浮世を離れていく練習

2012年2月26日 四旬節第1主日
・第1朗読:創世記(創世記9・8-15)
・第2朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ3・18-22)
・福音朗読:マルコによる福音書(マルコ1・12-15)

【晴佐久神父様 説教】

 いよいよ四旬節第1主日、これより洗礼志願式を行います。今日、私たちカトリック多摩教会は、29名の洗礼志願者を迎えました。こうして志願者の皆さんを前にすると、一人ひとりと最初に出会った時のことを思い出しますし、よくぞこの志願式まで神さまが導いてくださったと、皆さん一人ひとりのことを心から喜びたい。よくぞここまで神さまが、闇の中からこの喜びの光の中へと導いてくださったと、感謝と賛美を捧げたい。
 もうすぐ皆さんは、洗礼の秘跡において、肉なるものを超えて霊なる世界へと生まれて行くのです。これから四旬節のひと月半の間、その準備をいたします。肉なるものは弱い。やがて死に至る。だから、肉なるものをどれだけ見つめていても、私たちに希望はなく、肉の弱さの中で、恐れたり迷ったりするばかりです。しかし、霊なるものは、完全で永遠。そこにこそ、希望があります。もうすぐ迎える洗礼式は、皆さんを今まで、捕らえてきた、苦しめてきた、恐れさせてきた肉なるものから解放されて、霊なる世界へ生まれ出ていく喜びの時。このひと月半の間、その準備をいたします。
 もちろん、肉なるものを全く離れて生きることはできません。体は弱いし、心は汚れているし、そんなのは誰でもそうです。皆さんもそう、私もそう。しかし、神さまが、その私たちの内に、聖なる霊を与えてくだる。こんなにも汚れた、滅びていく肉の中に、聖なる霊、永遠なる命をちゃんと与えてくださる。洗礼式は、その恵みに目覚めてそこから出発する、最高の恵みのとき。皆さんが生まれてきたのは、まさにこの洗礼志願式のためであり、復活祭の洗礼式のためなのです。よくぞここまでいらっしゃいましたと、皆さん一人ひとりにお喜び申し上げたい。

 肉なるものは弱いので、私も皆さんも、みんな肉なるわが身を抱えて苦しんでおります。寒くなれば風邪もひくし、だんだん年をとれば、あちこち弱ってくる。30年ぶりの寒波というローマから帰って来て、私はどうも風邪をひいたみたいです。・・・と、思ってたんですよ。鼻水が出る、夜中にくしゃみがクシュン、クシュンと出る。朝起きたら目が真っ赤になってる。ところが、入門講座で「どうも風邪ひいたみたいだ」と言ったら、「神父さま、それ花粉症です」(笑)って言うんですよ。花粉症になんかなったことないし、なったことない人は、「自分だけはならない」って思ってますから(笑)、「いや、ただの風邪でしょう」って言っても、「いやいやいや、それはもう典型的な花粉症の症状だ」と言われて。すぐにある人が「ちょっと待っててください」って薬屋さんに飛んでって、花粉症の薬買ってきて、「いいからこれ、お飲みください」って言われまして、「え〜、効くの〜? 風邪薬の方がいいんじゃないの?」・・・と思いましたけど、まあでもせっかくだからと飲んだら、ぴったり鼻水治まりました。(笑)「これ差してください」っていう目薬を差したら、赤い目もきれいになって・・・。でも、どうなんですか? これ。花粉症なんですか?(笑)みんな頷いてますけど。花粉症って、突然なるらしいですからねぇ。
 そのとき、「自分は、花粉症になんかならないと思ってた」って言ったら、ある方が「神父さま、・・・年なんですよ」(笑)と、そう言う。なるほど、おっしゃるとおり。おっしゃるとおりですが、私、意地っ張りなんで、それならそれで、マイナスのこととしては、受け止めたくないわけです。「年なんですよ」って言われると、「そうか。それじゃあ、何か素晴らしいことが始まるんだ」というふうに受け取りたい。だって、結局は老いも死も、すべて神のみ手の内ですからね。神がそうなさっていることが、ただ悪いことだけであるはずがない。
 そういうところ、意地っ張りなんですよ。「あ〜、そうかぁ。もう年取っちゃったか。若い頃は良かったなぁ」なんて後ろ向きに考えるの、悔しいじゃないですか。むしろ、若いやつから「もう年なんですよ」などと言われたら、「ふふふ、若いもんにはわかるまい。(笑)この世のことを少しずつ手放していく私の方が、神に近いのだぞ。この世で元気なようじゃ、まだまだだね、君は」。(笑)とまあ、そう言いたいわけです。年を取ったおかげで、神さまが身近になってきたし、いっそう霊的になってきたと、なにかそういうふうに思いたいし、実際にそうなんじゃないですか?

 たとえば、この朗読台に置いてある、これは老眼鏡ですけれども、皆さんも年を取ると目がかすんできますでしょ。次第に、細かいところがはっきり見えなくなる。でも、それにはちゃんとわけがあるんです。見えなくなるということにも意味がある。どういう意味かというならば、「もう、この世のものはそんなにムキになって見るほどのものじゃないですよ」と、神さまからそう言われてるんじゃないか。
 若いころから、クッキリハッキリ、いっぱいいろんなもの見てきたけれども、ではいったい、何を見てきたのか。何を読んできたのか。どんな現実を見てきたのか。それを見て、どのような信仰を育ててきたのか。問われるのはその信仰でしょう。どれほどよく見えても、見えるものの向こうの「見えない世界」を信じる信仰につながらないなら、それは何も見ていないのに等しい。
 年を取ってきたら、もはやこの肉なる目で、肉なるものをムキになって必死に見る必要はない。この世のものなんか、だいたい見ときゃいい。本当に見るべきは、天の栄光でしょう。そしてそれは、この肉なる目で見るものじゃない。霊の力で、魂の目で見るものですよ。でも、この世のものばかりクッキリハッキリ一生懸命見てたら、そんな魂の目が育たないでしょう?
 だから、だんだんこうして 目がかすんでくるっていうのは、すごくいいことなんだ、と。もう、この低次元なこの世のものを・・・低次元って言っちゃ失礼か。神さまがお造りになった世界だから、それなりに素晴らしい世界なんだけれども、それでも天の栄光に比べたら、非常に低い次元ですよね。そんなに必死になってクッキリハッキリ見る必要はない。むしろ、心の目で、クッキリハッキリ天の栄光を見る、そのような恵みのときを迎えてるんだ。
 そう思えるならば、若い子に「あれ、神父さま、老眼鏡? 年ですね〜♪」なんて言われても、「おやおや、まだこの世のものなんかがクッキリハッキリ見えるの? カワイソウにねぇ♪」(笑)と言い返したい。ま、負けず嫌いというか、意地っ張りなんで。でも、これ、本当にそういうことなんじゃないですか?
 だんだん足腰弱くなって、歩き回れなくなりましたっていう方もおられるでしょうが、もういいんですよ、この世は。もはや、そんなにムキになって歩き回るほどの所じゃない。真に行くべきところは、この世の足で行けるところではないんだから。「大変ですね」なんて同情されたら、「いえいえ、そちらこそ、ま〜だこの世なんかをウロウロしてるんですか?」って、言い返したいのです。
 昨日は宇都宮で講演会してきましたけど、最初の打ち合わせで「神父さま、トイレが近い人もいますし、途中でお休み時間入れてください」とか、そんなような話になって、だから私、講演の最初に、「講演の間は、いつでも席を立ってお手洗いに行って、いつでも戻ってきていい講演会にしましょう」と申し上げたら、みんなすごく喜んでくれてね、実際、皆さん結構頻繁に出入りしてました。(笑)ついでに、「実は、私も最近近いんで、(笑)講演中にちょっと中座するかもしれません」なんて言ったりして、なんかリラックスした感じの講演会になって良かったんですけど。その時、私、言ったんですよ。「トイレが近くなったら、神の国も近い」。(笑)

 そういうことじゃないですか? 肉なるものは、滅びるんです。天地は過ぎ去るんです。しかし、「わたしの言葉は決して滅びない」。イエスさまがそうおっしゃった、その福音だけを聞いて、信じて、そのイエスさまのお顔だけを仰ぎ見ていれば、私たちはもう、見るべきものを見て、聞くべきものを聞いて、そして行くべき所へ歩んで行っていることになるんです。
 もう、そろそろね、この浮世を離れていく練習を始めましょう。特に、洗礼志願者は、もうすぐ来る洗礼式で、この肉なる世界を離れて、霊なる世界に生まれていくんですよ。もちろん、この肉体はまだ抱えたままですけれども、確かに霊なる世界が始まるのです。
 さっき、第2朗読のペトロの手紙でも言われてましたでしょ。・・・と言って老眼鏡を掛ける。(笑)
 「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました・・・あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(一ペト3:18)
 こう書いてある。これが私たちにも起こるんですよ。
 「肉は死ぬが、霊は生きる」。まさに、キリスト教の本質です。この現代社会、人間の脳みそで考えたことが何より大事だっていうふうにみんな信じ込んでいる、いわば全員「脳みそ教」に入ってるかのようなこの時代にあって、われわれは、この肉なる世界は全部死んじゃうんだから、霊において生きるものとなろうと。イエス・キリストが、死を超えて生きるものとなったように、われわれも「死」という肉なる幻を超えて、「永遠の命」という霊なる現実の世界に生まれていく。主と共に。洗礼式とは、そんな新たな誕生の祝いなのです。
 第1朗読では「創世記」が読まれましたけれども、ノアの洪水のところが出てきました。洪水の後、神は宣言なさいました。「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない。決してない」「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と。つまり、天地をつなぐ虹が、もう二度とあなたたちを滅ぼしたりしない、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない、という約束のしるしだと、神は言うのです。
 で、それが「使徒ペトロの手紙」では、「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなた方をも救うのです」と言われている。しかも、「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」。この「正しい良心」こそイエス・キリストそのお方ですから、つまり、私たちが受ける洗礼は復活の主とひとつになることであり、洪水から救われた人々のように、洗礼によって、すべての罪と悪と苦しみから救われて、肉なるものが霊なるものとなり、滅びることのない永遠の命を生きることになる、そういう約束なんだ、と。

 皆さん、あとひと月半後に、洗礼を受けますけれども、洗礼を受けたら、もう二度と滅ぼされないんですよ。嬉しいじゃないですか。しかもこれは、神の約束だっていう。この世の約束と違うんです。神が約束を破ることはあり得ない。もちろんこの世にある限りは肉なるものを抱えているわれわれは、肉なる弱さに苦しみますし、「そうは言っても私はだめなんじゃないか」とか「結局はやっぱり滅びるんじゃないか」とか、いろんな心配をしますけれども、そんなあなたの心配よりも、神さまの約束の方が格上です。心配だからこそ、私たちは洗礼を受けるんです。洗礼という、神さまとの素晴らしい約束の内に入ることで、私たちの中に、永遠の命が始まり、もうそこから先、二度と私たちは滅ぼされることがない。
 洪水といえば、温暖化とか津波のこととかいろいろ思い起こしますけれども、この約束を信じないで肉なるものだけを信じていては、そこには恐れしかなくなります。永遠の命という教会の箱舟に、洗礼の箱舟にちゃんと乗っかって、滅ぼされることのない、永遠なる神の国に向かって、一緒に航海してまいりましょう。

 四旬節のこのひと月半は、そのような準備のときです。この期間、全世界の教会が洗礼志願者のために祈り続けます。カトリック教会では、今日から復活祭までの四旬節のミサは、洗礼志願者のために捧げられます。すべての教会が皆さんのために祈り続けています。まさに大船に乗った気持ちで、教会の祈りの箱舟に乗って、洗礼式という、あなたが本当に誕生する喜びのときを迎えましょう。
 苦しみは、確かにあります。しかしその苦しみが、栄光の世界にたどり着く道であるということを、私たちは知っています。だから、肉なるものが苦しんでも、この苦しみはやがて終わるんだ。永遠なるものじゃない。そのことを知っていただきたい。しかし、その肉なるものに霊なるものが宿る。その霊は、永遠。霊における喜びは、永遠です。そのことを知っていただきたい。
 どうですか、皆さん。やがて終わる肉なる苦しみと、決して終わりのない霊なる喜びと、どっちが格上だと思いますか。どっちが大事だと思いますか。やがて終わる肉なる苦しみのことを恐れてはいけません。それはむしろ、永遠なる霊の喜びへの道なのです。まあ、肉なるものが苦しみ始めたら、霊なる喜びが近いと思ったらいい。神の国が近づいている。それが、洗礼によって新たに生まれた者の、確信。

 先週、ヨハネ・パウロ2世の晩年の話をしました。パーキンソン病でとっても苦しんで、体も不自由になり、それでも人前になんとか出ていって、なんとか福音を語ろうと必死になっておられたこと。そのお姿は、私も映像で見たりして感動いたしますけれども、そんなお姿を見かねた側近がですね、「教皇さま、もう引退なさって、お休みになったらどうですか」と、そう申し上げたそうです。まあ、あの頃はジャーナリズムもね、もう教皇としての務めを果たせないような教皇は引退して、若くて元気で現代的な教皇に代えた方がいいんじゃないかと、そういうことを言ってましたよ。あのころ、よくそんな風に言われてたのを思い出します。確かに、最後の数年は、もう本当にパパさま、おつらい様子だった。仕事の効率という意味では、確かに何もできないに等しかった。しかし、「もう引退なさって、お休みになったらどうですか」って言われた時、ヨハネ・パウロ2世は、こうお答えになりました。
 「イエス・キリストは、十字架を降りられただろうか」
 あの教皇さまにとっては、自らの背負っているその苦しみは、キリストと共にする苦しみであり、永遠なる霊の世界に生まれていくための恩寵の苦しみだったんです。そこから降りるなんて、彼には考えられなかったことでしょう。
 ヨハネ・パウロ2世教皇さまのお墓参りから帰って来て、こうして洗礼志願式で皆さんのお顔を見ていると、十字架から復活へというキリスト教の信仰の核心を、皆さんに伝えられることが、本当に大きな喜びです。洗礼は死から命への飛躍です。この洗礼志願式が皆さんにとって、生涯忘れられない新しい一歩のひとときでありますようにと祈りながら、洗礼志願式といたします。

 ただ今から、神さまに選ばれて、この洗礼志願式に臨んでいるお一人お一人のお名前をお呼び致します。名前を呼ばれた方は、返事をして、その場にお立ち下さい。

2012年2月26日 (日)録音/2月29日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英