多摩教会潜入ルポ

2016年1月31日 年間第4主日
・第1朗読:エレミヤの預言(エレミヤ1・4-5、17-19)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙 (一コリント12・31-13・13)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・21-30)

【晴佐久神父様 説教】

 イエスさまを崖から「突き落とそうとした」(ルカ4:29)、と(※1)
 ・・・なんてこった。なんて恐ろしいこと。なんと野蛮なことか。どうしちゃったんでしょう、この人たち。「イエスさま」をですよ、愛の教えを語っている救い主を、引きずり出して、崖から突き落とそうとした。
 この崖、私、この目で見ましたよ、イスラエルの巡礼旅行に行ったとき。ナザレの町の下を、ツアーバスで走ってたとき、ちょうどガイドさんが何か別のことをしゃべってたんですけど、ふっと外を見て突然、「あっ、右手をご覧ください。イエスが突き落とされそうになった崖です」って、(笑)。 私、「ああ、ここか・・・!」って、そのときすごくリアルに感じた。確かに、ナザレの町外れに、それらしき崖があってね、突き落とされたら、ホントにこれ、死ぬわっていう崖でしたよ(※2)
 ・・・これ、何を怒ってんですか? みんな。リアルに、何かに怒ってたわけでしょ。その理由はたった一つ。自尊心を傷つけられたから。みんな「自分たちユダヤ人こそがすべてだ」と思い込んでるんです。だから、預言者が他の民族を救いに行ったなんて話が我慢ならないんです。
 これはしかし、恐ろしい話ですよ。今の時代に、そのまま通じる話です。人間の本質に、そういう悪しき思いが潜んでいて、そこにすべての悪の原因があるっていう、そういう問題ですよ。
 ・・・「自分たちが偉い、自分たちがすべて」と思う、その気持ち。
 「私の国」
 「私の民族」
 「私の宗教」
 ・・・ときには、「私の教会」
 人はなんで、そんな狭い、特殊な、自分たちの所属する組織にとらわれちゃうのか。
 たぶん、みんな不安だから、「私の所属する組織」「私の民族」「私の祖国」、・・・そういうものに、必死に自分を同化させちゃうんでしょうね。でも、それによって、排除が起きる。分裂が起きる。戦争が起きる。
 ・・・しまいに、「連れて出して、崖から突き落とそうとする」(cf.ルカ4:29)んです。
 イエスさま、何にも悪いことしてないじゃないですか。でも、こういうことが起こるんです。これは、ゆめゆめ気を付けないと。われわれも、ついやっちゃってることだ、という意味でね。
 いやもう、今のこの時代、「韓国はこんな悪い国だ」とか、「中国人はこんなに劣悪だ」みたいな本まで流行(はや)ってるじゃないですか。片や、「日本に来た外国人は、こんなに日本が大好き!」みたいな番組を見て、「おお、日本はそんなに優れているか♪ よかった、よかった v(⌒o⌒)v」とか。
 自国に誇りを持つのは構わないけど、他を見下すのはどうなんだろう。私は、そういう悲しい心を最もよく表す日本語として、「はしたない」と、そう表現したい。
 ・・・「はしたない」話です。同じ神の子ですよ。「どこの民族が優れていて、どこの民族が劣ってる」なんて、あり得ないでしょ。でも、不安感なのか、劣等感なのか、つい、そういう思いにとらわれて(・ ・ ・ ・ ・)しまう。独善という悪に支配されてしまう。これほど恐ろしいこと、ありますかね。
 われわれキリスト者は、あくまでもその対立軸ですよ。そういうはしたない世の中を、神の国に変えていく使命があります。
 だから、「意地」が必要です。
 こんな時代にあっても、「この俺たちだけは、迎え入れるぞ」とか、こんな政治状況の中で、「この私たちだけは、決して排除しないぞ」とか、ちょっとした意地が必要です。意地張ってないと、すぐとらわれちゃうからね。
 今の多摩教会、弱ってる人、悩んでる人をどんどん迎え入れてね、いい教会だと思いますけども、ちょっと気を許すと、あっという間に、仲間内だけのサロンみたいになって、周りで苦しんでいる人が、「あの仲良さそうな人たちの中に、私なんかは入れない・・・」って思ってしまう。そんなことになったら、天下の多摩教会、 名折れですよ。
 ・・・意地張っていただきたい。
 私、そんなことを、ず〜っと7年間言い続けましたけど、もうすぐ去っていきますから(※3)。もう、毎週「遺言シリーズ」ですからね。(笑) 「これだけは忘れないでくれ!」「これだけは言っておきたい!」って言わせてもらいますよ。 ・・・意地張っていただきたい。

 『福音と社会』っていう雑誌、ご存じですか。「カトリック社会問題研究所」っていうところから出ている雑誌ですけど、これが最新号で多摩教会を紹介してるんですよ(※4)
 「多摩教会は信者が増えているらしい」と。この、今の時代にですね、「それには、どういう秘密があるのか、それを探ろう」と。編集部はそう思ったようです。「晴佐久神父が着任してから、続々と洗礼を受ける人が増えている。そこには何か理由があるはずだ。それを探ろう」とまあ、そういう記事なんですね。
 で、まずは幾人かの教会関係者に、「なぜでしょうかね?」って質問して回ったみたいです。でも、「よく分からない」と、(かんば)しい答えが返ってこない。・・・で、これ、記事のまんまですけど、
 「中には、『一過性の現象だよ。いまに飽きられる』と吐き捨てる先輩司祭もいた」。(笑)
 すごいですねえ。・・・あっ、ひと言忘れた。「中には小声で(・ ・ ・)」ってありました。(笑)
 「中には小声で、『一過性の現象だよ。いまに飽きられる』と吐き捨てる先輩司祭もいた」と。
 ・・・誰だろ〜、「先輩司祭」って。(笑)
 「吐き捨てる」は、まあ、記者の表現ですから差し引くとしても、「一過性の現象だよ。いまに飽きられる」って、そうですか〜。いいんですかね、そんなこと言って。
 「福音を語ったら人々が救われて、排除せずに迎え入れたら教会家族が増えていく」
 ・・・これ、「一過性の現象」ですか? これって、二千年続いてきた現象でしょ? 「キリストの教会」って、そういうもんですよね。これが「飽きられる」んだったら、すでに教会は存在しないはず。
 いくらなんでも、そんな反応はないだろうと業を煮やした編集部は、「一人の若手記者を潜入させることにした」と、そういう記事でした。タイトルも、「潜入(・ ・)ルポ」なんですよ。(笑)
 で、実際に、身分を明かさずに、その若手記者が、2014年の11月にこの教会に来て、なんと一年間、ミサと入門講座に潜り込んだんですよ。・・・すごいことやりますね〜。で、つぶさに観察して、多摩教会の「秘密」を、記事にしたわけです。
 まあ、好意的な記事でしたからよかったですけど、でも、内容としては「教会ならこんなこと当然でしょ?」っていうような内容でした。わざわざ紹介するほどのことでもないというか。

 この記者ね、多摩教会に最初に来た時の印象を、まず書いてるんですね。
 彼もまあ、そうはいっても不安な気持ちで来たわけです、「どんな教会だろう」って。で、実は幼児洗礼を受けてるんですよ。でも、ぜんぜん教会に行ってなかった。だから、そういう意味では、すごい「ご無沙汰信者」なんで、「最近のミサはどうなってんのかな・・・?」って、そういう不安も、あったようです。
 私、彼が普通の求道者だと思ったもんだから、もう、にこやかに受け入れて、福音語ってね。ホント、損したよ・・・(笑)って、「損」はもちろん冗談ですけど、彼にしてみれば、実際に不安もあったし、ある意味、緊張もしてたんですね。
 ところが、初めて多摩教会に来てみたら、「受付の所に、『何でも聞いてくださいっ♡』と言わんばかりの係の人が立っていた」と。(笑) で、その人に、「この教会、初めてなんですが、入門講座みたいなのに出てみたいんですけど」って伝えたら、「すぐに、入門係の女性が現れて、聖堂に案内し、ミサの間、隣に座って、手順をあれこれと丁寧に説明してくれて、ミサの後は信徒館に連れていって、昼食を共にしてくれた。そして、その日のうちに、昼過ぎの入門講座に案内してくれた」と。
 ・・・よかったね〜、このとき親切にしてね。(笑) 全部記事になっちゃうんだからね。油断も(すき)もないですよ、皆さん。(笑) だって、今後、この記事を読んだ人が来ますよ。で、「なんだよ、違うじゃないか」って言われたら、悔しいでしょ。ちょっとこう、緊張感持って迎え入れましょうよ。なにしろホントに緊張して不安なのは、向こうなんだから。
 ・・・向こうは、緊張しています。われわれは、もう慣れているから安心だけれども、初めて来た人は、不安ですよ。だって、誰も知らないんだから。どういう儀式なのかも分からない。自分がここにふさわしいのかどうか、これからどうなっていくのかどうか、何にも分からない。そんなときに、にこやかに、隣に寄り添って説明してくれて、連れていって一緒に食事をして、入門講座に案内してくれる人がいたら、人生が変わるんですって。
 そんなに大変なことじゃないでしょう? どこのお店でもやってるようなことですよ。 われわれ教会が、そのことを本気でやっていく。これが大事。

 この記者の言葉によると、
 「その日のことを振り返って一番印象に残っているのは、『安心感』だ」
 って、そうありました。
 ・・・「安心すること」。これ以上のこと、ありますか? この緊張する世の中で、排除する世の中で、自分が生きていっていいのかも分からない、不安な人生の中で、「受け入れられてホッとする」「安心を与える」。
 教皇さまが、「教会は野戦病院であれ」って言ったけど(※5)、弾で撃たれて倒れて血を流してる人が、まず血を止められて、簡易ベッドにでも寝かせられて、水を飲ませてもらって、毛布を掛けてもらったら、ホッとするでしょ。その先、いろいろあるでしょうけど、まず、安心させないと。
 現実に、そうして、魂の血を流してる人が、その辺で大勢倒れてるんだから、まず、安心させましょうよ。「この世界はいい世界なんだ」と、「私の人生は、これから、何かいいことが起こるんだ」と、「この教会に来たら、もしかしたら、幸せになることができるかもしれない」と、そうチラリとでも思えたら、もう、これはイエスのみ(わざ)です。・・・教会って、そういうもんですから。当たり前のことです。

 この記者はですね、その後、身分を明かして、私に直撃インタビューを申し出てきました。
 「な〜んだ・・・」っていう感じで、ちょっとびっくりもしましたけれど、まあ、「望むところよ!」ですから、しゃべりまくりましたよ、直撃インタビューで。
 「人々を迎えること」「福音を語ること」の、「二本柱」の話もしました。「神さまは、あなたを愛している」という福音を伝えて、それを実際に、家族的な教会に受け入れられることで、体験してもらう。・・・この「言葉」と「しるし」、この二つ。
 お母さんの優しい言葉と、お母さんの温かい手。その「言葉」と「しるし」で、子どもは育つ。
 神の子である私たちは、天の父の、愛の「言葉」と「しるし」、それで、私たちは育つ。
 「言葉」は、福音。「しるし」は、教会。それに触れたとき、人生が変わるんです。そうして人生が変わった人が、今、ここにも、大勢います。
 ・・・こうして見ても、ミサに集まる人、増えましたよね。このベンチだって、後ろの3列か4列は、買い足したんでしたよね。その後ろにスツール椅子も増やして並べるようになったし、今や、エントランスにも椅子が並んで。
 これは神の業ですし、その「先輩司祭」に、申し上げたい。
 「今、99パーセントが信者じゃない日本で、仲間が増えない教会は、果たして『教会』か?」と。
 100歩譲って教会だとしても、「回心(開心)が必要な教会なんじゃないか」と。
 さらに100歩譲って、「たとえ一過性の現象であっても、救われる人を増やすべきじゃないですか? 『血を流してる人』を、大勢無視したままで、いいんですか?」と。

 この記事で、私、「モチベーション」の話もしました。
 「大事なのは、『何を言うか』よりも、『なぜ言うか』だ」と。
 中身なんか、大したことじゃないんですよ。たどたどしくても、言い間違えても、かまわない。よく例に出すんですけど、私の母に洗礼を授けた神父さん、外人の神父さんで、何を言ってるかよく分かんないこともあった。でもその目を見たら、「この人はうそをつかない」と、そう信じられたって。
 ・・・そこに、モチベーションがあるからです。 故国を離れてね、日本で救いを求めているみんなに福音を伝えようって、命がけでやって来て、たどたどしい日本語で必死に語っている神父。・・・みんな、熱いモチベーションを感じたんです。それがなかったら、どんなに正しい教えでも意味がない。さっきもパウロが言ってましたね、第2朗読(※6)で。「どれほど立派なこと言ったって、愛がなければ無に等しい」(cf.一コリント13:1〜2)と。
 私たちのうちに、その愛は、あるはずです。血を流している人を見たら、かわいそうだと思うでしょう? なんで、そのひとりを迎え入れようとしないかっていうと、この、「私たちの集団さえよければ」っていう、悪霊の力に支配されて、無関心になっちゃってるからなんですよ。みんな家族だと思ったら、倒れてる人をわが息子と思って介抱するじゃないですか。・・・ そうなれないかねえ。

 昨日、由木(ゆぎ)キリスト教会っていう、近くのプロテスタント教会で「“いのちと死” ともに祈る会(※7)」っていうのをやりました。
 親しい家族を亡くして、絶望しかけているような人と共に祈り、語り合い、ささやか〜に、支えていこうという、ホントにもう、まさにキリスト教、そうあるべきっていうような、美しい集いですよ。これをね、日本キリスト教団と、ホーリネス教会と、カトリックが、協力してやったんです。
 昨日は、ホーリネスの教会で、カトリックの神父が祈り、日本キリスト教団の信者たちも参加して、親しい人を亡くして、ホントにつらい思いをしている人の集いを実現させたわけですね。・・・美しい集いだったと思いますよ。「自分の教会だけ」とか、「この教派が正しい」とか、そんなくだらないことを言ってる場合じゃない。・・・目の前で大勢「血を流して」るんだから。
 大切な家族を亡くして絶望しかけている人の気持ちって、分かりますでしょ? 皆さんの中にも、ホントに絶望しかけたことのある人、いるはずですよ。そんな人に、カトリックの教えが正しいとか、プロテスタントの礼拝がどうだとか、そんなこと、どうだっていいじゃないですか。まず、「血」を止めないと。・・・そういうことですよね。
 でも、そうして当たり前のことを、当たり前にやっていると、神さまが本当に素晴らしい実りを見せてくださる。昨日も、大切な息子を亡くした母親同士が、抱き合って泣いてましたよ。
 確かにつらい。しかし、希望がある。・・・キリスト教には、それだけの力があります。
 親しい人を亡くして苦しんでいて、しかし、多摩教会に出合って救われて、この春、洗礼を受けるっていう人、何人もいますよ。・・・キリスト教の使命です。これはもう、理屈じゃない。「使命」ですね。

 イエスを殺そうとした、この人たちのうちに、もはやイエスはおられません。最後に書いてあったでしょ、「その人たちの間を通り抜けて去っていかれた」(cf.ルカ4:30)って。
 私たちの間に、ちゃんとイエスはいてくださいますか?
 「このわれわれ」なんていう小さな、「自分たちだけ」っていうような狭い思いにとらわれていると、イエスさま、「間を通り抜けて」(ルカ4:30)、いなくなっちゃいますよ。

 ・・・記事の最後は、こんなふうに結ばれておりました。
 「そうはいっても、晴佐久神父、そろそろ転任になるだろう」と。
 「多摩教会の真面目(しんめんぼく)が問われるのは、これからである」と。
 ・・・がんばってね〜♪ (笑)
 確かにね、多摩教会の看板神父、本を書いたり、ラジオに出たりして、インターネットのおかげもあって、それで人が来るようになったっていうことは、あったと思う。でも、そんなのは、たかが「きっかけ」であって、たとえそうでも、来てみたら冷たくって排除されたら、絶対もう来ないわけでしょ。
 ぜひ、皆さん、一人の神父の本だ、ラジオだ、ネットだなんていうのよりも、圧倒的に素晴らしいメディア、「出会った人に、熱い動機で、直接語り掛ける」という、最高の口コミメディアを使ってですね、豊島神父さんと共に、私をギャフンと言わせてくださいな。
 ・・・「真面目が問われるのは、これから」です。
 日本中のキリスト教会が、今、多摩教会に注目しております。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「イエスさまを崖から『突き落とそうとした』(ルカ4:29)と」
2016年1月31日(年間第4主日)の福音朗読箇所
 ルカによる福音書4章21〜30節
  〈小見出し:4章16〜30節「ナザレで受け入れられない」から抜粋〉
―――――
(参考)
==本日の福音朗読箇所(ルカ4:21〜30)==
(イエスの宣教開始の日の出来事。イエスは、故郷ナザレの会堂で、預言者イザヤの書を読まれ、話し始められた。人々はイエスをほめたが、「この人はヨセフの子ではないか」と驚いてもいた。イエスは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」と、過去、イスラエルの民の住む地域、民族を超えて活躍した、預言者のエリヤやエリシャのことを取り上げられた。〔概略/ルカ4: 21〜27〕)
 
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ4:28〜30/赤字強調引用者
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※2:参考画像
 この崖は、「突き落としの崖」と呼ばれている。
 標高は、395メートル。
  
                   (画像はクリックで拡大)
(参考)
Mount Precipice (ウィキペディア)
イエスの故郷ナザレ/突き落としの崖(YouTube)
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※3:「ず〜っと7年間言い続けましたけど、もうすぐ去っていきますから」
 2009年4月、カトリック多摩教会に第6代の主任司祭として着任した晴佐久神父は、7年間の任期を終え、今年の復活祭(2016年3月27日)後、上野教会、浅草教会の兼任として赴任することが決まった。
(参考)
・ 「これからよくなる」(「福音の村」’16/1/17説教)
    説教の冒頭、異動を発表 >>> この辺
・ 「もういいよ、ゆっくりおやすみ」((「福音の村」’16/1/24説教))
    説教の上から4段落目最後で、「毎週の説教が遺言」と語る >>> この辺
・ 「東京大司教区司祭人事について(第一次)」(カトリック東京大司教区
・ 「はじめまして」(晴佐久神父:『多摩カトリックニューズ』2009年4月号‐主任司祭巻頭言)
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※4:「『福音と社会』っていう雑誌、ご存じですか。(中略)多摩教会を紹介してるんですよ」

『福音と社会』
 発行: カトリック社会問題研究所
  Vol.283(2015/12/31)
 = 該当記事:(p.28〜34) =
   ■潜入取材ルポ+直撃インタビュー 諸田遼平
    「あなたにも今すぐできる『開かれた教会』と『福音宣言』の実践」
       注目の晴佐久神父流「受洗者が増える理由」を探ってみた!
  (画像はクリックで拡大)
☆ 購入をご希望の方は、以下のサイトで見つけることができましたので、ご参考までにお知らせいたします。(販売価格・税込み: 500円)
『福音と社会』 283号 (イーショップ教文館)
『福音と社会』 283号 (日キ販オンラインショップ)
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※5:「教皇さまが、『教会は野戦病院であれ』って言ったけど」
 教皇フランシスコが、2013年8月、イエズス会の機関紙のひとつ、“La Civiltà Cattolica” の単独インタビューで言われた。
 日本では、その際のインタビューの抜粋が、2014年1月号の『中央公論』に、「教会は野戦病院であれ」のタイトルで、12ページにわたり、掲載された。
(参考)
・ 「教会は野戦病院であれ」(「福音の村」:2014/1/12説教)
   【参照】※5:「教皇フランシスコのインタビュー記事が載ってましたね、『中央公論』に
・ 「〔完全版〕教皇のインタビュー(その‐5)= 中央公論には出たけれど敢えて =」/「教会は野戦病院であれ」の部分/
     (〔続〕ウサギの日記/谷口幸紀神父様のブログ)
  『中央公論』に掲載された記事は、全インタビューの約3分の1ということで、すべてを翻訳、掲載しておられます。
   ☆〔完全版〕教皇フランシスコのインタビュー:
      「教皇フランシスコのインタビュー記事」 「後日談」 「」 「」 「」 「」 「」 「」 「」 「」 「最終回
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※6:「第2朗読」
2016年1月31日(年間第4主日)の福音朗読箇所
 コリントの信徒への手紙一 12章31節〜13章13節
  〈小見出し:12章12〜31節「一つの体、多くの部分」から31節のみと、13章1〜13節「愛」〉
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※7:「“いのちと死” ともに祈る会」既出
 「いのちと死を問うキリスト者の集い」主催。2015年3月発足。
 特に、家族をはじめ、大切な人を亡くした方、病などで「死」を間近に思う方々など、「いのちと死」と向き合い苦しむ方々と、共にあり、集い、話し、祈るために開かれている。主催名は「キリスト者の集い」となっているが、キリスト教信徒であるなしにかかわらず、参加を呼び掛けている。
 近隣の日本キリスト教団永山教会から、会場提供のお話をいただき、その第3回目は、昨年(2015年)10月31日(土)、カトリック多摩教会で開催。
 今回(2016年1月30日)は、第4回目で、八王子市の日本ホーリネス教団 由木キリスト教会で開かれた。
ちなみに、この集いは、永山教会が、特定非営利活動法人全国自死遺族総合支援センター(グリーフサポートリンク)と共催で開催している「ともにあゆむ会 自死遺族の集い」とも関係しているという。
(参考)
・ 第4回「“いのちと死” ともに祈る会」のチラシ
        (表)             (裏)
  
           (画像はクリックで拡大)
・ 「『いのちと死を問うキリスト者の集い』の集会案内」(由木キリスト教会 facebook
・ 「特定非営利活動法人全国自死遺族総合支援センター(グリーフサポートリンク)
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2016年1月31日 (日) 録音/2016年2月7日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英