2014年3月16日四旬節第2主日
・ 第1朗読:創世記(創世記12・1-4a)
・第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ1・8b-10)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ17・1-9)
【晴佐久神父様 説教】
四旬節(※1)の第2主日です。先週、洗礼志願式で志願者となった人は、前の席に並ぶようにと申し上げたんですけど、皆さん遠慮しているようですね。
ぜひ、来週からはですね、洗礼志願者は前の方に並んでいただいて、後ろの先輩信者の祈りに支えられながら、復活祭の洗礼の喜びに向かっての四旬節の準備をやっていきましょう。
なにしろ、洗礼志願者にとっては、生涯最高の復活祭ですから。
そもそも、すべての信者、あるいは、もっと言えばすべての人が、すべてが完成する究極の復活祭に向かって、人生という四旬節を歩んでるようなものであって、この世の洗礼式は、その究極の復活祭の先取りなんです。洗礼志願者にとっては一生一度の四旬節だし、洗礼式の後も、生涯が四旬節であって、その先には究極の復活祭が待っている、そういう思いで、この大切な2014年の四旬節を過ごしてください。
洗礼志願者にとっては、今年の復活徹夜祭、一生忘れられない記念日になりますね、4月19日。その日、自分がいつの日か天上に復活する先取りとしての、喜びの日を迎えます。
皆さんは、自分がホントに復活するって信じてますか?
キリスト教っていうのは、「復活教」なんですよ。
み〜んな復活する。その復活に向けて、この人生っていう四旬節、準備期間を、試練の日々を、開心(回心)の日々を続けていく。何のために続けていくかっていうと、すべては、最後に復活するためなんです。そこにすべての焦点が当たっている。
キリスト教は、「復活教」です。
本当にそうなんだっていうことを証しして、すべての人の復活への扉を開いたのが、イエスの復活なんですよ。
ですから、「イエスの復活を信じます」っていうのは、イエスのことだけじゃない。だって、「いついつに、どこそこで、イエスさまが復活しました」っていっても、他人事だったら、「ああ、それはよかったですねえ、結構なお話で」っていうだけでしょう。そんなの別に、誰がいつどこで復活しようと、「どうぞご自由に」って話で、皆さんとは関係ないじゃないですか。
イエスが復活したってことは、「皆さんも復活した」っていうことなんです。あるいは、「皆さんも本当に復活する」という、目に見えるしるしなんです。・・・だから意味があるんです。
「イエスの復活は、私の復活」
これを信じなければ、何のためにキリスト教やってんだか、わからない。
よく、「イエスの復活が理解できません」って言う人がいるんですよね。科学的に説明がつかないとか、そんなのは迷信だろうとか、ともかく「イエスの復活がわからない」とか「信じられない」とかって言う。
しかしこれは、理解することじゃありません。イエスの復活だけを取り出して調べても何もありません。イエスは私たちの救い主なんであって、私たちを救うための復活なんだから、「イエスの復活は、私の復活だ」と、そう思えばいいだけのことです。「イエスは復活した、それを信じます」ってことは、「私も復活する、それを信じます」っていうこと。・・・シンプルな話でしょ? 簡単な信仰なんです。
イエスが何曜日の何時ごろ、どんな姿で復活したのかとか、そのときお墓がどうなっていたのかとか、もうそういうことは、本質的なことではない。私たちは、さまざまな復活証言を、ただただ受け入れて、「イエスの復活は、私の復活」、これを信じます。そう信じたときにこそ、人は本当の意味で復活し始めているんです。究極の復活は、この世を終えた時に天で実現するんだという希望を持って、この人生という四旬節を歩んでまいりましょう。
アブラハムは、神さまから命じられて旅立ちました。第1朗読で読まれたところです(※2)。
この場合はですね、神さまは、「生まれ故郷を離れて、わたしが示す地に行きなさい」って言うんですよ(cf.創1:1)。
私たちにも、生まれ故郷があります。この地球というか、生まれた街というか、ふる里というか、ともかく今の環境、そこで自分を形成した「生まれ故郷」を生きてるわけですね。
だけど、神さまは言う。
「そこを離れて、わたしが示す地に行きなさい」
・・・これが復活です。「わたしが示す地」へ。
これを、「行きたくないよ〜、ここがいいよ〜」って言うんだったら、こちらも言いたい、「ホントにそこでいいの? ずっとそれでいいの? 神さまが示す地に行かなくてもいいの?」と。「行きたくないですか? 復活の栄光の世界に入りたくないんですか?」と。
「そこ」に入るためには、「ここ」を離れてかなきゃなんないんです。
「ここにいるままで、そこに入ろう」って、それはずうずうしいというか、無理な話でしょう。離れなきゃならない。「離れるのはやだよ」って気持ちもわからないではない。慣れ親しんだとこだしね。だけど、「わたしが示す地に行け」って神さまが言ったら、アブラハムは、「アーメン」って言って、出発しました。第1朗読の最後ですね。
「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります(創1:4a)。
その旅立ちです。洗礼志願者の皆さん、主の言葉に従って、復活の栄光に向けて旅立ちましょう。そうして、今年の4月19日には、「アーメン」と宣言し、「私は復活の世界に、もう入り始めた」っていうような喜びを、しっかり味わってほしいです。
第2朗読でいうなら(※3)、パウロの美しいことばが、耳に残りますね。
「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださった」(二テモ1:9)
・・・いいねえ、「聖なる招き」。こういう美しい言葉に、ホントに支えられますよ。
私は「聖なる招き」によって呼び出されたんだ、と。それは洗礼のことでもあり、司祭だったら叙階のことも思います。
私、昨日の15日、叙階記念日だったんですけど、「聖なる招き」によって呼び出された日です。皆さんだったら受洗記念日、今年は4月19日です。「聖なる招き」によって呼び出された日。その招きは、「神ご自身の計画と恵みによるのです」(cf.二テモ1:9)。・・・なんてありがたいこと。
神さまの計画のうちに、この私を聖なる招きによって呼び出すっていうことが、決まっていて、その恵みがちゃんと実現して、私は「聖なる招き」にこうして呼び出された。
洗礼式のときに、実際に皆さんを呼び出しますよ。司祭が皆さんの名前を
「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」(二テモ1:10)
これは、すべての人に対してです。
・・・「キリストは死を滅ぼした」
誰も死なないんです、私たちは。いまや私たちが「死」と呼んでいる出来事は、「復活」っていうことと、イコールのことになったんです。
「福音を通して不滅の命を現してくださった」(cf.二テモ1:10)
これが、イエスの復活です。「復活教」は、イエスが「不滅の命を現した」っていうことを信じてます。私たちも皆共に復活するのだと信じてます。あなたは必ず、復活する。これは神さまのご計画だから、もう誰も逆らえない。
教会ニューズの巻頭言にも書きましたけど(※4)、教皇さまが、この前お出しになった使徒的勧告、『福音の喜び』の6番に、ユニークなことを書いておられました(※5)。
「復活祭のない四旬節のように振る舞う信者がいます」ってね、ユニークな表現ですね。・・・「復活祭のない四旬節」。
でも、考えてみたら、信仰を持ってない人にとっては、この人生、そうなんですよ。「復活祭のない四旬節」。だって、死んで終わりなんだから。復活なし。
「復活祭のない四旬節」・・・つまらないねえ。こうして今日のように共同回心式(※6)をしたり、大斎だとか小斎だとか(※7)言いながら過ごしても、四旬節第6主日の翌週は、年間第9主日。これ、つまらないですねえ。何のために四旬節やってんだか、わからない。
四旬節っていうのは、復活祭と、くっついてるんです。切れないんです。「ひとつのこと」なんですよ。ひと息でいう「四旬節復活」なんです。
十字架と復活を分けちゃいけないってことです。これ、「十字架」って3文字熟語だけ言っても意味がない。「復活」っていう2文字熟語だけでも意味がない。だって、何か失われなければ「復活」っていわないわけですから。これ、3文字と2文字を合わせて、「十字架復活」なんです。本来的に言えば5文字熟語なんであって、切っても意味がない。
・・・「四旬節復活」なんです。「私たちの人生復活」なんです。
これはもう神のご計画なんだから、いいも悪いもない。私たちはそれを、イエスの復活によって知っているし、信じている。
ぼくらの人生、確かに何かこう、生きるのがつらいこともあるけれど、「死」っていうのも怖いようにも見えるけれども、私たちの人生は、復活と、もうくっついてるから、それはセットなんで、「十字架復活」を、われわれは生きている。
復活祭のない四旬節のように振る舞う、暗いキリスト者。そんなんであってはいけない。われわれはもう、「十字架復活」を生きてるんだっていう、喜びと確信を持って生きているべきだし、それが、今の時代の人たちへの証しになる。
この、教皇フランシスコの喜びにあふれた確信がね、この1年、私たちを支えました。ちょうど、就任1周年でもあるんですよね。3日前だったんじゃないですか? 就任1年目(※8)。
朝のテレビでやってましたけど、パパさま専門の週刊誌が創刊されたんですって(※9)。 日本でいう、アイドル誌みたいなもんです。『イル ミオ パパ』(Il Mio Papa)っていう。Ilは冠詞で、Mioは「私の」っていうことですけど、『私のパパさま』っていう雑誌が創刊されたと。週刊誌。創刊号が20万部売れたんですって。私これ、読みたい。(笑) だれか翻訳誌、出してくれないですかねえ。
いろんな写真が紹介されてましたけど、たとえばパパさまが、若者たちと一緒に、顔くっつけあって、スマホで自分撮りをしている写真とか。(笑)ま〜あ、庶民的♪
そのときテレビで紹介してたのは、一般謁見で、オープンカーで周りながら挨拶してたら、昔馴染みの懐かしい神父がそこにいて、「おお!」って手をあげて招いて、自分の車に乗せて広場を回ってる映像。その神父、恥ずかしかったでしょうけどねえ。
そういう振る舞いが、ホントに親しみ感じさせて、みんなこのパパさま大好きなんですけど、何ていっても、みんな何でそんなに好きかっていうと、ホントに私たちと一緒にね、共にこの人生の「四旬節」を生きている方でありながら、復活の確信に満ちてる。
「あなたは、復活するんだ」っていう、その希望を、ストレートに話してくださる。
持って回った言い方や、神学的な表現とかね、そういう話じゃなくって、もう、まっすぐに救いを告げてくださるから、みんな大好きなんですよ。・・・「宣言系」っていうんですかねえ。それはだって、弱い私たちにとって何よりの励ましでしょう?
パパさまが、「すべての人は救われる」っていうことを、きちんと言ってくださってること、「何より大事なのは、『あなたはもう、イエス・キリストによって救われてるんだ!』って、みんなに伝えることだ」って、ちゃんと言ってくださってるのは、ぼくには本当に励みになります。
「十字架復活だ!」ってね、こうして確信に満ちて、一人の司祭が宣言できるのも、キリストの復活の実り、復活教の実りですよ。
昨日の叙階記念日、27年目ですけど、それにあたって、ひとつのお祝いというか、ご褒美というか、東京新聞に私の書いた文章が載ったんですよ(※10)。・・・ありがたいですねえ。
東京新聞の記者が来て、こころのページみたいなとこに何か書いてくれっていうことで、これはいい機会だと思ったので引き受けました。しかも、上下に分けて2回書かせてくれると。昨日の3月15日と、3月22日とね。
で、私はこういうタイプですから、こりゃいい機会だ、みんなに福音を語ろうと思ってですね、みんな救われるっていう、普遍的な救いの話を書いたんですけど、「上」が1600字で、「下」が1800字。結構書けるんです。好き放題書きました。
ただ、タイトルをね、まずみんな読むじゃないですか。だから、まずはそのタイトルに、直接、福音を入れたかったんで、「あなたは必ず救われる」っていうタイトルをつけた。インパクトがあっていいと思って。すると、新聞社の方から、クレームというか、変更のお願いがきた。
「『あなたは必ず』っていうのは、ちょっと・・・。いろんな読者がいるし、少し和らげたタイトルにさせていただきたい」って言うんですよ。
私、びっくりしてね、え〜? だめなの?って思いましたけど、向こうは「仏教の読者も多いし、いろいろと・・・」みたいな感じで。でもねえ、「あなたは必ず救われる」って言われて、嫌がる人、いないんじゃないですか? 「あなたは必ず滅びる」よりいいでしょう?(笑)
そこは、書かせてもらえるだけでありがたいんで譲りましたけど、結局あちらが付けたのが、「宗教の普遍性」っていう、つま〜んないタイトルになっちゃった。(笑)
でもまあ、本文の方には、一番頭のところに、
「あなたは必ず救われる」
・・・って、カギカッコ付きで入れました。まあ、タイトルは譲ったけど、この1行が載ればいいやと思って。タイトルの次に目にするのは最初の1行ですから。1行目だけ読んで、あと読まない人ってのもいますからね。最初の1行に、なんとか福音を入れ込んで、なるべく多くの人に読ませたい、と。
「『あなたは必ず救われる』。キリスト教はすべての人にそう宣言する」って言う、カギカッコの宣言で始まる書き出しで、そのあとすべての人を救う神の愛についていろいろ書いてあるんだけど、最後は、「これらを踏まえて改めて冒頭の宣言を繰り返すならば、キリスト教はすべての人にこう宣言しているのである。『あなたはもうすでに、救われている』」
・・・って、カギカッコの宣言で終わる。
カッコイイでしょ?(笑)
これはもう、東京新聞を含めた中日新聞グループ(関東版、中部版、北陸版)は、330万部の販売部数ということなので、相当多くの人が読んでくれてると思います(※11)。
私みたいな宣言系のタイプには、最高の叙階記念日祝いですよ。
記事の肩書には「カトリック多摩教会」って書いてあるからね、「新聞読んで感動して、ぜひ、この教会に行ってみようと思って来た」っていう人で、今日のミサ、溢れかえらないかと思ったけど、(笑) どうも、あまりいつもと変わらないような感じがするんですけど。(笑) ちなみに、あの記事「読んだから来ました」っていう人、いませんか? 手をあげて頂いて・・・いないみたいですね。・・・まあ、来週あたりね、(笑)来てくれるかも。まだ、昨日出たばっかりだしね。
この記事は、「福音の村」のホームページにも載せますので、ぜひ読んでいただきたい(※12)。
ホームページは、「あなたは必ず救われる」っていうタイトルで。
復活についても書きました。「すべての人に、闇から光へむかう、復活の希望を告げ知らせるのが、キリスト教なのだ」と。
みんな、復活に向かってるんですよ。それを知らないからこそ、苦しんでる。ここはやっぱり、キリスト教の本質として、譲れない真理がある。みんなにそれを知ってもらいたい。
そうして、みんな最後の最後には復活するっていうことを、イエスさまは、今日の福音の、このご変容という出来事でね、私たちに見せて励ましてくれたんです。天国をチラッと開けて、モーセとエリヤと語り合う、光り輝く世界を見せて。
「私たちもそのような、永遠なる光の世界に復活していくんだ」っていうことを先取りして、弟子たちに、そして私たちに見せてくれてる。だから、ペトロが言うように、この世の山の上に仮小屋なんか建てる必要はないんです。(cf.マタイ9:4) そんな所にとどまっていちゃ、だめなんです。そういういわば慣れ親しんだふる里のようなこの世を離れて、究極の世界、神さまの世界に、私たちは復活してかなきゃいけない。
一緒に、みんなで復活しましょう。それを信じている仲間として、希望を持って。
この前、「アーメン」って最後に言った方のご葬儀、先週水曜日にありましたけど、素晴らしいご葬儀でしたよ。何ていうんでしょう、それこそ「ベスト葬儀賞」でも出したいくらいの。
・・・本人だけ信者だったっていう奥さまの話、先週お話したの、覚えてますよね(※13)。 だからご遺族は全員信者じゃないんですよ。ご主人も、娘さんたちも、ご親族もね。だけど、み〜んな行列して聖体拝領の時、祝福もらったんですよ。あれ、よかったね。みんな、ホントに教会を信頼した顔でね、神妙に。
奥さまの最後のひと言が、ホントに「アーメン」だったかどうか、葬儀ミサ中だったんですけど、説教のときに確かめたんですよ、ご主人に。
「あの後、何かおっしゃいましたか?」と。
すると、「あれが最後でした」と。翌日、亡くなるまでね。
病者の塗油の時、意識を失ってからだいぶ時間がたっているのに、私が「父と、子と、聖霊のみ名によって」って祈ったら、大きな声で「アーメン!」って答えたので、ご主人はホントにびっくりしてたわけですけど。それが、奥さまの生涯最後のひと言になりました。
そのことを、葬儀ミサのお説教の時にも話しました。奥さまは、信仰生活の最後、すべてを神に委ね、復活の希望のうちに、「アーメン」と宣言して、神の国に生まれて行ったんだと。そのアーメンは、残されたご遺族も導くアーメンなんだと。
ご主人が、ミサの最後に、ご遺族代表の挨拶したんですが、この挨拶も私にとっては、「ベスト挨拶賞」とでもいうべきもので、感動しました。用意した言葉じゃないんです。だって、葬儀ミサのこと言ってるんだもん。
「自分は、妻が危篤になり、意識を失って、どうしていいかわからない思いでしたし、亡くなってからも大変つらい日々を過ごしてきたけれども、妻の『アーメン』を聞き、今この葬儀ミサに参列して、ああ、妻は本当に救われてるんだって信じることができて、心から安心いたしました。ありがとうございました」っていうような内容の、真情
短いご挨拶でしたけれど、決まりきった挨拶ではなく、まごころからの思い、「妻の信仰に出合えた」「教会のみんなの信仰に支えられた」「このミサで安心できた」っていう気持ちが溢れていて。
ぜひ、ご主人には、今度の復活祭の洗礼式に並んでもらいたいって思いましたし、まあ、火葬場でもね、そうお誘いしましたけれど。
「すべての人が、復活に向かっている」っていうこと、あの葬儀ミサで、ご主人のあいさつで、私もまた、さらに確信いたしました。
すべての人に、この「復活教」を知ってもらいたいのです。
そのためにも、私たちみんなで、復活に向かって歩んでまいりましょう。
生まれ故郷を離れて、神さまが示された復活の地に向かって。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「四旬節」
・ 灰の水曜日に始まる復活の主日〈復活祭・イースター〉(春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)前の約40日間をさす。復活の主日に洗礼を受ける人々の準備の期間であり、既に洗礼を受けた信者にとっても、回心と償いの期間となる。典礼色は紫を用いる。
今年(2014年)、四旬節の期間は、3月5日(灰の水曜日)〜4月17日(聖木曜日;「主の晩餐のミサ」〈日没の午後6時〜7時頃〉直前)
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※2:「第1朗読で読まれたところです」
・ 本日(2014年3月16日<四旬節第2主日>)の第1朗読箇所
創世記12章1〜4a節
〈小見出し:「アブラハムの召命と移住」12章1〜9節から抜粋〉
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※3:「第2朗読でいうなら」
・ 本日(2014年3月16日<四旬節第2主日>)の第2朗読箇所
使徒パウロのテモテへの手紙(二)1章8b節〜10節
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※4:「教会ニューズの巻頭言にも書きましたけど」
・ 「喜びの四旬節」
<カトリック多摩教会月報『多摩カトリックニューズ』(2014年3月号):主任司祭巻頭言>
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※5:「・・・使徒的勧告、『福音の喜び』の6番に、ユニークなことを書いておられました」
・ 『福音の喜び』(Evangelii gaudium)
教皇フランシスコの最初の使徒的勧告 2013年11月26日発表
カトリック中央協議会で翻訳中、出版予定。(カトリック中央協議会:「お知らせ」より)
・ 「『福音の喜び』の6番」
(参考):以下は個人的翻訳
* 「6 導入>I.新たにされ、伝えられる喜び」 (福音の喜び〈個人的な西和訳の試み〉)
* 「教皇フランシスコ使徒的勧告「福音の喜び」(抄訳)」〔pdf〕、p.2など
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※6:「共同回心式」
現代の「ゆるしの秘跡」には、個別の「ゆるしの秘跡」と、「共同回心式」がある。
前者は、「ゆるしの秘跡」において、個人と神との関係を重視し、後者は教会共同体的な連帯を重視しているといえる。
「共同回心式」は、一般的には降誕祭や復活祭を迎える準備として、待降節や四旬節の間に、ミサや、みことばの祭儀の中で行われ、個人の罪だけでなく、教会共同全体に神のゆるしを求めるものである。また、神に対してだけでなく、共同体の一人ひとりに対するゆるしを願うことをも意識させる。
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※7:「大斎」・「小斎」
大斎(だいさい)は、1日に1回だけの十分な食事と、そのほかに朝ともう1回わずかな食事をとることができ、満60歳に達するまでのすべての成人が守る。
小斎(しょうさい)は、肉類を食べないことだが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって代えることができ、満14歳以上の人が守る。
どちらも、病気や妊娠などの理由がある人は免除される。
大斎と小斎を守る日は、灰の水曜日と聖金曜日(「復活の主日」直前の金曜日)。
小斎を守る日は、祭日を除く毎金曜日。
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※8:「就任1年目」
・ 教皇フランシスコ 教皇就任:2013年3月13日
(参考) <教皇フランシスコ就任1周年記念ミサ開催>
本年(2014年)2月20日(木)には、「教皇フランシスコ就任1周年記念ミサ」が、カトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で行われた。(日本カトリック司教協議会主催、駐日教皇庁大使館主催)
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※9:「パパさま専門の週刊誌が創刊されたんですって」
・ 『イル ミオ パパ』(Il Mio Papa) 出版社:モンダドーリ(Mondadori)
雑誌で、69ページから成り、法王の写真やこれまでの人生に関する話、平和への取り組みなどが掲載されている。写真と言葉が印刷された折り込みページも付いている。
(参考:「ローマ法王フランシスコの「ファン雑誌」刊行、折り込みページも」 ロイター社記事)
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※10:「東京新聞に私の書いた文章が載ったんですよ」
・ 「宗教の普遍性」(上):「すべての人は救われる - 分け隔てなく愛す」
(『東京新聞』朝刊、2014年3月15日(土)、p.11)
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※11:「東京新聞を含めた中日新聞グループ(関東版、中部版、北陸版)は、330万部の販売部数ということなので、」
(参考)
◎「東京新聞」
東京新聞は、中日新聞東京本社が発行する日刊一般新聞(一般紙)。
販売部数(日本ABC協会調査・朝刊)は約53万5,000部(2012年上半期)。中日新聞社発行各紙(他に中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井)と主要記事を共有しており、それら全体の発行部数は334万4,000部。全国紙の日本経済新聞・産経新聞をも上回る。(ウィキペディアより)
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※12:「この記事は、「福音の村」のホームページにも載せますので、ぜひ読んでいただきたい」
「福音の村」では、次回、22日(土)に、新聞で「下」が掲載された後、24日(月)くらいまでに、「上」「下」併せて、ホームページに掲載する予定です。お楽しみに!
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※13:「先週お話したの、覚えてますよね」
(参考)
・ 「最期のアーメン」(「福音の村」2014/3/9説教)
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