2013年3月3日 四旬節第3主日
・第1朗読:出エジプト記(出エジプト3-1-8a,13-15)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・1-6,10-12)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ13・1-9)
【晴佐久神父様 説教】
さて、このいちじく、来年は実がなったでしょうか。皆さんはどう思いますか?
以前にも、このいちじくの話をしたこと、覚えてますでしょうか。「晴佐久昌英 作」で、このいちじくのたとえの続編を作ったっていう話。タイトルは、「来年のいちじく」。どんな話かというと・・・。
来年、この主人は、もしもこのいちじくの実がならなかったら、切り倒しちゃうわけですよね。園丁も「来年だめなら切り倒してください」と約束してますし。
ところが、このいちじくは結局、来年も実を実らせませんでした。そこで主人は、
「さあ、やっぱり実らなかったんだから、約束どおり切り倒せ」と、当然そう言う。
すると、園丁がまたも言うんです。
「ご主人さま、も〜〜う1年だけっ! どうか待ってください。お願いいたします!」とひれ伏して、地面に頭擦りつけてお願いするんですよ。
「もう1年、もう1年だけ待ってください。もしも、それでもだめなら切り倒してください。今度こそ、今度こそ本当に切り倒しても構いません。この1年の間に、もっといい肥やしをやって、何とか育ててみます。来年は必ず、実をつけますから。どうかそれを信じて、お願いいたします!」と園丁は頼む。すると主人はしぶしぶ、「う~ん・・・そこまで言うなら、じゃあ、今度という今度は、絶対に今度だけだぞ」と、そう言って許してくれましたっていう話。
ところが、これにはまた続編があって、タイトルは「再来年のいちじく」。(笑)
神さま、イエスさまは、ホントに私たちを忍耐強く優しく見守っていて、肥やしをやって育ててくれていて、いつの日かちゃんと実が実るときまで責任持ってくれていて、必ず私たちに実を実らせてくださるんだという、これはそういうたとえじゃないですかねえ。
まあ、オリジナルのたとえでは「あと1年。それでもだめなら切り倒してください」って言ってますけれど、それはまあ、それくらい言わないとハッとして神の愛に気づけないっていうのもあるからね、そういう意味で、目覚めの効果を狙って厳しく言ってるんでしょう。だって、じゃあ来年はホントに切り倒すかっていったら、そこは神さま、やっぱりゆるしてくれるはずだし、そういう神じゃなければ神じゃないですから。
じゃあ、この「実り」っていうのは、何なのか。何をもって「実り」というのかっていうと、ここはちょっと勘違いする人も多いので、きちんと理解しておいていただきたいんですけど、ヒントは、たとえの前の部分にあるんです。
今日の福音の前半部分ですけど、ガリラヤ人たちが異邦人であるローマ兵に殺されちゃったんでしょうねえ。しかも神殿で。ユダヤは、当時はローマの属国でしたから、ローマ軍、やりたい放題なんですよ。ともかくガリラヤ人、ユダヤ人たち、ひどい目に会って、ホントにつらい現実を耐えて生きていたわけです。今でもありますよね、アラブの諸国で踏みにじられている人たちとか、強大な国に踏みつぶされて悲惨な目にあっている人たち。ホントに理不尽な苦しみにあってる人たちが確かにいる。
このガリラヤ人たちも、ローマ軍に、たぶん非常に理不尽な殺され方をしたんだと思うんですけど、そんなときに、当時はみんなこう思ったわけですね。「こんなひどい死に方をするのは、よほど罪深かったからじゃないか」。
あるいはこの「シロアムの塔が倒れて18人死んだ」っていう、これも当時、大きな事件だったんでしょう。今でもあります。ひどく残酷な最後を遂げる人たち。
今でも、災害なんかの犠牲者のニュースがいっぱい流れますけれども、当時はそれを聞いた人は、普通にこう思ってたわけですよ。「そんな最後を遂げるのは、これはその人たちがよほど罪深かったんじゃないか。それに比べれば、われわれはそこまで罪深くないから、そんな死に方はしないだろう」。
しかし、そうじゃない。罪深いから裁かれて滅びるわけじゃないし、ひどい死に方をするのは神が罰を与えたからじゃない。むしろ、回心(開心)して、罪人をゆるしてくださる神の愛を受け入れることが救いであり、裁きの神や罰を下す神などを信じていること自体が滅びだと、イエスさまは、そう言いたくて、このたとえを話してるんじゃないですか。
私たち、確かに罪深いし、それは、「誰それは非常に罪深くて、私はそれほどでもない」とかっていう話じゃない。罪深いっていうんなら、みんな罪深い。その罪深い私たちを、神は必ず救ってくださるという、その信仰が「実り」なんです。・・・お分かりになりますか?
「がんばって回心して、罪深くなくなったら神が救ってくださるよ」っていう話は、福音じゃない。でも「罪深くなくなって、立派に生きて救われました」っていうのが「実り」だって、そうみんな思ってたんです、当時は。
それに対して「そうじゃないだろう」ってイエスは言いたい。「みんな罪を抱えながら、精いっぱい頑張って生きてるじゃないか。あの、塔につぶされた18人だって、それなりに誠実に生きてたはずだぞ。罪深いっていうんだったら、お前たちだってみんな罪深いじゃないか。そんな罪深い私たちを、愛して、救って、罪の傷を癒やしてくださる天の父の愛をこそ、信じなさい。それが『実り』だ。そこが実るまでは、神さまが忍耐強く、ちゃんと育ててくれるはずだ」と。・・・ぼくらはそれを信じます。
皆さんは、自分のことを罪深いって思ってますか? 四旬節は自分の罪を見つめるときですし、どんどん見つめてください。来週なんか、共同回心式ですしね、ゆるしの秘跡やりますから、ぜひ、行列して来てくださいよ。ゆるしの秘跡を受けなかった人は、「私には、罪はありません」と表明している、ということでよろしいですね?(笑)皆さん、ぜひ、自分は罪深いって思ってくださいよ。思っていただきたいんですが、それ以上にもっと思ってほしいのは、神がその罪を赦してくれている、という事実です。その神の愛に涙して感謝するっていうことですよ。それが「実り」です。
この罪深い私を、神さまがそこまで愛してくれている。「もうちょっとましになろう」とかいう努力も、そこから湧いてくるわけですけれど、でもまあ、どんなに努力しても、完全っていうことはない。罪深い私たちは、ホントにお互いの罪を受け入れ合って、ゆるし合って、自分の罪もちゃんと認めたうえで、すべてを神さまがゆるして、癒やして、受け入れてくださるということに、涙流すんです。
「ありがたい、ありがたい! こんな私を天の父は受け入れてくださる。そして永遠の命にまで導き入れてくださる。ああ、ありたがたい、ありがたい!」っていう、これが「実り」でしょうね。
今、いろんな所でこういう福音を語って回っておりますけれども、先週は福島に2回行って、昨日は福岡に行ってお話をしてまいりました。福岡なんか、日帰りですよ。よく働くよ、この神父は。(笑)・・・でも、行けば喜んでくれるし、疲れ吹っ飛ぶんですよね。やっぱり福音、「自分の罪はゆるされてる」っていう喜びの知らせは、人を生かしますよ。
福島は中高の学校の卒業講演でね、全校生徒とご両親たちにお話しました。「み〜んな、救われるんだ。だいじょうぶだ。あなたたちは、本当に神さまに愛されてるんだ」っていう福音です。
「6年間ここで勉強して、卒業していくにあたって、ここで学んだことはたくさんあるかもしれないけど、これだけは絶対忘れるな。あなたがどれほどつらい思いをしても、どれほど罪深かったとしても、あなたは必ず神さまに救われる。すべてゆるされる。あなたは神の子なんだから。・・・これだけは忘れるな!」っていうお話をしてまいりました。
これはやっぱり「福音」でしょう。だって、卒業してから、きっとつらいことありますよ。理不尽な目にも遭いますでしょう。ひどい罪を犯して苦しむかもしれない。当たり前のことですよね。それでも、これほどにひどいことしちゃっても、これほどにひどいことされちゃっても、神は私を愛してる、私は必ず救われるって信じられたら、それはすごい「実り」ですよ。まさに、それを神は望んでおられるわけでしょ?
講演会の後で校長室でお弁当食べてたら、先生が一人の生徒連れて来てね、「この生徒がどうしても『神父さまに会いたい!』って言ってるんです」って言うんですよ。
で、会ったんですけど、その子が黙ってて、しゃべらないんです。じ〜っと立ってて、なんだか目を潤ませて。そしてひと言、「・・・握手してくださいっ!」って。(笑)
「ああ、いいですよ」って、握手しました。「あなたと握手して、こっちも励まされるよ。うちの教会じゃ、誰も『握手してください』なんて言ってくれませんよ」(大笑)って。
握手したらホッとした顔して校長室出て行きましたけど、きっと何かつらいこと、抱えてるんでしょうね。だからうれしかったんでしょうね。福音に救われたんじゃないですか? 校長先生もニコニコ見守ってましたけど。
昨日の福岡のお話のタイトルは「痛みを抱えてる人たちへ」っていうタイトルなんです。
これ、向こうが決めたタイトルで、つまり、痛みを抱えてる人たちに何か話してほしいっていうんでしょうね。
会場には大勢集まっていて、こういうタイトルで集まってくる人たちっていうのは、どういう人たちだろう、苦しんでる人も多いんだろうなって思うと、胸がギュッといたしましたけれど、精いっぱい福音を語りましたよ。
ちょうど今週発売される『カトリック生活』っていう雑誌の4月号に、文章を書いたとこですけれど、そのタイトルが「大切な人を失ったあなたへ」っていうタイトルで、そのことも含めてお話いたしました。
まあ、痛みにはいろんな痛みがありますけども、「大切な人を失った」っていう痛みはやっぱり大きいです。「その痛み、神さまが知ってるよ」と、そして、「その痛みを背負っているあなたにふさわしい福音を、必ず伝えてくださるよ」と、「今日がその日でもあるんだよ」というお話を、福岡でしてまいりました。
以前、電話で相談してきた方の話 (注)をここでしましたけど、「最近の教会は、固い、暗い、冷たい」って言った方の話しましたでしょ? 会場にその方が来てたんですよ。「私が、あの電話をした者です」って。
福岡の人だったんですね。「教会は固い、暗い、冷たい」って電話してきた。その直後に「今そんな電話あったよ」って「おやつの会」のメンバーに言ったら、そこにいた人で「うちの教会はそれに『怖い』が加わる」って言った人がいた。(笑)
固くて暗くて冷たかったら、そして怖かったら、それはもはや教会じゃないでしょう。それこそ「大切な人を失って、もう私は生きていくことすらできない」って思っているような痛みを背負っている人を、柔らかく、明るく、あったかく、安心できるように迎え入れる現場を「教会」って呼ぶんじゃないか。それをイエスがなさったし、神はそういう実りをこそ実らせたいんだから、「まずは福音を聞き、福音を語りましょう」ってことじゃないですか?
福岡では「大切な人を失ったあなたに」っていうのにちょうどいい例だと思ったから、三日前のエピソードをお話しました。
多摩教会に、先週から何度も相談の電話をかけてきた人がいて、受付係がそのことをメモで渡してくれるんですけど、最初のときはちょうどいなかったし、次のときはミーティング中みたいな感じで、なかなかつながらなかったんですよ。それで先日、こちらから電話をしたんですね。ただ3、40分しか、そのとき時間がなかったんで、それでもかけないよりいいだろうと思ってかけました。
その方のお話は、こういうお話でしたよ。すでに受付の方もていねいに聞いてくださっていて、対応してくれてありがとうございます。すごくつらい思いをしている方なんです。
お父さまが重い認知症で、介護が必要な大変な状況で、お母さまがそのお父さまのケアをして一生懸命お世話をしてたんだけれども、力尽きて、自死なさったっていうんです。まあ、病気のせいもあって、このお父さまが、介護する奥さまに対して非常にきつい言葉を言ったりするのがまた、すごくつらかったようです。そういう状況の中で、こんどは娘さんが自責の念で非常に苦しまれている。
「私がもっとお母さんのことをわかってあげれば、もっとちゃんと手伝ってあげれば、何とかできたんじゃないか。こんな自分がゆるせない。こんな自分は、本当に生きていていいんだろうか・・・」
そのことがあったのは去年の春みたいですけど、それからずうっと苦しんでいる。そういうご相談でした。・・・ずっと苦しんでいる。
で、私、そういう思いをしている人、たくさんいるでしょうし、ちょうどそういう文章を書いたところですから、福音をお話ししました。
で、私がまずその彼女にお答えしたことで、一番大切なメッセージ、それは「あなたは悪くない」です。
「あなたは何も悪くない。そしてお母さまも悪くない。何ひとつ悪くない。お父さまも、もちろん悪くない。お病気です。何にも悪くない。あなたのご家族は、みんな何ひとつ悪くないんです。神さまはご家族を愛しておられますし、祝福されているし、あなたは、この試練と思える出来事の中で、神さまによってちゃんと救われていますよ」と、それをまずはっきりと申し上げました。
「あなたは全然悪くない。確かに、もっとこうすればよかったとか、ああすればこうなったんじゃないかとか、いろんなことを私たち、思います。そして、そうもしたらいいかもしれない。でも、問題はですよ、本当の意味で救うのは、神だということ。どれほどひどい状況と思われても、どれほどつらい事実であったとしても、神はそれを救えるし、事実救ってくださっている。神におできにならないことはありません。あなたが精いっぱいやったことを神さまは知っているし、その後どれほど苦しんでいるかも知っています。そして、そんなあなたに、『あなたは悪くない』って言ってくださってます」
お母さまのことも、こうお話しました。
「お母さまも、何一つ悪くありません。警察は自殺だと言い、お医者さまも自殺だと言い、あなたも自殺だと思っているかもしれないけれども、最後の最後、神さまとそのお母さまとの間で何が起こったかは、これは誰にもわからない。でも、私たちは信じることができる。神は愛だから、それほどに苦しんで、『もう無理です!』と言っているわが子に、親心で『もういいよ』って言ってくれたんじゃないですか? そこまで苦しんだ人を罪と定めて裁くはずがない。むしろ、神さまだけがご存じの方法で、救い上げてくださったんじゃないですか。神さまって、愛の塊みたいな方でしょ? お母さまは神さまに祝福されて召されたんです。誰も悪くない。そうしてお母さまは、今、あなたに『あなたも悪くないのよ。苦しまないでいいの。私がちゃんと守っているわよ』と、そう言ってくださっています。キリスト教は、主イエスの十字架は復活につながるという宗教です。お母さまも、イエスさまと共に十字架を背負ったんじゃないですか? あなたも今、十字架を背負ってるんじゃないですか? お父さまも十字架を背負ってるんでしょう? その十字架は、復活につながるものなんです。それを信じましょう。だいじょうぶ。お母さまと、また会うこともできます。そうして、本当に、神さまがどれほど愛であったかということを目の当たりにする日が、必ず来ますよ」
その方、それを聞いて、ホントにあの、涙こぼして安心してくださいましたよ。電話口で、「そうですか。そうなんですか、そうだったんですか・・・!」と、繰り返し、繰り返し、おっしゃっておられました。
これは福音じゃあないですか? 「もう今年で終わりだ。切り倒せ」みたいな話、それじゃあもう、誰も救われない。そう言い続け、人を恐れで縛る悪の力にですね、イエスが十字架をもって立ち向かって、復活の栄光を実現させてくれたっていうのが、私たちの信仰でしょ? ・・・私たちは、神の愛だけを信じるんです。
特に洗礼志願者は、信じてください。これからも、いろんな試練は確かにありますよ。理不尽な目にも遭うかもしれない。それでも皆さんは、「神は愛だ」と信じます。皆さんは洗礼によって「キリストと共に死ぬ」んです。それは、「キリストと共に生きる」っていうことと、まったく同じことです。
それでは、洗礼志願者のためのお祈りをいたしますので、洗礼志願者は、その場にお立ちください。
( 注 )「 電話で相談してきた方の話 」
「福音の村」:2013年1月6日:主の公現「さあ、スタートです」の説教終わり近くを参照
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