火をつけて回る。でもね、誰の心にも、「おかしなもの」ってあるんです。自分でコントロールできない、悪霊に支配されているような部分っていうのは、誰にでもある。「私だけは無縁だ」って言える人はいない。
 しかし、私たちが、それでもこうしてなんとか「キリスト者として神の国のために働こう」なんて思って、みんなの幸せを願って集まっていられるのは、これはもう、(いつ)に、神さまとつながっているからなんですよ。そのつながりがなくなったら、私たちだって、どうなるか分かったもんじゃない。
 この、火をつけて回ってる人、どれほどのストレスを抱えているのか、どんな心の問題を抱えているのか分かりませんけども、この人も、神さまにちゃんとつながって、神の国の喜びを知ってくれたら、絶対そういうことにはならないと、私はそう信じます。
 その人に言いたい、「もっと素晴らしいことがあるんだよ」と。自分自身をおとしめて、みんなを苦しめて、コントロール不能になって取り返しのつかないようなことをしている、そのあなたに、「本当に素晴らしいものがあるよ」と、「神さまとつながるという、最高の喜びを味わえる世界があるよ」と、これはどうしても言いたい。
 この説教なんかは、こうやって、「多摩市」とか「放火」とかって言ってると、そのまんまインターネットに出ますから、もしかして当人が、「多摩市」「放火」で検索するかもしれないですよね。そうすると、「福音の村」、結構読まれてますから、上位の方に出てきて、目にするかもしれない。
 「ぜひ、教会(※2)にいらしてください」と申しあげたい。
 「必ずあなたは救われます」と。
 確信を持って言えます、「あなたは神に愛されている素晴らしい人間なんだ」と。
 神とつながる安心、喜び、自由があったら、そんなことしないでも、心は落ち着き、希望を持ち、みんなのことも考えられるようになり、自分が生きていることは、本当に素晴らしいことだって、心から思えるようになる。・・・そう申し上げたいんです。
 神さまとつながってる、喜び。

 イエスさまが、今日のたとえ(※3)の結論部分ですけど、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたち(祭司長や民の長老たち)より先に神の国に入る」(cf.マタイ21:31)と。
 これは、当時の人たちにしたら、ビックリだったでしょうね。
 民の長老、祭司長、・・・立派な人たち。片や、やくざのような徴税人。みんなから「みかじめ料」(※4)取り立ててるみたいなね。ホントに迷惑で、嫌われてる人たち。あるいは、風俗に従事しているような娼婦たち。軽蔑されている人たち。今の時代だって、われわれはすぐに、「そんなやつらは人間のくずだ」とか、「何でそんなことになっちゃうんだろう」とか、まるで自分とは無縁のように思ってしまうけれど、イエスは違う。イエスのまなざしは、まず、この、犯罪を犯してしまうような人たち、どうしようもない仕事に従事しているような人たち、自分で自分を、もはやコントロールできずに、こんな自分は救われないと思っている人たち、・・・まずそこに目がいきます。
 イエスの目は、まずそこにいきます。
 そして、「そんな人たちこそ、本当に救いを求めているし、今、そんな人たちと共にあろうとするわたし(・ ・ ・)がここにいるから、あなたたちは、もうだいじょうぶだ。救われている。あなたたちを軽蔑したり排除しようとしている人たちよりも、あなたたちの方が先に(・ ・)、神さまのみ国に入る」。(cf.マタイ21:31)
 まあ、イエスさま、優しいですから、「先に」って言ってるんですよね。これはありがたいですよ、だって、差別したり、排除したりしていた方も、後々は入れてもらえるってことですよね、「先に」って言ってるんだから。
 ただ、神さまの優先順位、イエスさまのまなざしに、まず留まる人たちっていうのは、こういう、もう社会に居場所をなくしたような、みんなから排除されて、嫌われて、軽蔑されている人たち。まずそこに目がいく。これがイエスさまなんですよね~。
 その意味では、皆さんの心の奥にある、そのような、 一番自分で見たくないような部分にこそ、まずそこにイエスさまは目を注いでるっていうことも覚えといた方がいいと思いますよ。

 今週の『カトリック新聞』の最終面に本の紹介がしてあって(※5)、タイトルが『難民高校生』(※6)っていうタイトルで、これ、大学出たての女性が書いた本ですけれども、彼女は中高時代、ミッション系の学校に通ってたんだけれども、荒れていてですね、渋谷の街をさまよっていた。まあ、そういう実体験に基づいた本ですけれど、家庭にいろいろ問題があって、自分の居場所じゃなくなっちゃった。親が自分の思いを、ちゃんと受け止めてくれない。だからこそ家にいられず、学校でも反抗的になると、学校からも排除される。そんな気持ちを聴いてくれる先生は誰もいなかった。ひと月のうち、25日は渋谷に通ってたんですって。渋谷に行けば、とりあえず仲間もいるし、相手にしてくれる人もいて、と言っても、そういう子どもたちを食いものにするような大人ですけどね、とりあえず居場所だったわけです。「そんな渋谷は、まるで高校生の難民キャンプみたいだった」って書いてます。
 「難民キャンプ」、渋谷にあるんですよ。遠いアフリカの話じゃない。シリアの話じゃない。
 しかし、その「難民キャンプ」は、「偽りの居場所だった」と。
 相手にしてもらっていると思っていたけど、「それは、(にせ)のセイフティーネット(安全網)だった」と。
 けれど、ある牧師さんに出会って、その牧師さんが、対等に、話をぜんぶ聴いてくれた。生まれて初めて、ちゃんと自分の心を受け止めてくれた大人に出会った。それで救われたんです。
 ・・・ミッション系の学校に通ってたんですよ、6年間。だけど、誰一人、そういう大人に出会わなかった。大人なんてもう、周りに何万人っているじゃないですか。だけど、生まれて初めて、この牧師先生が、自分を対等に、・・・裁いたり、責めたり、指導したりするんじゃなくて、「そう、それは大変だったねえ」と、ちゃんと受け止めてくれた。・・・「そこから私は変わった」と。
 で、今や、「難民」たちに、「あなたも必ず救われるよ」と伝え、さまざまな、よいセーフティーネットを与えるために、渋谷の街を回って、声をかけて回っていると。
 キリスト教って、そういう宗教であるべきですよね。
 私は、火をつけて回っている人が、角生(つのは)やした悪魔だとは、さらさら思わない。きっと、ものすごく普通の人のはずです、パッと見。そして心の奥に、ホントにやるせない、誰にもわかってもらえないと思っている、そういうものを抱えている人です。まさに、教会に来るべき、・・・最も来るべき人。
 ぜひ来ていただきたい。
 「あなたは悪魔じゃないよ」と、
 「あなたは救われるよ」と。
 ・・・「教会」って、そういう所でしょ。
 教会こそが、高校生であろうが、シニアであろうが、究極の居場所であるべきじゃないですか?

 この前、十字架称賛の日(※7)に、十字架買って帰った青年の話、しましたでしょ?(※8)
 昨日も来たんですよ。昨日、入門講座に来て、その後、私、話を聞きましたし、夜のミサまでいて、一日中いたんです。彼、昨日、先週買った十字架をテーブルの上に置いて、「ぜひ、洗礼を授けていただきたい」って、教会に来始めてからたった1週間後に、そう言いましたよ。
 でもね、私、彼はきっとそう言うだろうと思ってた。彼にとって、本当に自分を、裁いたり、責めたり、上から目線で指導したりするんじゃない、対等に話を聴いてくれる居場所っていうものに、たぶん初めて出合ってるんじゃないですかねえ。だから、遠いのに、来たくってしょうがないんですよ。
 私は、ご存じのとおり、どんなに若い奴でも、上から目線で指導したりしませんから。むしろ、「ここが居場所だ」って、居付いた奴らに命令されて奉仕させられてるようなもんです。だから、「ここならいやすい・・・」って、感じてくれるんです。すぐに信頼関係ができる。「この人、変な神父だけど、うそはついてないな」と。「自分のことを、ちゃんと一人の人間として見てくれているな」と思ってくれる。われわれキリスト者は、だれに対してでもそうするべきだし、そのようなイエスのみもとにこそ、徴税人、娼婦、難民高校生たちが集まってくる。
 今日は「シニアの集い」ということで、シニアの皆さん大勢来てくださいましたけれど、シニアの皆さん、ぜひ、誰かの「居場所」になってあげてくださいよ。
 あなたが「教会」なんです。
 その点、シニアの皆さんは向いてます。「親目線」と「ジジババ目線」、違いますもんね。年の功というか、どんなことでも、「いいんだよ」と、「なんとかなるよ」と、柔らかく受け止められる。長い年月生きてきて、振り返ってみれば、自分もずいぶんひどいことしてきたけど、結局、神さまと結ばれていたからこそ、ゆるされ、癒やされ、今日を迎えることができている。だから、「あなたもそうなれるよ」と言える。「私なんかより、あなたの方が、よっぽど神さまの祝福を受けて、幸せになれるはず」と。
 シニアの皆さん、皆さんが教会です。皆さんが居場所になるんです。なってあげてくださいよ。70歳、80歳、関係ないですよ。

 先週、佐藤初女(はつめ)さん(※9)と対談してきたんですけど、・・・ご存じですか? 「森のイスキア」っていう癒やしの宿を主宰して、悩んでる人、疲れた人たちの、それこそ「居場所」になって、土地で採れたおいしいもの出して、癒やしてる方です。最初は自宅だったんですけど、手狭になって、立派な宿ををつくっちゃったんですよね、岩木山の(ふもと)に。「森のイスキア」っていう、みんなの居場所をつくって、そこで訪ねてくる方をお迎えしている。もう、まさに「ザ・キリスト者」だって、私は思います。
 今度の新しい本の最後に晴佐久神父との対談を載せたいっていうことで、出版社がセッティングしてくれて、久しぶりに初女さんにもお会いできて、すごくうれしかったです。
 そのときに、「私も、『森のイスキア』の真似(まね)して、南の加計呂麻島(かけろまじま)に、いわば『海のイスキア』つくったんですよ。そこでこの夏、こころの癒やしのための青少年のキャンプをやったんです。みんなの居場所になるような、とっても素敵な合宿所ができました。おいしい魚が獲れるんですよ」っていう話をしたら、初女さんの目がきらりと光ってですね、「私、行きたい」って言うんですよ。車椅子の93歳ですよ。・・・「私、行きたい。魚料理、大好き」。
 あそこで、初女さんの魚料理を食べられたら、どんな心も癒やされちゃうんじゃないかな。どんな心の闇も。
 クリスチャンっていうのは、いいですね。神さまとつながっているから、もう後は誰と出会ったって、この私のうちに、迎え入れることができるんです。
 それによって、神の国をいっそう豊かにできる。それは、いくつになってもです。


【 参照 】

※1:「多摩市では、八日間で6回、連続放火事件がありました。」
 東京都多摩市で、9月12日から20日にかけて、6件の、新築の建築中住宅を狙った連続放火事件が発生した。いずれも、半径2キロ以内、犯行時間は午前2時から3時30分の間で、20日のみ、午後9時。窓を割って侵入し、灯油をばらまき、火をつけている。ポリタンクは残されているものの、指紋は残っていない。
 灯油の量が増えるなど、犯行がエスカレートしている傾向も見られ、住民の不安が募るなか、現場周辺ではパトロールなどの警戒が続いている。
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※2:「教会」
カトリック多摩教会
 住所: 〒206-0022 東京都多摩市聖ヶ丘1-30-2
 地図: 以下の青いしるしのある場所が「カトリック多摩教会」です。
     地図は、マウスなどで、上下左右、拡大縮小の操作ができます。
 
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※3「今日のたとえ」
本日(2014年9月28日〈年間第26主日〉)の福音朗読箇所
「マタイによる福音書」
  21章28節~32節
  〈小見出し:「二人の息子」のたとえ〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※4:「みかじめ料」
 「みかじめ料」とは、もともと暴力団社会で用いられていた言葉の一つだが、今では一般社会でも知られるようになった。
 暴力団が、資金活動をしている勢力範囲(縄張り)内で、風俗、飲食などの営業を行う者に対し、その営業を認める対価、あるいは用心棒代的な意味を持たせて、挨拶代、ショバ代、守料(もりりょう)などの名目で受け取る金品のこと。
 暴力団にとっては、伝統的でしかも重要な資金源の一つ。
(参考)
・ 「みかじめ料」(語源由来辞典)
・ 「みかじめ料」(日本語俗語辞典)
・ 「20)みかじめ料」(暴力団ミニ講座)
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※5:「今週のカトリック新聞の最終面に本の紹介がしてあって」
 『カトリック新聞』2014年9月28日第4260号6面
   シリーズ「外国につながる子ども」たち>希望への橋渡し>学校教育を考える
    「(25)居場所を失い さまよう女子高生たち」
      (記事参考)>>> 「さまよう女子高生たち」(カトリック新聞オンライン
     >上記サイトでは、「カトリック新聞」誌面記事の一部を省略し、再編集後に掲載されています。
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※6:『難民高校生』
著者: 仁籐 夢乃(にとう ゆめの)
出版社: 英治出版
単行本(ソフトカバー): 315ページ
発売日: 2013/3/25
価格: 1,620円(税込)
書籍紹介:【高校時代、私は渋谷で月25日を過ごす“難民高校生”だった】
 「居場所を失くした若者」として希望のない生活を送っていた著者が、小さなつながりから変わりはじめ、国際支援の大きなイベントや被災地支援の商品企画プロジェクトの成功を通じて、自分への自信と社会での居場所を取り戻していく過程を描く。
 「ささいなきっかけから社会的に孤立する」ことは誰にでも起きる可能性があることであり、特に属するコミュニティが限られる「若者」に対する社会的支援の必要性を訴える。村上龍氏推薦。( Amazonより )
・・・☆ 購入をご希望の方は、Amazon楽天ブックス、お近くの書店などでどうぞ。・・・
(参考)
・ 「女子高生サポートセンターColabo」(居場所をなくした女子高生たちを支えるグループ/仁籐夢乃さん代表)
・ ツイッター: 「女子高生サポートセンターColabo
・ ツイッター: 「仁藤夢乃 『難民高校生』」など
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※7:「十字架称賛の日」
 十字架称賛の祝日は、毎年、9月14日とされている。
 4世紀の記録によると、紀元326年にエルサレムでキリストの十字架が発見されたことや、その十字架を安置した聖堂が献堂された日に由来し、また、ペルシアの略奪から、この十字架を守ってエルサレムに凱旋した日なども鑑みて、最終的に、第二バチカン公会議で、この日が十字架の記念、十字架を賛美する日として定められた。
 もう少し詳細な説明は、2014年9月14日〈十字架称賛〉の日の説教、「十字架の神秘を信じる」の【参照】※1をお読みください。
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※8:「十字架買って帰った青年の話、しましたでしょ?」
 2014年9月14日〈十字架称賛〉の日の説教、十字架の神秘を信じる」の4段落目からをお読みください。
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※9:「佐藤初音さん」
 1921年青森市生まれ。カトリック信者。
 小学校教員、ガールスカウト団体代表、家庭科の短大講師などを経て、
 1979年には弘前染色工房をオープン。
 1983年には、自宅を改装し、悩み苦しんでいる訪問者の受け入れのために、「弘前イスキア」開設。
 1992年から、同様の目的で、青森県岩木山麓に「森のイスキア」を主宰し、自然で素朴な、心を込めた手料理でもてなしながら、こころとからだに、癒やしの場を提供している。
 1995年、龍村仁(たつむらじん)監督の【地球交響曲(ガイアシンフォニー) 第二番】に出演。
(参考)
・ 「佐藤初女」(ウィキペディア)
・ 「特集:佐藤初女」(NTTファシリティーズ 特集・スペシャルインタビュー)
・ 「小さな森 東京」(東京で、イスキアの活動を応援しているグループ)
・ 「森のイスキア」(その誕生までや、名前の由来などを紹介している。/「雪のイスキア」)など
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2014年9月28日 (日) 録音/2014年10月4日掲載
Copyright(C) 2011-2014 晴佐久昌英