2014年7月6日年間第14主日
・第1朗読:ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9・9-10)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・9、11-13)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ11・25-30)
【晴佐久神父様 説教】
イエスさまから素晴らしいひと言をかけていただきました。
「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(cf.マタイ11:28)
・・・休ませていただこうではないですか。休ませていただきましょうよ。
じゅうぶん、皆さん頑張ってますよ。むしろ、やり過ぎてるんだと思う。何に怯えてか、何が不満でか、たぶん、頑張りすぎてるんだと思う。
まあ、怠けちゃいけないって、よく子どものころは叱られますけれども、私、大勢の人の相談受けてきて思うんですけど、「この人の問題は怠けだ」なんて思ったためしがないですよ。「この人の問題は頑張り過ぎだ」って思うことは山のようにあるけどね。
何をそんなに、必死に頑張っているのか。神さまが働いておられるこの世界の中で、いったい私は何を頑張って、自分を救おうとしているのか。救ってくださるのは神さまだけなのに。
・・・イエスさま、優しいですね〜。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)と。
私たち、頑張りすぎて疲れたんです。重荷を下ろしちゃいけないと思い込んで背負ってきた。あるいは、背負わされていると思い込んでるんですよ。
ちょっとこう、イエスさまのもとで、すべてを解き放って、空っぽになって、
神さまのみもとにはぜ〜んぶ揃っていますから。もう、何も求めなくていい。・・・そう、これなんですよね。
そうです、人はなぜ頑張るかっていうと、何かを求めてるからなんです。もちろん、イエスさまは、「求めなさい、探しなさい」って、そうおっしゃるけれど(※1)、それはこの世のもののことじゃない。真に求めるべきものは、もう、神さまのみもとには揃っているんです。
「私は愛されていて、もうここで満たされているから、今、天に召されても構いません」っていうような境地になれたら、最高なんじゃないですか?
そろそろ、最期のときを考え始めている年代の方でしたら、ちょっとこう、「今日、もう、そういう境地になっちゃおう!」っていうようなチャレンジ、必要だと思いますよ。・・・神の恵みのうちに、すべてが、もう揃っている。ぜんぶある、だから何も求めないというチャレンジ。
もちろん、「病気治してくれ」とか、「生きるためにもうちょっとあれが必要だ」とか、人間として当然、いろんなことを願います。それ自体が悪いとは言わないけれども、一番深いところでは、「すでに、もうここにある」って信じてるのがキリスト者でしょう。「この世的なものはすべて失ったとしても、私は神さまから、もうすべてをいただいているから思い悩みません」というのがキリスト者でしょう。・・・洗礼を受けて、ミサでご聖体なんて頂いた人は、「もうぜ~んぶ頂いているから、これ以上何か求めるのは、ちょっとずうずうしいかな」っていうくらいな気持ち、必要なんじゃないですか?
昨日、長岡での講演会に行ってきました。前泊したんですけど、「少しぷらぷら街でも歩いてみるか・・・」って、夜中に散歩したら、大きな広場っていうか、屋根の付いてる大きな広場があって、なかなか立派でしたよ。そこで日中イベントをやったらしく、立派な七夕の笹とかが飾られてて、お願い事の短冊が、掛けてありました。(※2)
ちゃんと白紙の短冊が用意してあって、だれでもその場でサインペンで書いて、笹に結ぶようになってるんですよ。へえと思って、短冊を一つひとつ読んでみたんです。
小さい子どもの文字だとね、かわいいんですよ。「ケーキ屋さんになりたい」とか、「ディズニーランドに行きたい」とか、お願い事が書いてある。「ドラえもんをペットにしたい」(笑)っていうのもあって、「かわいいね~♪」と思った。
もうちょっと上の年代の文字だと、「彼女が欲しい」とか、「試験に合格しますように」とか、なかなかストレートな願い事で、「金持ちになりたい」みたいなのもあって。
もっと上の世代になると、きれいな字ですから、だいたい年齢わかりますもんね。そうすると、内容も、「腰の具合がよくなりますように」とかになって、中には、「娘にお願い。40過ぎても孫を生んでくれ。母より」っていう、(笑)これもストレートな願いですね~。「40過ぎても孫を生んでくれ」って、まあ切実というか、はしたないというか、(笑)いや、その願いはわかるけど、それじゃ娘もつらかろうね、母にそこまで思われて。
短冊もいいけど、これ、何なんでしょう。まあ、「ケーキ屋さんになりたい」くらいは、かわいいからいいけど、まあ、みんな遠慮なくあれを願い、これを願いして。なんか笹の葉にね、いっぱいお願い事がつるしてあるのって、一見美しい光景のような気もするけど、よくよく読んでみると、結構身勝手な願いばかり。年に一度の七夕さまの日に、神さまにひとつ、ホントにまごころからのお願い事を書けって言われて、「・・・それか?」って、読んでるうちに、突っ込みたくなりました。(笑)
だって、およそすべて、自分のことなんですよ。
まあ、中にはね、「世界平和になりますように」とかっていうのもありましたけど、ほぼぜんぶ、自分のことなんです。なんだかさみしい気持ちになりました。「結局人の願いって、そういうことなのかな・・・」と。
神さまに、年に一度、短冊にお願い書ける。必ずかなうならば、そこに何を書くか。さて、皆さんなら何を書きますか?って話ですよ。
「あれが足りない」「もっとこうしてくれ」、そんな思いにとらわれつつ、また一年過ごしますか?
まあ、何だかさみしい気持ちになりましたから、私も1枚書きました。ホントは、「みこころが行われますように」って書きたかったんだけど、それも、なんかパッと見、それ読んだ人が、「何これ?」って、なんかピンとこないような気がする。だから、帰ったら「ここナツ」(※3)もあるしね、
「心の病で苦しんでいる人が、少しでも癒やされますように」って書いて、結んできました。
「もし、七夕さまの祈りがかなうんであれば、お願いしますよ」と、「みんな、ホントにつらい思いをしてるんですから」と、そんな気持で結んでまいりました。
皆さんだったら、何て書きますか?
今日の夕方、「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り」(ここナツ)っていうのをやります。
4時からスタートで、まず、癒やしのミサをするんですけど、ミサの前に、みんなにお願い事の短冊、書いてもらう用意がしてあります。それを大きな笹に飾って、ミサの奉納行列のときに持ってきて、祭壇前に飾ってお祈りするっていう企画です。
・・・いいですね、カトリックは何でもありでね。(笑) 七夕さまの風習も取り入れたりしてですね、まあ、すでに七五三の祝福式なんてやってるくらいだから、いいでしょう。
きっと、心の病で苦しんでいる人たち、みんな、「病気が治りますように」「少しでも楽になりますように」、あるいは、「家族の病が少しでも快方に向かいますように」って、切実なお祈りを書かれると思います。どうぞ皆さん、そんなお祈りに心を合わせましょう。そして、このミサでは、
「自分のことではなくて、誰かのためにお祈りする」
最終的には、神さまにすべてを委ねて、神さまが私たちを、生み、育て、導いて、必ず救ってくださるんだから、今、もうここで、すべてが満たされてるんだっていうような、そんな信仰をね、深~いところに、ちゃんと持ってこのミサを捧げます。そして、「すべてに感謝します。みこころならば、今日の癒やしのミサで、癒やしの恵みをお与えください」と、お祈りする。
このミサで、皆さんにそんな祈りを捧げていただきたいんですよ。午後4時からの、癒やしのミサに集まって来られる方のために。
私たち、なんかこう、何でも、「足りない、足りない」って言ってると、そこには不満ばっかりで、神さまに愛されている、「今」「ここ」での喜びっていうものを見失っちゃう。たぶんそれが一番、疲れる理由、重荷の原因なんじゃないでしょうかねえ。
だから、イエスさまは、ご自分のところに招いてくださいます。イエスさまのところにはすべてがあるから。そんなイエスさまのみもとで休んでいる、ホントにすべてが満たされている状態。そしてみんなのために祈り、みんなをそこへ招く。・・・こういうキリスト者であってほしい。「ああ、あんな信仰、いいな」って、みんなから憧れられるようなね、そういう存在でいてほしいです。
世は「ありのままで」を一生懸命歌ってますけど、ご存じですか?(※4)
(歌う)「ありの~♪ ままの~♪ 姿見せるのよ~♪♪」って、歌ってますでしょ? 大流行ですよね。
これ、でも、いい歌詞だなと思う。
「ありのままの姿見せるのよ」
私はここにちゃんと「ある」。神さまから与えられて「ある」。確かに「ある」。
その「あるがまま」、これが私の最高の姿なんです。なぜなら、私がつくったわけじゃない。私が自分に恵みを与えてるわけじゃない。神がつくって、神が恵みを与えてるんだから、最高の姿に決まってます。その私が、今、ここに「ある」。
「ある」ことは、いいことなんですよ。「ある」ことは、そのまんま、良いこと。・・・神は「良し」として、世界をつくったから。(※5)
その「良い」私は、「ある」んです、ここに。いないわけじゃないでしょ? 皆さん、そこにいるじゃないですか。
だけど、もし、その良い「ある」を受け入れられず、真の満足、安心を知らず、この世のあれが欲しい、この世のこれが足りないとだけ思ってたら、あなたは実は、「ない」んですよ。
だって、「いずれ、そのこの世的欲望が満たされるとき、満たされるところに私がある」ってことだから。今は、ないってことでしょう。
「その人の富のあるところに、その人の心もある」(※6)
パウロが言うところの「肉」(※7)って、この世のそういうとらわれのことですけどね、この世の肉なるものにのみとらわれていると、永遠に「自分」は「ない」。あるのは不満、不安、時には怒りだけ。
「孫が欲しい」ってね、その人、まさに孫が生まれるまでは幸せになれない。幸せな自分は「ない」。でも、この人、孫が生まれても幸せになれませんよ。さらにもっと、ああしろ、こうしろの話じゃないですか。「うちの嫁はちっとも孫を連れて来てくれない」とか、またまた不満の連続でしょ? ・・・永遠に「ない」んですよ、その人の真の人生は。
その点、この前、「ふなっしー」(※8)が、すごい替え歌を歌ってました。ご存じですか?(※9)
(歌う)「なしの〜♪ ままの〜♪ 姿見せるのよ〜♪♪」(笑)
・・・ふなっしー、天才。
だって、ふなっしーって「梨」のキャラですけど、この替え歌で、「あり」と「なし」をかけてるんですよ。「有り」と「無し」を。「梨(無し)」は忌み言葉(※10)でしょ? 悪い言葉だから、「有りの実」って昔は呼んだりした。「無し」ほど悪いことはないんです。
その「あり」と「なし」をかけて、「無しのままの姿見せるのよ」って、まあ、この世に対する強烈な皮肉じゃないですか。
みんな、あれが足りない、これが足りないって言って、私たちは、「まだそれを得ていない自分」みたいな、そういう恥ずかしくも浅ましい姿だけ見せてる。あるいは、あるかのように見せかけてる。でも、中身は何にもない私たち。そして、ふなっしーにからかわれるんです。
(歌う)「無しの〜♪ ままの〜♪ 姿見せるのよ〜♪♪」
アナの物語では、「ありのままの私」、それを受け入れる。「わたしは、ある」を。
神さまに愛されて、イエスさまに招かれる安らぎっていうのは、「さあ、イエスさま、私にもっと、ああしてください、こうしてください」っていうのとは違うでしょう。
「わたしのもとに来れば、本物の安らぎがある。休ませてあげよう」(cf.マタイ11:28)
もちろん、
先週月曜日に、「聖ペトロ、聖パウロのお祝い」があって、カテドラルに行ってきましたけど、赤いストラ(※12)を香部屋から借りて、戻そうと思ったけど忘れてて、「明日の朝戻そう。でも、忘れちゃうといけないから、明日必ず通る玄関先に置いとこう」と思った。
で、玄関先に、赤いストラ、畳んで置いといたんですよ。もう夜中の12時だし、誰か来るわけでもないし、ここに置いといても踏まれないだろうって、玄関先に置いて寝ようと思ったら、ピンポン、ピンポンってチャイムが鳴って、若い友人がひとり酔っ払って乱入してきて、
「神父さん、助けてくれ~!」って。
「なんだよ、こんな夜遅くに」って言ったら、
置いてあるストラの上にドサーッと倒れ込んで、グチャグチャ~ッと。(笑) こんな間の悪いことあるものかと、もう、私、笑っちゃいましたけど、その時に彼、ストラの上で、こう叫んだんですよ。
「親に愛されたいよ~っ!!」
こんなストレートな言葉、ちょっとまあ、痛ましいですけど、感動しましたね。
「親に愛されたいよ~っ!!」って。
これ、でも、みんなの心の声ですね。人類の原初の声ですよ。
・・・足りないんです。人類は、根本的に、いっつも足りないんです。愛が。
「親に愛されたいよ~っ!!」
そして、いつも不安になり、頑張りすぎる。・・・愛されたいがためにね。その彼はそうでした。
愛されたいがために、必死に親の期待に応えようとして、頑張りすぎて、最近うつ気味になり、そして壊れて、医者の世話になり、薬を頂き、「薬と一緒に酒飲むな」と言うのに不安から逃れたくて酒も飲み、混乱して教会に転がり込んできた。
その日から三日間、教会でお世話しましたけど、まあ、荒れて、荒れて、大変でした。電話で様子がおかしいと思ったご両親が心配して、実家から迎えに来られました。
昨日、ご両親と本人と私とで、4人で、お話しました。
そのときの彼の、照れくさそうな、うれしそうな顔!! こんなうれしそうな顔するのかと。
・・・親が心配して迎えに来てくれた!!
彼は実家に帰って、近くの病院のお世話になることになりましたけど、少しずつ元気を取り戻すでしょう。もう一回、私に言わせれば、
「親子やり直し」
・・・みたいなことをしてもらう。親にも話しました。
「むしろ、あなたたちが頑張りすぎてるんじゃないですか?」と。
「あなたたちが、ホントに信仰を持って安心し、わが子がどんな子であっても、『だいじょうぶ!』って、信じてあげなきゃいけなかったんじゃないですか?」と。
・・・親子やり直し。それはキリスト者の、一番本質の話でしょう。天の父との親子やり直し。
イエスのみもとで、「わたしは神の子である」と、安らいでいいんです。私たちは、「神に愛されたいよ~っ!」って言う必要がないんですよ。
なぜなら、神は完全に愛しているから。完璧に愛しているから。・・・何も求める必要がない。
そんな愛に目覚めたとき、私たちはもうこれ以上、この世の親に愛されたいとか、この世の孫を見たいとか、もう、そういうことはどうでもよくなる。
「今ここに、私はある。ありのままの私がある。このままの私を見せていい」と、
「だから、ここに救いがある」と、
そう、目覚めていただきたい。
今日、菊地さんの一周忌ですけれども、去年の5月に亡くなって、もう1年とちょっとたちました。
すぐ上の病院でしたから、お訪ねすると、「窓から教会が見えるんだよ」って言ってね。
菊地さん、懐かしいです。今日、ご家族が来ておられます。試練の中でも、体はつらく、心も不安、でも、そんな中でも、信仰だけをね、頼りにしてましたよね。そして、
「私は病気だけれど、今、ここに生かされている。もうすぐ最後の時が来るってわかってる。わかってるんだけれども、今日、私は確かに今、ここにいる。つらい中で、しかし、神に祈ろう。あなたが私を生み、私を生かし、私に『今日』という日を与えてくれている。この日をあなたにお捧げします。後はすべてお委ねいたします」と、
そういう思いで、一日、一日を生きていた。
彼は死んで消えちゃったんですか?・・・違いますね。彼こそが「あった」んじゃないですか? だから今も「ある」んじゃないですか。その瞬間、その瞬間、ちゃんと神のみもとで「ある」ってことは、永遠に「ある」ってことなんですよ。
皆さんは、今、「ある」って言えますか? 永遠に「ある」わたしですか? 今ここでなかったら、「なしのまま」の姿見せなければなりませんよ。
菊地さんは、消えたのではない。死んだのでもない。今も、われわれの誰よりも、まことのいのちを生きて、「わたしはある」というイエスさまの宣言(※13)のままに、生きておられるんです。
私たちの方が、ちゃんとい「ない」んじゃないですか? ここに。
今日の「ここナツ」のために、ぜひ、お祈りをいただきたいと思います。
苦しんでいる人たちが、
「それでも私はここにある!」、
試練を抱えながら、病を抱えながら、苦しみを抱えながら、
「でも、ここにある!」
・・・そんな恵みに目覚めることができますように。
【 参照 】
※1:「イエスさまは、『求めなさい、探しなさい』って、そうおっしゃるけれど」
(参考)
・ 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)
・ 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ11:9)
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※2:「そこで日中イベントをやったらしく・・・」
おそらく、第3回まちなか七夕まつり「出張まちなか商店街」(2014年7月3日〈木〉〜5日〈土〉)。
長岡の中心商店街のお店が並び、例年、フリーマーケットやビアフェスタなどが開かれ、地元のバンド演奏、サンバなどのステージイベントがなどが行われている。
>>> (参考画像)「ささの葉さーらさらー♪」(アオーレ長岡:アオーレブログ)
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※3:「ここナツ」
「ここナツ」は、「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り」の愛称です。
「お祭りなんてにぎやかなこと、私はとてもじゃないけど、そんなの無理」とか、「自分もお祭りで楽しんだりしたいけど、そんな勇気はない」とか、そう思っているような、心の病で苦しんでおられる方のためのお祭りです。(場所:カトリック多摩教会)
7月6日(日)、午後4時から「こころの癒やしのミサ」、午後5時30分から「夏祭り」のプランで実施されました。食べ物飲み物、楽器演奏などもあり、楽しいひと時をご一緒したいと企画しました。
詳細は、「心の病で苦しんでいる人のための夏祭り(7月6日)」(カトリック多摩教会ホームページ)でご覧いただくことができます。
以下は、ご参考までのチラシです。クリックすると大きく表示されます。
次回は「ここクリ」(「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス」)を予定しています。
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※4:「ありのままで」
映画「アナと雪の女王」(参考HP: ウィキペディア・ディズニー映画)の主題歌。
原題は「Let It Go(レット・イット・ゴー)」。
歌っているのは、下記の人たちです。
<日本語版(吹替版)>
松たか子 … エルサ役声優として劇中歌を歌う
メイ・ジェイ … 映画のエンディング曲を歌う
<英語版(字幕版)>
イディナ・メンゼル … エルサ役声優として歌う
デミ・ロヴァート … 映画のエンディング曲を歌う
参考動画:「アナと雪の女王 MovieNEX レット・イット・ゴー ~ありのままで~/エルサ(松たか子)<日本語歌詞付 Ver.>」(ディズニー公式YouTubeチャンネル)
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※5:「神は『良し』として、世界を造ったから。」
(参照箇所)
・ 神は光を見て、良しとされた。(創世記1章4節)
・ 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。(創1:10)
・ 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。(創1:12)
・ 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。(創1:18)
・ 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。(創1:21)
・ 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 (創1:25)
・ 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創1:31)
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※6:「その人の富のあるところに、その人の心もある」
(参照箇所)
・ あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ6:21)
・ あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。(ルカ12:34)
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※7:「パウロが言うところの『肉』」
(本日の第2朗読箇所「使徒パウロのローマの教会への手紙:8章9節、11〜13節」からの参考箇所)
・ 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。(ローマ8:9)
・ それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。(ローマ8:12)
・ 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 (ローマ8:13)
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※8:「ふなっしー」
千葉県船橋市非公認のご当地キャラクター。2000年に一度の梨の妖精。いずれの商業団体や自治体に属してもおらず、船橋市とも無関係。自腹で活動中。
(参考:「船橋市情報サイト ふなっしー劇場」・「ふなっしー〈ウィキペディア〉」)
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※9:「ふなっしーが、すごい替え歌を歌ってました。ご存じですか?」
参考動画:「【ゆるコレ】ふなっしー「ありのままで」便乗カバーはアリ?ナシ?」(moviecollectionjp)
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※10:「忌み言葉」
① 信仰上の理由や,特定の職業・場面で使用を避ける言葉。不吉な意味の語を連想させる言葉が多い。例えば婚礼の際の「去る」「切る」「帰る」「戻る」「別れる」,お悔みの際の「重ねる」「重ね重ね」「返す返す」「再び」など。
② ① の代わりに使う言葉。昔,斎宮(さいぐう)で「僧」を「髪長(かみなが)」といい,また,商家で「すり鉢」を「あたり鉢」,結婚式で「終わる」を「お開きにする」という類 (「Weblio辞書」より)
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※11:「軛(くびき)」
(参考)
・ 「軛」: 二頭の牛や馬、ロバなどの大型家畜を横に並べ、連結させる横木。その横木は二頭の首にかけて固定する。
つないだ横木の中央には棒が付けられており、その棒に車をつないで引かせたり、犂(すき)を付けて畑を掘り起こしたりする。
(写真がウィキペディアなどに載っています。>>>くびき〈ウィキペディア〉)
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※12:「ストラ」
「ストラ」(stola)は、カトリックでの呼称で、司祭が、祭服の上から首の周りに掛ける細長い帯のこと。叙階された者の権威を示す。
長さは、2m30cmか2m60cm 、幅は12cmから25cm。色は4色あり、典礼暦によって変えて着用される。
☆ 下の画像で、神父が首からかけている赤い帯が、「ストラ」。(画像はクリックすると拡大されます)
(2014/4/13「枝の主日」ミサより)
(参考)
・ 「祭服・・・アルバ、ストラ」(Laudate-キリスト教マメ知識)
・ 「典礼の色」(Laudate-キリスト教マメ知識)
・ 「ストラ」(ウィキペディア)
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※13:「『わたしはある』というイエスさまの宣言」
(参照箇所)
・ だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(ヨハネ8:24)
・ そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。(ヨハネ8:28)
・ イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(ヨハネ8:58)
・ 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」(ヨハネ13:19)
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Copyright(C) 晴佐久昌英