ぼく、残るよ

2015年8月30日年間第22主日
・第1朗読:申命記(申命記4・1-2、6-8)
・第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ1・17-18、21b-22、27)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ7・1-8、14-15、21-23)

【晴佐久神父様 説教】

 ついに、三つ目のキャンプも、成功のうちに終わりました。
 おととし、加計呂麻島(かけろまじま)に合宿所をつくってから(※1)、なんとか活用したいと、去年はキャンプを二つして(※2)、で、今年はさらに活用しようと、キャンプを三つして(※3)、その三つ目のキャンプがおととい終わって、無事に帰ってきて、責任者として本当にホッとしているところです。
 三つのキャンプを無事に終えて、安心して、・・・まあ正直、疲れ果てました。(笑) 私、よくやるな~と自分で思います。感心します。しかし、みんなの喜び顔を見ると、吹き飛ぶんですよ。これはもう、・・・何でしょう、・・・性分ですね。
 たとえば、日帰りで無人島の前まで連れて行って、で、うねりがあると泳いで渡ったりするわけですけど、みんなもう、その島を見た途端、歓声が上がるわけですね。
 「うわ~! きれいっ!!」
 舟から海の中を見おろすと、プールのように透き通っていてね、
 「うわ~! すごいっ!!」
 もう、そのひと言を聞くと、私の中で、ふふふ・・・っていうような思いが沸き起こってきて、得難い、・・・これはまさに、得難い喜びです。
 「人を喜ばせる」っていうのが、実は一番の喜びなんですよね。人に喜ばされてるうちは、なんかまだ、ただの「喜び」だけど、「人を喜ばせる」っていう喜びは、これはもう、かけがえがない。
 三つのキャンプを無事に終えて、ホントに安心してますし、「よ~し、来年は四つ行くぞ!」と、まあ、そう思っているところですが。もう誰も、この神父を止めることはできない。(笑)

 美しい島です。汚れがない。
 渡ってすぐに、ぼくに言ってくれた青年がいる。
 「神父さん、すごいです。上から下まで、ぜんぶきれい!」って言ったんですよ。
 「当たり前」って言えば当たり前です。天から地まで、すべて神さまがお創りになった。空も美しい、丘も美しい、浜も美しい、海も美しい、海の中に潜ればホントに美しい。上から下まで、ぜ~んぶきれい。神さまがおつくりになったのだから、美しいに決まっている。清らかなんです。・・・汚れがない。
 浜なんか、清潔そのものですよ。ソーセージを落として、「ああ、落としちゃった~! 残念~」みたいに言ってるヤツがいたから、「そんな! この砂、大粒ですぐ落ちるし、この浜ほど清潔な浜はない。君の手の方がよっぽど汚いよ」って言ったら、(笑) 傷ついてましたけど。(笑)

 本来、神さまがおつくりになったものは、汚れがないんです。
 皆さん、よくよく考えてみてください。神さまがつくったんだから、皆さん自身も、本質的に汚れがないんです。「汚れがある」と思ってるだけなんです。
 イエスさま、さっき言いました(※4)
 「人の心の中から出てくるものが人を汚す」(cf.マルコ7:23)
 汚れてないのに、「汚れてる」って言い出す心から、汚れが生まれるんです。
 神さま、汚れを生みませんでしたよ。私たちが生み出しているんですよ、「汚れ」っていうものを。だって、この世界は、汚いもの、きれいなものって、本来ないはずですよね。人間が主観的に決めてるんです。「あれは汚い」「これはきれい」って。
 キャンプから帰ってきて、おととい寝室を開けたら、壁にコウモリが止まってるんですよ。(・・・笑) いやもう、ビックリしてね。あれたぶん、エアコンのダクトから入ってくるんじゃないですかね。鍵閉めてあった部屋ですよ。・・・どこから入ってきたのか。あるいは、以前、窓を開けてたときに入ったままになってたのか。
 ともかくビックリして、ぼく、あんまりそういうの得意な方じゃないんで、もう、すぐに同居人の所に飛んで行ってですね、
 「ねえ、お願いっ! なんかいるっ! 捕って! 追い出して!!ヽ(゚Д゚*)ノ」
 すると、同居人、地元で慣れてるのか、タオルでむんずと掴んで、ボンと放り出してくれて。で、そのタオルを、また、元の所に畳んで戻そうとするから、(笑) 「えっ? それ、洗おうよ」って。(笑) でも彼、「別に汚くないよ」って言うんです。
 確かに、よくよく考えてみると、「何が汚い、何がきれい」って、人間の都合なんですよね。主観というか、趣味というか。コウモリなんて、田んぼの虫を食べてくれる益獣(えきじゅう)なんでしょ?(※5) とっても役に立っているし、実は結構、自然界のものって、清潔ですよね。ぼくらが一番汚いんじゃないか。ゴキブリが汚いって言うけど、そのゴキブリにシュ~ッと撒く薬品が、一番汚いわけでしょ、よくよく考えてみると。
 神さまがおつくりになった、この美しい世界、その中に生かされている私。
 ・・・ホントに清らかなんですよ、本来的に。汚いものはすべて人間の心が作り出した。
 「こんな自分は汚れている」とか、「役に立たない」とか、「あんなヤツは汚れている」とか、「何の役にも立ってない」とかって、そう思うのは、その人の心がそう思ってるだけで、それはホントじゃない。この世の習慣に(だま)されてるんです。思い込まされてるんです。「汚れ」っていうのは、そういうこと。
 実は人こそが、汚れを生み出している。人こそが、汚れの源になっちゃってる。それを、まあ、「罪」って呼んでいいんじゃないですかねえ。

 ファリサイ派の人たちが弟子たちを厳しく責めますね。(cf.マルコ7:2-5)
 「汚れたものを触っているのに、手も洗わずに食事をする。そんなお前たちは汚れている!」
 ホントは汚れてないんですよ。弟子たちだって神の子で、美しい存在なんです。
 そもそも、地方の出身だからか、あるいは貧しいからなのか、ファリサイ派のような都市のエリートたちの生活とは違って、素朴な暮らしをしてたんじゃないですか。エリートから見ると不潔な生活をしてたりしてるから、「弟子だなんて偉そうなこと言ったって、実態はこんなに(おきて)破りの汚い暮らしをしてるのか」って、ファリサイ派の人は、そう責めるわけです。でも、弟子たちには弟子たちの文化があり、都合があり、やっぱり、それをお互いに受け入れ合って、優しく受け止め合ってっていうところが、ホントは、私たちの最も清らかなところなのに、ファリサイ派の人たちは、掟を盾に・・・「愛のない掟」を盾に、人々を裁く。
 実は、それが「汚れ」なんじゃないですか? 分かりやすくひと言で言うならば、
 「誰かを汚れているという心が、一番汚れている」
 そういうことじゃないですかねえ。だって汚れてないんだから、誰も。
 コウモリだって、ミミズだって、ゴキブリだって、この素晴らしい生態系の中で役割を果たしている美しい生きものであるはず。・・・ですよね? これが、部屋に、かわいい白い子ネコでもいたら、「あ~っ♪ 子ネコちゃん♡」なんてね、かわいがるわけでしょ? 勝手なもんですよ。実は子ネコの方が、ノミやらダニやら付いていそうなもんですけど。(笑)
 ぼくらは、なんか、自分の思い込みで、気に入った人は「美しい」と言い、排除したい人は「汚い」と言い、そういう心が汚れてるんです。「人の心から汚れたものが出てくる」(cf.マルコ7:23)って、そういうことじゃないの?
 イエスさまが、ここで言っている、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(かんいん)貪欲(どんよく)、・・・」(cf.マルコ7:21-22)って、こういうのみんな、自分の利益のために人を利用するというか、何かこう、汚れた思い、人に対する、奪おうとしたり、排除しようとしたりする、汚れた思いのことじゃないですか? 「悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢(ごうまん)、無分別」(cf.マルコ7: 22)、・・・ぜんぶ、人間関係でしょ。人を人とも思わず、「この人は汚れている」「この人はいらない」「この人を利用して儲けてやれ」、・・・そんなことを思っている、それが一番の汚れでしょう。
 大自然の中には、そんなものない。みんなお互いに自分を犠牲にして成り立ってるわけですから、自然界は。犠牲って言ったって、当然のことだから、何とも思わない。食べられても文句言うでなし。でもそれで、美しい汚れのない大自然が成り立っている。人間だけが、「自分だけ」なんて考えたりするから、汚れちゃってる。
 だから、自分を少し犠牲にして、もっと、みんなを喜ばせることを、まさにイエスさまみたいに、みんなを喜ばせることをせっせとやってれば、それが一番美しいんじゃないですかねえ。
 「愛のない掟」って、なんか結局、「力ある人を守るため」っていうようなところがあって、弱い人たちは、そんな掟じゃ生きていけない。そういう現実、ありますよ。

 ベースキャンプの合宿所のある加計呂麻島っていう所は、超過疎でですね、独自の文化が根付いてるんですね。自分たちのコミュニティーの暗黙の掟が機能していて、細かい法律は無視されがちなんです。なにしろ、警察官がいない。・・・いや、ひとりだけいる。小学校の前に立っている警察官の人形。(笑) 時々、小学生がペンキを塗り直したりしてる。
 駐在さんはいるんだけれど、まあ、地元系の人で、お互いゆるゆるっていうか、ナンバーのない車が走ってたりね、軽トラの荷台に人乗せて走ってたり。でもまあ、超過疎で、そうしなきゃやってけないというか、ルールはルールで守らなきゃならないけれども、地域共同体ってお互いほとんど知り合いっていうのもあるから、お互いに譲り合ったり目をつぶったりして成り立ってるところがある。・・・大都会みたいにね、まったく知らない同士が生きてかなきゃなんない所では、ピシッと守らなきゃならないルールでも、ホントに小さなコミュニティーでは、ただ厳しく守ればいいってもんじゃなくって、そこは愛のあるルールとして、お互いに譲り合ったり、察し合ったりするっていう、・・・掟って、そこが一番大事でしょ?
 かつて、よそから来た駐在さんが、その辺の空気が読めずに、一度厳しく取り締まったことがあるんですって。そしたら、ある日、駐在所に、生きたハブが投げ込まれたって。ほどなく転勤していったわけですけど、引き継ぎノートに、「厳しく取り締まりすぎると、ハブを投げ込まれる」って書いてあったって。(笑)
 ところが、最近、本島から警官が来て取り締まりが厳しくなっているっていう話があって、「軽トラの荷台に人乗せていると取り締まられるぞ」って聞いたんです。でも、加計呂麻島唯一のレンタカー屋が貸してくれるのが軽トラしかないから、20人近くの人間運んだりするのに、荷台に載せて走るしかないんですよ、ぼくら。そうしたらね、今回、捕まっちゃいました。港の近くで。だけど、さすがにお巡りさんも親切でね。
 で、「どこ行くんだ」って言うから、
 「港までみんなを運んでるとこです。もうすぐ、舟、出るんです」
 「そうか。それじゃあ、しょうがないな。・・・まあでも、見過ごすわけにいかないから、ここからはみんな下りて歩いてくれ」と言って許してくれた。
 まあ、都内じゃ厳しい取り締まりも、地方に行くと、いろいろと事情を()んでくれる。「愛のある掟」っていうかね、ただ一方的に裁いたりしない。その点、ただ他者を断罪するだけの「愛のない掟」っていうものは、ホントに人を縛りつけるし、それは、美しくない。

 無人島に渡る舟、12人乗りなんですね。法律で13人以上、乗っちゃいけない。昔はゆるゆるで、結構、15人、16人乗せてくれてたんだけれど、最近、海上保安庁の取り締まりが厳しいとかで、「乗せられない」って言うんですよ。しょうがないから、2往復になる。・・・だけど大変なんですよ、2往復は。遠い島だし。往復で1時間かかる。2往復だと2時間。これ、二組に分かれて、帰りも2往復だと、もう2時間。なかなかこう、プログラム的にもうまくいかないし、お金もかかるし・・・。
 今回台風15号のおかげで、なかなか無人島に渡れずにいたとき、加計呂麻島の桟橋のある港に船で行って、そこで泳いだりしたんですけど、16人だったんで、しょうがないから行きは2往復したんですね。でも、帰りは遅くなっちゃって、また2往復する時間もないし、どうしようかって。
 ちょっと遠いけど陸路もあるんで、軽トラで迎えに来ようかとかっていろいろ算段してたら、船長がね、「まあ、いいや。乗れ、乗れ」って言うんですよ。「ここは誰も見てないから乗れる」と。しかし、降りる港では見られるかもしれないから、「港に着く前に、4人飛び降りて泳げ」って。(笑) まあ、愛のある、(笑) 判断ですよね。おかげで時間も手間もお金も助かったし、着く港だってきれいな海で、泳いでいく方が楽しいくらいなもんですけど。「降りる時、12人ならいいんだ」って。(笑)
 こういうの、掟第一じゃなく、人間第一というか、愛ですよね。ここを、ただもう厳しく、厳しくやる場合が多いけど、・・・何ていうんだろう、結局、どうして厳しくするのかって言えば、愛がないからそうせざるを得ないだけなんですよね。

 昨日も、「学校に行けなくなった」って、ひとりの中高生が、夜のミサの後、相談してくれましたけど、「なんで行けないの?」って言ったら、「学校が厳し過ぎて行きたくない」って言うんですよ。「厳しいルールを守るのが、ホントにつらい」って。さてそこで神父、何て言うべきか。
 「いいや。ルールは大事だ。がんばって学校に行って、しっかりルール守ろうよ」って言うのか、それとも、
 「厳し過ぎて守るのがつらいなら、しょうがないよ。だいじょうぶ、学校に行かなくったって、絶対に君は幸せになれるよ、安心してね」って言ったか。
 どっちを言ったかは、ここでは伏せておきますけれど、(笑) ・・・だけどさ、かわいそうでしょ? 掟が守れなくって、つらくって、学校に行きたくないって苦しんでる。そういう子どもを生み出すシステムって何だろう・・・なんのための学校なんだろう・・・謎ですよね。美しくないと思う。
 本来みんな清らかなのに、人の中から、・・・思うとおりに育てたいとか、自分の力で支配したいとか、自分の思いは絶対だと思い込んで押し付けるとか、あるいは、時には、自分の怒りをね、そんな掟に託して守れない誰かにぶつけてるとか、そんな汚れた思いが出てくるっていうのがあると思いますよ。もっとなんかこう、本来の清らかさを生きたいなあと思うんですけどねえ。

 今年の二つ目のキャンプで、海も安定してきて、ついに無人島に一日だけ渡れるっていう日があって、この日に、「どうしても渡りたい人!」って言ったら、ちょ~ど12人手が挙がったんですよ。「あ~、よかった♪」と思ってね。だって15人手が挙がったら2往復。それはなかなか難しい。12人ならちょうどですから。この二つ目のキャンプは、心の病で苦しんでいるみんなのキャンプなので、「無人島には行きたくない」っていう人もいるんで、まあ、その意味では、12人でちょうどよかったんです。
 ところが、港に行って、さあ乗ろうとしたら、13人いるんですよ。どこでどう数え間違えたのか、13人いる。私は行かないわけにはいかない。で、どうしよう・・・と。船長さんとは、もう「12」っていう約束でね、信頼関係つくってきてるし、困ったな~と思って。
 さっそく、シスターがね、「私、残ります」って言ったんだけど、私的には、「いやいや、初めて来たあなたにこそ、この島見せたいし、ぜひ、渡ってもらいたい」と。
 それからもうひとり、私の相方と言っていい主要メンバーがいて、彼が「俺、残るよ」って言うんだけど、いや、彼がいてくれないと、無人島に渡るときが不安。・・・後で考えたら実際、そうだったわけで、ともかく彼は外せない。で、他のメンバーはみんな、「行きたいよぉ~」って顔してるわけですよね。ぼくとしても、み~んな連れて行きたい。
 だからもう、「13人いても、どうせ船長さん、分かんないだろう。数えられないように、みんな、チョコマカ動いてなさい」みたいに、(笑)言おうかな~と思ったんだけど、そういうズルもね~、やっぱ気分悪い。・・・さあ、どうしようって、ホンット困った。
 そしたら、ひとり、私の耳元でですね、そっと、「俺、残るから、みんな舟に乗せて」って言ったやつがいる。私、もう、うれしくなってね、「はい、それじゃ、みんな、乗りますよ~!」って言って舟に乗せました。で、舟が岸壁を離れるときに、彼は岸壁に残ってるわけですよ。
 で、みんな、「えっ?! 行かないの?」って言ったら、
 「うん、俺、残るから」って。
 ・・・カッコいいでしょう?
 その彼は、その直後、最後の日のミサで、洗礼を受けました。前回お話ししたとおり、海の中での洗礼式ですね(※6)
 この、「自分は犠牲になって、人を喜ばせたい」っていう気持ち、これ、美しいですね。
 で、私、思うんですよ。
 ・・・自然界って、それでできてるんじゃないの? 実は、それがスタンダード。
 自分を犠牲にして、人を生かす。
 そこに喜びが生まれる。
 自分もうれしい。
 なんか、そういうことで、自然界、つくられているのに、人間だけがそうじゃなく、「自分は犠牲にしたくない」って、「自分は得したい」っていう、「自分だけは」って思いが出てくるところから、この、「これら」が出てくるんでしょうねえ。「盗み、殺意、貪欲、詐欺、悪口(あっこう)、傲慢」(cf.マルコ7:21-22)、こういう悪は、みんな、人の中から出てくる汚れ。
 でも私たちの中に、「ぼく、残るよ」っていう美しさもある。本来の清らかさ。イエス・キリストが、完全にそうであるような、本来の清らかさ。それが、誰の中にでもあるはず。皆さんの中にもあるはず。・・・すべての人に与えられている、本来の清らかさ。
 これはやっぱり、神さまからの最高の贈り物ですし、ああいう美しい島で、何かそういうことを発見してくれたらうれしいなと思う。

 だから、結局彼だけ、無人島に渡れなかったわけで、この新受洗者を、いつかぜひ渡してあげたいなあと思ってたわけですけど、今回の三つ目の無人島キャンプが始まるその日にですね、突然聖霊が降りて、朝、成田でメール打ったんですよ。
 「君を、どうしても連れて行きたい。3時間以内に成田に来たら、全額出して連れてってあげる」
 ・・・来たんですよ、そしたら。(笑) 急きょ。・・・うれしかったねえ。
 ところが、台風15号で渡れない。そして、もうついに「今年は渡れない」ってはっきりしてきて、まあ、せっかくまた来た彼には残念なことしたなあと思ってたんですけれど、最後の最後の日になって、海が安定して渡れることになった。
 しかし、・・・「最後の日」っていうのは、翌日、東京に帰る日ですから、最後の日に渡って1泊したらですよ、帰ってきたって、今度はそのまま空港ですから、テントも洗えない、ボートも畳めない、何も片付けられない。だから、最後の日に渡って一泊して戻ってくるなんていうことは、ぼく、したこともないし、絶対できないと思ってた。この三つ目の無人島キャンプグループの場合は、日帰りなんてことは考えられないし。
 でも、どうしてもみんなを渡したいから、ともかく行こうと。でも、そうすると片付けられない。
 唯一の方法は、誰かが数日後に残って、みんなの分を全部片付けてくれるっていうんなら、これは可能だ。
 そんな話をしてたらですね、ひとり、ぼくの耳元で、言ったやつがいた。「ぼく、残るよ」。
 ・・・またまた、例の彼が、いまや新受洗者ですけど、そう言うんですよ。美しいね〜。美しい心だと思う。
 というわけで、新受洗者、今、ベースキャンプに残って、みんなのシーツを洗って干し、ゴムボートを畳んでしまい、掃除してるんですよ。こうお話ししてる今も、がんばってると思いますよ。
 ・・・美しいね。
 人の心の中に、そういうものがあるっていうことが、希望だね。
 無人島の美しさより、もっと美しいと思うね。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「おととし、加計呂麻島に合宿所をつくってから」
◎加計呂麻島 
 奄美群島内の島で、面積は77.25平方キロメートル。島内には小さな集落が30カ所ほど存在し、2014年8月現在の世帯数は、872世帯、人口は1,325人
 (下の地図内、左上の「拡大地図を表示」をクリックすると、別ページにGoogleマップが開き、詳しく表示されます)
 
(参考)
・ 「KAKEROMA.COMホームページ
・ 「加計呂麻島」(ウィキペディア)
――――――――――――――――
◎「合宿所をつくってから」
(画像はクリックで拡大表示されます)(参考)
・ 「さあ、船を出そうじゃないですか」(「福音の村」2013年5月5日説教)
   説教中盤、上から6段落目からをお読みください。
    ベースキャンプの隣の土地を入手できた次第が話されています。
・ 「見よ、それは極めて良かった」(「福音の村」2013年9月1日説教)
   説教上から4段落目(→この辺から)をお読みください。
    合宿所とスタジオが建った次第が話されています。
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※2:「去年はキャンプを二つして」
(参考)
・ ①「奇跡が起こりました!」(「福音の村」2014年8月17日説教)
   説教後半、下から3段落目から(→この辺のちょっと上から)をお読みください。
    心の病で苦しむ青年たちとの初めてのキャンプのことが話されています。
・ ②「トンネルの向こうには」(「福音の村」2014年8月31日説教)
    恒例の無人島キャンプのことが話されています。
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※3:「今年はさらに活用しようと、キャンプを三つして」
(参考)
 1度目は、カトリック多摩教会の中高生合宿
 2度目は、心の病で苦しむ青少年との「ここヤシキャンプ」
 3度目は、恒例の無人島キャンプ
――――――――
 1度目と2度目のキャンプについては、「浸礼、やっちゃいました」(「福音の村」2015年8月16日説教)で話されています。
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※4:「イエスさま、さっき言いました」
本日(2015年8月30日〈年間第22主日〉の福音朗読箇所
 マルコによる福音7章1〜8、14〜15、21〜23節
 〈小見出し:「昔の人の言い伝え」(7章1〜23節から抜粋)〉
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※5:「コウモリなんて、田んぼの虫を食べてくれる益獣なんでしょ?」
 都市部で人家に住み着くことが多いコウモリは、アブラコウモリ(イエコウモリ)。人家周辺を飛ぶ蚊や蛾などの害虫を捕食するため、益獣(えきじゅう)として認められている。(このアブラコウモリに限らず、日本に生息するコウモリは、鳥獣保護法の対象になっているので、勝手に殺傷駆除することはできない)体長は4センチ弱〜6センチくらい。翼を広げると20センチ前後。体重は7グラム前後。
 日本では、コウモリによる感染症の報告はないが、野生動物全般に言えることとして、人畜共通感染症の可能性があり、噛まれたり引っ掻かれたりしないように注意し、野生動物にはやたらに触らない、接触後は手を洗うべき、というのは基本である。
(参考)
・ 「コウモリがすみついた。どうしよう」(東洋蝙蝠研究所
・ 「アブラコウモリ」(ウィキペディア) ほか
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※6:「前回お話ししたとおり、海の中での洗礼式ですね」
「前回」、すなわち、
 「浸礼、やっちゃいました」(2015年8月16日説教)の後半、下から3段落目をお読みください。
 (画像はそれぞれクリックで拡大)
   

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〔画像:Special thanks: I さん☆〕
2015年8月30日 (日) 録音/2015年9月6日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英