父の抱擁、母の授乳

2012年8月19日年間第20主日
・第1朗読:箴言(箴言9・1-6)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・15〜20)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ6・51-58)

【晴佐久神父様 説教】

 素晴らしい福音を読みました。「わたしを食べるものは永遠に生きる」。そのパンを、もうすぐ、あと2、30分後ですね、私たち、いただきますよ。
 皆さんはこの、「イエスの体を食べて永遠に生きる」っていう、その「永遠の命」っていうのを、どんなふうにイメージしてるんでしょう。どんなふうに信じてるんでしょう。今、この聖堂にも、その永遠の命が満ち満ちている。神の命が、この私たちを包んでいる。神の命がこの私の内に宿って、この私を生かしてる。その実感、ありますか。
 まずは、その実感、「今、ここに永遠の命がある」っていう、その信仰から始めましょう。「やがていただけるご褒美」・・・みたいな話だけじゃなくて。それはもちろん、完成した素晴らしい永遠の命の、とてつもない喜びが待っているっていう希望を持ってますけども、まずはですよ、まずはもう、ここに集まっているこの私たちの内に、その永遠の命が始まってるっていう実感です。

 永遠の命をイメージするときに、やっぱり一番大事なのは、なんか逆のこと言うようですけど、永遠の命のそのホントの素晴らしさは決してイメージできないっていうことを、まず知らなきゃいけない。生まれてくる前の子どもは、生まれた後のことはイメージできない、それと同じようなことで、永遠の命の本当のところは、そこに生まれてみないことには分からない。でも、私たちは信じます。それがどれほど素晴らしいことかということ、そしてもうすでにそれが始まってるっていうことも信じます。それによって、現実のこの世を生きているだけじゃなくて、今すでに永遠の命を生き始めているっていう、ときめきというか、感動というか、力みたいなものが、私たちの中に湧いてくる。それが大事です。
 こうして蝉がわんわんと鳴いてますけれども、蝉は地中にいる時は何年もの長い間、あの殻の中でじ〜っとこう、何かを待っているわけですよね。その地中でもそれなりに生きた現実があるんでしょうけれども、もしもそれだけだったら、ぜんぜん足りないじゃないですか。地中が悪いってわけじゃないけれど、やがて地上に出て、その殻を割って、地中のことは抜け殻として後に残し、永遠なる天に向かって羽ばたいていく。それがあるからこそ地中に意味がある。
 そういうたとえでいうなら、われわれはもう地中から出て、木を登っていって、背中がパクンと割れて、羽を伸ばし始めたあたりじゃないですか。後はもう飛び立つばかりと。で、蝉だったらね、何日か生きてすぐに息絶えちゃうわけですけれど、われわれは永遠なる命を頂いて、今、羽を伸ばし始めたところなんです。そういうイメージ、大事だと思いますよ。そういう永遠の命のイメージというか、希望というか、信仰に支えられて、今日の、いろいろと大変なこと、忍耐しなきゃいけないことを、すべて大いなる喜びへのプロセスとして受け入れる。永遠の命を生きるものは、そういうイメージを持っています。

 1週間に一度、信じる仲間がこうやって集まって来て、永遠の命の糧であるキリストの体を頂いている現実は、これはもうまさしく、「永遠の命」への誕生という最高の恵みに向かう、美しいプロセスなんですよ。これを支えとして、私たちはまた新しい一週間を始めます。
 暑い夏、1週間お疲れさまでした。でも、今日、私たちがここに集まって来られたっていうことは、これは神さまがホントに心から望んで、私たちにご自分を食べさせたいからです。今日もまたちゃんと食べましょう。3週間連続してパンの話が続いたんですね。今日はその総まとめみたいなところです。今日はホントに神の命を頂きましょう。さっきイエスさまが、「わたしを食べる者は、わたしもまたいつもその人の内にいる」っておっしゃってくださったじゃないですか。先週も御聖体、頂いたでしょ。この1週間、イエスさまはおられたんですよ、皆さんの中に。皆さんと共にいた。悩んでたときも、笑ってたときも、泣いてたときも、イエスさまが共にいた。また今日、その命を頂いて、1週間。・・・つらいこともありますけどね。
 前の席に、ご病気の方、ご家族と一緒に今日も来られてますね。少しずつ、少しずつ良くなっていると信じて、また今日、この御聖体を頂きましょう。今週、どんな素晴らしいことが起こるか。それを期待して、今日、この永遠の命の糧を頂きましょう。体調、いかがですか? 少しずつ、少しずつ良くなってるって信じて、神さまが今週素晴らしい恵みをくださると信じて。

 私たちのこの永遠の命の糧である御聖体のこと、もうホントに世に広く知らしめたいですよ。この前、雑誌の対談で牧師先生とお話をしたときも、御聖体のお話をしたんですけど、そこのところはカットされずにちゃんと載るかなあと思ってたら、ちゃんと載ってました。すごく嬉しかったです。
 『百万人の福音』っていう雑誌ですけれども、リニューアルしたばかりで、9月号に私と牧師先生の対談が載っております。ここにありますが・・・この、写真の載ってるページがそうですけど、アンジェラショップで売っておりますので、(笑)ぜひ買って読んでいただきたいです。「日本宣教の秘訣は福音の宣言」って言う大きな見出しで、8ページに渡って対談が載っております。
 この写真、多摩教会なんですよ、これ。ね〜、プロのカメラマンってホントに上手ですよね・・・素晴らしい教会みたいじゃないですか。・・・素晴らしい教会ですけどね。(笑)
 この牧師先生、ホントにお話しやすくって、聞き上手で、ついつい、いい気になっていっぱいしゃべり過ぎましたけれども。まあ、前半は、「神は、どうしてもキリスト者を通して語ろうとしておられるんであって、神のみ言葉を信じて、神の口となって福音を語ろう」っていうようなお話をしていて。で、後半のところで、「御聖体」の話をしてるんですよ。
 その対談で牧師先生が教えてくださったんですけれども、プロテスタントの教会では、聖餐式、・・・ミサで言えば後半の感謝の典礼と聖体拝領ですけど、これがだいたい月に一度なんだそうです。びっくりですよね。ホントにプロテスタント教会の方、まあ、忍耐強いというか、すごくありがたいものだから月に一度にしているのか、よく分かりませんけれども、皆さんだったら、月に一度の御聖体じゃ、ちょっと生きていけないって方も多いんじゃないですか? もし1回行けなかったりしたら、キリストの体を頂くのがふた月後になるわけでしょ? 週に一度でも足りないっていう方もいて「御聖体をいただいた喜びが、水曜日には消えちゃうんです」って言った方がいて、(笑)だから私、「じゃあ木曜日の朝のミサに来なさい」って言いましたけど。
 毎週、毎週、こうして神の命を頂いてるっていう、これは教会家族の食事です。真の親である神が、どうしても御自分を食べさせたいっていう、そういう恵みの秘跡ですから、まあ週に一度がいいか、月に一度がいいかは、それぞれ、様々な考えで決めることでしょうけれども、私としてはですね、ぜひぜひ、いつでもどこでも、できれば毎週、イエスご自身である永遠の命を食べるという、この御聖体の神秘に与り続けてほしいです。

 そこに私の友人が来てますけど、カトリックの若き映画監督です。先月、ポーランドを一緒に旅行した仲です。その今日着てるTシャツ、成田空港のユニクロで一緒に買ったTシャツですよね? 一緒に巡礼旅行して楽しかったですけれど、つい数日前、旅行の打ち上げをやったときに、「巡礼旅行で一番感動したことは」っていう話になって、彼はやっぱり「ミサだった」と。
 皆さんご存じですか、巡礼旅行って、巡礼団だけの「プライベートミサ」っていうのを各教会でささげながら回るわけですよ。必ず毎日ミサをします。で、巡礼地の教会で、聖堂をお借りしてミサをするわけですけれども、そこには普通に、観光客とか、地元の信者とかもお祈りに来てるわけです。プライベートミサですから私たち巡礼旅行団だけでミサをしてるんですけど、そういう方たちも、後ろの方に普通に加わってくるんですね。「あっ! ちょうどミサやってる。よかった!」っていう感じで加わってきて、一緒にミサを捧げるんです。私たちが歌う日本の聖歌を、不思議そうに、嬉しそうに聞いたりして、もちろん日本語なんて分からないでしょうけど、でも、ミサの言葉は全世界共通ですから、何を言ってるかは信者であれば分かるじゃないですか。おんなじミサですから。たとえば「主の祈り」のところは各国語で皆さん唱えたりしてね。そうして聖体拝領の時は、当然みんな並んで出てくるんですね。これは、当たり前のことです。信者なんだから。みんな同じ神の子として、同じ信仰を持ってるんだから、当然、「これはキリストの体そのものである」という信仰のもとに出てきて、頂くわけですね。
 こうして普通に小教区でミサに与ってると、「この教会の仲間で御聖体いただくのは当たり前」って思いますが、たとえばそういう巡礼旅行のときなどに、見ず知らずで、まったく言葉も通じない、一期一会でもう二度と会わないような、「でも神の子として、同じ教会の家族だ」っていう人がミサに加わって一緒に御聖体を頂くっていうのは、これ、なかなか感動的なことで、彼はそういうの初めて体験したので、「すごく感動した」って言ってました。
 そしてまた逆に、旅行中の別の日ですけど、彼はひとりで地元の教会でちょうどやってたミサにも参列してみた。今度は逆の立場ですね。「遠くから来ました。言葉も分かりません」という立場で。でも、そのミサも同じミサですから、何をしてるかは分かりますし、彼は同じ信仰をもって、今度は逆の立場ですけど、聖体拝領のときみんなと共に行列して出ていって、御聖体を頂いた。これにもまた「とても感動した」と。
 神さまがご自分の命を、どうしてもみんなに分け与えたいっていう、そのことを私たちは、実際に「ミサ」という、信じるものが集まってひとつの家族になるという恵みによって深く味わっているんです。そのようなご聖体への信仰によって、全世界の信者がつながっているって、本当に感動的だし、それは私たちキリスト者の特権です。キリスト者がそうして、これこそが永遠の命の糧であると信じてミサに与ってるとき、これは神の国の「はしり」なんですよね。神の国の目に見えるしるしであり、もうすでに、このパンの内に神の国は来ているんです。
 だから、今日もこの後でこのパンを聖別する時に、イエスさまの言葉として、「これを私の記念(・ ・)として行いなさい」っていう言い方をしますが、これ、こうとしか翻訳できないので、「記念として」っていう言い方になりますけど、日本語の「記念」っていう言葉は、この元の言葉のニュアンスとちょっと違うんです。ですから、そこは皆さん、頭の中で修正して聞いていただきたいところです。
 「記念」っていうと、「昔こういうことがありました。今はそれ(・ ・)の記念として、それそのもの(・ ・ ・ ・ ・ ・)ではないんだけれども、似たようなことをして思い出しましょう」って話になるでしょ? それそのものではないわけですよ。オリジナルとは違う、ただのシンボルってことになっちゃう。そうじゃないんです。ギリシャ語でアナムネーシス(ανάμνησις)っていう言葉なんですけど、日本語では「記念」って言葉くらいしかないから、しょうがなくて使ってるんですね。本来イエスが言いたかったのは、「これをいつまでもわたし自身として(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)、この食事そのものとして(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)、ず〜っと続けなさい」ってことなんです。
 だから、昔の最後の晩餐とか、イエスの死と復活っていう恵みの出来事は、もう終わっちゃって、「そりゃ〜良かったねえ。いつまでも忘れないようにしよう。今日それと似たような儀式をして思い出そう」ってことじゃないんです。「あの最後の晩餐で、イエスがご自分を弟子たちに明け渡した。十字架ですべての人のためにご自分の命を明け渡した。それが今も続いています。その食事が、その神の恵みが、今日もここで復活の現実として実現しています。それを食べちゃいましょう」って話ですよ。だから時々、「これをわたしの記念として行いなさい」っていうところを、ついつい「これをわたしそのものとして(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)行いなさい」って言い間違えたりすることもある。
 今日は、本当に、永遠の命の糧、すべての人のために(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)与えられたものだっていう、そういう思いで、誰にでも、信じてここに集まったみんなに、ちゃんと分け与えられるんだと、そう信じて、御聖体をいただきましょう。私だけのね、私だけの喜びじゃなくって、言葉も通じないような一期一会であっても、「同じ神の子として、み〜んな救われてるんだ」、そんな喜びをもって、一緒に食事をします。

 私、昔・・・自分のお弁当食べられたことがあって、もう生涯忘れられないショックでした。高校生の時、お母さんが作ってくれたお弁当を持って行くじゃないですか。ある日、そのお弁当を、2時間目だか3時間目だかの休み時間に、ぼくがいない間にみんなでふざけて「食べちゃえ、食べちゃえ」って、勝手に開いて食べちゃったんですよ。ぼくをからかおうとしたんでしょうね。教室に戻ると、黒板に大きくぼくのお弁当の絵が描いてあって、詳しくおかずが図解してあるんです。卵焼き、ウインナー・・・って。で、それぞれのおかずから線が引っ張ってあって、「ウィンナーは山田が食べた」とか「卵焼きは鈴木が食べた」とか、(笑)書いてあるわけですよ。みんなはぼくの反応を見て笑おうと思ってたんでしょうけど、ぼくはショックのあまり、笑いもしなかったし、怒りもできなかったし、もう、ただただ黙っちゃいました。
 だって、母親はこの「ぼく」を愛して「ぼくのために」、「昌英が喜んでくれるだろう」と思って作ってくれたそのお弁当を、まあ「横取りされた」わけで、これはもう「母の愛を横取りされた」ってことですから。そのショックはもうずっと忘れられないでいて、思い出すだにムカつく!(笑)・・・みたいな記憶だったんですけど、これ、今さっき、急にそのこと思い出して・・・っていうのは、答唱詩編で「命あるすべてのものに主は食物を恵まれる」って歌ってたでしょ。昨日のミサではその「すべてのものを救う神」っていう話を中心にした説教だったんですけど、さっき、歌ってる間に昨日の説教をふっと思い出した時に、なぜかあのお弁当事件を突然思い出して、「そうか! 私の愛するあの母の愛を、みんなも食べてくれたんだって思えばいいんだ!」って気づいたときに、もう、積年の恨みがスーッと消えたんです。(笑)さっきの答唱詩編の間の出来事です。「ああ、そうなんだよな〜」って。
 なんかこう、神の愛なんていうものは、もうホンットに普遍的ですから、・・・たとえばこうしてミサしていても、気に入らない奴がいるとか、あるいは遠くにいる赦せない奴を思い出すとか、いろんな思いがあるかもしれないけれど、神はこの私に永遠の命を与えてくださっているし、あいつにも永遠の命を与えてくださっている。神は、ご自分をみんなに食べさせたいし、みんなに食べさせてひとつに結びたいんです。私たちは、その神の愛の普遍性っていうものに気づいて、「ああそうか。この私にも、みんなにも、その愛を分け与えてくれているんだ」っていう、その喜びは、かけがえのないものじゃないですか。

 さて、今日もパンをいただきます。そのパンは、本当は私なんかは頂くことが許されていないような、こんな貧しい、こんな弱い、こんな罪深い私・・・であるにもかかわらず、「そのお前にこそ、与えたいんだ」と言って神さまが与えてくださる究極の恵みです。
 私はそれを「ミサは地球を救う」という文章にかつて書きました。サブタイトルに「父の抱擁、母の授乳」と書きました。「父の抱擁、母の授乳」。天の父である神は、キリストにおいて、すべての人を直接ぎゅっと抱き締めてくださる。もう、そこには、どんな悪も、どんな議論も、入ってくる余地がない。放蕩息子のように、ぎゅっと抱き締めてくださる。この直接のぬくもり。天の母である神は、キリストにおいて、自らの体から湧き出てくるお乳を私たちに飲ませてくださる。私たちを生きるものとするために。それはもう愛そのものであり、命そのものであり、それを私たちは飲んで、神の子となって育っていく。このぬくもりを今日は深く味わって、「神の命を頂く私たちの内に、永遠の命は始まってる」と信じて、御聖体をしっかりと頂いてください。

 全世界の信者が、今日も御聖体を頂いています。すべての神の子が永遠の命に与っています。それを、この「ミサ」という恵みの中で深く味わうとき、ここはもう、ホントに天国の始まりです。
 私たちは、死に向かって生きてるんじゃない。天の国の永遠の命を頂くために、今、生まれようとしているところです。

2012年8月19日 (日) 録音/8月22日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英