気持ちがつながる

2012年10月28日年間第30主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ31・7-9)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ5・1-6)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ10・46-52)

【晴佐久神父様 説教】

 先週の、韓国から来たお手紙へのお返事の説教は、もう「福音の村」に載っております。シスターのお父様、どんな思いで読んだでしょうか。
 私たちは、遠く離れていて会ったこともない。けれども、この説教を毎週韓国語に翻訳してブログにアップしてくれているその方の思いは私に熱く届きましたし、私がこの説教でお応えしたこともまた、彼の心に熱く届いてほしいです。会ったことがなくても、福音のためにさまざまな犠牲を捧げて頑張っている私たちを結ぶつながりが生まれたのは、うれしいことです。会ったことがなく、話したことがなくても、気持ちはつながるのです。
 私は最近、「教会で一番大事なことって何だろう」「信仰で一番大事なことって何だろう」って考えたときに、「気持ちがつながる」っていうことが一番大事なことなんじゃないかって、強く思うようになりました。
 立派な言葉とか、素晴らしい(わざ)とかいっぱいあるけれど、気持ちがつながってなければ、もう何もそこに働かない。そういう現場って、いっぱいあるでしょう? 学校とか、職場とか、家庭ですら、確かに言ってることは正しいんだけれども、やってることは立派なんだけれども、なんだか気持ちがつながらず、ちっともよい実りを生み出さない。
 一番いい例が、最近の政治家の言葉ですよ。こんなにいい例がないと思うので感謝したいくらいですけれども。ホントにこう、正しいことを情熱的に一生懸命語ってるんだけど、いくら聞いても気持ちがつながらない。あれはやっぱり、「相手とつながりたい」というより、「自分につながれ」と押し付けてくるからでしょう。結局、自分のことだけ考えていて、相手の気持ちを考えていない。だから、つながらないし、何も生まれない。逆に言えば、相手が今どんな思いでいるか、何を求めているか、何に苦しんでいるか、それさえ分かったら、そして、それに応えようと思ったら、一瞬のうちに気持ちがつながり、何かが生まれる。

 昨日は、FEBCの60周年記念式典というのがあって、呼ばれて記念講演というのをいたしました。FEBCというのはキリスト教のラジオ放送局です。私もそこのスタジオでお話したことがあるし、現にこの説教も放送されているので、そういうご縁もあって呼ばれて行ったんですけれども、いつもラジオで私の話を聞いているという人が、ぜひ「ナマ晴佐久」を見てみたいということで、来ておられました。
 講演の最初に、「今日、ナマ晴佐久と会うのは初めてっていう人おられますか?」って聞いてみたら、ほとんどと言っていいくらい、大勢の人が手を挙げました。きっと、ラジオの放送で気持ちがつながったんでしょう。だから、ナマの晴佐久にもぜひ会ってみたいって思ってもらえた。それはすごくうれしかったです。大勢の人が、「ナマも見てみたい」「ナマの声を聞いてみたい」「あのナマの福音を、自分の人生の体験として、ナマで受け止めたい」って思ってくれたんですよ。うれしいことです。ああ、この人たちとは気持ちがつながってるって思えたら、うれしかったし安心したし、もう思う存分、しゃべり散らかしてまいりました。(笑)好きなだけ。ほとんどがプロテスタントの方でしたので、カトリックの神父はここまで好き勝手、自由にしゃべり散らかすものかと思われたかもしれませんが、カトリックの神父がみんなそうじゃないってことを最後に付け加えるのを忘れました。それにしても、まあ、楽しかった♪
 そんなにも楽しく、好きなだけ話せるっていうのは、気持ちがつながってるからなんですよ。そこがつながってないと、もうしゃべれない。しゃべってもよそ行きの言葉になるし、時には押しつけの言葉になる。「気持ちつながる」って、本当に大事なことじゃないですか? つながってたら安心して自分を出せるし、そのままの相手を受け止められる。つながってなかったら、どれほど立派に働いていても、とっても孤独で、何のために生きてるのかすら分からなくなる。
 たぶん神さまは、気持ちと気持ちがつながるという最高の喜びをもって、神の国をおつくりになってるんだと思う。だから、ぼくらは、宗教だの宣教だのと立派なことを言う以前に、まずは目の前の相手とちゃんと気持ちがつながるってことを大切にし、それを何よりの喜びとしていくことが、実は神の国への一番の近道なんじゃないの?・・・そう思う。

 今日読んだ福音書の、この盲人の気持ちに、皆さんつながれました?
 「盲人が道端に座って物乞いをしていた」って、一行読むのは簡単ですけれども、ホントにその気持ちを皆さん受け止められましたでしょうか。目が見えない、自由に歩くこともできない。道端でぼろい上着にくるまって、寒い夜も路上で過ごすしかない。働くこともできないから、物乞いをしなければ生きていけない。おなかも空いているでしょう。時には心無いことを言われたりもするでしょう。そんな中、ただただ、人の情けにすがって、「どなたか私を憐れんでください」って道行く人に頼んでいる、ひとりの盲人の気持ち。
 私たちはこうして、目が見えます、仕事してます、家族がいます、友達もいます、みんなで楽しく遊びに出かけて道を歩きます。その道端で、物乞いをしている盲人が、「憐れんでください」とひとりつぶやいている。そのひとりと気持ちがつながるのかどうか。
 この盲人は、自分の目が治ることなんてないだろうって思ってるでしょうし、これからの人生に何かすごい幸せが訪れるとも考えていないでしょう。こんなつらい日々に何の意味があるだろうかって落ち込んでいるかもしれないし、誰も相手にしてくれない、誰も憐れみをかけてくれないという人間社会の冷たさに、孤独感をつのらせ、絶望的になっているかもしれない。そんなとき、ザワザワと、なにやら騒ぎが聞こえてくる。盲人は尋ねます。
 「すいません、なんですか? あの騒ぎは」
 「イエスという有名な預言者が、ここをお通りになるそうだ。なんでも、救い主メシアかもしれないといううわさだ」
 彼は叫びます、「イエスさま、憐れんでください! お願いします! イエスさま、私はここです! ここにいます!! 憐れんでくださーーい!」
 しかし、なんと、この叫びを黙らせようとする人々がいる。救いの邪魔をする力。神と人とがつながることを快く思わない悪の力。悪魔ってそういう働きしますね。人と人の気持ちがつながろうとするとき、それを邪魔するんです。つながっちゃったら、そこに神の国が実現しちゃいますから。しかし、この盲人は叫び続けます。そもそもイエスさまがどこまで来ているのか、見えませんからねえ。もう前を通り過ぎちゃったのか、こっちの方には来ないのか、なにもわかりませんから、叫び続けるしかない。
 「イエスさまー! イエスさまー! お願いします! ここです、私はここです!!」
 そう叫んでるんです。喧噪のなか、イエスはその声を聞き分け、耳を留め、足を止める。
 「あの男を呼んでおいで」
 人びとは「イエスさまが、あなたを呼んでいるよ」と伝える。
 その瞬間、イエスとバルティマイはつながりました。彼はもはやただの盲人ではありません。イエスに呼ばれ、イエスとつながったひとりの神の子、聖書にまで名の残る幸いなるイエスの弟子、バルティマイの誕生です。彼は全財産といっていい、夜はそれにくるまって寝るであろう大切な上着さえも脱ぎ捨てて、「もう何もいらない! イエスがこの私を呼んでくださったのだから、もう何もいらない!」と、そう喜んで、躍り上がって、イエスのところに行く。神と人の気持ちがつながった瞬間です。
 そういう出来事じゃないですか、これは。単に、見えなかった目が見えるようになって良かったねとか、信じればご利益があるよとか、そういう話じゃなくて、イエスとひとりの人間の気持ちがつながった、すなわち、神と人とが結ばれたという出来事じゃないですか。そうして気持ちが熱くつながってさえいたら、仮に目が治らなかったとしても、もういいんじゃないでしょうか、バルティマイにとっては。
 「ああ、イエスとつながった。主イエスが私に耳を留め、目を留め、呼んでくださり、憐れみをかけてくださった。それで十分。もう何もいらない」
 そういう、気持ちがつながる瞬間っていうところに、まさに「目には見えない」神の国があるんです。たぶん、そこにいた周りの人たちは、目は見えていても神の国が見えてない。み~んな目が開いていても何も見ていないのに、バルティマイは憐れみをかけてくださったイエスとつながって、神の国を見たのです。
 実際、イエスが「何をしてほしいのか」と心の奥底にまで問いかけると、「見えるようになりたいのです」と答えていますけれど・・・これは目が見えるだけじゃない、「救いを見たい」「神の国を見たい」、そういう思いじゃないでしょうか。イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言し、バルティマイは弟子となってイエスについて行きます。
 よかったね~。なにしろバルティマイ、目が開いて最初に何を見たかっていうと、目の前のイエスさまを見たんだから。最高の瞬間。神と人がつながり、神の国が開けた瞬間。
 気持ちがつながるってホントにうれしいことだし、ましてイエスさまと気持ちがつながったなら、それ以上にうれしいことはないでしょうし、それは神さまと気持ちがつながるっていうことでしょう。私たちはそういうことのために生まれてきてるんだから、もっともっとつながる喜びに憧れて、それを邪魔する悪の力を取り除いて、神さまとつながりたい。
 きっと「罪」って「邪魔」ってことです。ぼくらはいろ~んな邪魔に塞がれて、救いが見えなくなっている状態ですから、「主イエスよ、憐れんでください!」って叫ぶべきじゃないでしょうか、どんなに邪魔されても。罪深ければ罪深いほど。考えてみれば、道端で物乞いをしているような人生じゃないですか、私たちも。あれがほしい、これが足りないと、自分ではどうすることもできずにもがき(・・・)ながら、ただただ目先のことを生きている。それ、道端の盲人と変わらないんじゃないですか?
 でも、「憐れんでください!」って叫んでいる、その叫びを、イエスは「あなたの信仰」と呼び、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださる。

 先週のバザー、楽しかったですね。私は今年も、「晴佐久神父のおしゃべりコーナー」をやりました。これは、近隣の人、初めて教会に来る人と、ちゃんと気持ちがつながりたいという、そういうコーナーです。それが目的です。その人と教会がちゃんとつながれば、それが神とのつながりになると信じているから。
 ひとりの神父がバザーの日に、聖堂の入り口に椅子を並べて座っていて、「私としゃべってほしい」って言ってるんですから、変なコーナーです。よく考えてみると。でも大勢の人が「神父という人としゃべってみたい」「キリスト教について知りたい」「誰かともっとつながりたい」、そう思ってやって来ます。
 たとえば、仲が良さそうなご夫婦が来られてました。聞けば、かわいがっていた猫ちゃんが死んじゃって、それ以来、子どものいないご夫婦はがっくりと落ち込んで、ホントに寂しく、落ち込んだ日々を過ごしてるとか。そんな中、この「おしゃべりコーナー」を知って、救いを求めてやって来たそうです。猫ちゃんが死んじゃって半年、ずっとつらい思いを抱えているんです。猫ちゃんでも、家族ですからね。たかがペット、なんて思うのは間違いです。
 ですから、私はこのご夫婦とちゃんと気持ちをつなごうと思って、お話しました。「猫ちゃん、神さまのみもとでちゃんと生きてますよ」と。そもそも、失楽園したのは人間だけですから、初めから動物たちは死を超えた楽園を生きているんであり、その意味ではもとより永遠なる存在です。この世でお二人の愛情を受け、お二人に愛情を与え、精いっぱい自分を捧げてお二人に生きる喜びを与えた、それは永遠なる出来事です。このたび、神のみ旨のうちに、この世での役目を終えて神さまに召されたけれど、今も神さまのみもとで、お二人のために働いている。そしてやがて私たちもまた、ふるさとの楽園に戻って行ったとき、その猫ちゃんと再び会えるし、猫ちゃんはお二人のところに、また会えてうれしくて、ニャー、ニャーと飛んでくるでしょう。いや、もしかしたら、天国ではしゃべれるかも。「また会えてうれしい!」って飛んで来る。希望を持って生きて行きましょうよと、お話ししました。
 お二人は涙ぐみながら、それでもとても安心したように聞いてくれました。家族同然の猫ちゃんを失ってつらい思いの人に、気持ちがつながりたいと思うからこそ、そういう話をするわけで、「そのうち、猫ちゃんを思って、一緒にミサしましょう」って言ったら、すごく喜んでくれて、「いいんですか? そんなことできるんですか?」って言うから、「お二人のため、お二人が元気を取り戻すために、教会の仲間たちと一緒にミサをするんだから、何の問題もありません。猫ちゃんの写真飾って、ぜひやりましょう」と答えました。
 お二人、ずいぶん明るい顔になって帰りましたけど、数日後にまた教会に来られました。そして、ぜひそのミサをしてほしいって言うんで、来月の第一日曜日の16時のミサで、お祈りすることにしました。知らない人は、なんで猫の写真飾ってあるんだろうって(笑)、思うでしょうから、経緯をお話して、お二人が癒やされることを祈って、ミサをします。
 「気持ちがつながる」って、きちんと受け止めて、手間暇かけて、ちゃんと応えていけば、そんなに難しいことじゃない。気持ちって、つながるようにできてますから。

 先週のそのバザーの夜は、素晴らしいライブを実現させました。前もお話した「サプライズ・ライブ」の「東京凱旋ライブ」です。「サプライズ・ライブ」のお話はここでしましたから、知らない方は「福音の村」で、後で復習しておいてください。(※1) 
 この夏のあの素晴らしいライブ、島でのライブは忘れられない。とはいえ、今回は島に行けなった仲間たちもいるので、東京で凱旋公演をしようということで、開催しました。多摩教会の皆さんも大勢聞きに来てくださって、幸せなライブでしたけれど、実を言うとこのライブ、一時期はもう開催できないかなって思ってたんですよ。
 3週間前お話したとおり(※2)、同居人の16歳のボーカルが、お父さまを亡くして故郷に帰っちゃったから、もう戻って来れないかもって心配したんです。向こうでもいろいろあるでしょうし、気持ちのこともあるでしょうし。たぶん、ライブどころじゃないってことになるだろうなと、あきらめかけてた。ところが、ちょうどライブの1週間前に、ずっと以前からみんなで計画していた本人の誕生パーティーがあって、その日には帰ってくるって連絡がきて、みんな、すごく喜びました。「あいつ、帰ってくるってよ」と。
 「じゃあ、あいつを励まそうね。ちょうど誕生日だし、喜ばせよう」
 「そうだねえ、何かまたサプライズをやって驚かせよう」
 「いいね。きっと気落ちしてしょげてるだろうから、笑わせてやろう」
 みんなでそんなふうに、いろいろ話し合って。で、
 「誕生日サプライズっていうなら、やっぱりプレゼントでしょう」
 「あいつ、何欲しがってた?」
 「レトロっぽいデザインの、大きな高性能マイクを欲しがってた」
 「じゃ、それだ!」
 結構高かったんですけどね。早速買ってきてもらった。あの、横しまの入った大きなマイクあるでしょ? プレスリーが握って歌っているようなやつ。何しろカッコつけだから、そういうのが大好きなんですよ。で、買ってきたのはいいけど、じゃあ、これをどうやってサプライズでプレゼントするか。私、申し上げました、「そりゃあ、ケーキの中だろう」って。でもね、ケーキの中ったって、なかなか大変で、まあ、長時間相談しましたよ、みんなで。ああでもない、こうでもないって。
 結局、マイクをビニールでぐるぐる巻いて包んで、周りにカステラを張り付けて、生クリームできれいに飾って、「誕生日おめでとう」って書いて、ろうそく立てました。みんなで食べるホントのケーキは冷蔵庫にあるんですよ、ちゃんと。こっちはダミーのケーキです。
 当日、本人帰ってきてね、うれしかったですよ。さすがにしょげてましたけど。相当ショックで、苦しかったようです。でも、みんなで励ましました。「ハッピーバースデー」を歌って、火のともったケーキを出して、「はい、ろうそく消して」で「ふ~っ」とやってもらい、そしていよいよ、「それじゃあ、ケーキに入刀してください。半分に切ってね」ってことに。本人、ナイフを持って、切り始める。当然、切っても切れない。あれ?って顔をしたときに、かねて練習してあったとおり、バンドのマネージャーの青年が、「そんなんじゃダメだよ。貸してみな」って彼をどけて、ナイフを脇に置き、「こういうものは、ナイフで切るんじゃない。心で切るんだよ。見てろよ」って言って、いきなり顔をベチャンッとケーキに突っ込む。そしてマイクの袋をくわえて顔をあげる・・・。(笑)
 いや~、彼、驚きましたよ。ホントに驚いてですね、口を両手で覆ってね、もうビックリして、でも、その袋の中から欲しがっていたマイクが出てきた途端、ああ、サプライズだ!って気づいて、今度は笑って、笑って。・・・人生で、なかなかそういうサプライズをしてもらうこと、ないですからね。うれしかったと思いますよ。みんながこの僕だけのために計画して準備して、ここまでやってくれたってことですから。マネージャーなんか、クリームで顔まっ白にしてね。
 お葬式からちょうど1週間後でしたけど、「パパが死んでから、初めて笑った」って言ってくれました。
 ともかく、みんな、励ましたかったんですよ。どうしていいかわからないけれど、その気持ちを伝えたい。その気持ちさえつながってれば、「仲間っていいな」って思うし、「つらいこともあるけれど、生きていくっていいことだな」「取り返しのつかないようなことでも、素晴らしいことにちゃんとつながっていくぞ」、そういう希望が生まれるじゃないですか。
 「つながる」って、ホントにステキ。人と人とがつながることは、それは神とつながることだし、そういうつながりさえあったら、つらいことがあったって、それは大したことじゃないんです。最後はだって、みんな天国で、パパとだって、猫ちゃんとだって、み~んな、本当にひとつの、最高のつながりに辿り着くんだから。そういう究極のつながりを、この世のつながりはささやかに先取りしてるわけでしょ?
 おかげでね、彼、元気取り戻して、先週のライブで歌ってくれました。ちゃんと歌えるかなと思ったけど、元気に歌ってくれて、感動しました。ただ、葬儀から帰ってきてから急に福山雅治の「道標(みちしるべ)」を歌いたいって言いだしたんで、それはだいじょうぶかなって、ちょっと心配したんですよ。だって、あの歌の歌詞は、息子が、今は亡き親に向かって「どんな時も頑張って育ててくれた、あなたの笑顔が道標だ」って歌い上げる歌ですから。しかも、それを歌う時に、パパの形見の皮ジャン着て出てきたんです。「『道標』歌います」と言って、十字をひとつ切って、歌い出しました。途中までは立派に歌ったんですけど、でも最後のところは、親がね、「旅立って行った、あなたの笑顔、それが道標」って、そういう歌詞ですから、さすがにそこは歌えず、涙声を詰まらせ、会場もみんなもらい泣きで、声援を投げかけ・・・。ともかく、気持ちの通い合う、素晴らしいライブになりました。
 結局、上手な歌を聞きに行くわけじゃないですよ、ライブって。つながりたいから、みんな集めて歌を歌うんです。つながりたいから、みんな集まって一緒に拍手するわけでしょう。「気持ちがつながる」っていうのが、ライブで一番素晴らしいこと。その意味ではもう、生涯忘れられない、最高のライブだった。これが教会だって思えたから。
 その後でね、私が夜遅くのんびりお風呂に入ってたら、彼がバタバタ帰ってきて、
 「はれれ、いる~?」
 「お風呂だよ~」って言ったら、バンッとお風呂の戸を開けるんですよ。
 「どうしたの?」って聞いたら、真剣な顔で、
 「はれれ、いつもありがとう!」
 「なんだよ、改まって」・・・だって、突然お風呂の戸を開けて、「いつもありがとう」ですから。
 「どうしたの?」って聞いたら、彼、言いました。
 「言えるときに言っとかないと、言えなくなるかもしれないから」
 なんだか、胸がギュッとしました。これ、失くした親父にも言ってるんだなあと思った。「ありがとう」って言われたくて世話してるわけじゃないんだけれど、言われると、なにかすごく気持ちがつながったし、親父亡くして成長したな、とも思った。春には「15の夜」歌ってたのが、秋には「道標」を歌い、「はれれ、いつもありがとう!」なんて、ちゃんと言葉にしてつながってくれたのは、すごくうれしかった。
 その上、一昨日、ライブの打ち上げをしたんですけど、その席上、彼はバンドの仲間を前に宣言したんです。
 「ぼくも、多摩教会の信者になりたい」
 これが、教会です。
 いや~、本人がそこにいるのに、こんな話をね~。(笑)


※1:「サプライズ・神の国」(2012年9月2日説教)
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※2:「親父代わり」(2012年10月7日説教)
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2012年10月28日 (日) 録音/2012年11月3日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英