2011年12月11日 待降節第3主日
・第1朗読: イザヤの預言(イザヤ61・1-2a、10-11)
・第2朗読: 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニケ5・16-24)
・福音朗読: ヨハネによる福音書(ヨハネ1・6-8、19-28)
【晴佐久神父様 説教】
さあ、今読んだヨハネ福音書の中の洗者ヨハネにならってですね、私も光について証しを致しましょう。光であるイエスについて、キリストの、あの美しい輝ける光について、証しをしたい。聖霊による洗礼を授けてくださるキリストについて、証しをしたい。わが主キリストについて証しをする時、本当に心躍ります。くら〜い世の中ですから。光について証しをして、みんなの暗い心にパッと光が差し込む、その美しい瞬間は、本当にキリスト者として、もう、えもいわれぬ喜びがある。
光といえば、昨日、ご覧になりましたか、月食。深夜でしたし、寒かったですし、ご覧になられなかったかもしれませんけど、私は見ましたよ。教会の庭のオアシス広場のベンチに横になって。ちょうど真上でしたからね、月が。美しかった。
皆既月食って、月が地球の陰にすっぽり入るわけですけど、なんだか不吉な感じの暗い色になりますよね。で、まあ、月食って結構時間が長い中でどこがハイライトかといえば、その皆既月食の終わりの瞬間なんです。つまり、月が地球の陰からちょこっと出て、あの赤黒く不吉な感じの月の端っこに、ついに直接太陽からの光が当たり始めた瞬間、あれが美しい。10年位前だったか、無人島でも皆既月食を見たことがありますけど、満月が陰ってどよ〜んと暗くなると、無人島ですからほんとに暗くなる。しかしやがて、太陽の光が直接月に当たり始めると、まあ、月が鏡みたいなもんですから、反射光が島にも届いて、白い砂浜がパアッと明るく輝きだすんですよ。
都会で見るとね、その瞬間のきらめきがそこまで強烈には感じられませんが、昨夜はそれでも美しかった。ちょうど先週の話の、あのベテルギウスの方角から再び輝き始めましたけど、その瞬間、あれは美しい。太陽の光が直接当たり始めた瞬間。
神さまの光が直接当たる、その美しさを私たちは知ってますし、体験しております。神さまの光、それはすべての人を照らす光です。
月食なんかまさにそうですけれども、あれ、光が消えたわけじゃない。光が当たっていないだけであって、欠けたわけでもない。太陽は光っているし、月は月として丸いまんま。何も変わらずあるんです。月食の月を見て、表面が変化したなんて思う人は誰もいない。あれは光が当たっていないだけでしょ。あるいは月食でなくても、月の満ち欠け見てね、三日月見て「あ、月がへこんだ」と思っている人、誰もいない。月は丸いんです。これは、神さまがもともと、丸くお造りになった。
先ほど読まれた、第2朗読のパウロの手紙にもありました。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守ってくださいますように」。
「何一つ欠けたところのないもの」、満月ですよ。神さまはもともと私たちを、この「全く聖なるもの」「何一つ欠けたところのないもの」としてお造りになったんです。私たち、みんな、本来は神さまのみ業のうちに、完全なる存在として、ちゃんと造られているはずなんです。何か欠けたところがあるように見えるのは、私たちがそのように思い込み、「私のここが足りない」とか「あなたのここが欠けてる」とかって思い込んでいるからであって、その思い込みによってさまざまな問題が生じていく。
神さまは美しい宇宙をお造りになり、何一つ欠けたところのない美しい存在として私たちを生かしておられるのに、私たちがそれを何か、どよ〜んと、赤黒〜く不吉な感じにしてしまっている、それが真実です。そんな私たちに、キリストの光がパアッと当たる時、私たちは、自らが神の愛のうちにあって何も欠けたところのない、何の問題もない存在だということに気づく。ちょっと皆さんね、この喜びの主日に、キリストの光に包まれている者として、「私には本来何の問題もないんだ」という喜びを取り戻してください。
まあ、現実に生きていれば、問題も多少あるようにも思えますけれども、本来的に言えばそれはたいした問題じゃない。悩んだり、恐れたり、いろいろしてますけれども、あんまりムキになって悩む必要ないですよ。本気になって恐れることないですよ。どうしても悩みたいって言うんなら、「ちょっと」悩んでください。「ちょっと」恐れてください。そして「でも、私には本来、何の問題もないんだ」っていう、その輝かんばかりの、キリストの光を受けている者としての喜びを、いつもいつも持っていていただきたい。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」って先ほど読まれましたけれど、あれが真実です。「いつも」ですよ。「絶えず」ですよ。「どんなことにも」ですよ。それがキリストの光を受けている者の、「いつも」の喜びであり、「絶えず」の祈りであり、「どんな恐ろしいことが起こっても」感謝するという信仰、誇りです。
入門講座に通っている方が、福音を聞いて劇的に救われていくっていう様子を見ると、まさにパアッと光が当たり始めるようで、すごくうれしい。
つい先日、来年の洗礼に向けて面接した方は「この2カ月で人生が逆転した」と言ってました。すごい言葉ですよね、2カ月で人生が逆転。ふた月前にこの教会に初めて来たんですよ。最初はお姉様に連れられて来て、来るまではあまり気乗りがしなかったそうですけど、初めてミサに与って福音を聞いて、体験したことのないほど心が震えて、ミサの最後に神父さんが「行きましょう。主の平和のうちに」って言った時には、「もう言葉にできない感動があった」って言ってました。
その後入門講座に通って福音を聞いていくうちに、どんどん、どんどん嬉しくなってきて、そうすると周りの人もだんだん変ってくる。「以前は家の中が暗くて寒かったけれど、今は本当に明るくて暖かくなった。この2カ月で人生逆転した」と。
彼女は入門講座をレコーダーにとってるんですけど、それをご主人にも聞かせたくって、家でさりげなく流してみたら、ご主人は「やめろ!」って言って、レコーダーをパッと手で払ったんですって。それでもあきらめずにかけてたら、なんだか気になるんでしょうね、やがて後ろの方でじいっと聞いているようになったと。そして最近では「分かりやすい話だね」とも言うようになり、今や「お前、そろそろ入門講座行く時間じゃないのか」(笑)って言うようになったと。彼女が、そんな報告をしてくれると、まあ、福音を語っている方もうれしいわけです。今では、近所の方も声を掛けてくるそうですよ。「あなた、なんだかうれしそうね」って。
ただ、ある近所の方は、さる新興宗教を信じていて、毎日お経を唱えてお壺をさすっているんですって。壷をさすると幸せになるそうで、それはそれで尊い信仰だと思いますけど、困るのは、会うたびに勧誘してくるんだそうです。で、いつも丁重にお断りしてるそうですけど、最近「あら、あなた明るくなったわねえ」って言われたんで、「ええ。今、教会に通っているんですよ」って打ち明けたら、パッと顔色が変わって「駄目よ。そんな所に行ったら不幸になるわよ」(笑)って。さらには、十字架のネックレスかけているのを見て、「そんなもん掛けてたら不幸になるわよ」。次に会った時に「まだ掛けてるの。不幸になりたいの」と。まあ、執拗に「不幸になる、不幸になる」って脅されて困ってるそうです。
そこで、彼女にこうお教えしたんです。「そういう時は、『私の信じているキリスト教は、不幸でも幸いっていう教えなの。あなたもだいじょうぶよ。神さまはすべての人を救ってくださるから、必ず幸せになれるわよ。たとえ不幸になってもだいじょうぶ。安心して神の愛を信じるのよ』って、福音を語ってあげなさい」。そう教えてあげました。それこそ、光の証し、喜びの証しですからね。
「私は今、本当に幸いなんだ。いろいろ問題があるように見えても、それは何も問題ではない。不幸に見えても、不幸なんかじゃない。私は、神の愛に包まれている幸いな存在なんだから。だから何も恐れない。あなたも、私に会ったからには、もうキリストの光に照らされているんだ。だから心配しないでほしい。信じるものに本当の不幸なんてものはない。私はあなたの幸いを祈ってる」。
そう証ししておけばね、そのうち、あんなに壺さすったのに旦那がリストラされたとか、悪い病気になったとかそんな時に、ハタと「そうだ、今度はあの不幸でも幸いってとこ行ってみようかしら」(笑)ってね、思うかもしれないじゃないですか。
それは、やっぱり、私たちの信仰、誇りですよ。神さまは、何一つ欠けたところのない、本当に完全なる存在として、私たちをお造りになりました。まあ、そこに罪の問題、悪の問題が月食の陰のように存在するのは事実ですけれども、それとても、神の恵み、赦し、愛を前にしては、何ほどのものでもない。一見、多少赤黒く、陰ったかに見えても、ほどなく神さまからの直接の光が当たって、私たちは本来の輝きを取り戻せる。それが、われわれの信仰です。
聖霊による洗礼を受けたんでしょ、皆さん。そして、キリストの光を灯されたじゃないですか。洗礼式の時に、私はキリストの光を渡したはずです。去年、洗礼を受けた方、覚えていますか。ここにも大勢おられますけれど、私、ちゃんと定式文に則って、宣言したはずですよ。「キリストの光を受けなさい」と。「あなたがたは、キリストの光をもたらす者となりました。光の子として歩みなさい」と。「キリストの光をもたらす者」。そうです、月のように自分で光っていなくても、神さまの光を浴びて輝き、その光が周りをも照らしていく。ご主人もその光を感じ始める。ご近所の方もその光に目を開かれる。そういうことが起こります。聖霊による洗礼を受けた者は、神の光を輝かせるものであってほしい。「霊の火を消してはいけません」と、先ほどパウロが言っていたのは、そういうことです。イエス・キリストの光を、決して覆い隠してはならない。それによってこそ地球が照らされ、人類が救われるんだから。
第1朗読のイザヤ書も、きれいでしたね。主が私を選んで喜びの知らせを伝えさせて下さるという箇所。私も、神に選ばれたキリスト者として、この喜びの知らせを、みんなに伝えたい。「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を」知らせたい。
まさしく、洗礼っていうのがそうでしょ。打ち砕かれた心、捕らわれ人、つながれている人、私たちみんな、そうだったんです。あの、暗い心に捕らわれていた時のこと、思い出して下さい。でも今は、キリストの光に照らされて、喜びの主日をこうしてみんなで祝っている。私たちは、神の愛に包まれて自由になったんです。恐れの霊につながれていないんです、もう。そんな喜びをちゃんと輝かせていれば、周りの人をも照らして、救いをもたらす。
イザヤ書の後半には「主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」ってあるけど、美しいですね、これも。「花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」。いいでしょう。でも、分かってますか。この「救いの衣」、「恵みの晴れ着」を、私たち、もう着てるんですよ。イザヤがこう預言している時点では、いつかやがて、着せて下さるっていう喜びの告知じゃないですか。で、この預言は実現したんです。主イエスにおいて実現したんです。私たちは、聖霊による洗礼によって、もう「救いの衣」を着てるんです。
洗礼式で、私はこうも宣言しました。「白い衣を受けなさい。あなたがたはキリストを着る者となりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい」。そう言って、女性には白いベール、男性には白いストラを掛けました。掛けた物自体は二千円か三千円のベールですけど、それはもう本当に美しい、かけがえのないキリストの衣、救いの衣だったんです。それを私たちは着てるんだから、安心してくださいよ。皆さんいろんな服をとっかえひっかえ着ますけれど、キリストの衣を着ているっていう、この喜びだけは忘れちゃいけません。
昨日の入門講座に、もうすぐ結婚するお二人が来てました。ホントに幸せそうで、「どう、うまくいってるの?」って聞いたら、「見てのとおりです」って。(笑)まあ、結構なお話ですけど、昨日もちょうどこのイザヤの預言を読んでいて、「花婿のように輝きの冠」、「花嫁のように宝石で飾る」っていうくだりもあるんで、ふと新婦に、「ドレスはもう決めたの?」って尋ねたら、うれしそうに「はい、選びました」と。で、「ウエディングドレス選ぶのって楽しいんだろうね。あれもいいかな、これもいいかな、ってあれこれ着て試したんでしょ」って言ったら、「そうです」って。それで新郎に、「一緒に選んだの? 何かアドバイスした?」って聞いたら、「はい、どれ着ても、かわいいね、かわいいねって」。(笑)なんかもう、聞いている方が恥ずかしくなるような。(笑)いいですねえ。いろんなドレスを選んで、かわいいね、かわいいねって。それはもう、人生で本当にうれしい瞬間、喜びの時じゃないですか。
けれど、それで言うなら、皆さんが洗礼式の日に掛けてもらったその白い衣は、そんないかなるドレスにも増して美しい。森英恵だか、サンローランだか、どんなこの世のドレスにも増して、美しい。だって、神さまからの直接の光で輝いてるんだから。太陽の光を受けて、赤黒かった月が、パアッとシャンパンゴールドに輝き出す。すごく美しい。私たちはもう、キリストの光を受け、聖霊の火を灯されて、言い表しようもないほど美しい、「恵みの晴れ着」をまとわせてもらっているんです。安心してください、信頼してください。神さまのみ業に。
昨日の深夜は、月食見てましたけれど、おとといの深夜は、神奈川の病院におりました。私の中学時代の恩師のところを訪ねたんです。横須賀の方の病院の深夜の個室です。たまたま、中学時代の団地のわが家の下の階がその先生の家だったんですよ。で、親しくなり、そこの小学生の一人息子が、わが家に入り浸るようになり、やがて教会にも通うようになり、洗礼を受けて、教会の青年活動の中心人物ともなった。ですからその息子とは40年来の友人というわけですけれども、その父親、先生が危篤だというので、深夜、車飛ばして行って来ました。息子が電話してきて、「ぜひ、父にも洗礼授けてください」って言うので、準備して行きました。病室の外で息子が、父は、今は意識があって洗礼を望んでいると言う。病室に入ったら家族が集まっていて、すごく暗い現場ではありましたけれども、私はキリストの光をもたらす、ひとりのキリスト者としてですね、福音を語りました。
「先生、もう大丈夫ですよ。安心してください。何の心配もありません。神さまが今、本当に特別に素晴らしいことをしてくださいます。あなたは、神の愛によって神の子として新たに生まれるんです。すべての捕らわれから解放されて、永遠の命を受けるんです」、そうお話しして、洗礼をお授けしました。
「あなたは、あなたを望んで生み、愛して育ててくださった全能の神である天の父を信じますか」。そうお尋ねしたら、一生懸命うなずいて、「信じます」と答えました。「すべての人に天の父の愛を教えてくださったイエス・キリスト、死を滅ぼして天の門を開いてくださり、あなたを天の父のみもとへと連れて行ってくださる、主イエス・キリストを信じますか」。そうお尋ねしたら、何度もうなずいて「信じます」。「あなたを救う神さまの愛のはたらきである聖霊、教会を守り育て、今この部屋に満ちて私たちを包んでいる聖霊を信じますか」。そうお尋ねしたら、本当にまごころから、「信じます」。
それではと、お水をかけながら「私は父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」と宣言いたしました。その傍らで、高校生の孫が感極まって泣いておりました。彼は無人島キャンプの常連ですけれども、実は今日もミサに来ていて、今も聖堂の一番後ろで泣いております。
神さまが、何一つ欠けたところのないひとりの美しい神の子に、救いの光を注いでくださいました。暗い病室に、いきなり神さまの光が輝き出たようでした。
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