主に見つめられている者

2014年1月19日年間第2主日
・第1朗読:イザヤの預言(49・3、5-6)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・1-3)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・29-34)

【晴佐久神父様 説教】

 目の前に新成人が3人おられますので、私は大変気分がいい。成人式の祝福ミサをやると言って呼び掛けても、誰も来なかったっていう経験を何度もしておりますから。ありがとうね、来てくれて。(笑)
 目の前の新成人の皆さんを、心から祝福しますし、特別に申し上げたい。成人して、これからの生涯、「生涯」ですよ、ただひたすら神さまの愛で心をいっぱいにして、福音だけ信じて、もうあまり余計なこと考えずに、つまらないことで頭を満たさずに、本当に、信じる喜びを生きていっていただきたい、と。
 ずいぶん昔に成人式をやった、後ろにいる大勢の先輩たちは、自分もそのように、20歳のころから神の愛への信仰を持ち、福音だけで心いっぱいにして生きてこれたら、どんなに良かったかって思いますでしょ? 実際には、成人してからずっと、いろんなつまらないことで頭いっぱいにして、くだらないことで悩んで、不平、不満、後悔・・・ばっかりの人生を生きてしまった。
 だから、こうして新成人を祝福する美しいミサに(あずか)ったりすると、「ああ、あのころは分かってなかったなあ。福音を知らずに苦しんで、ずいぶん遠回りしちゃったな。頂いた恵みを無駄にしてたな。だから、新成人のあなたたちは、遠回りしちゃだめだよ。開心(・ ・)して、本当に今、神さまがここにおられることを信じなさいね」って思いますでしょう? よもや、この20歳の成人たちに、「さあ、今度はあなたたちが苦しむ番よ」とは思わないでしょ?(笑)
 新成人の皆さん、まっすぐに信じて、不平不満や恐れや後悔、そういうことを頭に入れずに、ホントに幸いな、喜びの福音だけを、心にいっぱい入れてください。もちろん、いろんなつらいことも、ちょこちょこっとはあるかもしれないけど、そういうものは心からすぐに追い出して、「今、ここに、神さまの恵みがある」っていう、その喜びで心をいっぱいにしてほしい。そういうキラキラ輝いたキリスト者を見て、「私もそうありたい」と思う仲間たちが、どんどん増えていく。若い皆さんに、心からお願いいたします。

 今、教会、若返ってますよ。教皇さまが、いっぱい新鮮な福音をお話なさるので、もう全世界の神父たちは、非常に楽です。説教で悩んだら、教皇の話をすればいいんだから。ある人から聞いたんですけど、「うちの神父、『私の下手な説教なんか聞くより、今日はフランシスコ教皇の説教を読みましょう』って言って、教皇さまの説教を読んだ」って。その気持ちわかります。私も彼の言葉を紹介したくって、うずうずしてますから。
 先週は「教会は野戦病院であれ」っていうインタビューを紹介しましたけども(※1)、その中から今日さらに、新成人の皆さんに伝えたい言葉がある。
 「神は、今、ここにおられる」っていう言葉です。
 インタビューした人が、「教皇さまは、神さまを探し、見いだすために、どのようになさいますか」って質問したのに対して、「具体的な神は、今日、ここにおられます」とお答えになったんです。そして、こうおっしゃった、
 「不満、嘆きは、決して、決して神を見いだす助けにはなりません」と。
 これは、20歳を迎えた皆さん、絶対に、生涯、忘れないでください。「今」「ここ」におられるんです、神さまは。あなたと共におられるんです。生涯、共におられるんです。見いだすならば、いつでも、どこでも、どんな状況でも。だけど私たちは、「今、ここにおられる神」を忘れて、「昔はもっとよかったのに」「あの頃、ダメな私だった」「あのイヤなことが忘れられない」って、過去の嘆きに心がいっちゃう。あるいは、「これから悪いことが起こるんじゃないか」「やっぱり見捨てられるんじゃないか」って未来の恐れに心がいっちゃう。あるいは、「私にはこれが足りない、あれが欠けている」っていう不満に心がいっちゃう。そうして、「今、ここで、満たされている」という現実から心が離れてしまう。・・・目を開けば、今、ここに、すべてを満たす神はおられるのに。
 恋人とか、いますか? 余計な話ですか?(笑) 恋人がいればわかるでしょ? 恋人が目の前にいるんです。そこにいて、「君を愛してるよ」とか、「あなたが大好き」とか、言ってるんですよ、現実に。にもかかわらず、「俺は昔ふられてつらかったなあ」とか、「私はきっと見捨てられるのよ」とか、「この人、きっと私を愛してないんだ」とか、そんなこと思ってたら、成り立たないでしょ、恋愛が。目の前にステキな恋人がいて、「君を愛してるよ」って言われたら、「ああ、うれしい!」って喜びで満たされればいい。・・・まあ、もっともこの世の恋人はね、なかなか続かなかったりするけど、神さまの愛は永遠なんです。その神が、今、ここに、おられるんです。それに気づいていただきたい。

 昨夜、親しい友人が私に打ち明けてくれた話は、すごくうれしかった。本人が、ここんとこず~っと苦しんで悩んでいるのを知ってますから。彼は、しょっちゅう昔のつらかったことばかり考えて落ち込んだり、これからつらい人生がずっと続くことを恐れたり、今自分は何者でもないと嘆いたりしてたんですね。だけど、ついこの前、教会の前の道を歩いてて、ハタと気がついたって。
 「そうか。ここに、救いの現実があるじゃないか。自分はここに存在して、ちゃんと教会に通って、そこで福音を聴いて、ミサを体験している。その事実から、心が離れていた。ここに、ちゃんと救いがあるのに、それに気づかずに、心は遠くに離れていた。頭の中だけで、落ち込んで、恐れて、嘆いて、それだけが自分のような気がしていた。でも、目を開けば、ここに救いがあるじゃないか」
 毎週、晴佐久神父が説教で言ってるのは、そのことなんですよ。悩んでいるのは、あなたの脳ミソなんです。恐れているのは、あなたの心なんです。現実には、今、ここに、神はいるし、その神に愛されている私が、ここにいる。やっと気がつき始めてくれたかと、昨日、すごくうれしかった。
 みんな、いつも自分の頭の中だけで生きてるから、なかなか気がつかないんですよね。心と頭に、いろんなつまらないものを持ち込んで、いっぱいにして。がれきでいっぱいの、津波に襲われた家の映像とか見ましたでしょ? ボランティアが来て、一つひとつ、きれいに壁拭いて、泥をかき出して、丁寧に掃除していく。皆さんの心は、本来きれいな家であるはずなのに、皆さん自身が、がれきでいっぱいにしちゃってるんですよ。入れなくてもいい泥を、せっせと自分で入れちゃってる。それをイエスさまが、一生懸命、かき出してくれてるんじゃないですか?
 何もがれきを入れることないですって。福音で心いっぱいにしてくださいよ。神の愛で頭の中をいっぱいにして、胸の真ん中にイエスさまを迎え入れて、全身で聖霊を浴びて、もう他のことが入らなくすればいいんです。おもしろいよね、人って。わざわざ、がれきを持ち込むんですよね。
 いつか、誰かが、すごくいい方法編み出したって、手紙をくれた。何かつまらないものが心に入りそうになったら、パッと扉を閉めて、「私はあなたを入れたくありません。さようなら~!」って言うんですって。まあ、かわいい方法だけど、やってみてください。怒りとか、不満とか、嘆きとかが入ってきそうになったら。
 みんな、無防備に入れっぱなしですからね。丁寧に持ち込んでは、「おのれ~!」と怒ったり、「どうせダメだ・・・」と嘆いたり、小さな頭の中でぐるぐる、ぐるぐる、ずっと考続けてる。最初から入れなきゃいいんです。自分の汚れなき魂を守ってください、「さようなら~!」って。
 見てください、このミサ。こうして今、私たちは、ここでちゃんと救われているっていうこの現実。「これ以上何がいるんですか?」って、私はそう言いたい。・・・何もいらないでしょ? ここに神がおられて、神の愛の福音を聴いてるんだから。しかも、天下の晴佐久神父さんの説教!(笑) どっかよその教会に行って、「多摩教会から来ました」って言ってみてください。みんな言いますよ、「えっ!? いいわね~」って。(笑) 実際にそう言われたある人が、「いや、それほどでもないですよ」って言ったそうですけど、謙遜でいらっしゃる。(笑)
 まあ、どれほどかはともかく、少なくとも、私は、ここで毎週、毎週、福音を語ってきました。神父になってから一度たりとも、福音を語らなかったミサはありません。常に語ってきました。
 「あなたは救われている。恐れないでくれ!」
 それでも自分はつらいっていう人には、「私を信じてくれ!」とまで言ってきた。そうずっと言い続けてきたし、その福音は、真実です。それだけ信じて、他には何もいらないと思ってほしい。今日も、新成人の皆さんに、「神さまは今、ここにおられる。つまらんことを心に入れるな」と申し上げたこと、忘れないでください。つまらんことが入って来そうなとき、思い出してください。教皇さまのお言葉ですからね。
 「不満や嘆きは、決して神を見出すための助けにはなりません。今、ここにおられる神を見出してください」
 ・・・そういう人生を生きていこうじゃないですか。
 第2朗読で言われたとおり、皆さんは、「召されて聖なる者とされた人々」(一コリ1:2)なんです。私たちは確かに弱い存在ですけれども、だからこそ、神さまが私たちを愛して、選んで、福音を語ってくださってるんだから、召されたことに誇りを持って、「弱い私だからこそ、主に出会えた」「罪びとだからこそ、選ばれた」と思って、自らを嘆かず呪わず、福音だけに集中してほしい。

 教皇のインタビュー記事の、初めの質問が、なかなかすごいんですよ。これ、さすがに雑誌の編集長だけあって。イタリアの雑誌ですけど(※2)。こういう質問なんですよね。
 「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(教皇さまの本名)とは、誰ですか」
 まっすぐに斬り込んだ。編集者らしいね。半端な質問から入らず、直球でドーンといって、さあ、それに何て答えるかっていう、ある種、真剣勝負みたいな質問でしょ。「晴佐久昌英とは誰ですか?」って聞かれたら、何て答えるだろうって思わされるじゃないですか。皆さんだったら、何て答えますか? 「あなたとは、誰ですか?」と聞かれて。
 教皇さま、何てお答えになったと思う? じっと、真剣に考えて、ひと言、「私は罪びとです」、そう答えた。・・・美しい答えです。
 「単なる言葉の綾でも、文学的表現でもありません。私は、罪びとです」
 そうおっしゃってから、「しかし、より真実と感じていることはこうです。主に見つめられ、私は罪びとです」、そうお答えになった。・・・美しいね。そして、繰り返した。
 「私は、主から見つめられている者なのです」
 これが信仰です。まさに、キリスト者の答えです。私たち、みんな罪びとですよ。それは、全員そうです。教皇もそうです。でも、中には、「自分はこんな悪いことしちゃった。ゆるされないことだ。こんな私は救われない」って嘆いて、「私は罪びとです」って言ってる人もいる。だけど、教皇さまは、ホントに心の奥からの真実なる思いで、付け加える。「しかし、そんな私を見つめてくださってる主がおられる。私は、主に見つめられている、罪びとだ」と。
 実際、この教皇さま、教皇を受諾するときも、「私は罪びとです。しかし、主イエス・キリストのご慈悲と、限りない忍耐に信頼し、悔い改めの心をもって受諾します」っておっしゃったんですよ。これこそ彼の出発点です。原点です。「憐れまれ、選ばれて」っていうのが彼のモットーなんですよ。「私は主に見つめられている者です」、これが、彼の原点です。いや、キリスト者の原点です。人間の定義です。
 あなたを見つめる、その目は、どんな目ですか? 裁く目じゃないでしょ? 「私はあなたを罪に定めない」って、罪の女を見つめた目、あるいは、イエスを裏切ったペトロを見つめる目。
 ペトロはついさっき、「あなたのためなら命を捨てます」なんて言ってたのに(ヨハネ13:37)、もう数時間後には、イエスが実際に捕まって殺されそうになり、自分も捕まるかっていうときに、裏切ったわけでしょ。「あなたも弟子でしょう」って言われたら、「いやいや、私はあんなやつ知らない! 見たこともない」みたいなことを言うわけですよ(※3)。そのとき鶏が鳴いたら、ルカ福音書によれば、イエスは「振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:61)。 ・・・そのときの目でしょう。罪びとである私たちを見つめている主の目。教皇さまを見つめている目は、その目でしょう。
 その目はどういう目ですか? 「おのれ、裏切ったな! 絶対にゆるさん!」なんて目であるわけないじゃないですか。・・・いつくしみの目でしょう。「ペトロ、そんなお前を愛してるよ」・・・そういう目ですよね? その目に見つめられて、私たちは、なんと、罪びとでありながら、救いの喜びに満たされて、神の国を受け入れていくキリスト者なんです。
 私たちみんな罪びとですけれど、それを決して悲観せず、嘆かず、「主に見つめられる罪びと」として生きていく。そのためには、「神さまが共におられる」「主がここにおられる」「主がいつも見つめてくださってる」ってとこから離れちゃだめなんですよ。運命を嘆いているとき、自分を責めているとき、他人を呪っているとき、人はそのまなざしに気づいていません。私たちが見るべきは、運命でも、自分でも、他人でもなく、主のまなざしです。それだけ見ていたら、もう私たち、他に何も見る必要がない。
 恋人がじっと私を見つめてくれているとき、そのまなざしにうっとりすればいい。そのまなざしに気づかずに、うつむいてスマホでLINE(ライン)(※4) 始めるなんて、こんなもったいないことないでしょ? 他の物に心奪われることなく、福音に集中し、イエスさまに集中して、平和な心と希望に満ちた、立派な成人として生きていっていただきたいのです。そして、この福音を、みんなに語っていきましょうよ。
 こういうことを、20歳で聴ける皆さんは幸せですよ。どっかの成人式に、先週行ったんですか? うなずいてますけど、市役所の成人式かな。市長さんが、「これからは、立派な社会人として・・・」とか、そんな話をしたんでしょう?(笑)それも悪くはない。悪くはないけれど、こうして教会で、主イエスから直接語りかけられているかのようなこの福音をこそ、決して忘れないでいてほしい。

 教皇さまは、「小さな(おきて)些細(ささい)なことにとらわれるな」とも言ってました。すごいよね、教皇がそういうこと言うんですよ。
 「些細なこと、小さな掟にとらわれるな。最も重要なことは、『イエス・キリストは、すべての人を救われた』という幸いな知らせです」と。・・・「すべての人」ですよ。
 「『すべての人は、イエス・キリストによって救われた』という幸いな知らせ、これに集中してくれ。それを、もし邪魔するのであれば、些細なことや、小さな掟は、とりあえず脇に置いて、まず幸いな知らせ、福音に集中してくれ」と、そういうことでしょう。
 私もそれに集中したいし、そういう仲間が必要だし、今日は、この選ばれた新成人3人を徹底的に特訓して、一緒にやっていこうって呼び掛けたかった。あなたたちは、福音書で語られていたように、「聖霊によって洗礼を授ける人」、すなわちイエス・キリストから洗礼を受けたんだから、もう聖霊に()かって、福音に(ひた)されてるんです。新成人はもちろん、ここにいる皆さんに、私は「福音」「福音!」「福音!!」って、ず~っと語ってますし、それにず~っと触れている、皆さんも同じですよ。ちょうどこのミサに、先週の日曜日、洗礼を受ける決心をした方がおられますけれど、彼はず~っと以前から教会に通い、この5年間は晴佐久説教を聴き続けたわけで、このたび、聖霊の働きによって、「洗礼を受けたい!」って決心をしました。とってもうれしかった。聖霊の働きが目に見えたようで。今、聖霊が働いて、その人を新たな段階、福音に浸されて、福音を伝える段階に連れて行こうとしている。
 どうぞ皆さん、連れていかれてください。成人式って、まさにそういうことです。真の成人式は、霊的な成人式ですから。・・・福音宣教の新しい段階に、連れて行かれてください。

 昨日は、ついに、この人にも福音を語れたっていう幸いな体験をしました。
 土曜日10時半の入門講座をしていると、だいたい11時過ぎに宅急便が来るって話、いつかしましたでしょ(※5)。宅急便が来ると、私はその宅急便のお兄さんにも、ぜひ福音を語りたい。だから、受け付けの人に、「ガラス戸の向こうでサインをして帰すんじゃなくて、戸を開けて、中の声が聞こえるようにしてくれ」とお願いしてある。「こんちは~」って宅急便が来ると、受け付けの人は中から戸を開けて、そのまま開けておく。そこで私が大きな声で、「神は愛です!」「すべての人を救います!」と、まあ、そう言うわけですね。(笑) だけどまあ、そうは言っても彼は扉の外なわけですから、最近は受け付けが工夫して、自分は扉の外に出ていかないんですね。そうすると、手渡すために部屋に入って来ざるを得ない。中に入って来て、そこで荷物のやり取りをする。しかも、受け取りサインを、グズグズする。(笑) そうすると、私も15秒か20秒くらいしゃべれるから、そこでまた、福音を話す。
 それが、ついに昨日、受け付けがとんでもないことをした。ちょうど私宛ての荷物だったんですけど、そこまでしてって言ったわけじゃないのに、「サインは本人でないと」って、宅急便のお兄さんを、部屋の一番奥の、私が座ってるとこまで連れて来たんですよ、「神父さま、荷物が届きました」って。講座ですから、大勢いるんですよ、部屋の中。彼、みんなに見つめられて、ちょっと恥ずかしそうに入って来ました。それで、私も、ゆっくりサインしながら申し上げました、「いつもご苦労さま。この集まり、いいですよ~、ぜひ来てくださいよ。『すべての人は救われる』って教えてるんです。もう、特定の宗教の話じゃなく、いい人悪い人関係なく、『すべての人は救われている』って。あなたも救われてるんですよ。みんなそれを知らないで苦しんでるから、ここで、それを教えてるわけ。あなたにも、ぜひ知ってほしいなあ。お待ちしてますよ」と。
 「はいっ」「はいっ」とかって、ちゃんと聞いてね、(笑)ビックリしてましたけれど、サインもらったら、ニコニコしながら「ありがとうございました~♪」って出て行った。営業所に帰って、「もう、あそこ行くのヤだ」とかって(笑)言ってないか心配ですけれど、やりました、ついに私、彼に直接、福音を語れました。
 「すべての人は救われている。あなたも、救われてる」
 ・・・ホントに来るかもしれないね。2月最後の日曜日が洗礼志願の締切日なんで、(笑)それまでに「受けたい」と言ったら、私、喜んで授けますよ。
 「『私はイエス・キリストによって救われている』と信じますか?」と聞いて、「はい」と言えば。
 だって、すべては聖霊の働きですから。聖霊による洗礼ですから。聖霊が扉を開き、聖霊が招き入れ。聖霊が語るんです、「あなたは救われている」と。
 主は、彼のことを見つめておられる。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「先週は『教会は野戦病院であれ』っていうインタビューを紹介しましたけども」
・ 「教会は野戦病院であれ」(2014/1/12説教)
<参考>
 インタビューの記事は、以下の雑誌に掲載されています。
 ・『中央公論』 2014年1月号(2013年12月10日発売)
中央公論 同誌で「教会は野戦病院であれ」のタイトルのもと、12ページにわたり掲載。
 (2014年1月22日現在、Amazonでは古書が販売されていますが、楽天ブックスなどでは、完売となっています。購入したい方は、『中央公論』のHP、「中央公論.jp」の「バックナンバー」からどうぞ)
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※2:「イタリアの雑誌ですけど」
・ 「La Civiltà Cattolica」・・・「(カトリック文明)」イエズス会の雑誌。
  インタビュー質問者 : アントニオ・スパドロ神父〈Antonio Spadaro, S.J.〉(Civiltà Cattolica編集長)
 「中央公論」(2014年1月号)の記事での翻訳 : 門脇佳吉神父(上智大学名誉教授)
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※3:<ペトロ、イエスを知らないと言う>
・ マタイによる福音書 : 26章69~75節
・ マルコによる福音書 : 14章66~72節
・ ルカによる福音書  : 22章54~62節
・ ヨハネによる福音書 : 18章15~18節、25~27節
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※4:「LINE(ライン)」
・ 主にスマートフォンで、無料の通話とメッセージが送受信ができるアプリケーション(☆)
「24時間、いつでも、どこでも、無料で好きなだけ通話やメールが楽しめるコミュニケーションアプリ」として、特に中高生に人気を集めている。
世界231カ国、登録ユーザーは3億人を超す。
<参考>
・ LINE〈無料通話・無料メール〉 (公式ホームページ)
・ LINE〈アプリケーション〉 (ウィキペディア<フリー百科事典>)
・ LINE〈ライン 無料通話・メールアプリ〉(Google play)
(☆)
【アプリケーション<Application software>:ソフトウェアの種類の一つ。特定の作業(文書作成、表計算、画像編集など)を行うために使用されるソフトウェアの総称。「アプリ」「app」と略されることもある。・・・ 例:Microsoft Office(Word, Excel, PowerPointなど)、Adobe、RealPlayer等 】
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※5:「・・・宅急便が来るって話、いつかしましたでしょ」
・ 「『信仰年』を始めましょう」(2012/10/14説教)
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2014年1月19日 (日) 録音/2014年1月22日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英