【カトリック上野教会】
2016年7月10日 年間第15主日
・ 第1朗読:申命記:(申命記30・10-14)
・ 第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・15-20)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ10・25-37)
【晴佐久神父様 説教】
イエスさまのたとえ、分かりやすくていいですねえ(※1)。
そりゃあ、誰が考えたって、倒れているユダヤ人を助けたこのサマリア人こそが、このユダヤ人と隣人になった、つまりホントの友達になったと、そう思うわけですから。誰が見たってそうです。律法の専門家も、「その人を助けた人です」と、当然そう答える(cf.ルカ10:37)。
ここでこの律法の専門家が、「そりゃあ、通り過ぎた祭司でしょう」って答えたらイエスさま、なんて言ったでしょうね。(笑) 知りたい気もしますが、でもまさか、そんなこと言うはずがない。誰が見たってこの二人は隣人でしょう。助けられた人は本当に感謝し、恩を感じ、逆に、この人のために何でもしようという気持ちになったんじゃないか。・・・そして、二人は真の友達になる。
「そうすれば命が得られる」ってイエスさま、言ってるでしょ(ルカ10:28)(※2)。つまり、真の友達になれば、もうそれ自体が「真に生きてる」ってことなんですよね。「命が得られる」・・・本当の意味で生きている、それは、永遠なるもの。
逆に言うと、誰とも心が通わず、一人ぼっちで、自分は見捨てられた、誰も愛することができないと思い込み、神さまから愛されていることにすら気づかないならば、闇の中にただ一人生きている。・・・それは、もはや死の世界だと思う。
「神を愛する」っていっても、普通には「神」ってとても抽象的で、非常に透明なことですから、イメージしにくい。しかし、まず「人を愛す」っていうことをやれば、誰かと心が通い合ったときに、「ああ、自分は生まれてきてよかったんだ」「これが生きるってことなんだ」「これからも生きていくことができるんだ」と、そう思える。どんな小さな関わりでもいい、本当の関わりを持つこと。それが「神を愛する」ことでもあり、「命が得られる」っていうことなんです。
ふと自分を振り返って、ぼくらは家族もいる、学校もある、会社にも行ってる、地域社会の関わりもある。でも、「果たして誰と隣人だろうか・・・」と、そう思うと、何だかとても寂しいような気持ちになることないですか? 誰かと、・・・誰でもいいんです、一期一会でもいいんですよ、たった一度でも、誰かと、グッとくる心のつながり。
「ああ、ホントに会えてよかったな。この人のために何かしてあげよう」
そう思う瞬間、こ・れ・が「永遠」なんですよね。こういうつながりを持ったとき、たぶん私たちはそこで、「わたし」として誕生するんです。「命を得」たんです。それがなければ、それは「死」の世界。自分の思いだけにとらわれて、相手を批判し、誰ともつながれない世界。つながれないのは、実は相手のせいじゃない。たとえ拒否されたって、つながろうと思ったらつながれます。
「自分は何のために生きてるんだろう」、そう思うなら、恐れや怒りを越えて、誰かと関わって、ほんの一瞬でもいい、「君の気持ち、分かるよ」と、「こんなぼくのことを受け入れてくれた」と、そんな瞬間をつくり出しましょう。それが「永遠」なんですよ。・・・「神の国」なんです。
「こうしてつながるために生きてたんだ」、そんなつながりを持ちたいって思いませんか?
今、「福音塾」っていうのをやっていて、牧師先生たちとよく集まってます。
先週も上野教会に集まったんですよ、牧師先生がた。私、仲のいい神父は少ないけど、仲のいい牧師はいっぱいいる。(笑) しかも、だんだん増えていく。
私、ホントに思うんですけど、牧師先生方の中に、福音宣教のモチベーションの高い人、多いですね。人とちゃんとつながりたいと思って、何かチャレンジしてる人。そういう人って、なぜかお互いに探し当てるというか、つながっちゃうんですよね。・・・面白いです。
「自分を守ろう」「関わるのは大変だ」、そう思って他人と距離を置く人って、やっぱりお互いにぜんぜんつながらない。誰かとつながろうとするっていうのは、これは神さまが私たちに与えた使命というか、生ける秘訣というか、永遠の命の道というか、・・・福音の本質。牧師さんたちとつながって、そんなつながりの話をしているときって、すごく楽しい。キリスト者としてつながる、それも、友達感覚でつながる。
先週の「福音塾」の日は、ちょうど
余談ですが・・・。プロテスタントの神学生も二人いたんですけど、ある神学生とある牧師が買ってきたものが、かぶったんですよ。同じ屋台で、同じものを買ってきちゃった。鶏のから揚げなんですけど、生ビールを飲むときの大きな紙のカップに、から揚げが山盛りに入っているやつ。ところが、神学生が「あれ?」って気づいたんですね。見比べてみると、牧師の持っているカップの唐揚げが、1、2個減ってる。(笑) 神学生が、「あれ? 先生の少ないですね」って言ったら、その先生、すまなそ~に、下を向いた。(笑) さて、なぜ減ったのか…。(笑) なんか、ほのぼのして、いい集まりでしょう?
この「福音塾」、一番いいのはね、元気が出るんです。お互いに弱さを隠さず、とっても正直で素直で自然体で、当たり前のように一緒にいられる。カトリックとかプロテスタントとか関係ない。牧師同士だってお互い教派が違うのに、一緒にいて友達だな、仲間だなって思える。
そんな仲間で、大真面目に、「このぼくらで、この世界を変えていこう」くらいな、大きな話をするんですよ。「どうやって、今、特に若い人たち、つらい思いをしている人たちに、このキリスト教の素晴らしさ、福音の喜びを伝えられるか」とか、そんな話を夢中になってやる。そういう、福音でつながってるっていうのが、何より元気が出るんです。元気も出るし、「もっとお互いに理解し合って、何か始めよう」とか、そういう思いも強まってくんですよ。・・・隣人になっていくプロセスです。「ああ、私たちの間に、神の国が始まってるな」って感じる。
実は今日も、キャンプの仲間たちが合宿中です。上野教会、合宿するのにいいですね。ありがとうございます。(笑)
和室に大勢泊まったんですよ、昨日も。これは、この夏の無人島キャンプの仲間たちです。全員集合っていうことで。約20名、みんな集まって話し合って。まあ、お互いに「はじめまして」っていう人もいたので、「一度は必ず顔を合わせよう」、それが、昨日、今日の合宿の意味です。
集まってくれた仲間たちを見ていると、ホントに私、「教会」をやっててよかったな~と思います。仲間たちが、まさに「隣人」としてお互いに受け入れ合い、心を一つにすることで、「命を得る」つながりにする。そういう奉仕こそが、キリスト者の使命だと思う。なにしろ、もう30年近く、こんなことやってんですよ、・・・無人島キャンプ。やってる理由はただ一つ。みんなに教会体験、神の国体験をしてもらいたいから。初めて行ったとき、「ここにみんなを連れて来よう!」って思って以来、私の心の中から、その動機が消えたことはない。
その島で最初にキャンプしたときの仲間が本当に素晴らしい仲間で、共に天国のような体験をしたわけですけど、この天国を他のみんなにも味わわせたい、そう思っちゃったんです。これはもう、
昨日の合宿もいい集まりでしたけど、特に、初めてこのキャンプに参加するっていう人がいるのが、私にはとてもうれしい。「見てろよ、天国見せてやるぞ!」っていうような思いです。そうして仲間たちがつながっているときに、確かに、何か素晴らしいものが流れるし、それが教会体験としての大きな喜びを生む。
上野教会の裏の昭和通りのお店の話、しましたでしょ(※5)・・・知ってますよね? 「ビリビリ」っていうお店(※6)です。知らないですか? 昭和通り、すぐこの教会の裏、入谷に行く途中にある。夜歩けば、なんかアヤシイ小さなお店ですから、すぐ分かります。ソファが置いてあって、間口が全部開いていて、歩道からすぐ入れます。
そこでトルティーヤを売っていて、これがおいしい。私それをよく買って食べるんですけど、そこのバイトの女の子と仲良くなったんですよ。っていうのは、芸大生だっていうから、私も美術の学校を出てますしね。で、モネが好きだって言うから、それはもう、キター!と思ったんですよね、そういう話をきっかけに、教会に呼べるかもって。で、誘ったら来たんですよ。一度、この上野のミサに来てます。私が「SEKAI NO OWARI」の話をしたときです(※7)。
あの、「SEKAI NO OWARI」って、この世の終わりじゃなくて、そういう名前のロックバンドなんですけど、そんな説教をしているのを聞いて、彼女、喜んでました。で、このキャンプの話をしたら、「ぜひ行きたい!」って言って、で、昨日来たんですよ、この合宿に。本人は泊まらずにもう帰ったんで、今、このミサには出てないんですけど、昨日来て、キャンプに参加することになりました。初参加です。こういう出会いがうれしい。
教会のすぐ裏のお店のバイトの学生ですよ。普通は何の関わりもないんでしょうけど、私にしてみれば、ほっとけないというか、どんな出会いでも、「何か関わりたい」「何か伝えたい」「なんとかこの人も教会につなげたい」、もう、そういうモチベーションが働きますから、当然誘います。
ところが、その彼女、昨日の夜、驚愕の事実が発覚した。なんと、「私、小さいころ、カトリックの洗礼受けました」って言うんですよ。(笑) ・・・幼児洗礼、受けてるんですよ。でも彼女はまったくその後教会には行ってない。自分が6歳で幼児洗礼を受けたことは覚えてるけれども、その後まったく教会から離れてた。そういう意味では、初めての「教会体験」になるわけです。このキャンプで素晴らしいつながりを体験して、「命を得る」 (cf. ルカ10:28) ってことにつながると思いますよ。
昨日の合宿には、高校生も二人参加してました。・・・もう帰っちゃったのかな、・・・ああ、いますね。(笑) 二人ともいるの? あっ、一人はもう帰ったんだね。・・・先月、浅草教会の説教でお話しした二人です(※8)。高校生が一人、学校でみんなからいじめられて、苦しんでたんですけど、それを見たカトリック信者の友達が、「俺だけはお前の味方をする」と言い、晴佐久神父のところに連れて行けば何とかなるだろうと思って連れて来たっていうことがあったんですよ。で、私はこの高校生に福音を語りましたし、教会体験で救われるという確信がありましたから、このキャンプに誘った。そしたら参加するっていうことで、昨日の合宿に来たんですね。
その彼が、昨日、みんなの前でつくづくと言ってました。「自分を、晴佐久神父のところに連れて来てくれたこいつこそが、本当の友達だ」と。「それまで友達だと思っていた人たちからいじめられて、ショックだったけど、今は、こいつに出会えただけで、十分だ」と。
まあ、キリスト者としては、当然なんですけどね。「
「隣人」って、まあ、いうなれば、「本当の仲間」とか、「真の友達」とか、「かけがえのない大切なつながり」とか、そういう翻訳でいいと思う。本当の仲間、真の友達を得たかったら、まず近寄って、声を掛けて、そして手を差し伸ばす。そうすると、かけがえのないつながりが生まれる。
裏のお店の、そのバイトの女の子も、いろいろと悩んでいて、苦しいとき、ともかく絵を描くことで何とか発散して乗り越えてきたって言ってました。・・・みんなそうなんですよ。みんな悩んでいる。みんな恐れている。でも誰かが声を掛けて、誰かが導いて、手を差し伸べてあげると、そこに救いが訪れる。それは、その人が個人的に救われたっていう出来事じゃなく、そこで「本当の友達ができる」「最高の仲間ができる」、・・・つまり、「神の国が現れる」ってことなんですよ。
「一人の人が、独りで救われる」って、そんなことないんです。誰かと関わることで救われる。つまり、「つながりが、神の国」なんです。これは誰でもできること。・・・必ずできます。世界はそういうふうにできているから。
さっき、第1朗読(※9)でモーセが、「
・・・誰にでもあるんですよ。勇気を持って口を開いて、ちょっと関わる。勇気を持って心を開いて、ちょっと手を差し伸べる。すると、なんと、「本当の友達」「大切な人」「かけがえのない仲間」が生まれる。それ、誰にでもできる。・・・誰にでも。
モーセだってね、神さまから選ばれたときに(※10)、「私は選ばないでくれ」って言ったんですよ。「私は口下手だから」って。聖書に書いてありますよ。「私は口下手だから、私なんか選ばないでくれ。私、何にもできません」って (cf.出4:10) 。でも神は、「ごちゃごちゃ言うな」と、・・・まあ、そういう言い方はしてないですよ、聖書では。(笑) でも、神の言いたいこととしては、そんなようなこと。「ごちゃごちゃ言うな。わたしが選んだ。わたしが遣わす」。
その点、モーセが偉かったのは、自分は口下手だし、とてもじゃないけど人を救うなんてことできっこないと思いながらも、「はい。分かりました」って引き受けたところです。で、やってみたら、まあ、ユダヤ人をみ~んな奴隷の地から救い出して、大勢の人たちと素晴らしいつながりを生むことができた。まあそれは、モーセにしてみたら感動の出来事でしたけれども、だから当然、彼はこう言うわけです。「誰にでもできる」と。・・・「誰にでもできる」と。
今日は、早稲田大学の学生も一人、来てますけれど、この彼も、無人島キャンプに来るって言うんですよ。
大学の授業で、私はまあ、福音をせっせと語りますけれども、なかなか教会にまでは来てくれないんですね。今年も最後の授業で、「今年はついに、教会に来たいって言う人、現れなかったな。残念だなあ・・・」と思って教室を出た。そしたら、階段の所で一人の学生がなんとな~くぼくを見てですね、ニッコリしたんですよ。で、ぼくもニッコリして、「さようなら」でもよかったんですけど、・・・「これだ! こいつだ! これを逃すな!」と、(笑) まあそう思って声を掛け、「まあ、ちょっとお話ししましょうよ」と、大学のベンチでおしゃべりをし、「今度一緒に食事しましょう」と言って秋葉原まで来てもらい、・・・だんだん近づけていく。(笑) そしてキャンプの話をしたら、「行きたい」って言う。それで昨日の合宿、そしてこのミサにも来てる。
まだ私、君と会って3回目?・・・4回目? まあ授業を入れればもっとですけれど、君にとっては驚くべき世界を知ったと思う。昨日の合宿でも、キャンプの仲間たちといろいろおしゃべりをして、すごくビックリしてましたよね。・・・「こんな世界があるんだな」って。「ぜんぜん知らなかった」と。
彼が言ってましたけど、高校時代は友達もいたけれど、大学に入ったら友達関係が薄くって、真剣に話し合える仲間たちなんか、ぜんぜんいなかった。でも、晴佐久神父さんの講義で、福音の話を聞き、「福音によって人と人がつながることが、救いなんだ」「神は、みんなを救うためにみんなを出会わせてるんだ」って、そんな話を聞いて、「へえ、そんなものかな~」と思ってた。ところが、昨日この合宿に来て、さっきのバイトの大学生の話とか、友達を救った高校生の話とかを聞き、その本人を目の前にして、「授業で聞いていたその福音が、実際に現実として行われていて、人が救われているという事実が、ホントにあるんだと知ってビックリした」って、そう言ってましたよ。
こういう福音的な出会いって、これはやっぱり、ちょっとの勇気ですよね。階段で思わず声掛けるとか、友達に「俺だけはお前の味方をする。お前の仲間だ」って言い表すとか、あるいはバイトの女の子に、「ちょっと教会に来てみませんか?」とか。・・・でも、そんな勇気で、もうそこに、神の国が生まれるんです。
苦しんでる人のところに近づいて、声をかけ、介抱する。誰でもできます。・・・できます。
先週、引きこもりの青年が一人、相談に来ましたけれど、「自分はとても勇気がなくって、こんな自分に劣等感を持っていて、なかなか人と関われない。人間関係がとても怖い」って、そう話していました。実はその彼も、今日、がんばってこのミサに来てくれてるんですけど、私は、あなたに言いたい。
「できます」
素晴らしい友達、できます。・・・必ずできます。
引きこもっている毎日、弱くていつも恐れている心、そういう人が、ほ~んのカケラでもいい、勇気を絞って誰かに声を掛けたとき、・・・それは私みたいな、まあ、ある意味プロがね、恐れを越えて声掛けることの、百倍、千倍の価値があるんですよ。それは、神の業です。君のような劣等感を抱えている人を通して、神さまは、素晴らしい神の国を、そこに生み出します。
「生涯の大切な友達」、できます。・・・必ずできます。だから、今度の「ここヤシ」、「心の癒やしを求める青少年の集い」にも、またちょっと顔を出してくださいね。自分のことを言われてるって分かってますでしょ? 今、緊張させちゃいけないと思って、あなたの顔は見ないで話してますけど、(笑) 勇気を持って来てください。
ホントにこの世界には、あなたのための、素晴らしい用意があります。自分だけは幸せから外れていると思わないでください。ほんのカケラでも、教会体験、つながる体験ができたら、また勇気が生まれるでしょうし、やがては、それこそ一緒に無人島キャンプに行きましょうよ。絶対無理だと今は思ってるでしょうけど、必ず行けます。
知ってますか。あなたのお父さんと私は、28年前に一緒に無人島に行ったんですよ。そのときの素晴らしい体験、そのとき生まれた信頼関係、そのとき隣人になったあの感動があったからこそ、あなたのお父さんは、あなたを私のところに連れてきたんです。
こんなの、全部神さまの計画、必ず勝利が待っている出来レースみたいなもんですから、安心して待っててください。私はあなたと、いつか必ず、あの島に行きますよ。
もし、どうしても・・・他のみんながいるのが怖いって言うんなら、二人で行きましょうか?
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)
※1:「イエスさまのたとえ、分かりやすくていいですねえ」
晴佐久神父の指摘しているのは、この日2016年7月10日(年間第15主日)の福音朗読箇所にあり、その中でイエスはたとえ話を語られている。
福音朗読箇所は、以下のとおり。
ルカによる福音書10章25~37節。
〈小見出し:「善いサマリア人」〉
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【あらすじ】
「隣人を自分のように愛せよ」というイエスに、律法学者は、「では、わたしの隣人とはだれか」と尋ねた。それに対し、イエスは次のたとえ話を語られた。
「ある人がエルサレムからエリコへと下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎは その人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
そこを通りかかった祭司もレビ人も、その人を見ると、道の向こう側を通り過ぎて行ってしまった。
しかし、同様にそばに来たサマリア人は、その人を見て憐れに思い、近寄って手当てをし、さらに宿屋に運んで介抱した。そして翌日には宿屋の主人に銀貨を渡し、こう言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら 帰りがけに払います』
この3人の中で、追はぎに襲われた人の隣人になったのはだれか」
律法学者が、「その人を助けた人です」と答えると、イエスは言われた。
「行って、あなたも同じようにしなさい」
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※2:「『そうすれば命が得られる』ってイエスさま、言ってるでしょ (ルカ10:28) 」
【福音書:該当の箇所】
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 (ルカ10:25-28/赤字引用者)
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※3:「入谷の朝顔市」
入谷朝顔市(朝顔まつり)は、毎年7月6日、7日、8日の3日間開催されており、入谷鬼子母神(真源寺)を中心に、言問通りに60軒の朝顔業者、80軒の露店(縁日)が並び、毎年40万人の人出で賑わっている。(JR鶯谷駅南口徒歩3分・地下鉄入谷駅徒歩1分)
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江戸時代後期、入谷の植木屋では武士向けに朝顔を栽培しており、その出来栄えが素晴らしいと評判で、明治中期になると現在の朝顔市の原型となる市が始まっていた。ただ、都市化の波と共に、朝顔の人気も衰退。入谷の植木屋も廃業が相次ぎ、大正2年にはすべて撤退。
その後、昭和23年に、地元の有志と観光連盟が江戸の情緒を取り戻そうと朝顔市を復活させ、現在に至っている。
(下の画像はクリックするとそれぞれ拡大しますが、一番右の地図は別途、>> こちらのGoogle Map で詳しくご覧いただけます)
(参考)
・ 「入谷 朝顔まつり」(オフィシャルサイト)
・ 「入谷朝顔まつり案内図」
・ 「入谷朝顔市2016年の日程や時間。朝顔の値段はいくら?」(「気になること、知識の泉」)ほか
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※4:「これはもう、召命です」
◎召命(しょうめい) 〔ラ〕vocatio 〔英〕vocation
神から召されて特別の使命を与えられること。
召命は、狭義においては、聖職者や修道者に対して伝われる言葉だが、ここでは、広義において使われている。すなわち、「神の望みとして、その使命を与えられた」ということ。
「召命」についての詳細は、既出の注(>>こちら)などをご覧いただければ幸いです。
(参考)
・ 「召命」(『岩波 キリスト教辞典』、岩波書店、2002-2008)
・ 「召命」(ウィキペディア)
・ 「召命-種々の道」(カトリック召命チーム)
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※5:「上野教会の裏の昭和通りのお店の話、しましたでしょ」
(参考)
・ 「こいつがいるだけでいい」(「福音の村」:2016/6/26説教)
>>説教中盤(上から4段落目>この辺 から)
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※6:「ビリビリっていうお店」
◎ ビリビリ≪美莉美莉/BiriBiri≫
カジュアルなカフェバー。 ブリトー、タコス、ナチョス、チリコンカーン、ワカモーレ、スムージーなどのメニューが揃っていて、持ち帰りもできる。
住所:東京都台東区下谷1-11-17斎藤ビル1F
最寄り駅:日比谷線入谷駅1分、山手線鶯谷駅3分、上野駅7分。*** 上野教会からは5分、300メートル。
(下の画像はクリックすると拡大しますが、別途、>> こちらのBing Map で詳しくご覧いただけます)
(参考)
・ 「ビリビリ~あなたが思うよりカジュアルなバーでありたい」(Facebook)
・ 「ビリビリ~あなたが思うよりカジュアルなバーでありたい」(Pictaram)
・ 「BAR~ビリビリ~」(Twitter)
・・・< 文中へ戻る >
※7:「私が『SEKAI NO OWARI』の話をしたときです」
2016年6月12日(日)だった。
(参考)
「もう一度、連れて行って」(「福音の村」:2016/6/12説教)
>>最後の段落>この辺
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※8:「先月、浅草教会の説教でお話しした二人です」
(参考)
・ 「こいつがいるだけでいい」(「福音の村」:2016/6/26説教)
>>最後の段落>この辺
・・・< 文中へ戻る >
※9:「第1朗読」
この日の第1朗読の箇所は、以下のとおり。
申命記30章10~14節
〈小見出し:「モアブで結ばれた契約」28章69節~30章20節から抜粋〉
・・・< 文中へ戻る >
※10:「モーセだってね、神さまから選ばれたときに・・・」
「モーセが神さまから選ばれたとき」のことは、出エジプト記3章1節~4章17節までに書かれている。小見出しは、出エジプト記3章「モーセの召命」、4章1~17節「使命に伴うしるし」。
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【モーセの召命のあらすじ】
神はモーセに声をかけ、エジプトで苦しむ神の民を救い出すという使命を与えられた。しかし、モーセはことごとく抵抗する。
「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」(出3:11)
「彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(出3:13)
「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう。」(出4:1)
「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕(しもべ)にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」 (出4:10)
その都度、神はモーセを説得したが、モーセがそれでも、
「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」(出4:13) と言うに至って、
神は、「ごちゃごちゃ言うな。わたしが選んだ。わたしが遣わす」というように、「怒りを発して」 (出4:14) 使命を受けるよう促された。
・・・< 文中へ戻る >
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