壁を壊して、橋をかける

2016年2月21日 四旬節第2主日
・第1朗読:創世記(創世記15:5-12、17-18)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ3・17-4・1)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・28b-36)

【晴佐久神父様 説教】

 ご変容の箇所ですね(※1)
 イエスさまのお姿が、山の上で真っ白に輝いた。弟子たちはそれを目撃して、やがてくる天国をチラッと見ちゃったような体験をして、励まされた。そういう出来事ですが、これは昔話じゃない。こうして皆さん、ミサに(あずか)っているときって、実はちょっと、「ご変容」なんですよ。・・・「ちょっと」というか、相当、「ご変容体験」なんですよ。
 まず、イエスが、弟子たちを連れて山に登られますね(cf.ルカ9:28)。「山」っていうのは、神さまと出会える所。まさに、このミサですよ。もちろん、いつでもどこでも神さまと出会えますけどね。でも今、ミサを捧げているこの聖堂は、いっそう神さまに近い所。イエスさまは、三人の弟子を選んで山に登ったように、今日も私たちを選んで、ここへ連れてきてくださいました。この山で、神さまに出会える。天国がチラッと見えちゃう。ミサとは、そういう体験です。
 そもそも、イエスさまは「祈るために(・ ・ ・ ・ ・)山に登られた」(ルカ9:28/強調引用者)とあります。私たちも、祈るため、ミサで神さまと一つになるために、ここに登ってきたのです。ここはその頂です。まあ、道中いろいろありましたけれども、・・・実際、人生という山登りは、いろいろとつらいです。でもわれわれは、いよいよ、こうしてその山頂にたどり着きました。
 毎週のミサは、ある意味、毎週のご変容なんですね。
 このミサにおいて、イエスさまはご自身の栄光を現します。私たちは、それを目の当たりにして励まされ、希望を新たにする。・・・これを毎週やってるんですから、もう、感謝すべきというか、心から「ありがとう」っていう、そんな思いで、今日もイエスさまに励ましていただきましょう。

 イエスさまは、励ますために、弟子たちを山へ連れてったんですね。天国の栄光を見せて、神さまの永遠の世界を体験させて、強めるため。
 確かに山登りはつらい。確かに人生はいろいろある。心ふさぐ出来事ばかりのようにも思えるけれども、「ここから(・ ・ ・ ・)今から(・ ・ ・)、神さまの世界が始まるんだ。栄光の世界が待ってるんだ」と確信させる希望の体験を、神さまは、人生の途上で、ちゃんと用意してくださっている。そしてそれは、それまで体験した、どんな体験よりも、輝かしい。
 他の福音書のご変容の箇所では、イエスさまの服が、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く輝いた」(cf.マルコ9:3)ってある。つまり、この世でわれわれの見てきたもの、この世で人々がつくり上げたもの、この世のどんなものよりも、はるかに輝かしい。それこそ、神さまの恵みがそのままそこに見えるかのような栄光の世界。それを、この山の上で、弟子たちは体験したのです。
 ・・・私たちも、今、このミサにおいて、それを体験している。だから、われわれは、ペトロと一緒に、こう言います。
 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(ルカ9:33)
 そうしてペトロは、「仮小屋を建てましょう。モーセのため、エリヤのため、イエスのため」とか言ってますけれど(cf.ルカ9:33)、ミサを捧げる私たちのこの聖堂が仮小屋みたいなものですね。こうしてミサでは、モーセとエリヤが現れるかのように旧約聖書が読まれ(※2)、使徒の書簡が読まれ(※3)、福音書が読まれて、神さまの救いの御計画が着々と私たちのうちに実現していることが、はっきりと語られて、私たちはもう、天国を先取りする「仮小屋」ならぬ、この尊い聖堂の中で、ご変容を体験しております。
 パウロなんか、「われらが本国は天にある!」(cf.フィリ3:20)って言いましたでしょう? この世は仮の場所であって、私たちの本国は天にある。なのに、パウロに言わせれば、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い。彼らの行き着くところは滅び。彼らはこの世のことしか考えていない」(cf.フィリ3:18-19)。・・・まあ、「この世のことしか考えていない」人っていうのは、もう、滅んでるも同然なんですね。真に行きつくべきところを知らないから。そんなところから、私たちは選ばれて、本国をチラリと見せていただくという、ご変容の恵みを体験しております。
 福音書の極みに、神さまの語り掛ける声が聞こえてきました。
 「これはわたしの子だ。選ばれた者だ。これに聞け」(cf.ルカ9:35)と。
 皆さんは、今日、ここで、ご変容を体験して、神さまのお声を聞いたという、その事実に励まされて、この聖堂を(あと)にしていただきたい。ご聖体をいただき、神の子イエスと一つになり、キリストに聞き従う者となって。

 洗礼志願者の皆さんも、もうすぐ洗礼を受け、ご聖体をいただき、神の子イエスと一つになって、キリストに聞き従う者となります。天国をチラリと見せていただいた、今日のこの体験に励まされながら、復活の日を待ち望みましょう。
 今、ここは「山の上」です。皆さんは、選ばれて、ここに連れてこられました。誇りに思って十字架を背負います。
 この山に登る前に、イエスさま、おっしゃったんですよ、「自分の十字架を背負ってついておいで」(cf.ルカ9:23)(※4)。だけど、「十字架」、つらいじゃないですか。病気の苦しみ、人間関係の苦しみ、こんな(いや)な自分を抱えている苦しみ・・・「十字架」なんて、嫌じゃないですか。こんな十字架、放り出したいと、誰でもがそう思う。だからイエスさまは、「だいじょうぶだ。この十字架が、神さまの世界への入り口なんだから」と、みんなを励ますために、「いいから、私を信じて、十字架を背負ってついておいで。その先に、こんな栄光の世界が待ってるんだよ」と、ちょっと見せてくれた。
 弟子たちは、そのときはほんの一瞬見ただけですけど、その後、復活体験をしてからは、まさに変容した。私たちキリスト者は、毎週毎週、この「山の上のミサ」で、究極のご変容である復活体験、神さまと一致する交わりのときを体験するわけです。洗礼志願者の皆さんも、それぞれの十字架を背負っているわけですから、毎週のミサで、栄光の世界を仰ぎ見て励まされ、信仰を強めていただきたい。

 今、入門講座では、使徒信条(※5)を学んでおりますが、今日はこのあと信徒総会(※6)があるので、日曜日の入門講座がありません。金曜日と土曜日の講座の方にはすでにお話ししましたが、日曜日の講座参加者のために、ちょっと、ここで講義をさせていただきたいのですが。(笑)
 え〜、洗礼志願者の皆さん、先週、洗礼志願式でカード、もらいましたね? 「使徒信条」というカードです(※7)。私たち、キリストの教会が、二千年来、使徒伝承と信じて大切にしてきている、まあ、「キリスト教憲法」みたいなもんです。その「第一条」のところを、今、勉強しております。
 洗礼志願者の皆さん、分かりますか? 最初の一行。「キリスト教憲法、第一条」、何て書いてあるか、ご存じですか? もうそろそろ、覚えてくださいね。洗礼式までには暗唱してください。せめて今日は、「第一条」だけでも暗記していただきたい。・・・何て書いてありますか?
 「天地の創造主、全能の父である神を信じます」
 そう書いてあるはずです。
 「神さまを信じます」って、まあ、当たり前のような気もするけど、そこに、その神さまはどういうお方かっていうことが、三つ書いてありましたでしょ? それは、
 「天地の創造主」だと、
 「全能」だと、
 「父」なんだと。
 そのようなお方に、私たちは「あなたを、信じます」と申し上げるのです。
 今日も、この「山の上」に連れてこられて、私たちはいつものようにこの説教の後で信仰を宣言いたしますが、そのとき何を宣言しているかといえば、まずは一つ目、
 この天地万物をおつくりになった神さま、
 この私を望んで生んでくださった神さま、
 おつくりになったすべてのものを支配して、よいものとして完成させてくださる神さま、
 そのような、「『天地の創造主』を信じます」って宣言するんです。
 それはもはや、「何教の神」とか、「何派の神」とかいうような、この世の神じゃない。人間がつくりだした神じゃない。「天地の創造主」なんです。・・・その神を「信じます」って言ってくださいよ。
 そして二つ目、その神は、「『全能』である」と。
 ・・・いいですねえ、「全能の神」。何でもおできになる。人の思いをはるかに越えて、おできにならないことの何ひとつない神。われわれの思いは貧しいので、「そりゃ無理だろう」とか、「こんな自分は救われないだろう」とか、勝手なことをいろいろ思いますけれども、あらゆる人間の弱さや限界を超えた、「全能の神」がおられます。私たちを救うのは、その「全能の神」です。「全能の神」が、すべての人を(・ ・ ・ ・ ・ ・)救ってくださる。「全能」だから。当たり前ですね。そんな神を、「信じます」って、宣言いたします。
 そして三つ目、これが一番ありがたいのかも。
 ・・・「『』である神」
 まことの親である神ですね。人間の親のことじゃないです。「完全なる親」のことです。愛の神、いつくしみの神、わが子を生み育て、責任を持ってどこまでも守り、決して見捨てることなく、100パーセント救ってくださる、「『父』である神」。そんな神を「信じます」と、私たちは、そう宣言する。

 「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(ルカ9:33)って、ペトロが言いましたけれども、私たちも、この「山の上」で、
 「選んでくださって、ありがとう! 福音の喜びで満たしてくださって、ありがとう! 天地の創造主、全能の、父であるあなたを信じます!」
 そう、私たちは宣言する。いや、宣言させていただく。
 イエスっていうのは、そのような神さまを信じさせるために来てくださったのです。そのイエスに聞き従って、そのイエスと一つになっていれば、必ずこのような天の父と一つになる、救いの日が完成する。・・・その救いの日は、もうすでに、今、ここで始まっています。私たちはすでに変容してるんです。
 「変容」って、「イエスさまのご変容」ってだけじゃないんですよ。イエスさまと共にある私たちも「変容」するんです。
 「変わる」っていいですよね〜。すごいでしょ。今までの自分じゃなくなるんですよ。確かに、今までの自分は失敗続きで、情けなくて、こんな自分はもうヤダっていうような自分。まあ、そりゃそうだ。人間なんだから、みんなそうですよ。当然です。「当然」どころか、そうであった方がいいんです。変容のためにね。われわれは変わっていきます。変えられていきます。変えられるために存在しています。
 山の上で輝きだすのは、イエスであり、イエスと共にあるこの私たちなんですよ。キリスト者って、本当に恵まれた、素晴らしい存在だと思う。
 このあとの信仰宣言は、ぜひ志願者も心を一つにして唱えていただきたいですけれども、三つのことを特に心に刻みつつ唱えてくださいね。
 「天地の創造主」「全能」の、「父」である神さま、あなたを信じますと。
 「イエスさまと一つになるから、それが信じられる」という、救いのメッセージが、私たちを、ホントに励ましてくれます。

 今日から一週間、長崎に行くんです。信徒総会のあと、すぐに空港に向かいます。
 浦上(うらかみ)教会(※8)で、一週間、黙想指導をしてくれっていう依頼なんですね。あそこは6千人信者がいるとかで、四旬節の黙想会を3グループに分けて行うと(※9)。しかも、さすが長崎、黙想会をそれぞれ三日間やるんですね。で、三日間の間に、講話が五つと、ミサが一つ。それを、3グループでやる。・・・だから、晴佐久神父、一週間で15講話するんです。ほとんど耐久レース。(笑) いやあ、だいじょうぶだろうかって思いますけれども、でもなんか、正直ワクワクしてますね。長崎の信者さんたちに15講話。まあ、私のことだから、毎回思い付きの話になっちゃって、収拾がつかない感じになると思いますが。(笑)
 こんな私に、どうしても来てくれっていう、その理由は、明らかです。長崎の教会も、「変容」したいんです。変わりたいんですよ。伝統はあるし熱心なんだけど、信者は減っているし、新しい信者が入ってこない。・・・変容したいんですよ。
 しかし、変容するには、やっぱり、イエスさまと一つにならなきゃ。共に山に登って、本当の意味で福音を信じて、語って、「壁」を取り除いて、新しい人を迎え入れないと。
 教皇フランシスコがおっしゃるとおり、「壁のない世界、橋をかける世界」(※10)。・・・教皇さまがよく言われる、「出会いと平和の文化」(※11)、それを彼、今、徹底して言われてますでしょ。
 「壁を壊そう」
 「橋をかけよう」
 ・・・彼の得意フレーズですね。
 今の世界が、それを本当に必要としているし、まずは教会がそうでないと。・・・「出会いと平和の文化」。多摩教会もこれまで、頑張ってやってまいりましたけれども、今、全世界のカトリック教会が、そのように変容しようとしております。

 そういえばおととい、教皇さま、なんか、口走っちゃいましたよね。・・・あの方、口走っちゃうんですよね。(笑) 「ちゃう」っていう言い方は、悪い言い方に聞こえますけれども、私は、彼が口走っちゃう(・ ・ ・ )のは、聖霊の働きだと思いますよ。
 と、ある、アメリカの大統領候補のことを、口走っちゃったんですね。え〜、どなたとは申しませんが、カタカナ4文字の方ですね。(笑) そういうカードゲームがありますね、 52枚の。(笑) その方が公約として、「メキシコとアメリカの間に2500キロの壁をつくる」、そして、「アメリカに滞在している1千百万人の不法移民を追い出す」と、そうおっしゃった。まあ、何をおっしゃるのも、もちろん自由ですが、そう言った。
 ・・・2500キロの壁をつくる。1千百万人、それぞれに愛があり、家族があり、人生がある1千百万人を追い出す。
 で、ある記者がこの方のことを教皇に尋ねたんです。「こういうことを言う人に、カトリック信者は投票できるんですか?」と、まあ、挑発的な質問です。教皇は当然、「私は、個人的に誰に投票するかしないかなんてことは、申し上げられない」って答えたんですけど、ついつい言っちゃいました。
 「誰であれ、どこにであれ、壁をつくることだけを考える人は、キリスト者ではない」(※12)
 そう言ったんです。・・・この言い方、すごいですよね。
 彼には、「人々を受け入れない教会は、教会と呼んではいけません」っていう、一世を風靡(ふうび)した名言がありますが(※13)、さらに、「教会と呼んではいけません」よりも、もっと踏み込んだ言い方ですね。一キリスト者の条件について、はっきりと語ったわけですから。
 「壁をつくることだけを考える者は、キリスト者とは呼べない」
 まあ、言われた方は、怒っちゃってね、「一宗教のトップが、一個人の信仰について言うなんて・・・!」って、言ってましたけれど、しかし、私に言わせれば、これ、「教皇が、聖書の教えを語ってる」って、それだけの話ですね。別に、個人攻撃してるわけでも、何でもない。
 イエスさま、おっしゃいました。ルカ福音書のいい方ですけれど、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:27)って、そうおっしゃった。
 「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、もはや、キリスト者ではありえないんだ」・・・ってこれ、イエスさまの言葉ですからね。
 じゃあ、「『自分の十字架』って何か」って言ったら、今の文脈でいうならば特に、「壁を壊す」ことでしょう、「橋をかける」ことでしょう、他者を受け入れて共にあり続けることでしょう。
 それこそ、「十字架」ですよ。壁を壊したら、いろいろイヤなことも入ってきちゃいますからね。橋をかけたら、いろいろ面倒なことも起こりますからね。でも、われわれは、「壁を壊して」出会わなきゃいけない。「橋をかけて」握手しなきゃならない。
 先週、教皇さまご自身が、身をもって示しましたよね、それ。
 キューバで、ロシア正教会の総主教と史上初の握手、抱擁ですよ(※14)
 一千年ですよ、東方教会と離れて。一千年離れてもめてきたのに、あの教皇さま、橋をかけたんですね。史上初です。ローマ・カトリック教会の教皇と、ロシア正教会の総主教が会談した。・・・イエスさま、お喜びだと思いますよ。

 「壁を壊して、橋をかける」、これが、私たちの十字架。
それはなかなか大変なことであり、つらいこと、面倒なことでもあるんだけれど、まさにその先に、天国の栄光が待っているよと、それを見せるために、イエスさまは弟子たちを山の上に連れ出した。今日、私たちも、この聖なるミサに「連れ出されて」まいりました。
 そして、神さまから直接、
 「イエスに聞け」と、
 「イエスについていけ」と、
 「イエスだけを信じて、わき目もふらず、壁を作ることだけを考えるのではなく、壁を壊して、橋をかけようじゃないか」と、
 そう言われました。
 嫌なこと、いっぱいおありでしょうが、それ、なんてことないです。私たちが思いこんでるほど大変なことでもないし、つらいことでもないし、終わりでも何でもない。今、ぼくらはまだ、始めてもいない段階なんです。これを、お忘れなく。
 山から下りて、弟子たちは、イエスと共に十字架の道を歩き始めます。そしてやがて、復活の主に出会ったとき、あの山の上でチラリと見た世界が、今、本当に始まったという感動、ときめきを持って、弟子たちは「キリスト者」となり、キリスト教を広めてまいりました。
 以来二千年間、この使徒たち伝承の信仰を、私たちは今も宣言し続けます。
 すべてをおつくりになった神さま、
 すべてを結び合わせることができる神さま、
 すべての神の子を「一つ」にできる、「一つの神の民」とすることがおできになる神さま、
 すなわち、「天地の創造主、全能の父」である神さまを、
 「私たちは信じます」
 ・・・そう、宣言いたします。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「ご変容の箇所ですね」
2016年2月21日(四旬節第2主日)の福音朗読箇所
 ルカによる福音書9章28b〜36節
  〈小見出し:9章28〜36節「イエスの姿が変わる」〉
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※2:「旧約聖書が読まれ」
2016年2月21日(四旬節第2主日)の第1朗読箇所
 創世記15章5〜12節、17〜18節
  〈小見出し:15章1〜20節「神の約束」の抜粋〉
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※3:「使徒の書簡が読まれ」
2016年2月21日(四旬節第2主日)の第2朗読箇所
 フィリピの信徒への手紙3章17節〜4章1節
  〈小見出し:3章1〜11節「キリストを信じるとは」、12節〜4章1節「目標を目指して」〉
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※4:イエスさま、おっしゃったんですよ、「自分の十字架を背負ってついておいで」と。
 今日の福音書の箇所(ルカ9:28〜36)の直前は、ルカ9:21〜27で、小見出しは「イエス、死と復活を予告する」。
************
 イエスは弟子たちに、ご自分の受難と復活を話された後、こう言われた。
 
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9:23〜25/赤字引用者)
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※5:「使徒信条」既出〈参照※3〉/詳細〈参照※12〉他)
◎使徒信条
 使徒の時代から、教会は固有の信仰箇条をまとめ、基準となる一定の言葉で表明し、伝えてきた。信徒が宣言する、このまとめを、「信仰宣言」(クレド)と呼んでいる。
 「信仰宣言」は、すべての主日と祭日に、ミサ中、説教の後、「洗礼式の信仰宣言」「使徒信条」「ニケア・コンスタンチノープル信条」の、いずれかの形式で唱えられている。
以下は、「使徒信条」。

***「使徒信条」***

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン。

(参考)
・ 「信条」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002年)
・ 「13.信仰宣言」(『ともにささげるミサ(改訂版)』オリエンス宗教研究所)など
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※6:「信徒総会」
 カトリック多摩教会では、年1回、主任司祭が招集することになっており、「キリストから与えられた使命である宣教、ならびに司牧活動をよりよく果たすために、信徒全員が参加して、広く意見を集約する場」とされている。
 具体的には、前年の活動報告、収支決算の報告や予算案の承認、各種委員会(部会)などのメンバー紹介などが行われ、「具体的な活動に関する理解を深める場」として提供されている。(参考:「カトリック多摩聖堂共同体規約」第4章)
 この日の総会のはじめ、晴佐久神父があいさつの中で、「これは、家族会議の場だ」と言われたことで、皆くつろぎ、和やかな雰囲気のなかで行われた。
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※7:「先週、洗礼志願式でカード、もらいましたね?『使徒信条』というカードです」
 この説教の前の週(2016年2月14日)に洗礼志願式が行われ、洗礼志願者となった各々に、『使徒信条』を記されたカードが渡された。
 (下の画像は、 洗礼志願式当日、各々に渡された「使徒信条」のカード)
(参考)
・ 「最後は黙る」(「福音の村」2016/2/14説教)
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※8:「浦上教会」
◎カトリック浦上教会
 「浦上天主堂」の名前で有名なカトリック教会。
 キリスト教禁制のもとでの激しい迫害や殉教、また、禁教令が解けたあとの困難、苦難を経て、浦上の信徒、宣教師たちによって、つくり上げられてきた。1879年(明治12年)、「サンジュアン・バブチスタ小聖堂」を建立したのを発端に、その翌年には、かつて「踏み絵」の行われた浦上山里村の旧庄屋、高谷屋敷跡(現在の地)に仮聖堂を建立。しかし、老朽化や手狭なことなどから、1895年(明治28年)には、天主堂建立が本格的に計画された。
 資金難から、工事はなかなか進まなかったが、長きに渡る奉仕、献金活動などによって、東洋一を誇る煉瓦造りのロマネスク様式大聖堂として完成。1914年(大正3年)、献堂式を行うに至った。1925年(大正14年)には本聖堂正面に双塔の鐘楼が完成。大小二つの鐘が吊るされた。
 しかし、1945年(昭和20年)8月9日の長崎への原爆投下で、一部側壁を残すのみで全壊。現在の建物は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年(昭和55年)、赤レンガタイルで、往時の姿に復元された。周囲には被爆遺構の石像などが据えられている。
・ 教会堂名: 無原罪の聖母
・ 信徒数: 約6千人
・ 聖堂収容人数: 約1,250人
・ 主日のミサ: 土曜日19:00、日曜日6:00、7:30(子どものミサ)、9:30、18:30
・ 週日のミサ: 6:00 / 初金のミサ: 10:00
・ 住所: 〒852-8112 長崎市本尾町1-79

画像は順に、
① 正面入り口上
② 鐘楼と原爆の影響が見られる聖像
  (聖像は向かって左は、頭部が原爆で破壊された聖人の像、中央は「イエスのみ心」の像、右は聖セシリアの像)
③ 「悲しみの聖母像」(原爆で指1本がありません)
④ 売店前、白い聖母子像
(参考)
・ 「浦上天主堂」(長崎教区カトリック浦上教会)

(上の地図内、「拡大地図を表示」をクリックすると、大きく地図が表示されるとともに、たくさんの写真も公開されているので、ぜひご覧になってみてください)
・ 「浦上小教区沿革史」(長崎教区カトリック浦上教会)
  (1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令の時代から、現代までの歴史)
・ 「カトリック浦上教会」(ウィキペディア) 他
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※9:「四旬節の黙想会を3グループに分けて行うと」
カトリック浦上教会のホームページ内、「お知らせ」にも、掲載されています。
2月21日(日)から26日(金)までの「年の黙想会」。
① 夜の部(1回目18:30): 2/21(日)、22(月)、23(火)
② 昼の部(9:00):2/22(月)、23(火)、24(水)
③ 夜の部(2回目18:30):2/24(水)、25(木)、26(金)
(参考)
・ 「今週のお知らせ」(カトリック浦上教会)
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※10:「壁のない世界、橋をかける世界」
(参考)
・ 教皇フランシスコ:
「どこであれ壁を築くことしか考えず、橋をかけることを考えない人間はキリスト教徒ではない」2016/2/19(「トランプ氏は『キリスト教徒でない』、ローマ法王が壁建設批判」CNN)
・ 「教皇、ロシア正教会のキリル総主教と歴史的会見2016/2/13(バチカン放送局)
・ 「教皇、ウガンダの青少年に励まし『イエスは壁を地平線に変える』 2015/11/28(「ウガンダ訪問」:バチカン放送局)
・ 「法王『壁は解決策にならない』2015/9/29(「キューバ、米国歴訪後機中会見」共同通信)
・ 教皇フランシスコ:
「壁があるところでは、心は閉ざされたままです。私たちに必要なのは壁ではなく、架け橋です」教皇フランシスコ、2014年11月9日「お告げの祈り」/ベルリンの壁崩壊から25年:カトリック中央協議会) など
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※11:「出会いと平和の文化」
(参考)
・ 教皇フランシスコ:
「それぞれの病院や介護施設は、出会いと平和の文化を促すための目に見えるしるしと場になりえます。そこでは、病気や苦しみの体験も、専門的で温かい助力も、あらゆる限界や分裂を克服する一助となるのです」2016年2月11日「第24回 世界病者の日」教皇メッセージ/終わりから2段落目:カトリック中央協議会)

・ 教皇フランシスコ:「この困難な時を乗り越え、日々、あらゆる状況において真の出会いと平和の文化を築くことができますように」教皇フランシスコ、2013年9月1日「お告げの祈り」/「シリアと中東と全世界の平和のために」/最後の段落:カトリック中央協議会) など。
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※12:「誰であれ、どこにであれ、壁をつくることだけを考える人は、キリスト者ではない」
(参考)
・ 教皇フランシスコ:
「どこであれ壁を築くことしか考えず、橋をかけることを考えない人間はキリスト教徒ではない」2016/2/19(「トランプ氏は『キリスト教徒でない』、ローマ法王が壁建設批判:CNN)
・ 「ローマ法王、トランプ氏批判 「キリスト教徒ではない」」〔各種ニュースリスト〕(NewsJS)
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※13:「人々を受け入れない教会は、教会と呼んではいけません」っていう、一世を風靡した名言がありますが
 教皇フランシスコは、昨年(2015年)9月9日の一般会見の、家庭と小教区共同体についての講話の中で、次のように言われた。
 
「福音に真に従う教会は、いつも扉を開いている、もてなしの家のようになるに違いありません。閉ざされた教会や小教区、教会組織のことを、教会と呼んではいけません。博物館とでも呼ぶべきです」(「教皇フランシスコ、2015年9月9日の一般謁見演説」/上から5段落目:カトリック中央協議会)

(その他参考)
・ 「家庭とキリスト共同体の絆を考察、教皇一般謁見2015/9/9(バチカン放送局)
・ 「教会、排他的なら『博物館』2015/9/18(カトリック新聞オンライン)
・ 「排他的なら博物館 ‐教皇 教会に『扉開けて』と要望‐」(『カトリック新聞』2015/9/20(2)
・ 「教会と呼んではいけません」(晴佐久神父:『多摩カトリックニューズ』 2015年9月号‐主任司祭巻頭言)
・ 「教会と呼んではいけません」(「福音の村」2015/9/20説教)

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※14:「キューバで、ロシア正教会の総主教と史上初の握手、抱擁ですよ」
(参考)
・ 「教皇、ロシア正教会のキリル総主教と歴史的会見2016/2/13(バチカン放送局)
・ 「教皇とキリル総主教が会談2016/2/17(カトリック新聞オンライン)
・ 「キューバで史上初の会談‐教皇とロシア正教会総主教『兄弟』の抱擁交わす」(『カトリック新聞』2016/2/21(1)
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2016年2月21日 (日) 録音/2016年2月28日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英