悪い夢からパッと目覚めたら

2012年12月2日 待降節第1主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ33:14-16)
・第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ3:12-4・2)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ21:25-28、34-36)

【晴佐久神父様 説教】

 昨日の結婚式のお話からしたいです。
 私のかわいい、かわいい姪が結婚して、私が司式しました。東京カテドラル、聖マリア大聖堂での結婚式。私には甥姪が6人おりますが、その中の最初の結婚式ということです。もちろん、私は子どもがおりませんので、姉や弟の子どもは、やっぱりどこか、わが子同然とまではいきませんけれど、わが子のように感ずる近い肉親です。その結婚式は、心に熱いものが込み上げてくるような、うれしいひと時でした。
 姪は、赤ちゃんの時から知ってますから、だんだん育ってステキな女性になり、ホントにステキな男性と巡り合って、今、目の前で結婚する。それを司式するひとりの司祭として祝福すると同時に、赤ちゃんの時から知っている身内として「よかったね〜」と、「あの子がね〜」と。これはもう、親の気持ちに、ちょっと近いんじゃないでしょうかねえ。
 私の弟の長女なんで、弟がエスコートして赤いカーペットの上を歩いてくるわけですよ。ウルウルしたような、緊張した顔でね。・・・うらやましかった。いいね、ああいうの。やってみたいような気もします。生まれた時からかわいがって、丁寧に育てて、そしてホントに幸せな結婚式の一瞬がやってくる。人生っていろんなことがあるけれども、結婚式のようなときは、特別に神さまが、「いろんなことがあるけれど、それでも人生は素晴らしいものなんだよ」と、「人生には苦しみもあり、世の中には闇もあるけれども、でもホントはすべて、明るみのうちにあるんだとよ」と、そういうことをとっても分かりやすく教えてくれる恵みのときっていう気がいたしました。
 この日曜日に、こうしてミサに(あずか)ってるなんていうのも、1週間の間に、いろいろな闇があったり、つらい気持ち、苦しいことがあったりするけれども、このミサを見れば、「でも、全体としては明るいんだよ」と「本当のところは恵みに満ちているんだよ」と、「それが時々見えなくなっちゃうっていうことはあるんだけれども、それは見えなくなってるだけであって、なくなってるわけじゃないよ」と、信じられる。
 結婚式なんていう恵みのときは、集まってる人もみんなニコニコしてるし、司式してる方もジ〜ンとします。ああ、やっぱり神さまは愛だと思うし、必ず最後は素晴らしいところに導いてくれるっていう希望が生まれる。結婚式は地上のことですけれども、そうして神さまが祝福を目に見えるかたちで与え続けるのは、やがては全員が神さまと結ばれる、天での結婚式が待っているからです。そこに至るまでの間、時々こうしてミサに励まされたり、福音に強められたりして、目指すべき恵みの日を私たちは待ち続けます。

 今日から待降節ですからね、「待つ」っていうのが主題でしょ? 「待つ」っていうんだったら、それこそ結婚式を待つ新郎新婦の思い、まさにそんな感じで、私たちも天の国で神さまと結ばれる日をワクワクしながら待ち続けます。待降節はそんな「待つ」を学んで、そんな「待つ」に支えられる、そういう恵みのとき。
 新郎がね、祭壇前で待ってるわけですよ。そこに向かって、赤いカーペットの上を、新婦が歩いてくる。新郎が待ってるし、新婦もそこに着く瞬間を待ってる。そしてやがて、二人は結ばれる。私たちの、「神の国を待つ」っていう待ち方は、ほとんどそんな感じ。もう「すぐ」なんです。すぐ。「本当に来るんだろうか」とか、「もしかしたら駄目かもしれない」っていう、そんな感じじゃない。赤いカーぺットの上での待ち方は、疑いのない、絶対の「待つ」でしょ。もうあと何メートルか。映画なんかですと、そこで急に振り返って去っていっちゃうなんていうこともあるかもしれないけど、われわれの待ち方は、決して裏切られない、決して見捨てられない、神さまがきちんと最後に私たちをひとつにしてくれるっていう、絶対の「待つ」です。クリスマスを待つこの季節に、そんな確かな思いで、しっかり目覚めて待つ喜びを共にいたします。
 昨日の結婚式の、あのうれしいひと時っていうのは、私にとっても励みになりますし、こうしてミサで共に天の国を先取りしている私たちも、クリスマスが来る、神さまがこの私のうちに宿ってくださる、それを心から待って、今日のいやなこと、明日のつらいことを乗り越えていく。そのためには、この現実だけ見てちゃいけないんです。「天を仰ぐ」っていうのが大事。イエスさまが「身を起こして頭を上げなさい」って、さっき言ってました(ルカ21:28)。どんなに苦難があっても、闇が見えても、それが見えたら、普通の人はがっかりして下を向くけれども、あなたたちは「身を起して頭を上げなさい」。・・・「天を仰げ」。

  三日ほど前に、変な夢見たんですよ。姉を殺した夢なんです。朝起きて、その夢のことを若い友人に話したら、自分も今朝そんな怖い夢見たって言って笑い合ったんですけどね。確かに、怖い夢でした。
 何で姉を殺したんだか、どのように殺したんだかは分からない。でも、もう確かに殺した後なんです。ブルーシートで遺体をグルグル巻きにして、(笑)マンションの1階のゴミ捨て場の奥の、普段誰も入らない倉庫みたいなところに押し込んである。それはもう確かな現実で、はじめは自分では不思議に思ってないんですよ。「ああ、殺しちゃったなあ・・・」くらいに思ってる。でも、ハタと気がつくんです。「これ、見つかったら捕まるってことだ。日本の警察はすごい力があるから、あんな隠し方じゃ絶対見つかる。絶対に捕まっちゃう!」・・・それに気づいた途端、ものすごく怖くなった。
 ホントに、あの恐怖っていうのは、言葉にできません。「取り返しのつかないことをしちゃった!」「どんなに隠しても必ず見つかっちゃう!」「ああ、もう俺の人生は終わりだ!」と、そんな恐怖をすごく強く感じて、どうにかしてこれを乗り越えることはできないかって思うんだけど、絶対に逃れられないってことも分かっていて、絶望状況なんです。
 で、さらに気づくんです。「ああ、ということは、俺はもう、福音を語ることはできなくなったんだ」と。ミサで説教しても、みんな「この人殺し!」って思うだろうな、(笑)とか、講演してても、「この偽善者!」って言われるんだろうなとか。「ああ、もう福音を語れない!ど〜〜しよぉ〜!」って。福音語るもなにも、捕まっちゃったらそんなの無理に決まってるわけで、まあ、夢の中だからそんなふうに思ってるんでしょうけど、ともかくあの「もう駄目だ!」って思った時の、出口のない恐ろしさ。それはもう鮮明で、忘れられない。
 で、「ど〜〜しよぉ〜!」って思ったときに、ハッと目覚めたんですけど、「アッ! 夢だった! よかった、俺、殺してない!」って気づいた時の、あの安心、うれしさったらなかったですよ。「ああ良かった! 殺してなかったよ〜。・・・姉さん、元気だろうか」って。(笑)「・・・もう絶対、人を殺さないぞ!」と。(笑)ホントに心からそう思いました。
 昨日の結婚式の披露宴で、隣に姉がいたんですけど、(笑)ちょっとねえ、おめでたい結婚式で「今朝、あなたを殺しました」なんて(笑)話せませんでした。今、会衆席で、初めてこれを聞いて笑ってますけど。

 でもね、あの夢の中の感覚と、目覚めた時の感覚って、すごく象徴的だなって思うんですよ。つまり、私たちすぐに「もう駄目だ」とか「もう終わった」とか「こんな自分じゃ」とか「これ以上は絶対無理」とか、もういろんなことを現実として感じてるけれども、それってね、実は悪い夢なんじゃないですかね。
 そんな悪い夢からパッと目覚めたら、実は何の問題もない、神さまの純粋さと、美しさと、正しさが支配している天の国があるんじゃないですか? この世界はもうだんだん悪くなるとか、駄目になるとか、人の心は荒れ果てていくとか、悪いことをわれわれはいくらでも考えますけれども、それって、この世の「悪い夢」であって、必ず晴らすことができる。今すぐにでも、ちゃんと目覚めれば、天国はここにある。ここにあるのに、われわれの心が曇っていて、勝手に自分を罪に定め、人を悪人と思い込んで、世界が悪に満ちているっていう、悪い夢を見てるんじゃないの? だったら、目覚めましょうよ。
 イエスさまが「目覚めなさい、目覚めていなさい」って繰り返し言います。今日の福音でも、「天体が揺り動かされて、人々は恐ろしさのあまり気を失う」とか、ひどいことが起こるって言ってますけど、でもそんなことはたいしたことじゃないとも言ってるんですよ。「あなた方はそんなことが起こっても、それらからスルリと逃れて、私の前に立てるように、目を覚ましていなさい」っていうことを言ってる。
 ぼくなんかは、みんなが悪いことを信じて駄目になっていくようなときに、ひとりだけでも信仰を持ち続けて、意地でも救いの道を見つけるぞと、なんか、そういうことに誇りを感じるタイプなんですよ。そして見事見つけて、「みんな、こっちが救いだぞ〜!」って言ってあげる。災害があって、地下街かなんかでみんなが間違った方向にワ〜ッて逃げてる時に、心を落ち着かせて、ちゃんと目覚めた者として、「違う、こっちが救いだ、みんな、こっちが救いだぞ〜!」ってね、言ってあげたい。そういう役に立ち方ができたらいいなあって、まあ、そんなふうに思ったりするからこそ、神父みたいなこともやってるんでしょうけれど、「目覚めなさい」っていうイエスさまの思いに、少しは近いと思いますよ。

 みんなが悪い夢を見ているような世の中で、「ホントの救いはここにある。天の父の愛に、今、目覚めればいいんだ。俺を信じてついてこい」っていう、イエスの招き。その目覚めのことを「回心」っていうんです。キリスト教では、まず、この「回心」が一番大事。ちょうど、今日の「聖書と典礼」にも、最後にマルティーニ枢機卿の言葉が載ってますけど、今の教会に大事なのは、第一に「回心」だって言ってます。
 ただ、「回心」って、「回す心」って書きますよね。回転寿司の「回」。一般には「カイシン」といえば同音異義で「改心」、改める心って書きますけど、改める心の「改心」は、悪い自分を反省して、いい自分に改めましょうというような、いわば相対的な「改心」。それに対して、キリスト教の「回心」、回す心は、今までの自分から、まったく神さまの方に向き直って、神さまにすべてを委ねますという、根本的な「回心」。・・・ってな感じで、教会ではよくそういう説明をするんですよ。原語は「メタノイア」、「魂を変える」っていう言葉で、「心を改める」っていうよりは、「心をすっかり回す」と。
 でも私、実はこの「回心」っていう字が好きじゃないんですよ。なんかこう、クルクル回っちゃうっていうか、180度、360度回って、また元に戻っちゃうみたいなね。回転寿司でも、グルッと一周してまた戻ってきます。(笑)なんか、「回す心」っていうのがしっくりこなくて。ですから入門講座なんかでいつもお話してるのは、日本語は同音異義があるから便利なんですけどね、「『カイシン』っていうんだったら、開く心、『開心』でしょう」と。これが一番、原語の「メタノイア」をよく表している漢字だと思います。
 「カイシンして福音を信じなさい」っていうときの「カイシン」は、ぜひ、「開く心」っていう「開心」をイメージしていただきたい。それが一番本意に近いと思う。あなたがそこにいる、そのまんまで、ただもう心を開く。そうすると、どんどん神の愛が入ってくる。天の栄光、天の清らかさ、天の喜びが、どんどん入ってくる。
 その恵みの世界が、今ここにあって、私たちに注がれているのに、私たちがふたをしているから、魂が開いていないから、入って来ない。そこを開きなさい! 何より大切なのは、まず開くことです。「あなたがたの解放の時が近い」ってイエスさまが言いました。「あなたがたは閉じているから、この世のことにとらわれているんですよ」と、「そこを開くと解放されますよ」と、「それは世の終わりの時だけでなく、今ここで開けば解放されますよ」と言ってくださってるんです。
 これこそが、待降節の心です。「開心」。心を開く。開けばたくさん入ってくる。私たち、この世のいろいろなことを見つめすぎる。確かにつらいことは、たくさんあるけれども、それだけを見ていたら、心が閉ざされるんですよね。それだけを見ていると。で、閉ざされると、閉ざされた中で、ますますそのことだけになっちゃう。それが何よりも罪の状態です。経験したことあるでしょ? 恐れとか、恨みとか、そのことだけに心とらわれてる時。悔しさとか、喪失感とか、それだけ見ている時。そればかりを見て、閉ざされちゃったら、本当にもう、それしかなくなるわけですよね。そこで、開く。

 先週、四谷のイグナチオ教会で講演会しましたけど、行ってみたらビックリ。偶然、同じ時間にもうひとつの講演会があるんですよ。主聖堂では、加賀乙彦さんという有名な文学者でありカトリック信者でもある方の、講演会。18時45分から。そのポスターが貼り出されていて、こっちには別のポスターが貼ってあって、晴佐久神父講演会、信徒会館ホールにて、18時45分から。まったく同じ時間に二つ始まるんですよ。主催者は、「偶然のバッティングで、申し訳ありません」なんて謝ってましたけど、実際に、どっちにしようかって困ってる人がいるんですよね。
 主聖堂の方は、やっぱり有名な作家ですし、大勢集まっててね、始まる前にちょっとのぞきに行ったら、結構人がいっぱいでした。で、聖堂の外に出たら、知り合いのご夫妻に出会ったんですけど、私の顔見たらハッとして、「すいません!」って言うんですよ。(笑)別に謝ることじゃない。「どうぞ、加賀先生のお話をぜひ聞いてください」って言いましたけど、その加賀先生の講演会のタイトルが「老いと死を考える」ってタイトルだったんで、「こっちは、『若さと命を考える』でいきますから」(笑)とも言いました。
 そんなこともあって、私の講演会の話の初めに、その話をしたんです。
 「お隣は『老い』と『死』を考えてるようで、大事なことだとは思いますが、私思うに、老いだけ見つめても何も見えません。老いっていうのは、この世が『老い』と呼んでいる、この世の現象にすぎない。天の国はこれから完成するわけで、年をとるっていうことは、そこに近づいてくっていうことなんであって、天の国の基準でいうなら、だれもがだんだん若くなってるんです。また、死だけをじ〜っと見つめても、それはこの世が『死』と呼んでいるこの世の現象なんであって、キリスト教は『新約において、もはや死はない』って宣言してるんだし、イエスさまは『あなたたちは死んでも生きる』って約束してるんだし、キリスト者は『永遠の命に生まれていく』って信じてるんだから、そういう意味では死をいくら見つめても何も見えない。むしろ死っていうのは、真の命の誕生だ。だから『老いと死を考える』ことこそは、まさに『若さと天の国の命を考える』ことですよ〜」なんて話を、まるで隣の講演会にけんか売ってるかのように(笑)延々と、お話ししました。
 まあ、加賀先生も文学者ですから、きっと「老いと死」の向こうにあるものを、みんなに語って、希望に満ちた講演会であったことでしょうけれども、私、いつも、老いや死、苦しみや恐れ、そういうマイナスなことばかりを見つめている人たちの相談を聞いているので、まさに若さと命、プラスのことを強調したかったんです。いつも、皆さんの目の前で、手を振りたいような気持ちなんですよ。「目、覚まして〜!」って。この世のことを見つめてても、何にも見えない。「老い」や「死」だけ見たって、何も見えない。見えないし、暗い気持ちになるだけ。むしろ、私たちは開心しなきゃならない。心を開かなきゃならない。そうして、その閉ざされて見つめていたものから解き放たれて、天を仰いで、希望を新たにしなければならない。「老い」や「死」、その他のいろんなマイナスなことが訪れたとき、イエスさまはどうしろって言ってるか。それこそ「海がどよめき荒れ狂う」まで言ってますし、当然津波のことも思います。でも「海がどよめき荒れ狂い、人々が恐ろしさのあまり気を失っている時に、あなたたちは、身を起して頭を上げなさい。それが解放の時が近いしるしだ」。・・・ってことはですよ、老いのこととか、死のこととか、様々な暗〜いものを見たときに、われわれ信仰者は、ニッコリするんですよ。「おっ!解放の時が近いぞ。恵みの日がやってきたぞ!」と、身を起して頭を上げる。
 そうして、「起ころうとしているすべてのことから逃れて」って書いてある。「逃れて」です。この世のことだけにとらわれていると、この世と一緒に滅びちゃうから、そこから「逃れて」、イエスさまの前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい・・・開心ですよ。
 悪い夢を見ている時に、私たちがするべきことは、ハタと目覚めること。「ああっ!助かった! だいじょうぶだった!」っていう、その喜びの日。だから、この待降節の間は、あんまりね、目先のことをじ〜っと見つめるのをやめて、開心しましょう。天を仰ぐ。「生活の煩いにとらわれるな」ってイエスさまも言ってますでしょう? 「深酒」がよくないとも書いてありますねえ。ちなみにこれ「()」であって、「酒」ではない。(笑)「深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」。

 この世のことってね、強烈な引力があって、常に私たちをとらえて止みませんけれど、また、私たちをとらえるように、この世ってできてるんで、なかなか逃れられませんけど、その意味では、こういうミサとかいいですねえ。ご覧のとおり、待降節のろうそくが1本、ともりましたけど、これ、2本、3本って、毎週1本ずつ増えてくんですよ。「アドベント・キャンドル」。2本、3本、4本、待降節第5主日で5本。そしてクリスマスです。
 待降節の間、毎週ちゃんとミサに来てくださいね。1週、1週、目を覚まして祈りましょう。この世のことにとらわれず、開心して、天の国を仰いで、イエスさまを迎えます。

2012年12月2日 (日) 録音/12月7日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英