震える手で十字を切りました

2012年2月5日(年間第5主日)のミサ説教が、都合によりホームページへの掲載が遅れたため、
代わりに、未公開の昨年7月10日(A年・年間第15主日)ミサ説教を掲載させていただきました。

2011年7月10日 年間第15主日
・ 第1朗読: イザヤの預言(イザヤ 55・10-11)
・ 第2朗読: 使徒パウロのローマへの教会への手紙(ローマ8・18-23)
・ 福音朗読: マタイによる福音書(マタイ13・1-23または13・1-9)

【晴佐久神父様 説教】

 この説教台の上に録音レコーダーが置いてないと、ちょっとホッとします。今日は録音日じゃないってことで。先週から FEBCというキリスト教の放送局が、このミサの説教を録音しに来てるんですよ。月に2度ほど録音して、来春から放送するそうです。
 本当は、この放送の件は数年前から依頼されてたんですけど、ずっとお断わりしてたんです。説教集まで出しておいて今更と思われるかもしれませんけど、やはりこうやって好き勝手にしゃべっていると後で訂正したいなと思うこともあるわけで、でも音声は直せないじゃないですか。テープ起こしの文字なら後から赤入れできますけど、しゃべった声は直せない。ご存じのとおり、私の話は大体がその場の思いつきで、「ああ、○○さん、今日はミサに来られてよかったですね〜」みたいな話をしているわけで、つい実名が出ちゃったり、いろいろあって放送にはなじまないと思うし、こっちもそういうことに気をつかってしゃべるのは自分らしくないということもあって、ずっと断っていたんです。
 しかし今回は、「このたびの震災で多くの人が救いを求めています。みんな福音を求めているんです」って改めて依頼され、確かにラジオしか聞けない人たちもいるわけで、被災地を回ってさまざまな現実を知っている身としては、やはり「はい、お引き受けします」と言うほかありませんでした。つまるところ、福音は語るしかないってことです。
 そんなわけで、実は先週、この説教台に録音レコーダーがあったんです。放送局のエンジニアの方が来てセッティングしたんですけど、私もちょっと気をつかってしゃべったりして、お気づきかどうか、先週の方が今日より格調高いと思います。(笑)こうして録音してないほうが、好きにしゃべれて楽なんですけどね〜。一応、皆さんも、録音の件はご了解ください。「うちの赤ちゃんの声は放送しないで」とか言わないでくださいね。(笑)

 まあ、今日のこの福音もそうなんですけど、イエスさまは何ものも恐れることなく、み言葉をどんどん語ったわけですよね。福音の種蒔きです。どんどん語れば、当然誤解されることがあったり、攻撃されることもあったでしょう。けれども、やはり、それは神さまが、私たち一人ひとりを救うために語りかけているみ言葉ですから、その力は圧倒的だし、実際に本当に多くの実を結んだんです。もちろん、福音を聞いてもすぐには効果がないってこともあるし、聞いたのに、依然として悩みや恐れのうちに閉じこもってるってこともあるかもしれない。でも、神のみ言葉は、やがていつかは必ず芽吹いて実を結ぶんだから、ひたすらに福音を語るイエスさまの姿こそは、キリスト教の本質中の本質なんですよ。
 あたりかまわず、一斉に種を蒔くんですね。当時の種蒔きの方法ですけれど、当然、無駄になる種もある。枯れちゃうのもあれば、いろいろです。でも、このたとえ話は本来、一粒が一人っていう話じゃないと思いますよ。蒔かれる一粒一粒が、すべてだっていう話でしょう。一見無駄になっちゃったように見えたり、全然役に立たなかったように感じられたり、せっかく聞いた福音がすっかり忘れられているかに思えても、み言葉は必ず実を結ぶんだと。イエスさまがどうしても言いたかったのはそこでしょう。
 私たちは、そのみ言葉をふんだんに神さまからいただいた素晴らしきキリスト者、選ばれし仲間たちですから、そのみ言葉は必ず豊かに実を結びます。30倍、60倍、100倍にもなって必ず実を結びます。まだまだ試練は続くけれども、そのみ言葉の力を信じます。まさにイエスさまが語ったみ言葉なわけだし、教会がずっと語り続けてきたみ言葉ですから、どれほどつらい現場でも実を結ぶと信じます。いつの日かラジオで放送され、どこかの避難所に届いて、だれかの魂に届くと信じます。
 この世に試練はあるけれども、み言葉さえ聞けば、神の愛が必ず実を結ぶんです。一日中、一年中、何かしら試練がありますけど、そんな時にふと、「そうだ、この私の中にはもう神のみ言葉が宿っているんだ。だからきっと大丈夫だ」という、福音の本質を思い出していただきたい。つまんないことでがっかりするのではなく、み言葉を思い出す。

 一昨日、車が壊れちゃって。もう、車っていきなり動かなくなりますね。ショッピングセンターで買い物して駐車場に戻ってきたら、もう動かない。たまたま、その前日にディーラーで調べてもらって、バッテリーまだ大丈夫ですって言われたのに、動かない。そうすると、イラッとくるわけですよ。「あのディーラー、いいかげんだな。それにしても、なんでこんなに急いでいるときに限って」と苛立つ。ちょうど面会の人が教会に来る時間だったんで、ともかく教会に電話しようと思ったら、なんと、携帯を忘れてきてる。(笑)そんなことめったにないのに。しょうがなく公衆電話探しても、なかなか見つからない。やっと見つけてお財布を開けると、10円玉がない。だんだんイライラが募るわけですよ。しかたなく自販機でいらないペットボトルを買って、おつりで教会に電話して、それから昨日のディーラーに連絡しようと思ったら、携帯がないから電話番号がわからない。104番で聞くと、お姉さんが「100円入れましたか?」って言う。何のことか分からなくて、「何で100円入れるんですか」って言ったら、番号案内は1件100円なんですって。皆さん、ご存じでした? 104番って、今1件100円なんですね。思わず、「高いですね〜」(笑)なんて余計なことお姉さんに言っちゃって、そんなこと言ってもしょうがないんだけど、こっちも、もうイライラしてキーッとなってますから。
 車は動かない、電話がない、10円玉がない、1件100円!? 人間の小ささっていうんでしょうかね、イライラ、イライラして、そんなときに福音を信じましょう(笑)なんて言っても、そういうときは、救いも何もあったもんじゃない。皆さんの現実もそうでしょ。何もかもうまくいかないで苛立っているとき、私たちは、救いとか福音とかとは遠く離れていて、その離れている状態を「罪」というんです。離れているんです。だから、そんなときにこそ、一瞬離れても、すぐに福音の世界に立ち戻る訓練が必要になってくる。
 「あ〜あ、俺も小さい人間だなぁ」と思いながら、こうして聖書を読むと、さっきの第2朗読なんか、パウロがはっきり言ってますよね。「皆さん、現在の苦しみは、将来私たちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と。そう言われると、もう、おっしゃるとおりなんです。車が動かないなんて、本当に取るに足りないこと。試練はいくらでもあるけれど、この世での試練なんて、すべて取るに足りない。なぜなら、将来この私に現わされるはずの、とてつもない栄光があるから。
 その、将来の素晴らしい栄光の世界をいつも忘れないでいるのが信仰であり、それを忘れている状態が罪なんですね。罪って、個々の行いのことじゃないんです。104番のお姉さんに「高いですね」なんて嫌みをいうのは褒められたことじゃないですけど、そのこと自体が罪だというよりは、そんなふうに言ってしまうような、神から離れて苛立っている状態そのものが罪だってことなんです。その意味では、この苛立った人類の社会全体、私たちみんなが罪の内にある、それは事実です。その罪を救うために、つまり神さまのところに立ち戻らせるために、イエスさまは惜しげもなくみ言葉を語り続けてくださる。それを常に聞き続けることが、すぐに福音の世界に立ち戻るための訓練ってことになるんでしょう。
 神のみ言葉。それは、第1朗読にあったように、ひとたび天から降ってきたら、必ずその望みを果たします。イザヤの預言、美しい預言でした。神の望みというテーマがそこに溢れている。天には神の望みがあるのです。みんなを愛したい、幸せにしたい、栄光の世界に導きたい。その望みによって私たちは生まれて、その望みが今ここに、ちゃんと惜しげもなく語られていますし、私たちはもう、その神の望み、神のみ言葉の真ん中にどっぷりと入っているのです。イザヤの言う、神から溢れてきて必ず実るみ言葉、これがイエス・キリストです。天から溢れてきてすべての人を満たすみ言葉。このみ言葉を聞いた者として、聞き続ける者として、ただイライラするのでなく、ただがっかりするのでもなく、将来の栄光を夢見て自分を取り戻し、信じて立ち上がり、同じように試練のうちにある人に「だいじょうぶですよ」と言うっていうのが、私たちキリスト者です。

 先週、あるプロテスタントの教団の全国大会に呼ばれて、行ってきました。沖縄から北海道まで、各地の牧師先生が集まっていました。その教団では、何かこう、活動が低調というか飛躍できずにいて、いろんな問題を抱えていて、何とかしてきっかけをつくって立ち上がろうと、全国大会を開いたのです。三日間の日程ですけど、その中のまるまる一日、晴佐久神父を呼んだんですよ。私、感心しました。プロテスタントの教団が、カトリックの神父を呼んで、丸一日話をしてください、質疑応答してくださいっていうんですから。前向きだし、とても家族的な開けた牧師先生たちが、本当に生き生きしていて、この困難な時代に何とかやって行こうっていう希望に燃えていて、私、すごく感銘受けたし、きっとこの教団は、これからいい働きをするだろうなと思いました。もしカトリックやめたら、この教団に来ますねって(笑)申し上げたいくらいです。
 そんな集まりで何を話すかって言ったら、それはもう、「福音を信じましょう。キリストと一つになって、恐れずに福音を語っていきましょう」という当たり前の話です。だけどその当たり前の話が、現代の教会では当たり前でなくなって、なんだか難しい話ばかりになっちゃっていて、現実感がなくなっている。確かに、実際に苛立ってキーッってなってるときに、「いや、将来の栄光に比べればこんなことは」って思うのって、普通に考えれば浮世離れしてますでしょ。10円玉がないってときに、「天国での栄光を思えば」(笑)。でも、その浮世離れが、一番大事なことなんだ。そこがつながらない限り、福音なんて意味ないじゃないか。人々にも受け入れてもらえないんじゃないか。私はそう思うし、そういうところが、やっぱり私なんかが大会に呼ばれて行って分かち合うべき、一番の本質だと思いますよ。
 イエスさまだって、大勢の人に、「ほうら、種まけば実るだろう。これが神のみ言葉なんだよ」ってお話しするわけで、分かりやすいですよね。すごくストレートだし、全面的に信じて語っているいし、そして語れば必ずみんなが救われるっていう確信に満ちている。そういうシンプルさは、キリストの教会の本質なんです。
 その大会では丸一日お話して、私は夕方で帰りましたけれども、私が帰った後のプログラムっていうのがあって、そのタイトルが「晴佐久神父の秘密」(笑)っていうんです。もう、ぜひそれに出たかったんですけどね。だって、どんな秘密なのか知りたいじゃないですか。でも、これはちゃんとレジュメがありましたから後で読んだんですけど、なんとそのプログラムのために、企画担当の牧師さんがこの教会に何度も来て、リサーチ済みなんですよ。あとで知ったんですけど、いつの間にか入門講座にも出てた。(笑)ちゃんと話を聞いてまとめてるし、私の本も読んで調べてるし、すごい情熱ですよ。そして、その秘密の結論として、「キリストと一つになって、本当にまっすぐに、自分が信じていることを、今目の前のあなたに語れば救いが実現すると、信じて語る」。レジュメはその辺のことをちゃんと上手にまとめてある。
 その日も、心からキリストと一つになって語ったつもりですし、「今日のお話は本当にそのとおりだった」と思ってくださったと信じます。実際、帰り際に「まるで、イエスさまが話しているかのようでした」って言ってくださった方がおられましたけど、キリスト者は本来そうでなければならないんです。これ、普通に考えたらすごく臆面もないことを言っているわけでしょ。自分の話はイエスさまが語っているようだったなんて。(笑)でも私は、キリスト者はみんな、そうあるべきだと思う。イエスさまが宿っているこの私の口でイエスさまご自身が語れば、あなたは必ず救われると信じて語る。私たちいつも、つらい思いを抱えて苦しんでいる人を前にして、どうしてあげたらいいかって思うじゃないですか。嫌な現場に立ち会って、こっちまで嫌な気持ちになってるとき、どうしたらみんなを救えるかって思うじゃないですか。そんなときに、天の栄光を仰ぎ見て、イエスさまが宿っている者として、そこにちゃんと立って、ひと言でもいい、「だいじょうぶだよ、信じよう」って、「絶対だいじょうぶだよ、私がだいじょうぶって言ったら、本当にだいじょうぶだよ」って、やはりそれは言うべきです。こんなひと言、しゃべっても10秒でしょ。そんな10秒のひと言でもいいからそれを語るべき。

 昨日、入院中のEさんを見舞ってきましたけど、むしろ励まされた気になりました。
 体がだんだん動かなくなる病気です。相当シリアスな状況になっていて、ついにまったく動けなくなりました。全然動けない。もう、顔も動かせない、手が少しだけ動かせる、目もちょっと動かせる、横になって口は半分開けたままで、そこから痰(たん)みたいなのがずっと垂れていて、でも動けない。それがどれほどの痛みか、苦しみか、恐れか、想像しただけで胸痛みますけれども、彼はその状況の中でも信じて祈り続けてるんですよ。
 私が「みんなでお祈りしてますよ。教会のみんなのためにも祈ってくださいね」って言ったら、うん、うんとうなずいておられました。私たちは神に生かされて、こうしてそれぞれ存在させられていますけれども、それは何のためかといえば、すべては神の喜びとなるためであり、彼は確かに今、そうなっています。まったく動けないけれども、神の喜びとなっています。
 彼に、秘跡をお授けしました。病者の塗油をお授けし、口ではご聖体をいただけないので、彼の目の前にご聖体を出して「聖体拝領しましょう」と言うと、涙目でじっとご聖体を見つめました。私はご聖体を器に入れて、彼の胸にギュッと当てて、「キリストの体、アーメン」と唱えました。目には見えないご聖体が、彼の体にギュッと入って宿ったと信じます。そんなやり方、どこの儀式書にも載っていないんだけれども、まったく動かけない彼のために開発した儀式です。胸にご聖体をあてて、「キリストの体、アーメン」。彼がその時、どんな思いで聖体拝領したか。今も動けない体で、私たちのためにどんな祈りを捧げているか。その試練、その十字架がどれほど尊いか。私は信じます。この世のどんな苦しみも、私たちに将来現わされるはずの栄光に比べれば、取るに足りない。この先、どれほどの栄光が待っているか、それは苦しみが強ければ強いほど、逆に浮かび上がってくるんじゃないですか。それはどれほどの栄光でしょうか。
 秘跡を授け終えたら、彼は最後に、ほとんど動かない手で、ゆっくりゆっくり十字を切りました。震える手で十字を切りました。私は、それを見ました。ゆっくり十字を切って、そしてパタンと手を落とした。あれは、イエスさまが自らの身に切っている十字です。
 今日、ミサにあずかっている私たちは、よく動く自らの手で美しい十字を切りました。いま、自らの手でご聖体をいただき、自らの口でかみしめます。神さまが私たちに与えてくださるその恵みがどれほどのものか。イエスが宿っているのです。試練の中でも、み言葉を信じましょう。よく動く自らの口で、福音を語りましょう。み言葉は、私たちが信じて受けとめるなら、何十倍にでもなる。
 今日は、Eさんの祈りに支えられて十字を切り、ご聖体を拝領いたします。

2011年7月10日(日)録音/2012年2月8日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英