2014年5月18日復活節第5主日
・ 第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録6・1-7)
・第2朗読: 使徒ペトロの手紙(一ペトロ2・4-9)
・福音朗読: ヨハネによる福音(ヨハネ14・1-12)
【晴佐久神父様 説教】
大変爽やかな気持ちで、この数日過ごしております。
お天気がいい。5月の本当にいい気候で、いろんな悩みというか、いくつかの気にかかること、皆さんもあるでしょう、私もありますけれども、吹っ飛びますね。
この多摩教会は特に、前を川が流れていて、桜並木があって、今はもう、春の花が百花繚乱。もう、ちょっと散歩しただけで、ぜんぶ吹っ飛びますね。なんか、「もういいや」っていう気になる。こまごましたね、自分の考えのことは。
神さまが生かしておられるっていう、この、いのちの世界。
今朝も、川べりを、ぷらぷら散歩しましたけれども、ホントに清々しい。川のせせらぎの音が、まずいい。川のせせらぎが、すぐ聞こえる教会ってね、なかなか多くないと思いますよ。ちょうど目の前に
小鳥がね、チチチと鳴いていて。ついこの前、アシジに行って、聖フランシスコが小鳥に説教してる絵っていうのを見たもんですから(※2)、私もちょっとやってみようかな、と。(笑) でも、説教しようとしてそ~っと近寄っていくと、パッと逃げてくんです。(笑) 聖フランシスコなんかだと、小鳥の方が寄って来たんでしょうね。
第一、私なんかじゃ、説教するにしても、何話すの? ってことでしょう。小鳥たちに言うべき言葉なんて、思いつかないというか、逆に説教されそうで。よく考えてみたら、彼らには、もう説教する必要ないですもんね。失楽園(※3)してない小鳥たちはもう救われてるわけですし、悩みもないし。
たぶん、聖フランシスコなんかは、きっと、説教するっていうより、自分の祈りと小鳥たちの思いとを通わせ合っていた、そんな感じなんでしょうね。はたから見ると、それがこう、小鳥に説教してるように見えたってことなのかなって。
爽やかな日曜日、小鳥たちのようにね、いろんな思い悩みから解き放たれて、少し深呼吸でもして、春風をいっぱい胸に入れるような気持ちで、このミサで、神の息吹を吸い込んでください。
昨日も入門講座で呼吸の話をしましたけど、やっぱり、「呼吸」っていうの、基本ですから。
肺の中に新鮮な空気がいっぱい入って来ないと健康になれませんから。そのためにね、少し意識して、しっかりと吸って、しっかりと吐いて。
「吐く」っていう方が、難しいんですね。吸うのはみんな、一生懸命に吸うけど、ちゃんと吐かないとちゃんと吸えないでしょ。ちょっと、実際にやってみてくださいよ。はい、深呼吸! ス~ッていっぱい吸って、吸って・・・みんな、ちゃんとやってよ。(笑) はい、吸って吸って、もう吸えないってとこから、フ~~~ッと吐いて、はい、もっと吐いてもっと吐いて、もっと吐いて、ぜ~んぶ吐いたら、ハイ吸って・・・。ね、吐き切ったら、いっぱい入ってきますでしょ。私たち、普段あんまり吐いてないですね、たぶんね。呼吸が浅いというか、自分を捨てきれないというか。だから、新鮮な空気を吸えてない。
さっき「新しい歌を主に歌え」って歌いましたけど(※4)、新しい一日を始めたんだから、新しい歌を歌うためにも、新しい息をちゃんと吸う。そのために、しっかり吐いて。
今日、転会式(※5)をいたしますけど、転会式で新しい神さまの息吹を吸い込むためにも、自分のすべてをいったん吐ききって、自分の思いを捨てて空っぽにしてから、しっかり神さまの愛を吸い込むっていう、霊的な「呼吸」をしてほしい。
私はちょっとこう、閉所恐怖があるっていう話、いつかもしましたけど(※6)、「閉ざされる」とか「窒息」っていうの、ものすごく怖いんですね。そういう事件や事故があったりすると、ホントにつらいだろうなあとも思うし、そしてまた同時に、こうして呼吸できる、しっかり吸い込める、そのありがたさっていうのも、また人一倍大切に感じます。で、それは、霊的な意味ではなお一層のことです。
春風を胸いっぱいに吸い込むとき、生きる喜びを感じますし、霊的に、神さまの愛の息吹をしっかり吸い込めるとき、これはなんてありがたいことか!・・・ってそう思う。心から感謝もするし、こういう一瞬があるならば、もうあと細かいことはね、どうでもいいやという気持ちにもなる。
細かいことにこだわるのは、結局は、魂の世界が窒息してるから起こってることなんです。
「魂の深呼吸」が大切です。口で深呼吸するのは、健康に大切ですけど、魂の深呼吸はもっと大切です。魂の健康にかかわるんだから。ここが詰まっちゃったら、どんなに体が健康で、この世的に恵まれていても、そこには真の自由、真の喜びはない。
赤ちゃんが、生まれてすぐに、最初の息を吸い込むように、洗礼を受けた人は、魂に聖霊の息吹をしっかりと吸い込んで、そうして、生きる者となる。
創世記には、神さまが土をこねて人をお造りになって、その鼻にご自分の息を吹き込まれたと、そうある(cf.創世記2:7)(※7)。そのような新鮮な神さまの息吹を吹き込まれて、私たちは生きる者となったのです。その息吹は永遠ですから、私たちはもはや、永遠なる息吹を吹き込まれた者として生きている。・・・それに気づかず、時にはそれをふさいでしまう、それこそが死です。
神の息吹を閉ざしてしまったら、それは死の世界です。
閉所恐怖で閉じ込められる恐怖っていうのがあるけども、私にとって一番怖いのは、魂の窒息です。そこが閉ざされちゃうっていうのが、一番の恐怖ですよ。
まあ、逆にいえば、この世では、それこそ窒息することがあるかもしれない。でも、たとえそんなことになっても、魂の呼吸さえ開かれていたら、どのみちこの世からは去っていくわけだし、本当に、天国の空気をしっかり吸い込む信仰さえ持っていたら、この世でどうなろうとも平気。
ここは「コルベ教会」ですけど、コルベ神父さん、地下牢に閉じ込められてても、そしてもう、餓死刑でついに息絶えるという直前でも、聖歌を歌って、周りの人たちを励ましてた(※8)。こういうのは、この世で窒息しそうでも、魂の世界では、新鮮な深呼吸をしている人。
そんな呼吸ができれば、怖いものなしですよ。だって、これはもう、信仰の呼吸ですし、いつでもどこでも、どんな状況でも深呼吸できるんだから。
イエスさまが「道である」っていうのは(ヨハネ14:6)、この呼吸でいうなら、イエスさまがまさにその、呼吸する通路、「口」なわけですよね。
「道」っていうのは、天と地を結ぶ道でしょ。あるいは、先週のイエスさまのお話では、「門」っていう言葉(ヨハネ10:9)。同じことですよね。天と地の「通路」「門」「窓」・・・、何でもいいです。ともかく、そこは開いていて、新鮮に、天と地の間に息吹が行き交う現場。・・・イエスさまは、そういう方なんです。
だから私たち、内にイエスを宿している者は、もう、ある意味、何ていうんでしょう、そういうパイプを宿してるんですよね。それを自覚して、そこを一番大事にして、そこを詰まらせないように。
イエスさまというパイプによって、自由に呼吸できる。実際、重病で呼吸が浅くなると、気管にパイプ通したりしますもんね。それで、酸素を送りこむ。もっとも、この世の呼吸はやがて終わります。しかし、天上と地上のつながりは永遠に至るつながりですから、この世にありながら天上の息吹を吸いこんで、霊的な呼吸をするべきです。これは、終わることがない。
洗礼を受けたっていうことは、そのような呼吸を始めたってことでしょう。イエスという道、門、窓をいただいたってことだし、これからはもう霊的な酸欠にならないように、しっかりと聖霊の息吹をいただいて、この世にとらわれず、自由である。・・・転会する方々、そういうカトリック信者になってくださいね。
フランシスコっていえば、今朝の新聞で、教皇フランシスコが来週エルサレムを訪問するときに、ユダヤ教の指導者とイスラム教の指導者を連れて、3人で一緒に行くっていうニュース読んで、私、思わずこう、笑っちゃうというか、・・・もちろん、いい意味でね、「よくやるわ!」っていうような、うれしい思いが溢れてきましたよ、いいですねえ、ああいうニュース(※9)。
彼は、まったく自由です。まさに「フランシスコ」ですよ。前例だとか、神学的な理由だとか、政治的なしがらみだとか、そういう、この世にとらわれない。天国の息をしているからです。だから、怖いものなし。
あの、世界で最も和解が困難に見えるエルサレムに、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の指導者が一緒に訪問する。こんな美しい話、ないと思いますよ。
これは、もうまさに、イエスのわざですね。さすがエルサレム、イエスは今日も復活してる。
天と地がちゃんとつながって呼吸できると、ホントに自由に生きることができるんですよ、とらわれなく。それはもう、皆さん、せっかく洗礼を受けたんだし、あるいはせっかく転会するんですから、そんな、神さまとの直接のつながりのような秘跡の恵み、・・・イエス・キリストは、秘跡そのものですからね、・・・秘跡の恵みを、しっかり味わってください。
転会式っていうのは、ひとことで言えば、「入信の秘跡を完成させる」みたいな、そういう意味があります。もちろん洗礼は、父と子と聖霊のみ名による、水の洗礼として、それだけで尊い秘跡ですけれども、カトリック教会では、伝統的に、入信の秘跡は三つの秘跡が揃って完成っていう信仰を受け継いでます。
すなわち、水の秘跡「洗礼」(※10)と、油の秘跡「堅信」(※11)と、パンの秘跡「聖体」(※12)。いうなれば、父の授ける洗礼、聖霊を注がれる堅信、神の子キリストとひとつになる聖体、この三位一体で、キリスト者となるという、そんなイメージです。
それで、転会式のときは、まずは「聖なるカトリック教会の信仰を受け入れます」という表明をしていただき、続いて、水の洗礼を受けた者として、あと二つ、油の堅信とパンの聖体を、カトリックの秘跡として受ける。そうして、キリストのからだとして全カトリック教会と一致し、秘跡の恵みとしてイエス・キリストという「道」がわが身に備わり、「天」と「地」がわが身においてつながるっていう、そんな安心、感動、希望を持っていただきたい。
このつながりこそが、私たちのいのち、そのものです。
列聖式に行く前日、復活の主日に、カトリック信者がひとり亡くなりました。実は、どこの教会の所属かよくわからないんですけど、ともかくカトリック信者だという方の家族から電話があって、「今、危篤状態だからぜひお祈りしてほしい」と。それで、急いで病院に行ったんですよ。ほら、復活祭に、お風呂に入りに来た青年がいたじゃないですか、彼が来るちょっと前です(※13)。
おばあちゃんでね、家族がなすすべもなく、じ~っと立ちつくしてて、私が行くと、「ああ、よかった、間に合った!」って。
で、おばあちゃんに、お祈りをしました。耳もとで、大声で。
いつも大体こんな感じで祈ります。
「わかりますか? 聞こえますね、教会の神父ですよ。晴佐久神父です。だいじょうぶですよ、今特別のお祈りをします。秘跡をお授けしますよ」
これはもう、はっきりと大声でね。まずは、神父が来たから安心って、わかってほしいから。
「安心してください。今、神さまが、ホントに素晴らしい恵みをくださいます。信じて、恐れず、すべてを神さまにお委ねしましょう!」ってね、そんなようなことを言ってから、「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」って、病者の塗油の秘跡をお授けするわけです。
で、お祈りを始めたら、ゆっくりと深~く、深呼吸を始めたんで、周りのご家族が、「ああ、おばあちゃん、わかってる! 安心したのね」って言ってました。私はその手を握り、お顔の近くに顔を寄せてお祈りしてたわけですけど、ふいに、大~きく息を吸って、ふ~~~って吐いて、なんと、そのまま、息が止まっちゃったんです。ピターッと。
私、その瞬間、お祈りしながら、「・・・あっ、亡くなった」ってわかりました。神聖な瞬間でした。
仕事柄と言うか、目の前で人が息を引き取る瞬間っていうの、何度も体験してます。だけど、私がお祈りしている中、亡くなったっていうのは初めてです。ふ~っと息を吐いて、そのままピタッと動かない。そうなったら、びくとも動きませんもんね。・・・神秘的でした。
赤ちゃんのとき、「オギャ~ッ!」って初めての息を吸ってから、何度呼吸したかわからないけれど、最後に、息をぜんぶお返しして、終わるんですよ。・・・「ふ~っ・・・・」ってね。
あれ、ナースセンターにモニターがあって、わかるんですよね。だからすぐに看護師さんも来たんですけど、こっちがまだお祈りしてるから、亡くなったという確認を待たせるかたちになってしまったんです。私も私で、途中でやめるわけにもいかないし。だけど正直、心の中で、「これはもう、神さまがお召しになったんだから、私のお祈りなんか必要ないな」と思ってました。
本人にしてみれば、「ああ、神父さん、来てくれた・・・!」って安心して、「ふ~っ」と最後の息を、神さまにお返しして、そして今や、あの、憧れてやまなかった天の国に迎え入れられて、天の国での最初のひと息を吸い込んでるとこなんですよ。それは、どれほど清々しいか。祈ってるこっちが吸いたいよって話でしょう。
この世の5月の風だって、こんなに爽やかなんだから、まあ神の息吹のすがすがしさは、ホントに楽しみにしたらいいと思いますよ。
結局どこの教会の信者さんかわからなかったので、ご葬儀は多摩教会でお引き受けして、私はもう翌日ローマに行っちゃうんで、司式は他の神父さんにお願いしました。
それにしても、あの方の最後のひと息は、ホントに、神聖な感じ、神秘的な感じ。「・・・ああ、この世はこうして最後、すべてお返しして終わるんだ。最後のひと息までも」って思ったし、でも、それこそが、まさに、永遠の命が完成するとき。
私のように、閉ざされる恐怖みたいなものがすごく強い人間にとっては、本当に、イエスさまという、「窓」「門」「道」がなければ、生きていけません。逆にいうと、それさえあったら、もういつでもどこでも、天の息吹を爽やかに吸い込める。
転会式をする皆さん、これから、堅信と聖体の秘跡を受けます。
先ほどフィリポが「父を見せろ」なんて言ってましたけども(cf.ヨハネ14:8)、皆さんはもうそんなこと言う必要が全くなくなります。今受けるこの秘跡自体がイエスであり、すなわち、秘跡自体が天の父のそのものですから。秘跡に触れた者はイエスに触れたのだ、イエスを見た者は父を見たのだって信じて、この秘跡を受けていただきたい。
堅信で聖霊を注がれ、聖体でキリストを受ける。秘跡それ自体が、神さまの世界を吸い込むようなものです。この世のことを、いったん、ぜんぶ、ふ~っと吐き出していただいて、そして、神さまご自身を吸い込んでいただきたい。
皆さんは、今、永遠のいのちへの誕生の先取りをするのです。よろしいですか。
今日は、合同転会式として、7名の方が転会いたします。7名の新たな家族を迎える先輩の信者さんたちも、魂の深呼吸をして、この方たちをお迎えいたしましょう。
それでは、名前を呼ばれた方は返事をして、祭壇前にお進みください。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)
※1:多摩教会の周辺
多摩教会の前を流れる川に沿って、桜並木の遊歩道があります。川べりは、草花が自然にアレンジされているようで美しく、遊歩道は、春の桜だけでなく、葉の緑、木立の美しさや木陰の提供など、四季それぞれに楽しませてくれます。
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※2:「ついこの前、アシジに行って、聖フランシスコが小鳥に説教してる絵っていうのを」
・ 「アシジに行って」
2014年4月21日~5月1日までの「列聖式に行く 巡礼」の一日に、アシジへの巡礼プランがあった。
(参考:5月4日ミサ説教「聖霊に聴き従って」、11日のミサ説教「わたしも門から入りたい」、および、その【参照】)
・ 「聖フランシスコが小鳥に説教してる絵」
アシジの聖フランシスコ」ジョット1305年頃
(聖フランシスコ大聖堂 所蔵)
(参考)
・ ジョット~小鳥に説教をする聖フランチェスコ(名画紀行)
・ アシジ(アッシジ)の聖フランシスコ(フランチェスコ)(1182~1226)(ウィキペディア)
・ アッシジのサン・フランチェスコ聖堂と関連建造物群(イタリア世界遺産の旅) など
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※3:「失楽園」
創世記3章の挿話。
ここで、蛇にそそのかされたアダムと女(エバ)が、神の命令を破って「善悪の知識の木」の実を食べ、エデンの園から追放される。
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※4:「さっき『新しい歌を主に歌え』って歌いましたけど」
この日(2014年5月18日復活節第5主日)のミサの入祭の歌は、典礼聖歌3番「新しい歌を主に うたえ」だった。<参照:詩編98:1‐2>
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※5:「転会式」
キリスト教で、カトリック以外から、以後、カトリック教会に籍を置く方は、「改宗」ではなく、「転会」という。また、転会するための式を、「転会式」という。
この日、カトリック多摩教会では、7人の方をお迎えする転会式があった。
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※6:「私はちょっとこう、閉所恐怖があるっていう話、いつかもしましたけど」
(参考)
・ 「いっぱい友達をつくろう」(「福音の村」2013年9月22日説教)
・ 「見とれるな」(「福音の村」2013年11月17日説教) など
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※7:「創世記には・・・ご自分の息を吹き込まれたと、そうある。」
・ 創世記2章7節: 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
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※8:「ここは『コルベ教会』ですけど、コルベ神父さん、地下牢に閉じ込められてても・・・」
カトリック多摩教会は、教会の保護の聖人として、聖コルベ(聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者)をいただいています。詳細は、こちら>>>「聖コルベ神父と遺品」(カトリック多摩教会HP)をご覧ください。
また、「コルベ神父」については、以下のサイトなどをご参照ください。
・ 「コルベ神父」(聖母の騎士社HP)
・ 「マキシミリアノ・コルベ」(ウィキペディア)
・ 「聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者」(Laudate「聖人カレンダー」)など
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※9:教皇フランシスコのエルサレム訪問(日程:2014年5月25日~26日)
(参考記事)
・ 「法王エルサレム訪問:ユダヤとカトリック両教徒の関係強化」〈イスラエルの駐バチカン大使書面インタビュー〉(毎日新聞オンライン:2014年5月18日)
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※10:「洗礼」
カトリック教会では、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちのひとつ。
「洗礼とは、人が神の子として新たに生まれ、教会の一員となる秘跡です。
洗礼によって、人は、キリストの死と復活の神秘にあずかり、原罪および自罪とその罰がゆるされ、成聖の恩恵を受けて神の子となり、永遠の生命を受け継ぐようになります。
また消えない「印章」を受けて、キリストの神秘体である教会の一員となり共通の司祭職の資格を受けます」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979 、p.169)
(参考)
・ 「洗礼の秘跡」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979)p.169~174
・ 「洗礼の秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002)p.380~395
・ 「洗礼」(ウィキペディア)
・ 「洗礼の秘跡」(Laudate「山本神父入門講座」) ほか
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※11:「堅信」
カトリック教会では、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちのひとつ。
聖霊の恩恵を与えて、洗礼による新しい生命を成長させ、信仰の証しをたてる力を与える秘跡。
(参考)
・ 「堅信」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979)p.174
(参考)
・ 「堅信の秘跡」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979)p.174~177
・ 「堅信の秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002)p.395~403
・ 「堅信」(ウィキペディア)
・ 「堅信の秘跡」(Laudate「山本神父入門講座」) ほか
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※12:「聖体」
・ 「聖体の秘跡」
カトリック教会では、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちのひとつ。
救いのいけにえであるイエス・キリストの御からだと御血とが、パンとぶどう酒の形態のもとに神にささげられて、信者の永遠の生命の糧となる秘跡。
・ 「聖体」
カトリック教会の用語で、聖餐式で聖別されたパンのこと。
その形態の中に復活の主キリストが現在すると信じられ、祈りと礼拝の対象とされている。特にカトリック教会の信仰生活と霊性に決定的な意義を有しているが、それだけにその理解も用語も歴史の中でさまざまに変遷した。
当初は聖餐式に参加できなかった人のために聖別されたパンが保存されていたものが、次第に食事の儀式である聖餐式から独立して、それ自体で「キリストの体」として礼拝の対象とされるようになった。
聖体はチボリウム(ラテン語:ciborium)と呼ばれる容器に入れられ、通常は聖堂の中央にある
今日に至るまでカトリック教会では、聖堂の中央部に聖櫃を置き、絶えず聖体を安置する習慣があり、聖体が安置されているしるしに聖体ランプと呼ばれるともし火が灯され、信徒がいつでも聖堂を訪れ、聖体の前で祈りを捧げることができるようになっている。
現代のカトリック教会では第2バチカン公会議による典礼刷新を経て、すべての聖体への信心を聖餐式に向けて位置づけ、聖餐において与えられた「キリストの体」の交わりを想起するものとして理解している。
(参考)
・ 「聖体」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「聖体の秘跡」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979)p.177~189
・ 「エウカリスチア(聖体)の秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002)p403~430
・ 「聖体」(ウィキペディア)
・ 「聖体の秘跡1・ミサ、聖体の秘跡2」(Laudate「山本神父入門講座」) ほか
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※13:「お風呂に入りに来た青年が来る前」
(参考)
・ 「聖霊に聴き従って」(「福音の村」2014年5月4日<復活節第3主日〉説教)
(この日、「多摩教会に行けばお風呂に入れてもらえる」と聞いた、ホームレスと思われる青年が、晴佐久神父のもとを訪れた。)
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