2013年9月8日 年間第23主日
・第1朗読:知恵の書(知恵9・13-18)
・第2朗読:使徒パウロのフィレモンへの手紙(フィレモン9b・10、12-17)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ14・25-33)
【晴佐久神父様 説教】
先週はこの説教台で、「今年も無事に、すべて終わってホッとしました」と、無人島キャンプの報告をいたしましたけれども、あのときはまだ、帰ってきた直後で、わかっておりませんでした。例年のように、ただ「終わった」と思ってたんですよね。ところが、その翌日から、どっと疲れが出て、疲労困憊の極み。月曜、火曜、水曜と、体の節々が痛くてベッドから降りるのもやっと。日中も、疲労ってこういうことなのかっていう感じで、10年ぶりじゃないかな、昼間突然眠たくなって、2時間くらい昼寝をしちゃったりとか。「いや〜、こんなに疲れるものか、経験したことがない」と思って。
ある方がご親切に教えてくれました。「神父さん、年を取ると、疲れは後からくるんです」。(笑) それ、言葉では聞いてたけれど、なるほど、こういうことかと身を持って知りました。無人島キャンプ25周年で、私の体は新しい領域に入りました。(笑) 「もうそろそろ、おやめになっては・・・」と思うかもしれませんが、こうなったからには、むしろもっと工夫して、もっとよく働くイキのいいヤツらを集めて、(笑)来年もあの島に必ず行くぞと、ますます闘争心を駆り立てられているわけですが。
さて、そんな話を聞いて、皆さんはどうお思いでしょうか。
「そんなに疲れるんだったら、もっと楽なキャンプにしたらいいんじゃないか」とか、「私だったら、そこまで苦労して行かないだろうな」とか言うかもしれませんけど、こう考えてほしいんですよ。・・・「それほどに、いい所なんだろうな」、と。これが大事。
今日は、ぜひそのテーマでお話したい。
どんなにいい所かは、これ、行った人しかわからない。私がいくら口で説明しても、「ああ、そんなものかな」って思うだけ。しかし、疲労困憊しながらも苦労して出かけていく姿を見れば、「なるほど、実際に島で見る雲、波の音、解放される心、つながる魂、そこで感じることはすべて、それほどにいいものなんだろうな」って想像つくはず。
初めて行った20代のある友人は、失った家族のことなどなどで鬱々
でも最初は、「いや〜、キャンプとか、俺、苦手だし」みたいな感じで、迷ってたんですよね。「虫とかいるの?」とか、(笑)「シャワーないんですよね?」とか。もちろん、あるわけはない。だけど、まあ、本人も行く気になって、参加したんですけど、島で何日かたってね、やっぱり気になるじゃないですか。「だいじょうぶかな?」って思って、「どう? 島の生活は」って、聞いたら、たったひと言、彼が言ったんですねえ。・・・「楽! ホントに楽」。
ぼくはこの言い方、すごくおもしろいなって思いました。今回耳に残った、重要な言葉のひとつですね。・・・「楽」
これ、何を言ってると思いますか? 逆に言うと、普段の都市生活は、「楽」じゃなかったってことですね。彼は「おしゃれさん」ですし、いつも外見に気を配り、人間関係も繊細で、いつも周囲に気を使い、まさにいつも、「苦労」して生きてるわけでしょう。私、彼の洗面台の棚が見えるようですよ。いっぱい瓶やボトルが並んでてね、シューシューとかけたり、洗ったり塗ったり、なんかいろいろするわけですよね? それって、つまりはそれで幸せになるって思ってるからするわけでしょ?
人の暮らしってみんなそうですよね? 虫が入って来たら、入って来ないように網戸をする。それでも入って来たら、なんか吹きかけて殺す。それでも入って来たら、しまいに「元から絶たなきゃ」って、庭になんか撒
ところが、私たちの生活、一向に幸せになりません。思うとおりになんてなるはずないから。完璧尽くしたはずなのに、突然走り去るゴキブリ・・・。それでもう、大不幸なわけでしょ。「キャ〜ッ! Σヾ(;`・Д・)ノ」なんて叫んで、もう夜も眠れない。果たしてそれって、「楽」なんですかね。
イヤな思いをしたくない。楽したい楽したいと思って、頑張って頑張って、かえって「楽」じゃなくなってく・・・。これは愚かですよね〜。
じゃあ、どうすればいいか。環境に適応すりゃいいんです。そんなもんだと受け入れて、気を使わなきゃいいんです。むしろそんな現実こそいいもんだと、楽しめばいいんです。実際、無人島生活では、テントの中で寝てると、シーツの上をごそごそと大きなヤドカリが通過していきますけど、慣れちゃうとそんなことで目覚める方がめんどくさいんで、「もう、うるさいな」って、手で払って終わりですよ。これ、東京の寝室だったら大騒ぎじゃないですか。
「おしゃれさん」もですね、あれこれから解放されて、ひげも剃
この「楽」っていうのは、人間関係も一緒。たぶん、「こうしなきゃならない」って思い込んでることで、みんなとても緊張してるんだと思う。もっとこんな自分に見せなきゃとか、こんなこと話すと嫌われるとか。でも、ホントにいい仲間と苦楽を共にして、どんな自分でも受け入れてもらえると知ると、もう気を使わないですむ。そして、自分の一番弱いとことか、傷ついた過去さえ、平気で話せる。それは、ホントに楽なことです。
先週紹介した詩を書いた彼もね(※1)、言ってました。「夜、みんなでいろんな話ができてよかった」と。「みんなの正直な心の思いを聞けて、『ああ、こいつもこんなに悩んでいるのか』『そんなにつらい過去を背負っているのか』、そういうことを知れて、すごくよかった」。そう言ってました。信頼関係の中で、安心して素直な自分自身を出せる。・・・これは「楽」です。
こういう素晴らしいことのためなら、どんな疲労も、なんでもない。
私たち、真の「楽」を求めるべきじゃないですか。たぶん、神の国は、ホントに「楽」だと思いますよ。なんか、人間の力で「さあ、もっとこのために頑張らなきゃ」とか「努力しなきゃ」とかっていう話じゃない。むしろ頑張ってんのは神さまですよ。背負ってるのはイエスさまですよ。私たちをとらわれから解放し、本当の意味で「楽」にしたいからですよね。
もっともっと、楽〜な世界っていうものがあるってこと知ってほしいし、それに憧れて、そのためだったら、苦労もなんでもないと知ってほしい。ここがポイント。・・・本当によいもののためなら、苦労も何でもない。
さっきイエスさまが、「これこれしないなら、わたしの弟子ではありえない」って、3連発で言いましたよね。でも、どれもなかなか厳しい内容で、「え〜!?」っていうことばっかりでしょう?
「家族を憎まないなら、自分の命をも憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(cf.ルカ14:26)。そう聞くと、「いやいや、家族、大事でしょう。自分の命も尊いでしょう」って、普通、そう思う。「「憎む」ってまで言うのは、ちょっと言いすぎじゃないか。極端すぎてピンとこないなあ・・・」って思うかもしれない。でもそれは、イエスさまの言いたいことがわかっていないからです。
何がわかってないか。「神の国はそれほどに
「え〜? そんな苦労してまで、そんな島なんかに行って、一体何がおもしろいの?」って言うとしたら、それは、その島がそれほどに素晴らしいってことを知らないから、そう言うだけ。
もちろん、家族、尊いですよ。命も、かけがえがない。しかし、「それを憎んでも!」というほどに、イエスの弟子となって、神の国の喜びを分かち合うっていうことは、本当に素晴らしいことなんだっていうことなんです。
二つ目は、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(cf.ルカ14:27)。
「え〜!? 十字架、つらいよ。もういいよ」って思うかもしれないけど、それは、背負ってイエスの弟子となった喜びを知らないから、そう言うわけです。もし知ってたら、平気で背負うんですよ、人って。何でもないんです。
イエスさま、別のところでも言ってます。「わたしのくびき、軽いよ」と。「平気で背負えるよ」と。(※2)
そして最後に、「自分の持ち物を一切捨てないならば、だれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(cf.ルカ14:33)。
「この世のあらゆるものを全部捨てても手に入れる価値がある」。そのような喜びの世界が確かにあるし、私たちを待っているし、そこに行けるんだっていう、そんな希望があったら、人生、全然違うんじゃないですか? 逆に言うと、それを知らなかったら、とてもじゃないけど、生きていけないんじゃないですか?
朝早く起きると、まだ地上は薄暗いけれども、雲の一番上の所だけが白く輝いている、あの雰囲気っていうのは、まさに「希望」です。「さあ、いいことが起こるぞ! 現実はいろいろ大変だけれど、これから喜びが待ってるぞ!」という希望。その希望さえあれば、イヤなことだって平気。疲労だって何でもない。「さあ、今日という日を始めようじゃないか!」と、そんな希望を皆さん、お持ちですか?
私は持ってますよ。その希望に支えられて、毎日生きています。そのためなら、他のものは大したもんじゃない。そう思って生きられるって、ホントにうれしい日々です。
宮崎駿監督が限界感じて辞めるとおっしゃいましたけど、私は辞めないよ。希望に限界はないからね。もっとも、あの監督も、また作りそうな予感もしないでもないですけどね。(笑)
それにしても、宮崎アニメ、最初に観たのは30年前に『風の谷のナウシカ』観たときですけど、あの雲の美しさに胸打たれたというか、「あ、この人は仲間だ!」って直感したもんです。この人はわかってる。わかってる仲間だっていう気持ち。まあ、僭越ですけどね、向こうはずっと年上だから。でも、ともかく、こんな美しい雲を描いて、それをみんなに見せたいと思う、そのモチベーションに、私、反応したんですよ。
美しかった。それまで観たどんなアニメも、そんな雲を描いてなかったし、そんな雲をみんなに見せたいっていう、熱い思いをだれも持ってなかった。でも、あの雲は違いました。・・・そこに、「希望」があった。
引退会見で、宮崎さん、言ってましたよね。「アニメを作ってきたその動機、その使命は、もうただひとつ。子どもたちに、この世は生きるに値すると伝えたい、それだけだ」。
ついさっきもテレビで、30年くらい前の宮崎さんのインタビューやってましたけど、おんなじこと言ってましたよ。こんな言い方してた。「現実には嫌なことがいっぱいあって、思うようにいかないけれども、どこかでいいことが、必ずあるはずだ。それを伝えたい」。・・・まさに、「希望」ですよ。
現実にはヤなことがいっぱいある。そりゃそうですよ。1日10回はあるじゃないですか。思うようにいかない。10回やってもいかない。でも、「きっと11回目にいいことがあるはずだ」って思う、そんな希望があれば、生きていけるはず。今まで苦労した分、「こんな喜びがある!」って、そういう喜びを味わえる日がきっと来る。それを、さらに、究極なところまで当てはめるならば、「われわれはこの世で、どれだけ嫌な思いをしても構わないし、どれほど疲れ果てても、まったく平気なんだ。なぜなら神の国が待ってるから」という、その希望を新たにしようじゃないですか。
おとといは『紅の豚』やってたけど、ラストシーンのあの美しい雲見て、泣きそうになりましたよ。オレンジ色の光が横から当たっている入道雲。「なんてこった・・・!」と思いました。しみじみとした、ほんの何秒かのシーンなんですよ、でも手間暇かけて、あの雲を描いてね、「『どこかでいいこと、必ずあるはずだ』っていう希望を語りたい」っていうそれ、もうほとんど、なんでしょうね、宮崎さんもイエスさまの仲間なんじゃないかな。
先週、竜巻が起こったとき、私、車飛ばして、雲見に行ったんですよ。竜巻が起こるようなときって、積乱雲がすごいんですよね。雲好きは「大気が不安定」って聞くと、思わず外に出て、空見にいくわけです。
雲を見るのに一番いい所、ご存じですか、この辺で。東側がパーンと開けてるのは、稲城の「スーパー三和」の屋上駐車場。いろいろ捜し回って私が見つけた、最高のポイントです。屋上はいっつもガラガラ。下の地下駐車場に入れたいんですよね、みんな。でも私は屋上までダーッと上って行って、車置いて、真ん中あたりにカートを入れる涼しい日よけまであるから、その下で空眺めます。千葉から埼玉まで、パーンと見えますよ。
木曜日だったかな、美しかったな〜。ず〜っと雲見てましたけど、わくわくして、「さあ、やるぞ!」って気になる。神さまが、天の国の秘密をチラリと見せてくれてるんです。
監督が、美しい雲を描いて、子どもたちに、「どこかでいいことあるぞ」って言ってるように、神さまが、ちゃ〜んと美しい雲を光らせて、「さあ、始めようじゃないか!」と言ってくれてるんですよ。私も、それを見て、聞いて、そのような憧れを大切にして、また楽しいことを一緒にやっていきたいと、仲間に呼び掛けたいですよね。
オリンピックも来るっていうじゃないですか。2020年、東京オリンピックです。ついに決定です。まあ、「もっとやるべきことあるだろう」とか文句言う人もいるけれども、そういう人は、じゃあ、その「もっとやるべきこと」をやってるんですかね。私は、やるべきこともやり、さらにお祭りも素直に喜びたい。結構オリンピック好きですから。・・・言わなくても知ってますよね。(笑) ロンドンの開会式まで行ってるんだから。
ロンドンの開会式、入場行進が完了してスタジアムに全員が揃ったとき、泣きましたよ。もう、前もお話しましたけど(※3)、200以上の国と地域の人が、1カ所に集まって笑顔でいるとこって、この地球上にほかにないですよ。オリンピックの開会式だけなんです。4年に一度しかないんです。全世界の人がひとつに集まって笑顔でいる。美しいじゃないですか。
オリンピックを始めたクーベルタン男爵は、世界平和のためにこれを始めると宣言した。「もう戦争はやめよう。みんな仲良く運動会していれば、戦争はやめるだろう」と。彼のその理念は、今も生きています。まだまだ不完全な人類ですけど、我々には憧れがあるんですよ、美しい希望が。それさえあったら、100年でも200年でも、人々は、なんとか努力をし続けることができる。戦争で、どれほど痛い思いをしても諦めない。「どうせまた」と言わない。
神さまは私たちに、ちゃんと見せてくれています、神の国の喜びを。「教会」っていうのは、その目に見えるしるしなんだから、オリンピックの開会式にも負けないようなミサをしようじゃないですか。そして、オリンピックの開会式に負けないくらい、人々を集めようじゃないですか。「どんな人でもここに来たら笑顔だよ」と言える、それを見てみんながまた、希望を新たにする。もうそれは、何教、何宗の話じゃない、何人
教皇様が、先週の日曜日、「シリアのために祈ってほしい」と全世界に呼び掛けました。(※4)「9月7日土曜日、祈りと断食を捧げてほしい」と。・・・昨日です。知らなかったっていう人もいるかもしれない。まあ、急でしたからね。でも昨日、その「祈りと断食」をお捧げしましたよ。
といっても、昨日は、なんと入門講座の後期の初めの交流会の日で、「ピザとパエリア パーティー」という集いがあった。これはずいぶん前から計画してて、用意しちゃった以上、やっぱり食べないとねえって、皆さんには教皇様の呼びかけのお話もして、「そんなわけで信者の皆さんは食べないで、求道者の皆さん、好きなだけ召し上がってください」ってことにしましたけど、結構信者も食べてました。(笑) 私も食べました。(笑) おいしかったです。
でも、「ピザとパエリアの集い」も、いい集まりでした。70人も集まったんですよ。来た人たちの中には、苦しみを抱えていて、救いを求めて初めて教会に来た人もいました。実は、そのひとりは今日もここにいて、初めてミサに出て、目の前におられます。(会衆席のその人に)昨日もあなたの話を聞きましたけど、あなたは、この何年か、苦しい思いをして、迷ったり、だまされたり、いろいろつらかったわけですけど、昨日は福音を聞いて、「ホントに来てよかった!」って、涙こぼして喜んでましたよね。また泣きそうじゃないですか。でも、よかったよねえ、昨日は。ホントにあの集まりに来れてよかった。昨日、あなたの涙を見ましたけど「人が救われる」っていうのはこういうことかっていうのを、私も目の前で見て、うれしかったですよ。
ああいう集まりのために、入門係は一生懸命ピザも作りましたし、パエリアも作りました。実は先週、ピザとパエリアの練習までしたんですよね。「みんなを笑顔にしよう!」って言って、おいしく作る練習までしたんですよ。これ、断食はできなかったけど、神の御心
それに、岡田大司教様が、お触れを出して(※5)「教皇様のご意向に従って、祈りと断食を7日に捧げてほしい」ってお触れだったんですけど、そこに「断食、あるいは何かの犠牲を捧げてほしい」とそう書いてあった。「AあるいはB」というのは、「A、B、どちらでもいい」(笑)という意味ですね。
それで、私は昨日、小さな犠牲をお捧げいたしました。何とは言いませんけども、犠牲を捧げました。皆さんも遅ればせながら、今日何か捧げてください。シリアで苦しんでいる人のために。戦争を起こそうとしている人たちのために。え〜、ちなみに、ローマでは、午前0時まで、祈りと断食の集いを、教皇様自ら呼びかけて、サンピエトロ広場に集まってやってるんですよ。時差があるからもう終わりましたけど、ついさっきまでやってました。皆さんも、シリアの平和のために、祈ってください。小さな犠牲を捧げてください。
そして何よりも、「必ず神の国は実現するんだ。その希望さえあれば、今の困難、疲労、思うようにいかないこと、すべてを越えていける。神の国のために働こう」、そんな思いを新たにしてほしい。
さあ、始めましょう。すべてのミサは「神の国の開会式」です。
【 参照 】
※1:「先週紹介した、詩を書いた彼」
(参考)
・ 「見よ、それは極めてよかった」(「福音の村」2013年9月1日説教)
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※2:「わたしのくびき、軽いよ」と。「平気で背負えるよ」と。
・ 「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章30節)
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※3:「ロンドンの開会式、〜もう前もお話しましたけど」
・ 「神の国の開会式」(「福音の村」2012年8月5日説教)
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※4:「教皇様が〜呼び掛けました」
・ 「教皇フランシスコの2013年9月1日の『お告げの祈り』のことば」(カトリック中央協議会)
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※5:「岡田大司教様が、お触れを出して」
・ 「シリアと中東と全世界のための断食と祈りの日(9/7)について-教皇様からの願い(2013年9月4日)」(「東京教区からのお知らせ」カトリック東京大司教区)
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