病者×キリスト者=神の国

2015年2月8日年間第5主日
・第1朗読:ヨブ記(ヨブ7・1-4、6-7)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント9・16-19、22-23)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・29-39)

【晴佐久神父様 説教】

 聖ヨハネ・パウロ2世教皇さまがお始めになった「世界病者の日」(※1)。2月11日です。互いに祈り合い、結ばれ合う、励まされる日です。弱い体を抱えて生きる私たち、いつも病気の方たちと触れ合っていますし、私たち自身が、さまざまな意味で病んでいる者ですから、この日、病という神秘を通して、互いにつながります。
 聖ヨハネ・パウロ2世教皇様がこの日をお定めになったのは、ただ病気が治るように祈り合う日としてではなく、病によって私たちが一つに結ばれる日としてです。
 今日、「世界病者の日」を前にした主日ミサを、多摩教会では「病者のために捧げるミサ」としてお捧げしています。それは、もちろん病者のために祈るためですけれども、さらには、弱い私たちのうちにすでに神の国がもう始まっているということを、より一層信じ、より深く味わうため。
 ですから、希望に満ちた日として、祈り合いたい。つらい人、苦しんでいる人のことを、「ああ、大変だなあ、かわいそうだなあ」って暗い気持ちで思うだけではなくて、この「病気」という神秘のうちに私たちは結ばれて、今ここにすでに神の国が始まっているという明るい希望を新たにする。そういう恵みの日として、この「病者の日」をお捧げします。

 ミサの始めに、病気の方々のお名前を記したカードを入れた封筒(※2)を、祭壇脇の聖母子のイコン前に奉納いたしました。ここに、皆さんが書いた方々のお名前が、たくさん入っております。ここに名前を書かれた方々の、今の苦しみ、痛み、不安、孤独、それはどれほどであろうかと思いを寄せ、その思いを私たちは共有いたします。
 しかしそれは、ただ暗い気持ちになるためではなくて、それを主と共に共有することが、本当に明るい神の国をもたらすんだという、その希望に支えられてです。そういう希望を持っているとき、私たちの中に、「病気を恐れない」、そういう信仰が生まれます。もちろん、「病気でよかった」とまでは、なかなか言えませんけれども、しかし、病気だからこそ主に出会えるということも現実にありますし、「病という苦しみを十字架として受け入れて、復活の栄光を待ち望む」という、美しい信仰を新たにいたします。
 ここに書いてあるお名前の方々は、おそらくは、ここに来られない方々でしょう。この方々のために、まごころ込めて祈り、この方々と連なることが、私たちにとっての、大きな喜びであり、救いの実現でさえある、と。
 今日の福音書にあるとおり、イエスさまも、シモン・ペトロの家に行って、病者に会います(※3)。ペトロのお義母(かあ)さんが熱を出して苦しんでいた。寝込んでいた。そこにイエスさまが来られる。イエスさまは、彼女のそばに行って、手を伸ばしてその手を取って、起こします。すると熱が去って、彼女は一同をもてなした(cf.マルコ1:31)。「もてなす」ということは、そこで(うたげ)が始まったわけですね。・・・病を得ている人がいて、そこにイエスさまがやって来て、イエスさまがその苦しみに連なり、手を伸ばしてその人に触れると、その人は起き上がり、一同をもてなして、宴が始まる。この宴は、もはや神の国の始まりです。
 ここに記されている、病の意味、イエスさまの意味、神の国の意味というのを、しっかりと心に刻んでおきましょう。
 ある種の方程式みたいなものを、ちょっと思い描いてください。
 「病」×「キリスト」=「神の国」
 ・・・「病」かける「キリスト」イコール「神の国」。こういう方程式を、きちっと学んでおけば、私たちは、神の国をもたらすことができるんです。すなわち、イエス・キリストさえおられれば、病の現場は神の国に変わる。
 さらには、イエスの力をのみ信じて、私たちがそのイエスと共にあるならば、私たちだって病んでいる人に関わり、その方の苦しみに触れることで、神の国が始まる。
 つまり、私たちキリスト者はキリストを宿してるわけですから、
 「病者」×「キリスト者」=「神の国」なんです。
 このような方程式を、この「世界病者の日」に、私たちは心に刻み込みます。
 私たちは、病んでいる人をわが家族として、共にあろうとする仲間たちです。

 今日、第1朗読(※4)を読んで、暗い気持ちになりましたね、ちょっと。
 ヨブ記を読みました。今日の表題にもなっている所ですね(※5)。『聖書と典礼』の表紙には、ヨブと神さまの絵が描いてありますが、そこにあるとおり、ヨブが神に文句言うんですね。
 「忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを」(ヨブ7:7)
 ・・・あれ? これ、やっちゃいましたね。この表紙には(ヨブ1:7より)とありますけど、1章じゃなくて、7章ですね、これ。・・・ヨブの7章です。ヨブが神さまを呪って、「忘れないでください、わたしの命は風にすぎない」、・・・「もういいから、俺を殺してくれ」って言わんばかりですね。「わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう」(ヨブ7:7)
 ヨブ記、ご存じですね。サタンが神さまご自慢(・ ・ ・)の義人ヨブを苦しめるんですね。「ヨブだって、苦しめば神を呪うぞ」と言って、いろんな苦難を与えるんですけど(※6)、これが、最終的には病気にするんですね。それも、ひどい皮膚病にかからせる。ヨブ記によれば、「頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた」(ヨブ2:7)。そしてヨブは苦しみのあまり、「素焼きのかけらで自分の体をかきむしった」(cf.ヨブ2:8) と。見舞いに来た友人たちが、それがヨブだと分からなかったほど(cf.ヨブ2:11〜13)。ひどい皮膚病のせいで。
 ・・・そういう状況ですね。想像するだけでも、つらい気持ちになりますけれども、そのような状況で、ヨブはついに神を呪い始めて、こういうことを言い始めるわけです。
 「忘れないでください、私の命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう」(ヨブ7:7)
 先週、初めてミサに来られた方がいるって、お話しましたでしょ(※7)。29歳、生涯初めてのミサだったんですよ。で、昨日の土曜日の夜のミサが第2回目ってことで、また来てました。
 で、私、昨日この箇所が読まれた時、ついチラッと彼の顔、見ちゃいました。だって、生涯2回目のミサに来て、聖書が読まれて、その最後の一行が「私の目は二度と幸いを見ないでしょう」。・・・で、侍者が「神に感謝」。(笑) 彼、この聖書の箇所を、どう受け止めたんだろうって気になっちゃいましたよ。ものすごく暗い内容ですから。
 皆さんはお分かりですね、第1朗読でこれが読まれるっていうその意味。これは、ある意味問いかけですね。まさに私たちの現実ですから。ホントにつらいんですもんね、現実は。
 私たち、みんな病気です。あるいは病気の人が、すぐそばにおられます。大切な愛する人が、素焼きのかけらで体をかきむしっているというのが、私たちの、もう、現実なんです。それを、ヨブ記においてきちっと示された上で、「しかし」と言って、福音が読まれる。・・・そういう構造です。
 「しかし」と言って、「イエスさまが訪れて、手を伸ばし、触れると」(cf.マルコ1:31)、神の国が始まる。
 「ヨブ記」×「イエス・キリスト」=「神の国」
 このヨブの問い、「神よ、こんな私をなぜ生んだのか」「私なんかは殺してくれ」「わたしの目はもう二度と幸いを見ない」というヨブの問いかけに、神は答えました。
 ・・・どう答えたかというと、「イエス・キリスト」という答えを与えた。
 旧約の問いかけに、「イエス・キリスト」という新約の答えを与えた。
 「いいや、あなたは、もう一度幸いを見るよ」と。「いや、今、あなたは幸いを見ている」と。「イエス・キリストを見よ」と。・・・これが神さまのお答えです。
 神さまは、もうすでに、すべての私たちの苦しみに、ちゃんと答えてくださっています。

 第2朗読(※8)のパウロの手紙では、パウロが、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」(一コリ9:22)と、そう言っておりますが、これ、「病む人に対しては、病む人のようになりました。病む人を得るためです」と読み替えてもいいですよ。これは、イエス・キリストがなさったことです。それをパウロもしているし、私たちもそうします。
 イエス・キリストは、苦しんでいる人、病む人、弱い人に対しては、まさに、苦しむ人、病む人、弱い人のようになって、その人を救った。このキリストを、病に掛け合わせることで、神の国が生まれ出る。
 ちょうど、「世界病者の日」の教皇メッセージが、出ております。今週のカトリック新聞に全文載っておりますので、ぜひ読んでください(※9)
 今年のテーマは、まさにこのヨブ記から採ってるんですけれども、
 「わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった」(ヨブ29:15)
 そういう一節がテーマです。・・・「わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった」。
 病む人、苦しむ人、障害を負っている人、そういう人の「一部」に私たちがなること。それが神の国を生み出す。
 見えない人の目になったとき、私はその人と一致するじゃないですか。そうして、キリストの体が出来上がっていく。神の国って、そうやって完成していくんです。バラバラに苦しんでいるかに見える私たちが、その苦しみによってつながって、キリストの体、大いなる神の国をつくり上げていく。そのプロセスがイエス・キリストの道。・・・イエス・キリストと共にあると、そんな喜びがいっぱい生まれる。
 この教皇メッセージの中でも、教皇さまがおっしゃっています。
 「病む人と一緒にいよう」と、
 「一番大切な、神から与えられる知恵、生き方は、兄弟姉妹が一緒にいることです。病で苦しんでいる人と共に過ごす時間は聖なる時です」と、
 そういうふうにおっしゃってますよ。そんな聖なる時間を過ごせるんであれば、「病の時もまた、恵みのとき」と、私たちはそう信じることができる。
 この世界は健康を目指して、強いものを目指して、目先の幸いを目指して、必死になっておりますけれど、私たちはもっと、「病む人と共にいる」という聖なる時間を深く味わうという方向に、いうなれば、登ってくんじゃなくて、下りてく感じで、「そこに神の国があった」と見つける気持ちでいいんじゃないですか。

 先週、お寺さんで講演したって話、しましたけど(※10)、その時、講演の初めに私を紹介してくださったお坊さんが、あいさつの中でこう言われたんですね。
 「よく、『どの宗教も、登山道のようなものだ。どの道を上っても山頂にたどり着く』みたいな言い方があるけれども、私は、ちょっとそれは違うと思う。真の宗教は、そうやって自力で登ってたどり着くようなものじゃないからだ。むしろ、自力を放棄して山を下りていくような道こそが、救いの道ではないか」って。
 さすが浄土真宗。まさに親鸞聖人がね、学問の山を下りて、衆生(しゅじょう)と一緒に苦しんで、「罪人だって、みんな救われる」という教えを広めてくださったわけで、「ああ、さすが浄土真宗」と思いました。・・・でも、私、実を言うとですね、その後の講演で、その登山道のたとえ話をしようかな、なんて思ってたんですよ。(笑) それでちょっと、「あれ、どうしよう・・・」って、挨拶聞きながら思ってた。
 往きの新幹線から富士山が見えてね、右側の窓に。それはきれいな富士山で、眺めながら、
 「ああ、お山、きれいだな〜。そうだ、『山頂ではつながってる』っていう話をしようかな。でも、あのたとえもありきたりだしな。・・・そうだ、混浴のお風呂のたとえなんて、どうだろう。入口は男性用、女性用だけど、中に入ったら一緒でした・・・とか」(笑)
 「いや、でも、天国が混浴じゃ、あんまりいいたとえじゃないな〜」とか(笑)、新幹線の中であれこれ思ってはいたんです。だから、挨拶で「登ってくっていうのは違うんじゃないか」とかって言い出したから、「あれ、どうしよう」と思ったわけですが、その後、講演しながらふと思いついて、「こういうイメージ、いいんじゃないですか。お山を、逆にしたらどうでしょう」ってお話ししました。
 ・・・「すり鉢」
 「お山を逆さにしたら、すり鉢でしょ。で、どの道も下りていくと、最後は一緒になる。こんなイメージ、いいんじゃないですか? 登ってく道っていうのは、『もっとがんばれ。もっと立派になれ、もっと強くなれ、いつか目的を達成しろ』っていう、まあ、要するに『自力の道』ですよね。でも、すり鉢の道は、登って行けばいくほど、ほかの道と離れていく。みんなバラバラになって行く。そんな孤独な道を登ってくんじゃなくって、自分は弱いものであると認め、もう登っていく力すらありません、どうかお助け下さいと手を合わせ、自分の思いすら手放して、一歩一歩下りていく道。(とら)われから解放されて、弱い者同士手を取り合って、そろりそろりと下りていくような。でも、下りてみると、そこにみんな集まってる。結局はみんなそこに集められていく・・・こういうイメージならいいんじゃないですか?」って、お話したんです。
 実際、山登りなんて、元気な人は登れるけど、「私、もう登れません」っていう人は必ず出てくるし、その人を置いていかないかぎり、山頂って行けないんですよね。それって、どんどんみんなバラバラになっちゃうじゃないですか。だけど、すり鉢のような道、そろりそろりと下りていく道だったら、ほっといてもいつかは全員集まれる。そこに神の国の秘密があるんじゃないか。病む人と共にあることで、下りていく道を歩めるんじゃないか。
 講演会の後の質問コーナーで、ある年配の男性が手を挙げて、面白いこと聞いたんですよ。
 「私、最近、頑固おやじになってしまったけれど、どうしたらいいでしょうか」っていう質問。
 だから私、即答いたしました。
 「『頑固おやじ』っていうのは、もうまさに、自力で山を登って山頂を踏破しようっていう生き方のことでしょう。負けられない、立派になろうっていう、プライドの道を上ってるだけです。偉い父親であろう、尊敬される夫であろう、強い男性であろう、褒められる社会人であろう・・・。だけど、ホントの自分はちっともそうではないから、だんだん頑固になる。『頑固』っていうのは、自分を守るっていうことですから。そこを譲ったら自分が壊れちゃうと思い込んでいるので、そこだけは譲れんっていう自分勝手な掟を造りだして、必死に守ってる。それもある種の原理主義ですよね。
 人間でも集団でも宗教でも、頑固なのは、弱いから。その弱さを隠したいから。
 そこから逃れる道はただ一つ。自分の弱さを認めて、私たちはホントに弱い存在だということを受け入れて、自分勝手な原理を手放して、弱いもの同士、そろりそろりと下りていく道。そんな道が、あなたを本当に自由にしますよ。あなたを柔軟にし、人と心が通い合い、罪人をも受け入れ、どんな試練とも希望を持って向かい合える。・・・それが、『頑固おやじ』から逃れる道です」。
 年取って頑固になるとしたら、それは自分を守ろうと思って必死になってるってことです。
 ・・・守る必要はないんですよ。イエスが守ってくださってるから。

 今日この後、病者の塗油の秘跡(※11)をお授けいたしますけれど、病者の塗油を授かる方は、完全に無力になって受けていただきたい。
 「自力では、もうどうしようもない」っていう無力。しかし、「神の愛を信じるならば、そこに神の国が現れる」っていう信仰。それのみに希望を持って、受けていただきたい。
 先週は、順天堂病院、その前は女子医大と、病者の塗油を授けて回りましたけど、どこの病院に行っても、病者はみんな似てるんですよ、とっても。その病者の切実さが。それはもう、「本当に、この秘跡しか、もう私にはありません」っていう・・・。
 順天堂の方も女子医大の方も、相当深刻な状況なんです。でも、だからこそ、後は信じることだけになる。信じること自体が救いになる。「もう後は、すべて秘跡に委ねます」と、そういう気持ち。もちろん、それで治るっていう以上の、永遠の救いを信じますっていう意味でね。
 「もうこの私の魂を救えるのは、この私の闇を救えるのは、神さましかありません。どうか、その信仰を強めてください、永遠なる救いのしるし(・ ・ ・)をお与えください!」っていうその気配が、すごく共通してる。
 私は、秘跡を授ける時は、いつも、「秘跡の恵みを本当に信じますか」とお尋ねします。
 「これは、神さまが本当に(・ ・ ・)あなたを救ってくださる、いや、もう救いのうちにある、神からの最高のしるしなんだから、全面的に信じていただかないと、お授けできないんです。本当に、この秘跡を通して、神の愛、キリストの恵みに触れると、あなたは信じますか?」
 病院でいつも私、そういうようなことをお尋ねします。
 そうすると、それに答える人たちの切実さが、どこでもいつも、まったく一緒なんです。
 もう、間髪を入れず、本当に、心から、というまなざしで、私に、
 「信じます!」って言うんですよ。
 その切実さ、必死さっていうのは、深刻な状況の病室で病者の塗油を授ける時に、いつも共通してる。・・・「信じます!」と。
 まさに、その信仰こそが、救いのしるしなんです。
 その時、その人はキリストと一つになっているし、もう神の国はそこに始まっている。

 信仰のうちに、今日、病者の塗油の秘跡を受けていただきたいと思います。
 そのためにもまず、信仰宣言(※12)をしていただいて、声を合わせて「信じます」と、そう宣言してから、秘跡を受けることと致しましょう。
 病者の塗油の秘跡を受ける方は、お立ちください。
 皆さん、信仰宣言をいたしましょう。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1「世界病者の日」
 「世界病者の日」は、教皇ヨハネ・パウロ2世によって定められ、1993年、「ルルドの聖母」の記念日でもある2月11日から始まった。以降、歴代教皇は毎年、この日に寄せて、メッセージを送っている。
 この日は特に、心身に苦しみ、病を持つすべて人が、ふさわしい援助が受けられるよう、また、その苦しみの意味や価値を信仰の光に照らされて受け止めることができるよう祈り、また、活動を見直す。
 それは教会関係者だけにとどまらず、広く一般に呼びかけるよう勧められている。
(参考)
・ 「第23回 『世界病者の日』教皇メッセージ2015/2/11(カトリック中央協議会)
・ 「世界病者の日/ルルドの聖母の記念日」(カトリック中央協議会)
・ 「教皇祈願日メッセージ:世界病者の日」(カトリック中央協議会)
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※2:「病気の方々のお名前を記したカードを入れた封筒」
【画像】この封筒の中に、お名前を記したカードが入っています。
 
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※3:「シモン・ペトロの家に行って、病者に会います」
本日、2015年2月8日〈年間第5主日〉の福音朗読箇所は、
 マルコによる福音書 1章29〜39節。
  〈小見出し:「多くの病人を癒やす」「巡回して宣教する」〉
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※4:「今日、第1朗読を読んで、・・・」
本日、2015年2月8日〈年間第5主日〉の第1朗読箇所は、
 ヨブ記7章1〜4節、6〜7節。
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※5:「今日の表題にもなっている所ですね」
 2015年2月8日〈年間第5主日〉の『聖書と典礼』(ミサごとに会衆に配布される小冊子)の表紙には、「神と対面するヨブ」(13世紀、聖書写本)の絵が載り、タイトルには、「忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを」(ヨブ1:7)とある。(実際には「ヨブ7:7より」)
 この絵は、下の参考からご覧いただくことができます。
(参考)
・ 「2015年2月8日 年間第5主日 B年(緑)
  ・・・(『聖書と典礼』表紙絵解説:オリエンス宗教研究所)
・ 『聖書と典礼』(オリエンス宗教研究所)についてのご紹介は、以前、こちらに掲載。
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※6:「『ヨブだって、苦しめば神を呪うぞ』と言って、いろんな苦難を与えるんですけど」
ヨブ記1章8節〜2章6節参照
 主(=神)は義人ヨブを喜び、サタンに示すが、サタンはヨブの信仰は利益を期待するもので、財を失えば、神を呪うようになるだろうと言う。神はサタンに、ヨブに手出しをしないことを条件に、財を奪うことを許したので、彼は家畜や牧童、家などの財産や子どもまで失うことになるが、神を非難することも、罪を犯すこともなかった。
 しかしサタンは懲りることなく、今度は、ヨブ自身の肉体に危害を加えれば、絶対にあなたを呪うだろうと、神を挑発し、神はそれに応ずる。そこで、サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏まで、ひどい皮膚病にかからせた。
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※7:「先週、初めてミサに来られた方がいるって、お話しましたでしょ」
 先週の説教「阿弥陀如来に遣わされて」(「福音の村」2015年2月1日〈年間第4主日〉)の上から3段落目をお読みください。
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※8:「第2朗読」
本日、2015年2月8日〈年間第5主日〉の第2朗読箇所は、
 コリントの教会への手紙一 9章16〜19節、22〜23節。
  〈小見出し:「使徒の権利」(9章1〜27節)から抜粋〉
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※9:「『世界病者の日』の教皇メッセージ、出ております。今週のカトリック新聞に全文載っておりますので、ぜひ読んでください」
(参考)
・ 「第23回(2015年2月11日)『世界病者の日』教皇メッセージ」
   ・・・(『カトリック新聞』2015年2月8日第4277号4面)
・ 「『世界病者の日』教皇メッセージ」(カトリック新聞オンライン)
・ 「第23回 『世界病者の日』教皇メッセージ」(2015年2月11日)」(カトリック中央協議会)
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※10:「先週、お寺さんに行ったって話、しましたけど」
 先週の説教「阿弥陀如来に遣わされて」(「福音の村」2015年2月1日〈年間第4主日〉)の説教中盤から(上から5段落目から)をお読みください。(>>>この辺から。←端末機器によってはジャンプできます)
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※11:「病者の塗油の秘跡」〈少し詳細は既出
 7つの秘跡(キリストによって制定され、教会に委ねられた、秘められた神のわざを示す感覚的しるし)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
 重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
 12世紀ごろから次第に臨終の病人のみに限られるようになり、「終油の秘跡」と呼ばれるようになっていったが、第二バチカン公会議を経て、現在では臨終の時に限らず与えられ、「病者の塗油」という名称に改められている。
 教皇フランシスコは、2014年2月26日の一般謁見演説の中で、この「病者の塗油の秘跡」について言及し、「人間に対する神のあわれみに、手で触れることを可能にしてくれる」と述べ、改めて「この秘跡が、イエスが病者や高齢者に寄り添ってくださることを確かなものとすること、また、65歳以上の人ならだれでも受けることができること」を伝え、「慰めと、前に進むためのイエスの力を与えて」もらうようにと勧めた。
(参考)
・ 「病者の塗油の秘跡」:『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)p457-465
・ 「病者の塗油」:『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008年)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)
・ 「病者の塗油の秘跡」(「キリスト教マメ知識」ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡」()()(この秘跡を受ける者、授ける者)(この秘跡執行の効果)(「カテキズムを読もう」ラウダーテ)
・ 「教皇フランシスコの2014年2月26日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
・ 「ためらわず『病者の塗油』を」(カトリック新聞オンライン 2014年3月6日)
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※12:「信仰宣言」
 使徒の時代から、教会は固有の信仰箇条をまとめ、基準となる一定の言葉で表明し、伝えてきた。信徒が宣言する、このまとめを、「信仰宣言」(クレド)と呼んでいる。特に教会は、早い時代から、洗礼志願者のために、その核心をまとめてきた。
 最初の「信仰宣言」は、洗礼のとき行われるが、同時に、教会の歴史の上で、さまざまな形でまとめられてきており、その中でも、特に重要な地位を占めているのが、「使徒信条」と、「ニケア・コンスタンチノープル信条」である。
 「使徒信条」は、「使徒たちの信仰の忠実なまとめ」とみなされる、ローマ教会の古い洗礼信条であり、「ニケア・コンスタンチノープル信条」は、最初の二つの公会議(325年、381年)に由来しており、東方西方の主要教会で、今日もなお共通している。
 現在も、すべての主日と祭日に、ミサ中、説教の後、「洗礼式の信仰宣言」「使徒信条」「ニケア・コンスタンチノープル信条」の、いずれかの形式で唱えられている。
 「信仰を持って信条を唱えることは、父と子と聖霊である神との交わりに入ることであり、また、私たちに信仰を与え、信じる私たちを懐に抱く全教会との交わりにも加わること」(『カトリック教会のカテキズム』197項)と示されている。
(参考)
・ 「使徒信条2004/2/18(カトリック中央協議会)
・ 「ニケア・コンスタンチノープル信条2004/2/18(カトリック中央協議会)
・ 「信条」:『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)p.63-66
・ 「13.信仰宣言」:『ともにささげるミサ(改訂版)』(オリエンス宗教研究所、2006年)p.22 など
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2015年2月8日 (日) 録音/2015年2月15日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英