2014年3月2日年間第8主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ49・14-15)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント4・1-5)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ6・24-34)
【晴佐久神父様 説教】
イエスさまが、本当にお優しい言葉を掛けてくださったんですから、それを信じて、「明日のことを思い悩む」のを止めましょう(※1)。
「その日の苦労は、その日だけで十分」(マタイ6:34)、だなんて、本当にお優しい言葉だと思いますよ。その日一日、確かに苦労します。つらい思いをしたり、面倒なこと背負ったり、みんな頑張って一日を過ごしました。確かに大変だったけれども、それでも、思い起こせばすべて神さまの恵みのうちにあったし、なんとか今日を終えることができたんですから、感謝のうちに床に就きましょう。
「よく頑張ったね。ご苦労さま。神さまは褒めてますよ」みたいに、イエスさまの言い方はそう聞こえます。「一日の苦労は、その日一日だけで十分。まして、明日のことなんか考えるな」と。
そもそも、「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)って、これ命令形ですよ。イエスさまの命令ですから、守っていただきます。明日を思い悩んではいけません。
昨日、この命令を破っちゃった人、いますか? 明日のことを思い悩んだ人。いけませんよ。明日の何かがすごく心配で思い悩んだ、たとえば明日、日曜のミサの朗読当番が心配で眠れなかったとか。今日のミサの朗読奉仕の方、昨晩、だいじょうぶでした?
考え出すと眠れないってこと、ありますからね。「明日はうまく読めるだろうか」とかね、「失敗して恥ずかしい思いをしないだろうか」とか。そういう眠れぬ夜って、しまいには余計なことまで考え出しますよね。「私が朗読は苦手なの知ってて、あの地区委員は無理やり頼んできた」とか。(笑) いろんな余計なこと考えてるうちに、ますます眠れないなんてこと、確かに、あります。
ところが、びっくり。そんなに心配したのに、翌朝になってみたら、「大雪で、今日のミサは中止です」とかね。(笑)
そんなもんじゃないですか? あるいは、翌朝教会に行ってみたら、実はまったくの聞き間違いで、地区委員から「え? 違うわよ。頼んだのは朗読じゃなくて軽食当番よ」とかね。(笑) 心配しただけ損したってことですね。よくありますよ、そういうこと。
あるいは、緊張しながらも一生懸命朗読してみたら、案外うまく読めて、いつもはちっとも褒めてくれない神父様が、(笑) 「今日の朗読はとても良かったですよ」とか言ってくれてね、なんかすっかりうれしくなって、「次の朗読が楽しみになりました」とか。・・・ちなみに今日の朗読、良かったですよ。(大笑) 落ち着いてて、聞きやすい声でね、すごく良かった。「こうして説教ネタにされたりするから、イヤなのよ」とか、思わないでね。(笑) ぜひぜひ、また朗読していただきたい。
何にせよ、どんな心配事も、結局は無意味な思い込みに過ぎないし、翌日になれば、想定外のこと、それも何か素晴らしいことが起こるんであって、まさに「心配損」ってやつですねえ。
ホントにもう人の思うことなんて、実は何の根拠もないのに、ず~っと考え続けるし、ただただ思い悩んでる。でも、実際には、翌日は神さまが用意してくださった素晴らしい一日が待ってるんです。それを知らずに思い悩むだけ損するし、ときには悩んだ末に、自分も他人も苦しめるようなことをしてしまう。
イエスさま、優しいですよ。そんな私たちのことをよく分かっておられて、「思い悩むな。だいじょうぶだ。明日のことは、ぜ~んぶ神さまが用意してくださっている。何が必要かは、ぜ~んぶ神さまが知っておられる。み~んな、神さまの愛のご計画のうちに揃ってるから、もう今晩は何も考えなくていいよ。安心してお休み」って言ってくださいました。
こんないい教え、ないと思います。せっかくその教えを信じて洗礼を受けたのに、明日を思い悩むなんて、まったく矛盾した話です。私たちは、天の父の愛のご計画を信じてすべてを委ねている仲間であるはずじゃないですか。思い悩んではいけません。これ、イエスさまの命令ですからね。
昨日だかおとといだか、仮想通貨(※2)の会社が破綻したとかいう事件のニュースやってましたけど(※3)、よくわかんない話です、私にはね。
なんか、インターネット上に、ビットコインっていうお金みたいなのがあるんでしょ? それを貯めたり使ったりするんだそうですけど、それがそっくり消えちゃったとかいう事件らしい。いっぱい預けてた人、ホントに生きた心地しないっていうか、まさに「思い悩んで」るでしょうねえ。「大金が戻って来ないかもしれない」って不安でいっぱいなんじゃないですか。
ニュースの映像では、その会社の本社前で、「私達のお金はどこだ!?」って書いた紙を持って抗議している人がいましたよ(※4)。ホントに心配そうな顔して、立ちつくしてました。インターネットの仮想空間でのコインだなんていう、最先端のデジタルな話なのに、紙持って立って抗議っていうのがめちゃめちゃアナログで、しみじみしたものがありました。
富を失うという、その悩みたるや・・・。でも、よくよく考えてみたら、そもそも富なんてなければ、その悩みもないんですよ。悩みって、富と裏腹なんです。「富」と「悩み」っていうのは、もうこれ、抱き合わせで、富があれば「失うかも」っていう不安が生まれ、「手にできないかも」っていう焦りが生まれ、「まだ足りない」っていう不満が生まれる。これ、本来なくてもいいものを持つから生まれる悩みなんです。
「富」っていうのは、ひと言でいえば「過剰」のことですから。
「過剰」、つまり「余分」です。「富」って「余分」のことなんですよ。本来なくてもいいものなんです。もともとの意味からいっても、その内容からいっても「余分」です。その「余分」がないと心配だとかもっと「余分」がほしいとかって言い出すから、悩みの種になっちゃう。
「余分」なんかなければいいんです。
もともとゼロベースで考えてればね、つまり、「自分は神に生かされているから、何にも持ってなくても幸いだ」とかね、「神に愛されているだけで十分です、それ以上のものはいりません」とかね、「すべてお返ししても、何も文句はありません」って、そう思ってれば、その幸いは決して奪われることもないし、そもそも、「なくてもともと」ですから、不安も不満もなく、非常に爽やかです。
イエスさまがおっしゃるとおり、鳥とか花は、余分なものを何にも持ってない。生物界ってそうでしょ? その日暮らしというか、過剰なものを必要としない。まあ、リスなんかは、木の穴にドングリをちょっとためたりするかもしれないけど、たかが知れてますよね。
イエスさまのたとえを聞いてて、さすがだなと思うのは、鳥のことを、「種も
どっかで聞いたことありますけど、「人間の争いとか苦悩は、農業によって飛躍的に増えた」っていう説がある。確かに、ウサギや鹿を追っかけてた時代は、獲物をためておけません。肉とか腐っちゃうからね。木の実だってかびちゃうし、そもそもためるほど採れないしね。だけど、農業は自然に手を加えて、ためておけるものを作り出して、ためられるような仕組みにして、実際ため始めたから、過剰っていう問題が出てきたわけです。「種を蒔いて、刈り入れて、倉に納めて」、いっぱい余分をためておけるようになると、必然的に、それを奪われる不安とか、それを手にできない不満とか、それを欲する欲望とか、失う苦しみとかが、湧き起こってくる。
まして、その農作物といつでも交換可能な貨幣なんか造りだしたおかげで、その過剰がさらに過剰になる。そうは言っても豆だって小麦だってやっぱり取っとくと腐っちゃいますから。腐ったらそれまででしょう? だけど、貨幣は腐りませんから。貨幣さえあれば、10年後も小麦が買えるんです。・・・こうして人は未来を手にし、同時に未来で悩むようになった。
まあ、経済人類学というか、社会生物学というか、そんなような学問では、そんなような言い方をしてるようですけども、うがってますね。おっしゃるとおり、じゃないですか?
ましてまして、仮想空間にまで富を貯め込み出すと、当然、悩みも飛躍的に増えるわけだ。それはもう、「道理」っていうことですね。
「小麦ため込みます」「貨幣貯め込みます」「仮想コイン貯め込みます」って頑張って、じゃあいっぱい貯まって幸せかっていうと、その分、明日を思い悩むようになっちゃいました、と。
イエスさまは言います、「鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だけど、鳥は本当に幸せに、自由に空を飛んで、ピーチク、ピーチクって鳴いている。まして、天の父の子であり、天の父の愛に目覚めて生きることのできるあなたたちは、なおさらだ。信仰の薄い者たちよ。天の父から今いただいている恵みを信じなさい。それだけで、ホントに十分なんだよ」。
「いや、そうは言ってもイエスさま、子どものためにこれくらいは残しとかないと」と、「とりあえず老後のためにこれくらいは貯めとかないと」と、あれこれ言いたくなるかもしれませんが、イエスさまのたとえの中には、「愚かな金持ちのたとえ」っていうのもありましたよね(※5)。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り去られる。そうすると、お前のため込んだ物は、いったい誰のものになるのか。いくら有り余るほど物を持っていても、神の前に豊かでない者はこのとおりだ」。イエスさま、そうおっしゃった。(cf.ルカ12:20‐21)
「神の前に豊かである」っていうのは、どういうことか。「何にも持っていなくても、神さまを信じていればすべてを持っている」っていう世界です。・・・これは、ホントに気持ちがいい。
「鳥も花もそうしているんだし、あなたたちはなおさら天の父を信頼して、すべてを委ねなさい。明日は明日で、またちゃんと、天の父が何とかしてくださるから。今日は安心してぐっすり眠って、明日の朝、爽やかに目覚めましょう」って、聖書はそう教えてるわけですよ。
「今悩んでることだって、いつかは必ず解決する。もちろんそれは、そんなにすぐには解決しないかもしれない。でも、神さまはちゃんと救いの日を用意をしているから、信じて待っていよう」
・・・爽やかな、信仰の世界ですよ。
先週、受洗希望者「32人」って言いましたけど、その後も、どんどん増えてます。
まあ、毎年そうなんですけれども、締め切った後で慌ててバタバタして、増えるんですよ。先週はだから、「もう、来年にしましょう」とか、「いや、そこを何とか」とか、なんかもうゴチャゴチャした話がいっぱいあって。(笑)
先週、「33人目になるといいんですけどねえ」っていう方のお話、しましたでしょう?(※6) 「救いを求め、良い教会を探して、多摩市の教会をぜんぶ回ろう」って思って回ってた方の話ですよ。
「調べたら多摩市に11の教会があって、それをぜんぶ回ってから、どこに通うか決めよう」って思ったそうですけど、これもまた慎重な話ですねえ。(笑) まあその、根性というか前向きな気持ちは素晴らしいと思いますけど、11カ所ぜんぶ回るって大変ですよ。
ところが、5番目の教会のチラシを持って出かけたら、間違えて、カトリック多摩教会に来ちゃった。でも、彼女はここがすっかり気に入ってね、その後1年間通い続けてるわけです。だから私も、「もう洗礼を受ければいいのに・・・」って思ってたんですけど、締め切りまでに申し出なかったので、先週、「33人目になればいいのに」ってお話ししたわけです。
実はその方、その後「洗礼を受けたい」って申し出られました。(拍手)33番目です。私たちの祈りが通じたっていうことでしょうね。
それがですね、数日前のその33番目の面接で、ちなみに聞いたんですよ。「5番目で間違えたって、じゃあ、多摩教会へは何番目に来るつもりだったんですか?」って聞いたら、「いや、カトリックはリストに入ってなかった」って。(笑) ってことは、11カ所ぜんぶ回っても、ここには来なかったんです。つまり、順番間違えたんじゃなく、本当に
これなんかホントに、何ていうんでしょうねえ、まあ、どこの教会でも、本物の福音に出合えば、救われて洗礼を受けたんでしょうけれども、人間の計画をはるかに超えて、神さまから「ここだよ」って連れて来られたってことでしょう。
で、話をさらに聞いていると、実は、救いを求めて、ず~っと以前から、いろんな宗教を回ってるんですよ。新興宗教とか、仏教系の宗教とか、もうホントにいろんなとこ回ってるんです。感心しました。真剣だなあと思いましたよ。
だけど、どこも、求めているものに応えてくれなかったようです。
ある所は、仏教とキリスト教を混ぜたような、なかなかいい教えなんだけど、ともかく金がかかると。それが大変で行かなくなっちゃった。
インドの方の団体も、それなりに魅力的だったんだけど、なんだか超常現象みたいなことを大事にしていて、どうしても心から信じる気になれなかった。
仏教系のある宗教は、そこは霊能者っていう人がいて、いろいろと霊能者にお伺いを立てないとならない。でも、それにもやっぱりお金がかかって、大変だったと。
・・・ちなみに、晴佐久神父、タダです。(笑)
そして最後に、キリスト教がいいんじゃないかと思って、多摩市の11教会を回り始めた。
最初、ある教会に少し通ってみたんだけど、しばらく休んだそうです。で、あるときまた行ってみたら、「何しに来たんですか?」って言われた。で、ショック受けて、「もうここは無理だ」って思って、そこも止めた・・・とか、そんな話をたくさんしてくれました。
だけど、そこまで本気で回ってきた人が、「間違えて」入って来た所に1年間通って、そして洗礼を申し出るって、なかなか名誉な話じゃないですか? 私、それまでの旅路を聞けば聞くほど、大変だったねえって思うし、もうだいじょうぶだよって言いたくなりました。その方、こう言うんですよ。
「ここはともかく居心地がいい」
「みんながあったかい」
「癒やされる」
うれしいですね、「居心地がよくって、みんながあったかくって、癒やされる」って言ってましたよ。
そして、言いました。
「ここが私の終着駅です。ここにすべてを委ねます。もう、この後はありません」。
そう言ってもらえるのは、うれしいことです。人はやっぱり、そういうところに出合うまでは決して納得も満足もできないってことでしょう。誰だってそうでしょう、結局は。本当に安心できて、心を預けられるところじゃないと、人は集まらないってことです。
「明日を思い悩むな」っていう福音を信じるチーム、居心地が良くてあったかい教会は、やっぱり今の世の中に必要とされてると思いますよ。だけどそれは、そこまで根性出して探し回る人だったら見つけ出すかもしれませんけど、なかなか、みんなそういうわけにいかない。
みんな、心の底では求めてるんですよ。「鳥や花のように、明日を信じて安心してゆっくり休みたいなあ」「この自分を本当に愛してくれて、すべてをよいものとして祝福して導いてくださる、そんな、神様だか、仏様だか、出会いたいなあ、信じたいなあ」ってだれもがみんな、潜在的には、強烈に思ってるんじゃないですか。
だけどこの世は富の話ばっかりでね、不安と不満ばっかりでね。みんなどこ行っていいかわからない。だから、本当に終着駅として誰でもお迎えできる教会になりましょう。そこなら、神さまは、間違わせてでも連れてきますから。ここにいる私たちまでがこの世と一緒になって思い悩んだりしてたら、誰もここに来なくなりますよ。
ついこの前、変な夢を見た。入門係が出てきたんですけどね、名前、言えません。(笑)
その入門係が、「神父さま、週3回、入門講座頑張ったから、みんなでお礼したい」って言って、「深皿パテナをプレゼントしたい」って言うんですよ。
「深皿パテナ」って、ご聖体入れる、ちょっと深いお皿があるでしょ?(※7) あれのカタログみたいのを持って来てね、夢だから、手に取れる本物がちゃんとそこに並んでる不思議なカタログなんです。 で、「どれか選んでください」って言う。
私、なんかうれしくなってね、「えっ!? いいんですか~♪」って。で、見ると三つ並んでて、鉄のパテナと、銀のパテナと、金のパテナがある。(笑) オリンピックの話ばっかりしてたから、(笑) そんな夢になったんですかね。
で、その中の、銀のパテナがとっても良かった。今でもありありと思い出せるけど、両側に天使の羽みたいなのが付いていて、そこをこう、両手で持って捧げられるような感じ。すごくいい。金もね、きれいはきれいだけど、ちょっと下品っていうか、ゴテゴテしてて、鉄のは薄っぺらくて黒ずんでて、問題外って感じ。「これ、銀のがいいな~」って思った。
そこに、値段が書いてあって、銀が2万9千円、(笑) 金が5万9千円なんです。(笑) で、「値段も手ごろかな、こんなのあったらうれしいな~」って思って、「じゃあ、この銀のをお願いします」って言ったら、その入門係がハッとした顔して「そんなお金、ありません!」って言ったんです。(大笑) ひどい話ですよねえ。(笑)
で、私、そう言われた瞬間に、すっごく、何かね、イヤ~な気持ちになった。
そのひとつは、こう、何ていうんでしょう、自分が欲を出したなって、そこを指摘されたような気持ちになった。ここはね、神父たるもの謙遜に、「この鉄ので結構です」って言えばよかったのにって。(笑) でも、「この銀のが欲しいな」って思っちゃった。だけど、素晴らしかったんですよ~、ホントに。あれ、自分で作りたいわ、いっそ。(笑) 天使の羽が、両側にね、こう、出ててね・・・。なんにせよついつい欲出しちゃった。そこを見破られた。
で、また、もう一つの嫌な気持ちは、「いや、だけど、それくらい出してくれてもいいじゃん。入門講座、あんなに頑張ったんだから」っていう、不満な気持ち。
起きてからも、そのザワッとした、嫌な気持ちが残ってた。
結局、もうちょっと褒められたいとか、ご褒美欲しいとか、ちゃんと認められたいとか、それが過剰なんですね。富なんです。その人の富のあるところに、その人の心もある。考えてみたら、御礼欲しくてやってるわけじゃないし、パテナなんてもうあるんだから、もう一つ余分にもらっても困るわけですよ。だけど、ああ、これ欲しいなって思っちゃう、その「余分」に振り回される、なんか、そこがイヤ~な感じの正体でしょう。
どうしても、この「嫌な感じ」っていうのが、「過剰」「余分」っていうものには秘められているんですね。余計なもの、余分なもの、過剰なもの、ため込むもの、もっと、もっと、もっと欲しいと思うもの、自分がこれだけやったんだから、これくらいは得られるだろうって期待するもの、分かち合うのではなく、ため込んで満足するもの。人の心をザワザワッと、イヤ~な感じにする、「富」。
何にもなくてもうれしくなるような、爽やかな日々を生きていきたいのに。
余分なものを、もう考えないようにしましょう。それらは、真の神を知らない者が切に求めているもの。
そんなものなくったって、神さまが与えてくださる素晴らしい仲間がいて、みんなの笑顔とか、「ああ、ようこそ!」ってね、受け入れられることとか、もう、そういうものこそが、かけがえのないものです。「それさえあったら、もう他に何もいりません」っていう。
イエスさまが、「明日を思い悩むな」って、そう命令なさいました。
この命令、今日は守っていただきますよ。
今週から四旬節(※8)です。水曜日は「灰の水曜日」(※9)ですから、ぜひいらしてくださいね。10時にミサがあります。その日から四旬節です。
四旬節は回心のときですけど、神さまさえ私を愛してくれていて、神さまが生かしてくださっていさえすれば、あと、何にもいりませんって、そういう信仰で生きる日々ですから、それを、私も、皆さんも、しっかり心に刻みましょう。
「神さまさえ、愛してくださってるなら、あと何もいりません」
・・・
今日は、少なくとも今日はそうしてくださいよ。今日は寝るまで、思い悩むこと禁止です。
今日は帰ったらもう、あらゆる富を離れて過ごし、夜はぬるめのお風呂にゆっくりつかって、お休みください。いっさい思い悩むことなく、
「神に感謝。キリストに賛美。聖なる霊よ、この夜、お守りください」と。
空を飛ぶ鳥を思い起こし、野に咲く花を思い起こして、この夜を過ごします。
【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)
※1:「『明日のことを思い悩む』のを止めましょう」
・ 本日(2014年3月2日<年間第8主日>)の福音朗読箇所
マタイによる福音書 6章24‐34節
・ 上記福音書の箇所中、以下などを参照
① 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6:25)
② 「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)
③ 「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」 (マタイ6:28)
④ 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(マタイ6:31)
⑤ 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)
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※2:「仮想通貨」→「ビットコイン」のこと
ビットコイン・・・2009年に誕生したインターネット上だけの電子マネー。紙幣や硬貨が発行されたいため、「仮想通貨」「デジタル通貨」などとも呼ばれる。
流通を管理する事業主体や国家もなく、中央銀行のようなものも存在しない。
現実通貨との交換は、ウェブ上の「取引所」を通して行われるが、決済は金融機関を通さないため、諸経費や手数料などが発生しない。また、簡単に送受信できるため、ネット決済ツールとして広まった。
開発者は日本人「中本哲史(サトシ・ナカモト)」(正体は不明)や欧米のハッカー集団など諸説ある。
マネーロンダリングや麻薬など不法なものを購入する時に使われる懸念もあり、米財務省は今年3月に仮想通貨の規制指針を公表。取引所は規制の対象とし、登録を義務付けた。
(参考)
・ 「ビットコイン」(コトバンク)- うち、「知恵蔵2014」の説明がわかりやすいです。
・ 「ビットコイン」(ウィキペディア)
・ 「仮想通貨ビットコイン」日経MJ2013年7月24日付記事 など
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※3:「仮想通貨の(中略)ニュースやってましたけど」
(参考)
・ 「マウントゴックスが再生法申請 ビットコイン取引所」(日本経済新聞)2月28日
・ 「ビットコイン関連ニュース」(Yahoo!ニュース)
・ 「ビットコイン特集」(ロイター.co.jp)など。
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※4:「『私達のお金はどこだ!?』って書いた紙を持って抗議している人がいましたよ。」
・ 画像参照 : 「マウントゴックスが再生法申請 ビットコイン取引所」(日本経済新聞)2月28日
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※5:「愚かな金持ちのたとえ」
・ ルカによる福音書 12章13~21節
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※6:「先週、『33人目になるといいんですけどねえ』っていう方のお話、しましたでしょう?」
・ 「霊的なアスリートとして」 (「福音の村」2014年2月23日<年間第7主日説教>の5段落目を参照
・・・「昨日の入門講座でも、(この方が33人目になるといいのになあ)と思ってる方が来てました」
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※7:「深皿パテナ」
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※8:「四旬節」(英:Lent)
「四旬節」は、ラテン語で「第40の」意味。英語のLentは日が長くなる季節(= 春)を意味するlengthenが変化した語とされる。
この「40」という数は、イエスが公生活の始め、荒れ野で40日間断食をされたことに由来し、同じく「40」日の祈りと節制を通して、回心と償いをする期間として、「四旬節」の習慣が始められた。
もともとは「復活の主日」(復活祭)に洗礼を受ける人々の準備期間とされていたが、その後、すでに洗礼を受けた者も、洗礼の約束を更新するためにと、全教会で行われるようになった。
元来、復活の主日(「春分の日」後、最初の満月の次の日曜日。ゆえに毎年異なる日にちとなる)に先立つ40日間だったが、現在のカトリックの典礼では、灰の水曜日(※9)から、聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時~7時)までとなり、さらにその間の主日(日曜日)を除くため、正確には37日と18~19時間となった。
この間、キリストの受難を思い巡らし、回心と節制、愛の行いを通して、キリストの復活を記念する復活の主日を準備するよう勧められている。
典礼色は紫を用いる。
(参考)
・ 2008 「岩波キリスト教辞典」(岩波書店)
・ 「四旬節」(ウィキペディア)
・ 「四旬節 断食〈大斎・小斎〉 カーニバル」(カトリック中央協議会)
・ 「典礼解説・四旬節」(カトリック中央協議会)
・ 「四旬節」(キリスト教豆知識<ラウダーテ) ほか
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※9:「灰の水曜日」(英:Ash Wednesday)
四旬節の最初の日。
復活祭の46日前(日曜日を除くと40日前)の水曜日にあたる。
この日、信者は前年の受難の主日(枝の主日)に祝福された枝を燃やしてできた灰を額や頭に受けて回心のしるしとする「灰の式」が行われる。灰は古代から悔い改めのしるしとして用いられてきた。
初期のキリスト教もこの習慣を受け継ぎ、罪を犯した者が公に悔い改めを表すしるしとして、灰を頭や額に塗るようになった。信者がこの日のミサの中で灰を受けることは11世紀末から始まった。
この日から復活祭の準備期間である四旬節に入るに当たり、信者は灰の式の中で自らの行いを悔い改め、福音に従う生活を送るよう司祭から勧められる。 (2008 「岩波キリスト教辞典」〈岩波書店〉より)
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