2011年12月4日 待降節第2主日
・第1朗読:イザヤの預言 (イザヤ40・1-5、9-11)
・第2朗読:使徒ペトロの手紙(二ペトロ3・8-14)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・1-8)
夏休みに教会学校のキャンプでJAXAに行ったという話、いつか説教でお話ししたでしょう。宇宙航空研究開発機構、JAXA。キャンプのとき、ちょうどJAXAのイベントがあったので、人工衛星の「はやぶさ君」を見せに子どもたちを連れて行ったという話。実物大の模型があって、ちょっと感動しました。
その時、次に打ち上げる人工衛星の名前を募集していたのを、教会学校のみんな、覚えてますか? 全国で募集していたみたいですけど、会場で応募用紙が配られたでしょ。ぼくは、みんなを待っている間にひとつ書いて、ポン、と応募箱に入れてきたんですよ。募集用紙には、「宇宙から地球の水を観測する衛星」だとか書いてあったので、水の惑星から一粒の滴が飛びだしていくイメージがわいて、「そうだ、しずく君」がいいと、「しずく」って書きました。
つい先日、JAXAから立派な封筒が届きまして。「なんだろう」と思って開いたら、二つ折りの立派なケースに賞状みたいのが入っていて、「認定証」って書いてある。「あなたが応募されました『しずく』が、観測衛星の愛称として選定されました。ここにあなたが名付け親であることを認定いたします」。(拍手)いや、拍手するほどのことじゃないんですよ。同じ応募は複数あったそうですし。
でもまあ、これが結構、うれしかったんですよ。選ばれるってうれしいじゃないですか。立派な認定証なんかもらっちゃって、何かすごくいいことがあったような気持ちになりました。しずく君、来年打ち上げるそうですけれども、これからは宇宙を見上げたとき「ああ、しずく君、飛んでいるんだな。がんばって地球のお水を観察しているんだな」って思えるってのもうれしいです。「名付け親」って言うからには、神父は子ども持てないけど、ついに子どもができたってことかな。今度「お子さんいらっしゃるんですか?」って聞かれたら、「はい。今、宇宙飛んでます」って答えよう。(笑)
大判の封筒開けたら、「あなたが選ばれました」。宇宙好きとしてもワクワクするというか、うれしい気持ちになる。これが、「よい知らせ」ってやつですね。「よい知らせ」。皆さん、「よい知らせ」、体験したことありますか。いっぱいあるでしょう。「合格した」とか「当たった」とか「産まれた」とかね。そういう知らせ。ドキドキしながら待っているところへ届くうれしい知らせ。
子どもが産まれる時なんか、お父さんは会社で「今か、今か」とドキドキしながら待っていて、やがて連絡が来て「無事産まれました」やったー!万歳! まだその子に会ってはいないけれど、その第一報を聞いて、本当にうれしい。「よい知らせ」。
一生懸命勉強して、受験して、「受かるだろうか、受かるだろうか」って、ドキドキしながら発表会場に行って、書いてある番号、ずうっと目で追って、「あった! 800番。やったー!」・・・800番、「はれれ」ですね。(笑) まだ入学したわけじゃないけど、この発表はその良いことの第一報なわけじゃないですか。「よい知らせ」。
それを電話でおうちに知らせる。「お母さん、受かったよ」すると今度はお母さんが「よかったわね!」。お母さんにとっての合格第一報。「よい知らせ」です。
世の中、なんか、いやなこといっぱいあるけれど、それこそ悪い知らせもいっぱいあるけれど、「よい知らせ」ってやつが私たちの人生にちゃんとあってね、それによって私たちは生かされている。だから、「よい知らせ」をもっともっとちゃんと聞きたいし、ちゃんとみんなにも知らせてあげたい。それは、私たちキリスト者の本質でしょう。「よい知らせ」、これを、聖書では「福音」といいます。この福音さえあれば、われわれはもう、ほかにどんなイヤなことがあっても福音を支えにして生きていける。うれしいことじゃないですか。
第1朗読でイザヤの預言が読まれました。預言の後半部分の冒頭ですけど、まさに「よい知らせ」の預言です。イスラエルの民がバビロンの捕囚に連れて行かれてね、故郷に戻れない。自分たちの信じる宗教を守れない。そんな、本当につらい状況に「よい知らせ」の預言が語られたのです。「ふるさとに帰れるぞ。捕らわれから解放されるぞ」という「よい知らせ」。
それはもう、例えば、アウシュビッツの強制収容所にいる人が解放されて「また家に戻れるぞ」とか、北朝鮮に拉致されていた子どもが「日本に帰れるぞ」とか、そういう解放の喜びを想像すれば分かりますでしょう。それがどれほど「よい知らせ」か、っていうことを。もう一度エルサレムに帰り、神殿を再建して、皆でもう一度祈ることができる。そんな「よい知らせ」を伝えてくれる、その声は、どれほど麗しいか。
この「よい知らせ」、福音を、イザヤの預言では「神が宣言される」と書いてあるんですよ。私、思うにですね「よい知らせ」にもいろいろありますけれども、一番の「よい知らせ」は、それこそ「神の宣言」に決まっているんじゃないですか? それこそは最高の預言、最高の宣言でしょう。
この世の「よい知らせ」っていうのは、言うなれば「多少よい知らせ」です。多少はよいけど、やがて消えちゃう「よい」。「合格しました!」「それは良かったね」、だけどやがて、「就職できなかった」「それは残念だったね」、そんなようなものです。つまり、相対的なもの。この世はそういうものです。「よい知らせ」もあれば「悪い知らせ」もある。だから、どっちにしても、それほど動揺しなくていいんですよ。よいこともあれば、悪いこともある。それだけのこと。
昔は、ラブレターなんてものがあってね、手紙で「大好きです、付き合ってください」って告白する。最近は、そんなまどろっこしいことしなくなりましたけど、ぼくがまだ中高生のころは、わりとありましたよ、ラブレターってやつが。今はラブメールぐらいはあるかもしれないけれど、ラブレターとか、絶滅したんじゃないですか。手書きの手紙書いて、ちゃんと切手貼って出すわけですよ。そうすると三日間返事が来ないわけでしょう。ドキドキしながら自宅のポスト前で、日がな一日待つわけです。やがて、郵便屋さんが来て、お返事の手紙が届く。急いで開くと「私もあなたが大好きです」って書いてある。「やったぞ!!」 それはもう、本当に「よい知らせ」なわけですよ。
だけどそういう「よい知らせ」っていうのは、結局は人間同士の「よい知らせ」でしょ。人間同士が悪いって言ってるんじゃないんですよ。でも人間同士の「よい知らせ」っていうのは相対的なものですから、やがて「やっぱり好きじゃなくなりました」っていう手紙が来るかもしれない。それはもう、初めから相対的な良さなんだから、そんなもんだと割り切っていたほうがいいんですよ、人間同士の「よい知らせ」っていうものは。
しかし、聖書がいっている「よい知らせ」は、神からの「よい知らせ」です。これはすごいですよ。人間の間の「よい知らせ」を、幾百千合わせてもまだ足りない、っていうくらい素晴らしい知らせです。永遠なる喜びをもたらす「よい知らせ」。私たちの魂を本当に熱くして、想像もつかなかったような喜びをもたらしてくれる、絶対的な「よい知らせ」。この「よい知らせ」を聞かないなら、この世での「よい知らせ」を百聞いても千聞いてもそれは足りないってことです。
この、究極の「よい知らせ」について、先ほど読んだマルコ福音書の冒頭に書かれてありました。カトリックの典礼暦ではちょうどB年に入りましたから、今日はマルコの第1章第1節が読まれたわけです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。世を救う神の子、イエス・キリストの福音が、今、始まったと。いいですね、この「初め」って言葉は。始まりです。失ったり終わったりするような話ばっかりの中で、われわれキリスト者は、神さまの「良い知らせ」が今、始まったというワクワクするような感じで、この福音書を読み始める。
「イエス・キリストの福音の初め」
そして、このマルコの福音書は、ただただ、たったひとつのことを言っているわけですよね、「神の子救い主、イエス・キリストが来られたぞ。私たちはもう救われたぞ」と。福音です。これこそは神さまが私たちに宣言してくださった、究極の「よい知らせ」。決して消えることのない完全なる「よい知らせ」をマルコの福音書は伝えているのです。
そのイエス・キリストを準備する人として、洗者ヨハネのことが書いてある。その洗者ヨハネはもちろん立派な預言者であるけれども、救い主ではない。イエス・キリストを準備するものとして、水による洗礼を授ける預言者です。その後から来る方こそが、救い主として聖霊で洗礼を授けてくださる。これはいうなれば、水による洗礼っていうのはこの世の洗礼っていう感じがありますね。この世で人間が授け、人間が受ける洗礼。人間が回心して、人間が決心して、この世において清められる洗礼です。それに対して、まことの救い主であるイエスは、聖霊による洗礼を授けてくださる。
それは、いうなれば神から直接授かる、霊的な洗礼。神が選び、神が授ける洗礼。私たちキリスト者は、その聖霊による洗礼を頂きました。ちょうどあの洗礼式の時、水をかけられましたでしょう。あの水は神の命のしるし、清めのしるしです。でもまあ、言ってしまえば、水はこの世のものですから、尊いものですけれども、それが額にかかったからといって「それが何なの」っていう話じゃないですか。物理的に言えばね。でも、その水をかけながら、司祭が宣言しますでしょう、「私は父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」。
父と子と聖霊による洗礼。それは、もはやこの世のことではない。確かにこの世は大事だけれども、この世は聖なるものに変わるために存在するのですから、この世を聖化する洗礼こそが大事。そういう、霊による洗礼を私たちは授かったのです。霊による洗礼を受けたものとして、私たちはもうすでに救われているんです。この世はやがて過ぎ去るけれども、霊による洗礼は永遠です。それを受けた私たちは、いかなる恐れも乗り越えて「天の安心」というものを生きていけるようになった。ヨハネの水による洗礼も尊いけれど、イエスはそれを霊による洗礼へと高めてくださったのです。
「しずく君」もね、宇宙から地球の水を観測するっていうことですけれど、それはこの地球が水の惑星だからですよね。水を観測しないと人間は生きていけないから。地球の水を尊い水として大切にしましょう、ということで、人工衛星打ち上げるわけでしょ。みんな分かっているわけですよ。この地球が水の惑星で、水がどれほど大事か。でも結局は、それはこの世の水なんであって、やがて干からびてしまうかもしれない。神さまはそんな「水の惑星」を、今、「聖霊の惑星」に変えようとしているんです。キリストをこの地球に与えてくださったのは、水を霊に聖化するためです。イエスという究極の喜びの知らせを人類が知り、その魂のうちに新しい命の水が湧き出てくるとき、この「水の惑星」は「聖霊の惑星」に変わるんです。
聖霊による洗礼を受けるっていうのは、そんな救いの出来事なんだから、われわれキリスト者は、本当にイエス・キリストがこの世界に、この私のうちに来られたという「よい知らせ」に胸打ち震えなければなりません。この世界はやがて消え去っていくんだから。私たちは永遠なる霊の世界に生まれ出でなければならないのです。セミの抜け殻にはもう意味がありません。あの抜け殻に戻ろうとするセミは一匹もいません。あれはもう、いらないんです。いくら地球が立派でこの現実が大切に見えても、それはやがていらなくなる。そして、父と子と聖霊のみ名による新しい段階に入る。
第2朗読のペトロの手紙はそのことを言ってるんです。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(二ペト3:8)。この世の時間は過ぎ、やがて神の日が来ます。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう」(二ペト3:12)。怖いこと言っているようですけれど、これ、科学的にいっても事実です。本当のことです。
2、3日前にNHKで、「ベテルギウス」やっていましたよ。ぼく、ああいう番組好きでね。時々ボーッと見てるんですけれど、ちょっとびっくりしました。ベテルギウスって、オリオン座の赤い星ですよね。ご存じですか、オリオン座。一番有名な星座って言ってもいいんじゃないですか。冬の空澄んでいるからよく見える。星が四つ、四角になっていてね、真ん中に三ツ星が並んでいる。美しい星座です。あのオリオン座の左上の赤い星が、一番明るい星ですけれど、ベテルギウスっていう星です。それを含めて、ほかの星座にプロキオンとシリウスっていう明るい星があって、ちょうど正三角形になっている。この三つを、冬の大三角形って呼びます。これは良く見えますから、ぜひ、星空眺めていただきたいです。びっくりしたのは、このベテルギウスがもうすぐ消えるかもしれないっていうんですよ。
もちろん、ぼくもね、ベテルギウスが赤色超巨星であることや、いまや膨張して太陽系で言えば木星の軌道くらいまである巨大な星であること、やがて爆発して消えるってことも知ってましたけど、それがいつ起きてもおかしくないっていうのをテレビでいろいろ説明されると、ちょっとドキドキしちゃいました。だって、消えるってことはですよ、星座の形が変わるってことですよ。われわれが生きている間に星座の形が変わっちゃう、そんなことあり得ないだろうと思っていたら、オリオン座のベテルギウスがそろそろだと。六百数十光年先ですから、もしかしたら、もうすでに、六百数十年前に爆発しているかもしれないわけで、もしそうならその光が明日にでも届いて、ベテルギウスの爆発が見られるそうです。
ある日突然、あの赤い星がいきなり、青白く、満月の百倍、千倍の輝度で輝きだす。それが3カ月続くんですって。昼でも見えるんですって。ちょっと今、聖堂入り口あたりの人、空を見てくださいよ。光っているかもしれない。そういう話ですよ。そして、3カ月たつと消えていく。え、消えちゃったらどうなるの? だから、オリオン座の四角が三角になっちゃうってことです。ちょっとびっくりじゃないですか、これ聞くと。冬の大三角形が三角じゃなくなっちゃうんですよ。冬の棒? になっちゃうんですよ。なんかね、ちょっとこうドキドキしちゃいました。なるほど、世界に変わらぬものなんかないのです。星座すら変わっていく。宇宙は動いている、生きている。宇宙は神の創造のままに今も進化を続けていて、やがてすべてが完成するときが来る。なんかそんなリアリティを感じて、ドキドキしちゃいましたよ。
ペトロの手紙にありました。「その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます」(二ペト3:10)。これは真実です。「しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(二ペト3:13-14)。「励みなさい」だから、励んでいればいいんです。うまくいかなくてもね。努力目標ってやつですよね。
この宇宙は、神さまの国をつくりだすための、一通過点、準備期間にすぎません。いつの日か新しい天と新しい地がまいります。そこで私たちが神さまから頂く新しい天の素晴らしさ、輝きは、もうこの宇宙を幾千万重ねても足りない。そんな新しい天を、私は待ち望みます。なぜならそれが、神の約束だから。そして、神が約束を破ることはあり得ない。
イエスにおいて、神さまはその約束をもう果たしたと言ってもいい。新しい天と新しい地として、生きた新しい天、新しい地であるイエス・キリストを送ってくださったのですから。ですから、「イエスが来られたぞ」っていうのは、これはもう、究極の「福音」です。
皆さん、「よい知らせ」があります。主イエスが来られました。新しい天が始まりました。皆さんは、解放されました。皆さんの中に新しい命が始まりました。
皆さんは救われたんです。
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