神さまさんちの子どもとして

2012年6月10日 キリストの聖体
・ 第1朗読:出エジプト記(出エジプト24・3-8)
・ 第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ9・11-15)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ14・12-16、22-26)

【晴佐久神父様 説教】

 待ちに待った初聖体です。5人の子どもたちには本当に、「おめでとう」というか「良かったね」というか「いよいよだね」っていう気持ちで、お祝いを言いたいです。ずいぶんお待たせしましたけれども、ようやく御聖体を今日、皆さんにお渡しすることができます。教会のみんなも本当に、先輩として、すごく喜んでます。
 大人になってから洗礼を受けると、水をかけられてから御聖体をいただくまで、だいたい20分か30分くらい・・です。つまり、「洗礼の秘跡」をいただいてからすぐに「聖体の秘跡」をいただく。この二つはセットなんだけれども、幼児洗礼の子どもたちは7年間待たされる。ちょっと長かったですね。でも、「ホントにこれがイエスさまの体だ」「神さまの愛そのものだ」「これを食べて神さまを信じていればもうだいじょうぶ」っていうお勉強をしてから御聖体をいただくということで、7年間待ちました。幼稚園生の頃は「あのパン食べたいな~」って思ったり、いろいろだったでしょうけど、皆さんはこれまでしっかりお勉強をしたので、今日はいよいよ、そのパンをいただきます。
 おいしいですよ~♪(笑) そのおいしさを、大人たちはもうよく知ってます。それは単に舌で味わうおいしさじゃない。心で味わうおいしさ。自分の人生全体で味わうおいしさ。こんなおいしいものを食べて、こんなに幸せになりましたっていう、そういうおいしさ。
 先輩たちはみんなすごく喜んでいます。今年からは特別に、教会全体でお祝いしましょうって言って、信徒館ホールに素晴らしいパーティーも用意してありますよ。みんなみんな、うれしいうれしい初聖体。なんか、さっきから、天使たちもお祝いに集まってきて、あたりを飛び回っているようで、このマイクの音がブブッ、ブブッて鳴ってますけど、(笑) きっと神さまも、ホントに喜んでおられますよ。何といったって、神さまにとっては皆さんは自分の子どもなんだから。今日、皆さんのお父さん、お母さんがホントに嬉しそうにしていてね、「ついにうちの子どもが神さまの体をいただくんだ」ってニコニコしているけれども、考えてみたら、一番本当のお父さん、お母さんは神さまだから、初聖体を一番喜んでるのは神さまでしょうね~。きっと「うれしい、うれしい」って言って、皆さんのことをニコニコ見守ってくれてると思いますよ。

 先週、銀座で、おもしろい人たちの集まりに呼ばれて行ったんです。世の中をもっとすてきにしようって、自由にいろんな工夫をしているおもしろい人たちの集まりでした。たぶんわたしも「世の中をもっとすてきにしようって、自由に工夫しているおもしろい人」なんですね、きっと。(笑) 行ったら、ホントにおもしろい人たちが集まっていて。
 中には産婦人科のお医者さまもいて、その方は「胎内記憶」っていうことを研究している方で、そういう本も書いているんですけど、おもしろいお話をしてくれました。要するに「子どもたちはお母さんのおなかの中にいる時のことを、ちゃんと深いところで覚えている」っていう研究なんですね。お母さんのおなかにいる間に、ちゃんともう周囲の声を聞いているし、いろんな体験をしていて、そのことを覚えているんですって。まあ、生まれてからは忘れていっちゃうんでしょうけど、でも深いところには残ってるんでしょう。
 まあ、当たり前っていえば当たり前です。おなかの中だって、立派な人間なわけだし、脳みそもちゃんとあるわけで、いろんなことを経験している。その先生が言うには、生まれてからお母さんが抱くと、赤ちゃんは泣かないでうれしそうにしてるけど、お父さんが抱くと、泣くことが多い。なぜかっていうと、生まれる前にお母さんはおなかの子どもにいっぱい話しかけてるから、赤ちゃんはそれを聞いてよく覚えてるんですって。だから、生まれてからお母さんの声を聞くと、「ああ、あの声だ、これがお母さんだ」ってすぐに分かって安心する。でも、お父さんは忙しくって家に帰ってこないし、おなかの子どもに話しかけるなんてめったにしないから、生まれてきてから急に「お~、かわいいね~、いい子だね~」なんて言われてもね、「誰、あんた」って感じに(笑) ・・・なるらしいですよ。
 ですから、皆さん、これからっていう方はね、ぜひお父さんも、しょっちゅう、「いい子だね~、かわいいね~、大好きだよ~♪ 元気に生まれておいで」って大きな声をかけていれば、生まれてきてからその声聞いて、「ああ、この声だ」って分かって、安心して、泣いたりしない。・・・そんな話を聞いて、今までも胎教の素晴らしさをお話ししてきた者としても、改めて確信できて、嬉しかった。
 で、その話聞きながらふと思ったんです。赤ちゃんは生まれる前、お母さんのおなかの中にいるわけですけれども、じゃあその前はといったら、神さまのところにいるわけですよね。私たちはみんな、神さまのところから、神さまの愛によって、この世界に生まれてくるんだから。
 だから、キリスト教ではこんな言い方もします。・・・神さまが、かわいいかわいい自分の子どもを、「さあ、この親に授けよう」「この家にプレゼントしよう」って選んで遣わすんだ、と。「このお父さん、お母さんを助けてあげるためには、この子がどうしても必要」「この家を本当に幸せにするためには、どの子が一番」、神さまはそう思って、子どもたちをその家に遣わす。・・・ってことは、生まれる前はお母さんの声を聞いてたかもしれないけど、さらにそのまた前は、神さまのところで、神さまのお声を聞いてたんですよ。
 つまり、私たちは、初めから神さまのことをもう、深いところで分かってるんです。生れてからだんだん勉強して「へ~、神さまってそんなお方なんだ」っていうんじゃなくって、もう最初っから、お母さんのおなかに宿る前から、神さまの香りをかいで、神さまのお声を聞いて、神さまのあったかさをちゃんと知っている。だから、こうして教会に来て、初めてミサに出た人がポロポロ涙こぼしたなんていうのは、・・・そういうこと現にありましたよねえ、この前洗礼受けた方、一番最初にこの教会に来たとき、来るなり「ああ、ここだ!」って分かってホントに嬉しくって、それから通い始めたっていう方の話がありましたけど、それは当たり前だってことですね。ここは神さまのおうち、「神さまさんち」だから。
 神さまさんちに入ったり、そこで神さまのお声を聞いたり、神さまの命を頂いたりしたら、それはもともと体験していたことだから、一番安心なことなんです。「ああ、やっぱりここだった」「ここしかないんだ」・・・そんな気持ちになる。これはまあ当たり前のことなんだなと、そのお医者さまの話を聞いて思いました。
 ぼくらは、突然何もないとこからポッとこの世界に現れたわけじゃありません。もともと、神さまのところで神さまに愛されて存在していて、そして特別な神さまの思いの中で、この世界という現実の中に遣わされたんです。
 だから、今日これから頂く御聖体は、自分が本当に「神さまさんち」の子どもであるっていうことを深く味わう大きな恵みであって、もう、この御聖体をいただいたら、この神さまさんちから絶対離れないっていう、そういう気持ちで、食べてくださいね。君たちは、神さまさんちの子どもたちなんだから。イエスさまが、そういう神さまさんちをおつくりになったんだから。イエスさまが、神さまの愛をちゃんと聴いて、神さまの命をちゃんと食べるお家をつくろうと思って、教会をお始めになったんだから。

 今日読んだとこは、その教会の始めの始めですよね、いうなれば。イエスさま、「それからオリーブ山に出かけた」って最後1行読みましたけれど、そのオリーブ山で捕まって、次の日は殺されちゃうんですよ。これ、殺される前の晩のお話です。イエスさまはみ~んなのために命を捧げる十字架に向かう前の日に、み~んなのために、特別のお部屋を用意してくれました。・・・「特別のお部屋」。イエスさまのさっきの言い方だと、「わたしの部屋はどこかと尋ねなさい」(cf.マルコ14:14)と言ってますでしょ。「わたしの(・ ・ ・ ・)部屋」・・・イエスさまのお部屋。
 エルサレムに巡礼に行くと、「ここが最後の晩餐のお部屋だ」っていう所があるんですよ。この前巡礼に行った時、初めてその部屋に案内されて、まあちょっとビックリしたというか、「まだ残ってるの?」「ホントにここ?」・・・ってこう、いろいろな思いがあったわけですけど、エルサレムの城壁からちょっと入った所にあるんです。ここが最後の晩餐の部屋ですってとこ。私、ちょっとドキドキしましたよ。まあ、ガイドの人はね、いつものことですから、エルサレムを順番に案内しながらいとも簡単に「ハイッ、こちらが最後の晩餐の部屋です」とかって言うけれど、こっちは「ええ、ちょっと待って、待って!」っていう気持ちでした。確かに、2階の広間なんですよ、石造りのね。・・・書いてあるとおりですね、2階の広間。でも、ここがホントにそうなのかどうかってわからず、不思議な気持ちで通り過ぎました。
 で、考えてみたら、そこがそうであろうと、どうであろうと、もうそんなことは関係ないんです。だってそれは12人のお弟子さんたちと最後の晩餐をした部屋の話なんであって、今や、そのイエスさまの「わたしの部屋」は全世界のどこにでもあって、どこででも、その最後の晩餐の恵み、キリストの体、神さまの命に与ることができるんだから。
 そう言われてみると、この多摩教会の聖堂なんか、すてきですよね。ちゃんと「2階の広間」じゃないですか。1階が駐車場、(笑) 2階の広間。ここは、まさに最後の晩餐、キリストの奉献がまだ続いている「2階の広間」「わたしの(・ ・ ・ ・)部屋」ですよ。
 ミサって、最後の晩餐を何回も何回も繰り返してるんじゃないんですよ。最後の晩餐が続いてるんです。イエスさまが、あの食事をず~っと続けてるんです。イエスさまは今日もパンを裂いて、私たちに与えてくださいます。この聖堂こそ、イエスさまのいう「わたしの部屋」。ここで、私たちはイエスさまのお体を頂きます。
 さっき「イエスさまがパンを裂いて」って読みましたけれど(cf.マルコ14:22)、後で、晴佐久神父さんもパンを裂きますからね。見ててくださいよ、まあるいパンを、パリンって割ります。それは、この最後の晩餐から二千年たっても、今日もイエスさまが「これがわたしの体だ」「これが神の命だ」「これを食べて永遠に生きよ」と、そう言ってパリンって割って与えてくださっているんです。
 もうすぐですね。皆さんにそのパンをお渡しします。それは、イエスさまが今日も、この2階の広間で、ちゃんと神の恵みを与えてくださっているという「現実」です。素晴らしいことです。多摩市聖ヶ丘1の30の2に、ちゃんと「わたしの部屋」があって、イエスさまがご自分の体を与えてくださっている。そうして神さまの愛に直接触れるとき、私たちは思うのです、「ああ、私はやっぱりあそこにいたんだ、神さまのもとに。今も生かされてるんだ、神さまの愛に。そしていつかあそこに帰るんだ、神さまのもとに」。

 おととい、プロテスタントの雑誌の編集長さん、有名な牧師さん、編集者とカメラマンの4人でこの教会にやってきて、「対談」っていうのをやりました。その雑誌で、晴佐久神父さんとその牧師さんの対談を載せるっていうことでやってこられた。
 プロテスタントとカトリックは交流する機会が少ないので、プロテスタントの牧師さんとカトリックの神父が雑誌で対談をするなんて、良い企画だなって、すごくうれしかったです。最近はプロテスタントの人たちの集まりでお話ししたり、牧師先生の集会で講演したりしてきましたし、プロテスタントの信者さんや牧師さんがよくこの教会にも来られますし、こうしてプロテスタントとカトリック、だんだん仲良くなっていって、やがてホントに一つになるんだろうな~って、すごくうれしい気持ちです。
 でも、さすがにちょっと心配してね、「ホントに私なんかとの対談でだいじょうぶですか?」って気を遣ったんですけど、編集長さんがこう言いました、「私、実はカトリックの神父に会うのは今日が初めてです。でも、今回、雑誌をリニューアルして新しいチャレンジをするにあたり、どうしても晴佐久神父さんとの対談を載せたいと思いました。プロテスタントの教会では、今信者が減っているし、元気がなくて危機感があり、このままじゃいけないって心配しています。でも、カトリック多摩教会では信者が増えているし、とっても元気で明るいって聞いたので、それで今日、対談をしに来たんです」。
 確かに、私は神父になって25年間、信者が減る教会っていうのを体験したことがありません。いつも驚くほど信者が増えて、どんどん聖堂が狭くなる体験しかしたことがないので、そういう心配をしたことが一度もないし、だから教会の危機だなんて思ったこともないし、日本の教会はまだ始まってもいないくらいでむしろこれからだって思ってるので、何かヒントになることはお話しできるかもしれないって思いました。
 だから、まあいろんなお話をしたんですけど、あれは対談ってもんじゃないですね。晴佐久神父の講演会ですね。(笑) ほとんど私がしゃべりまくってしまいましたけど、一番話したのは、キリストと一つになってみんなと信頼関係を作ること、その信頼関係の中でこそ言葉が届くっていうこと、キリストと一つになって福音を語り、キリストの口になって、「今、ここで」の救いを宣言すれば人は救われるっていう、ここではいつものお話です。
 でも、尋ねられたんですね、「神父さん、福音を語る、み言葉を宣言するっていうのはよく分かるんですけれど、それがうまく伝わる、ちゃんと実る、その秘訣はどこにあるんでしょうねえ」。そう聞かれたので、私はもうはっきり申し上げた、
 「それはもう、神さまさんちで、ちゃんと御聖体をいただくことでしょう」と。
 「プロテスタントの教会では、キリストのパンをいただく聖餐式をどうやってますか」って聞いたら、「月に1度くらいです」っていうんで、こう申し上げました。
 「それじゃあ、本当に神さまと結ばれる喜びが、味わいにくいんじゃないですか? プロテスタントの皆さんはホントにみ言葉を大事にしてるんだから、あとは、礼拝のたびに聖餐式を大切にして、いつでも神さまの命をいただいて、キリストの体と一つになって、神さまさんちでみんなで食事をしている、そんな喜びに満たされていたら、『ああ、ここがわが家だ』『ここで神さまの愛に触れられる』って、きっとみんな集まって来るんじゃないですか?」
 ・・・さあ、この部分、雑誌に載せるかどうか。(笑) 発行が楽しみです。
 他にもいっぱい話したんですけど、「ここはやっぱり触れなくっちゃ」と思ってお話ししたのは、やっぱり、御聖体のことでした。
 でも、そういえば対談相手の牧師さんが、ふとこう言ったんですよ。
 「そう言われてみると、ちょうど先週、うちは聖餐式だったんだけれども、その間ポロポロ泣いている信者さんがいたんです。それで気になって後で聞いたら、『私、今まで聖餐式に何度も出ていたけれど、今日初めてキリストがご自分を私に渡してくれているのを感じた。今、キリストのお体をホントに食べてるんだっていう気持ちになったら、うれしくてありがたくて涙が出ました』って言ってるのを聞いて、『ああそうか、そういうことなんだ』って私自身も教えられました」。

 イエスさまがご自分の命を、ご自分の愛を、「さあ、わたしを食べろ」と言って渡してくれた。「これをいつまでも食べ続けなさい」と、そう命令された。そして翌日、本当に亡くなった。それは、私たちを愛しているからです。その愛を知れば救われるんです。
 弟子たちは、「もうこの食事だけは守ろう」「この遺言だけは絶対に譲れない」、そう思って、それから二千年、神の愛を食べ続けています。その御聖体に生かされて、キリストの教会は今日も「ここに救いがある」と、そう宣言いたします。
 私たちやがて、神さまのもとに帰っていきます。そして、そこでこそ、本当に神さまの宴で永遠の命を食べることができる。初聖体の子どもたち、おめでとう。神さまのもとに帰る日までちゃんと御聖体食べ続けてください。どんどん食べてください。・・・無料ですよ。(笑) いくらでも食べていいですよ。生涯、御聖体をしっかりいただいて、そして神さまさんちの子どもとして成長していってください。ミサにつながっていれば、素晴らしいことがたくさんある。キリスト教信者として生きていくということは、神さまさんちの子どもとして成長していって、やがて本当に神さまにお会いして「神さま大好き!」「神さま、ありがとう!」「神さま、いつも私たちに御聖体をくださってホントにありがとう!」っていつかお礼を言う。・・・それがキリスト教信者っていうことです。
 本当におめでとう。でも、神父さんの話長いから、なかなか食べれないねえ・・・。(笑)

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