壁の み言葉

2012年12月16日 待降節第3主日
・第1朗読:ゼファニヤの預言(ゼファニヤ3・14-17)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ4・4-7)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ3・10-18)

【晴佐久神父様 説教】

 このヨハネの説教を聞くと、二千年たってもまったく古くないというか、むしろ今こそ、こういうモラルが必要だっていう気になりませんか?
 今日は折しも総選挙ですけど、争点は経済と社会保障、そして脱原発ってことで、しかしそういう今の問題を考えるに、このヨハネのモラルなんか、最高の答えじゃないですか。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」(ルカ3:14)と言われると強欲な資本主義のことを思いますし、「自分の給料で満足せよ」(ルカ3:14)と言われれば必要以上の利益のための原発を思います。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」(ルカ3:11)と言われると社会保障のことを思いますし、「規定以上のものは取り立てるな」(ルカ3:13)と言われれば消費税のことを考えさせられます。
 大切なことは結局、モラルなんですよ。実はもう、本当に大切なことが何かなんて、みんな分かってるんです。愛に決まってるじゃないですか。後は、それが実行できるかどうかなんですよ。それはみんな、心では分かってる。なのに、「そうはいっても、快適さは捨てられない」「そうはいっても、やっぱりもう少しお金が欲しい」。そういう現実の中で、自分の心に「でもやっぱり、思いやる気持ちこそが一番大事だ」という優しさを持ち、実際に持ってるものを分かち合おうと行動できるかどうかっていう、そこが勝負どころだし、選挙なんかでも、実はそのモラルこそが隠れた争点なんじゃないですかねえ。
 皆さんはもう、投票しました? 私はこの後、夕方行きますけどね。誰にしたらいいんですか?(笑)教えてくださいよ。もう、どうしようって感じ。このままだと私、「洗者ヨハネ」って書きかねないですよ。(笑)
 そういうモラルを、ヨハネなんか荒れ野で実行してるわけですからね、現実に。さらにはイエスがそれを極めたわけで、この、キリスト教の本質に秘められたモラルこそが、今の時代に一番必要なんじゃないでしょうかねえ。
 私たちはなぜ、そのモラルを実行できないか。もらっている給料、与えられたもので満足できず、分けられるだけ持ってるのに、なぜ分けてあげられないか。一番の理由は、自分はすでに十分もらってるっていう喜びを知らないからだと思うんですよ。まだ足りない、もっと喜びがあるはずと思い込んでる。これが問題。
 すべての人は、すでに神さまに愛されています。これ以上ないというほどに。中でも私たちキリスト者は、それこそ「聖霊と火による洗礼」ってさっきヨハネが言ってましたけど、イエスさまに出会って、神の愛である聖霊に満たされ、燃える愛の火によって洗礼を受けて、永遠の救いを信じた者なんだから、満ち足りているはずなんですよ。そうして満ち足りているなら、「もっと欲しい」って言わないんです。「もっと欲しい」っていうのは、今足りないと思ってるからでしょう。モラルの問題の本質はそこにあると、私は考えます。義務でそうするとかいう以前に、今すでに満ち足りていることに気づけば、自然とそうするっていうことですよ。「足りない、足りない」って思い込んでるから、今あるものを手放すまい、人の取り分まで取ってやろう、もっと効率よく電力作って、もっともっと快適になってやろう、たとえそれで地獄の苦しみを味わう人が出る可能性があるとしても・・・そういう話になってくるわけでしょ?

 「満ち足りているこの私」、そこから出発です。今日、待降節第3主日は「喜びの主日」なんですから。
 お気づきでしょ? お手元の今日の『聖書と典礼』を見ても、喜び一色ですよね。集会祈願に、まず「喜び」って言葉が入ってる。入祭唱も「喜び」「喜び」って繰り返してますよ。第1朗読にも、「喜び」、三つ四つ出てきたんじゃないですか? 答唱詩編では、「喜びに心を弾ませ、救いの泉から水を汲む」って歌いました。第2朗読では、パウロが「喜びなさい」と。これ、命令ですよ、命令形。「重ねて言います。喜びなさい」(フィリ4:4)。共同祈願でも、いくつも「喜び」という言葉が使われています。
 われわれは、なぜそこまで喜ぶのか。もちろん救い主をお迎えするからですけれど、その主はもう来ておられるんだし、その主から「聖霊と火による洗礼」を頂いている者だからです。一番必要なものは、もうちゃ〜んともらっている。だから、後のものはなくても全然問題ありませんっていう、この清々しさ、自由、これを生きていきましょうよ。私たち、足りないものはないんです。永遠の命をいただいてれば、病気も大いなる神の喜びの内にあるし、神の愛に満たされていれば、あらゆる問題も大いなる神の喜びのうちにある。
 せっかくこれほどの喜びをもらっているのに、小さなマイナスひとつで、全部がダメなように言うのはいかがなものか。逆に、自分にとっては多少のマイナスがあったとしても、いただいている恵みの世界を思って、そのマイナス点を喜びに変え、みんなを喜ばせる。モラルって、そういうことですね。「しぶしぶ禁欲して、我慢して」っていうことじゃない。「ここにはもう十分喜びがあるから、分けてあげたい」と、そういう自然な動機でこそ可能なものじゃないですか?
 私たち、足りないものを、ちょっと過大視し過ぎじゃないですか? よくよく考えてみたら、もうこれほどあるのに、どうしてそこを言う?っていうような。たとえば年末ジャンボ宝くじを10枚買いました。なんと1枚当たってました。1億円。・・・喜ぶところでしょ? それを「おのれ、9枚外れた💢」って怒る人がいたら、それは強欲ってことでしょう。
 われわれが神から頂いているものは、それどころじゃない、10枚のうち9枚当たって9億円っていうような話でしょう。飛び上がって喜ぶはず。どうですか? うれしいでしょ? その節は、1億はぜひ教会に。(笑)・・・9億あったら、どれほど喜びますか? それを喜ばずに、当たらなかった1枚のハズレくじだけを見て、「ああ、1枚はずれてしまった」って落ち込んでいるようなもんですよ。そう聞いて皆さん、「え〜? いくらなんでも私はそんなことない。9億当たったら素直に喜ぶ」って思ってるでしょ? でも、それをやってるんです。9億どころか、99億、999億も足りないほどの恵みを、神がちゃんとくださってるのに、文句言ってるんです。
 誰が何と言おうと、私ははっきり申し上げられます。皆さんは神から、そんなどころではない恵みを、ちゃんと頂いています。そもそも、そこにあなたは「いる」じゃないですか。存在という最高の恵みが、もうすでにある。自分がいなければ、何もないわけでしょ? しかも、福音に出会えて、教会に出会えて、洗礼さえ受けている。なのに1枚のハズレくじを見て、ガッカリしているかのような日々。もったいないですよ、あまりにも。これほどの恵みを頂いていながら。いろんなマイナス面、弱いところとか、失ったものとかばかり見つめず、頂いた恵みに感謝するべきですよ。生活が苦しくなりました、老いて体が不自由になりました、世の中は悪くなっていきます、そういうマイナス面だけを見つめず、すべては大いなるプラスの一部なんだって思って、まず感謝するべきです。

 「老いて」っていえば、先週、鹿児島の講演会から帰ってくるとき、行きの航行券は主催者が送って来たけど、帰りは当日買うって話だったんですね。だけど、当日空港に行ってチケット買うと、メチャメチャ高いんですよ。4万2千円。正規の運賃、高いですねえ。え〜?とか思って、つい「高いですねえ・・・」って言ったら、「共同運航便なら、マイレージはつきませんけれども、お安くなっております」って。・・・早く言えよって感じ。(笑)それで3万7千円。それでも結構しますよね。「う〜ん」って言ってたら、「シニア割引もございますが、それですと1万7千円に」って。「シニアって何歳から?」って聞いたら「55歳からです」って。思わず「ハイッ!! 55です! 55ですっ!!」(大笑)「年齢を確認できるもの、お見せいただけますか?」って言われて、ちょっとうれしかったですけど。(笑)免許証出したら、「はい、どうぞ」って、ついに1万7千円。いやあ、シニアって、こんないい思いしてるんだ〜。(大笑)いいですねえ、シニア。(笑)これからどんな楽しいこと待ってるんだろうと思うと、年とってホントによかったなあって。
 みんな、文句ばっかり言うけれども、いいことはそれ以上にあるって言うべきで、これはもう「マイナスが1あったらプラスは10ある」「マイナスが10あったらプラスは100ある」ってことです。神さまは意地悪じゃないから、ちゃ〜んと用意してくださってるに決まってるじゃないですか。みんな、あまりにもマイナスだけ、じ〜っと見過ぎです。
 中でも、うつの方とか、心を閉ざしちゃったっていう方は、もう、マイナスしか見えなくなっちゃってるんですね。周りにはプラスが山のようにあっても、そこだけになっちゃう。それが「心の病」っていうことでもある。だから、そんな方に寄り添って、「ほら、幸せなこともいっぱいあるよ」「ちゃんと救いは来ているよ」って言うのが教会の本質でしょう。そう、そんなこともあって、今月の25日には、多摩教会で、「心の病気などでつらい気持ちでいる人のためのクリスマス会」っていうのをやるんですよ。そのとき、皆さんに申し上げたい。
 「つらい気持ちはわかる。マイナスしか見えなくなっているっていうのもわかるけど、ちょっと周りを見てほしい。あなたのことを祈っている人たちがいるよ。教会はあなたを大事に思ってるよ。ちょっと心を開いてほしい。イエスさまがあなたを必ず救ってくださるから安心してね。この集まりで互いに祈り合い、『そうか、神さまはホントに私のこと愛してるんだ』って気づいてほしい。さあ、みんなが焼いてくれたケーキを食べましょう」
 ・・・そういうことがしたいんですよ。今年の12月25日、午後3時からです。つらい気持ちで何とか生き延びている方、ぜひいらしてください。教会はそういう人が集まる所。そうして、実は恵みをいっぱい頂いていることに気づく所ですから。

 鹿児島の講演会は市民クリスマスだったんですけど、「今年は、晴佐久神父さんに好きなだけ語っていただく企画です」って言われてね、なんだかうれしかったですよ。普通は市民クリスマスって、演奏があったりゴスペルの合唱があったり、ゲストが30分くらいお話をする。だいたいそんな感じなんです。でも行ってみたら、「今回は晴佐久神父さんに好きなだけ語っていただきたいので、他の企画は一切ありません。さあ、どうぞ」って。(笑)それで夢中になって話していると、聖霊も好きなだけ働いてですね、結局時間も延長しちゃって。でも、どれだけ話しても足りないですよね。鹿児島にもつらい人がいっぱいいるわけでしょ? 「こんなに私たちは神様から愛されている。さあ、心開いてくれ。もうだいじょうぶ」って、繰り返し、繰り返し伝えることって、とっても大事。
 実は、その講演を聞いてくださった方が、今もこのミサに来られて目の前におられますけど、鹿児島からわざわざ、ようこそようこそ。この方は、以前の講演会の時に初めて来られた方ですけど、あれは何年前? (本人が返事する)ああ、8年前ですか。8年前にも鹿児島で、今回と同じ聖堂で講演したんですよ。いつものように「神は愛だ! あなたたちはもう救われている! さあ、その恵みを受け入れて、洗礼を受けてほしい」と、そんなお話をしたら、あなたはホントに素直に信じて、受洗なさった。改めて、洗礼おめでとうございます。
 8年ぶりにその同じ聖堂に行ったわけですけど、この方が、た〜くさん連れて来られてたんですよ。自分の仲間とか知り合いとか。ぜひ聞かせたいって連れて来た。気持ちは分かりますよ。あの頃いろいろ悩んでいた。恐れていた。迷っていた。でも、ある聖堂で、ある神父から「神は愛だ。あなたは愛されている。もうだいじょうぶだ。信じよう。信じて洗礼を受けよう」って言われて、神さまに「はい」と応え、福音に救われて洗礼を受け、ホントにそれこそ喜びに満たされた。今回、8年ぶりに同じ神父が来て、同じ聖堂で、同じように福音を語ってくれるということになり、それならぜひあの人にも聞かせたい、この人も誘いたいっていう、その感覚。よく分かります。今回、あなたが大勢連れてきてくださって、うれしかったですよ。今回も、あの人たちの中から受洗者がきっと出ますよ、必ずね。
 世の中にはね、2種類の人がいるんです。「大きな恵みを受けて、救われて喜ぶ人」と、「大きな恵みを受けて救われて喜んで、それを誰かにも分けてあげようと思う人」と、2種類いるんです。皆さん、どっちですかね。どっちが良い、悪いの話じゃないんですよ。「2種類いる」って言ってるんです。そしてこの後者、自分はたくさんもらった、だからだれかに分けてあげようっていう人が、聖霊的には使いやすいんですよ。そういう人を通して、すごくいっぱい、いい働きがあります。きっと鹿児島でもまた、たくさんの喜びが溢れてくれたと思います。

 今回、鹿児島に行って、どうしても見てきたいものがありました。
 あるご一家がいて、ご夫婦と、小学生の男の子と女の子。4人家族ですけれども、お母様が、悪いがんにかかって、非常に苦しみました。東京の人なんですけど、鹿児島の先進医療の病院に通ったんですよ。特別の治療が行われる病院があるんですね。そこで治療を受けていたけど病状も思わしくなく、大変不安で苦しんでました。
 そんなある日、夫婦で散歩に出かけたら、病院のすぐ近くに、私が先週講演したその教会があって、「ああ、こんなとこに教会がある」と立ち止まり、ふと入口を見たら、壁に大きく聖書の言葉が彫ってある。彫ってあるっていうか、コンクリの打ちっぱなし、新しい聖堂でよくあるでしょ、そこにこう、文字がへこんで入ってるんです。なかなか手間かかりますよ、ああいうことするの。文字の型を入れて、固まったら抜き取るんですかね。ともかくそういう文字で、聖句が書いてある。
 ヨハネ7章37節です。「イエスは大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』」
 病気の彼女はそれを見て、「私、それを飲みたい!」って言いました。ご主人も「そうだね。飲みたいね」って。その教会には聖堂案内係っていうのがいるんですね、そのとき、その人がそっと近づいて、「どうかなさいましたか? ご案内いたしましょうか?」って声を掛けたんです。そうしていろいろお話を聞き、聖堂を案内し、さらには病室を見舞い、親しくなり、やがて食事に連れ出したり、鹿児島の観光名所をドライブしたり。その教会の人たちもその病気の彼女のために、一生懸命お祈りをして、お友達も増えました。
 やがて治療法もなくなり、失意のうちに東京に帰ることになったとき、「みんな祈ってるからね」と送り出して、「東京に帰っても教会に行くのよ」と言い、紹介されて縁あって多摩教会に来られたんです。私はそのとき初めて会いましたけれども、つらいお気持ちを聞き、福音を語り、永遠の命の希望を宣言しました。彼女は信じましたし、救われて、一家で洗礼を受けました。4年前のここの洗礼式ですね。車椅子で来られてたのを覚えてる方もいるかもしれない。その後ほどなくして、亡くなりました。でも、最後の信仰の日々は、忘れられないです。ご主人と共に優しさと静かな喜びを持って、自分のすべてを捧げました。
 私はその奥様に、ちゃんとお話ししました。「あなたは死ぬんじゃない。神さまの世界に生まれていって、天で自分の子どもたちのために、この世にいた時以上に働けるよ。神の恵みはあまりにも大きくって、すべては捉えられないけれども、信じて、洗礼を受けて、神さまの世界に生まれていこう。あなたはどこまでも神さまに愛されている」と。彼女はそれを本当に信じてくれました。非常に厳しい試練の中で、しかし神さまがちゃんと、大きな喜びを与えてひとりの人を救ってくださったのは、事実です。
 私は今回、その教会の文字を見たかったんです。自分にとっては、それがひとつの、何でしょう、巡礼というか、祈りだった。どんなふうに書いてあるんだろうと思ったら、ホントにハッキリ大きく書いてあってね、思わず手を合わせましたよ。
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)
 彼女の笑顔を思い出して胸が熱くなりました。彼女はそれを、実際に飲んだんだから。
 神さまは、すべての人にご自分の愛を表したいんです。なんとかして。だからこそ「聖霊と火による洗礼」を受けた教会は、すべての人に愛を伝えたくて、壁にみ言葉を彫るし、案内係が声をかけるし、聖なるミサでみんなを救うために洗礼に招いて、神さまの愛の喜びに与らせようとする。これは、神の愛の目に見えるしるしである教会の心からの願いです。

 喜びの主日、どうかたくさんの喜びを頂いてください。そして、その喜びを、必要としている人に分けてあげてください。そのためにも、溢れちゃって、隠しようがないっていうほどに、救いの喜びを、まずはしっかりと頂きます。
 パウロが第2朗読で言ってました、「喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(フィリ4:4-5)。つまり「隠すな」と。「あなたがたの喜びが、喜びにあふれた広い心が、みんなに知られるようにしなさい」と。
 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリ4:6-7)
 今日一日、喜びを持って過ごします。


※ 参考 ※
お説教中にある「壁のみ言葉」です。鹿児島カテドラル・ザビエル教会にあります。

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2012年12月16日 (日) 録音/12月20日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英