毎日が巡礼、ここが聖地

2013年4月21日 復活節第4主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒13・14、43-52)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録7・9、14b-17)
・福音朗読::ヨハネによる福音(ヨハネ10・27-30)

【晴佐久神父様 説教】

 皆さんとお会いするのは2週間ぶりですね。たまには違う人のお説教もいいでしょう? いつもいつも、同じような説教ですみませんね。(笑)

 先週は、クロアチアという所を回っておりました。大好きになりましたよ、クロアチア。もう私、クロアチア人です。(笑)クロアチア語も、ペラペラになりました。と言っても、覚えたのはワンフレーズだけで、「モーリン ヴァス ツルノ ヴィーノ」。・・・意味は、「赤ワインをお願いします」(大笑)っていう意味ですけどね、それだけ覚えて、あとは安くておいしいクロアチアワインをいただきながら、まことにしあわせ~な一日一日を、32名の巡礼団で歩んでまいりました。
 おいしいワインっていうならば、なんつったって、ミサのワインが最高においしかった。それはもう、素晴らしい仲間たちと、素晴らしい聖堂で捧げるミサは、最高の味わいでしたから。そんなミサを一日一日捧げながら十日間、ミサを中心とする日々を過ごしました。それが「巡礼」ってことです。「巡礼という人生」ってことです。
 私たちの人生、普段から神に愛されてるんですよ。愛されているんだけれども、ちゃんとそれに気づいていないから、週に一度はミサに来て、「ああ、ホントに私、だいじょうぶなんだ」「神から頂いた命は永遠なんだ」「神の愛のうちに歩んでいけば何にも恐れることはないんだ」と知って安心する。でも、翌日から六日間そのことを忘れちゃってるから、また七日目に集まって「ああ、ホントに愛されてるんだ」っていう繰り返し。これが、巡礼という人生、ですね。やがて、聖なる神の国に辿り着くまで、そうして歩んでいく。それでいいんじゃないですか? ミサで励まされて、ミサに生かされて、もう一歩、また一歩。
 ただ、時にですね、実際に巡礼地に行って、毎日ミサをしながら回っていく文字通りの巡礼をするっていうのは、これは、「強化週間」みたいな感じですね。そのときは、ギュッと固めて、「本当に私の人生は巡礼の旅だ」っていう恵みを味わう。いいもんですよ。

 巡礼旅行のときは、私はいつもまず成田でミサをしてから出発するんですけど、それを知っていながら今回、旅行会社がですね、「今回は出発の朝の飛行機が早いので、いつものようなミサができません」って言うんですよ。いつも、成田の空港で団体の待合室を有料で借りてね、みんなでミサをして、「私たちは家族だ! さあ、出発だ!」ってやるんですけど、それが「できません」って言う。さすがに温厚な晴佐久神父もムッとしてですね、(笑)旅行会社にはっきりと申し上げたんです。
 「それなら、全員、前日に集めてくれ。成田のホテルに午後集まって、一緒にミサをして、結団式をして、食事をして、家族になって一泊して、翌朝飛行機に乗って出発しよう」
 ということで今回は、前日に、みんな全国から集まってきて、成田のホテルで「よろしくお願いします」と互いに紹介し合って、ミサをした。ホテルにはほら、結婚式で使うチャペルがあるでしょ、(笑)たぶん、あのチャペル、カトリックのミサが捧げられたのは初めてだと思いますが。そこで、持って行った祭壇布かけて、パンとぶどう酒用意して、祭服着て、侍者も付けて、聖なるミサ。いいもんですよ。
 すると、ミサの後、誰かが、「神父さま、これ、みんな泊まるんだから、明日の朝もミサできるんじゃないですか?」って言いだした。「そりゃそうだ、早起きすればできるね」ってことで、翌朝はみんな早起きして早朝のミサ。出発前にもう2回もミサしちゃって、「いったい、いつ出かけるの?」って感じですけど、そうしてミサを重ねることでどんどん仲良くなり、一つになり、キリストの家族になり。いい巡礼の旅でした。各地でミサをしながら回る旅。

 クロアチアっていう所、あんまりご存じないでしょう(地図)。元ユーゴスラビアですね。あのセルビアやボスニアで、20年ほど前に大変な内戦があった地域です。有名な遺跡とかも爆撃に遭ったりした、悲惨な場所です。アドリア海を挟んだ、イタリアの反対側ね。それこそ、さっきの第1朗読で、パウロがユダヤ人の所で足の(ちり)を払って、「わたしは異邦人の方に行く」って言ってますけど、まさにユダヤから見れば異邦人の地です。
 そこにキリスト教が広まっていくわけですけど、由来は4世紀にさかのぼるっていう聖堂があるんですよ。すごいでしょ? 世界遺産の、エウフラシウス聖堂です(参照)。海辺の町(ポレッチ(地図))に建ってます。聖堂は6世紀に建ったものですけど、ともかくもう1500年も前の聖堂ですから、ホントに古い。その頃のままの黄金に輝くモザイク天井があって、モザイクって千年たっても色が変わりませんから、ホントに美しい(写真画像)。これが1500年前かっていうほどきれいに残ってて、これは後年のものですけど、中央祭壇の後陣の天蓋(てんがい)なんかは、青い石で埋め尽くされて、そこに金色の星がちりばめられていて美しいです。
 対岸のベネチアのサン・マルコ寺院にも似たようなモザイクがありますけど、ずっと後のものですね。このクロアチアに残されている1500年前の聖堂、まさにまだ殉教者の時代に建て始められたと聞きましたけど、そんな聖堂でミサができるんですよ。
 なんかねえ、キリスト教ってホントに、ミサ、洗礼、そういう秘跡で一致しているっていう実感が、巡礼に行くとすごく感じます。巡礼のミサをしていると、現地の人とかね、観光客とかだって、みんなそのミサに参加してきますからね。見知らぬ人にご聖体をお渡ししたりする。それはもう、1500年前に同じ場所で、熱い思いでミサに(あずか)った人たちとも響き合うんですよ。
 やっぱり巡礼の旅っていうのは、そういうのが一番ですね。一緒に歩く家族とつながり、現地の仲間ともつながり、歴史を歩んでいるキリスト者全体とつながる。キリスト者って、巡礼の旅人ですから、巡礼仲間なんですよ。そうして、千年後に生まれてくるキリスト者とも、家族として、共に歩み続けるんです。まことの聖地に向かってね。
 そのまことの聖地はもう、たとえば第2朗読にあったような、ヨハネが黙示したような聖地ですよ。これなんかはもう、その巡礼の果てに天にたどり着いた仲間たちの集いでしょ?
 「わたし〔ヨハネ〕が見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って〔いた。〕」(cf.黙7:9)
 それこそは、やがて私たちが目の当たりにする恵みの極みの光景。人間の言葉ではとても表せない、もっともっと神秘的な、言葉を超えた世界でしょう。そこに向かう、この巡礼の旅人である私たちを一つに結ぶのは、イエスです。イエス・キリストが、私たちのこの群れを一つにして、よき牧者として、この巡礼の旅路を守り導いてくださる。

 1500年前の聖堂でミサしていると、そのような、イエスにおける一致を感じて、ホントに幸いでした。もっとも、世界遺産ですから、普通には、その中央祭壇でミサなんかできないんですよ。そこはもう、とっておきの祭壇ですから、ロープが張られていて、内陣には入れない。だけど、そこでミサしたかったんですよ、私。「ここでやろうよ、ここでやろうよ」ってダダこねたんです。普通はね、巡礼団は、聖堂脇の小聖堂でミサをするんです。
 ところがですね、私が「ここでやろうよ」って冗談交じりに言ってたら、ちょうど聖堂の係の人がやって来て、申し訳なさそうに言うんです。
 「大変申し訳ないが、手違いで、前の巡礼団のミサがまだ続いているので、皆さんをしばらくお待たせしなければなりません」
 すると私の目がキラリと光ってですね、(笑)「それじゃあ、私たち時間もないんで、この中央祭壇でやらせていただきましょうか」。それを添乗員さんが交渉してくれている間に、私はもうさっさと、「じゃあ、皆さんここに入ってくださ~い」って、みんなをどんどん内陣に入れて、(笑)椅子を並べて座らせました。係の人が、「ここは特別な場所ですよ~」って言いながらぶどう酒やパンを用意してくれて、美しいモザイクの下でミサをした。ミサって、1500年前と、本質はまったく変わってないでしょう? すべてとつながってるんですよ。1500年前の人ともつながっているし、今の人たちともつながってるし。つながっている家族としての安心、喜び。
 ミサの前に香部屋で準備始めたら、そこの主任司祭っていうのがやって来て、「ここでミサするのは構わないが、あなたは本当に神父か?」って言うんですよ。(笑)まあ、世の中にはいろんなのがいるからね。一応確認するわけでしょうけど、私としては、ちょっとムッとするわけですね、やっぱり。(笑)「まあ、日本じゃそれなりに名を知られてますけどね」(笑)なんて言ったところで、向こうにしてみれば全然知らない神父ですから。
 実は、司祭の証明書っていうのもあって、司教さまのサインを頂いたものを巡礼旅行に行くときなんかは、一応は持ってくんですけど、今まで使ったためしがない。一度だってそれを見せろなんて言われたことがないし。だから、バスの中に置いてきちゃってて、持ってなかった。それで「証明書持ってません」って言ったら、その神父が聞くんですよ。「それじゃあ質問しよう。今の教皇は誰か?」って。(大笑)私、すかさず、「フランシスコです! フランシスコです!!」。そうしたらOKが出て、なんとかミサを始められたわけですけど、気分的にはね、疑われたっていうことでなんだかモヤッとしてた。せっかく出会った異国の神父同士なのに、ちゃんとつながれなかったっていうか。
 それで、その神父に、日本の典礼がどれほど美しいか目に物見せてやると思って、いつもの2割増しで、ていねいにミサ捧げましたよ。そうすれば何かが通じるって思って。
 そうでなくても、私はきちんと丁寧に頭を下げ、きちんと丁寧に発音することを心がけてる方だと思うんですね。で、その日はいつにも増してきっちりやったら、やっぱり、同業者として神父はちゃんと見てるし、ああ、これは本物だ、真剣だって分かるんですよ。通じるものがある。最初は一番後ろで腕組んで見張ってたのが、やがて「おっ!」って感じで身を乗り出し、そのうちに前の方に出てきてミサに与り始め、「あれ? いなくなっちゃったな・・・」と思ったらカメラ持って帰ってきて、(笑)私たちのミサをせっせと撮り始めた。
 そして、ミサが終わった後、香部屋に来て、いたく感動して、「私はこんなに美しいミサを見たことがない!」って。ガイドさんの通訳介してですけど、「日本語はなんて美しいんだ!」って言うんですよ。「まるで歌っているように聞こえる」と。何も知らずに日本語を聞くと、イントネーションが歌のように聞こえるようですね。日本語、母音が美しい言葉ですしね、ホントに心のこもった典礼をすれば、通じるものがあるんです。
 滑舌(かつぜつ)よく、きっちり言葉を言うっていうことは大切なことだなって、改めてつくづく、そのとき思った。内容が分からなくても、心が届くんだから。だって、その言語できっちりしゃべっているかどうかなんて、分からないじゃないですか、知らなければ。でも、その神父は、その時の日本語の響きと、日本の典礼の丁寧さっていうのにえらく感動して、何度も何度もそのことをおっしゃって、握手求められ、その後も案内してくださり、聖堂を去るときには、ず~っと手を振りながら、最後まで見送ってくれた。うれしかったですよ。
 遠く離れた地の、おそらくもう二度と会うこともない神父だろうけど、「あっ、通じてる!」っていう、キリスト者の、この一致の感覚。典礼において、聖なるミサを共にしている喜びにおいて、人生という巡礼において、本当に礼拝をしているという実感において、「ちゃんとつながってる」という一致の感覚。やっぱり、私たちのミサは尊いですよ。そのミサを、全世界の人が心を合わせて捧げているし、全世界どこに行ってもみんな、「私たちの教皇フランシスコ」って唱えてミサを捧げてるわけじゃないですか。
 「今の教皇は誰か?」に答えられない司祭は、世界にひとりもいない。当たり前のことですよね。でもそれはすごいことでもあるんですよ。第266代の教皇のもとで、二千年続いているミサを、私たちは捧げております。
 洗礼を受けるっていうことは、そのような大群衆、白い衣を着てなつめやしを持っている天上の大群衆の端くれに加わったっていうことですし、このミサも、もうその大群衆の賛美に与ってるっていうことですから、救いの喜びをもって、聖なる巡礼の旅を続けていこうじゃないですか。
 洗礼を受けたにもかかわらず、私たちは本当に救われてるんだ、もうすでに神の国を生きてるんだっていう実感を持てないでいる人が、本当に多いです。皆さんの中にもいるかもしれない。巡礼団の中にもいました。でも、繰り返し、繰り返し、聖なるミサを、しかも世界遺産の聖堂で捧げながら回っていくと、「ああ、私は本当に救われてるんだ」って、実感として、体験として、分かっていくようになる。

 巡礼中、レストランで夕食を食べてたら、ある方が隣に座って、自分の問題をいろいろお話になる。巡礼旅行で神父の隣に座った人っていうのは、必ず悩みごとを相談します。(笑)いつもそう。別にそれ、私、いやじゃない。その人にとっては一生一度のね、何かこう、恵みのときだっていう思いがあるんでしょう。私も、それに応えるのが使命ですし。
 その方が言うには、「私は洗礼受けて、もう、すごく長い」と。まあ、幼児洗礼なんでしょうね。「だけど自分はホントにダメな人間。信者失格。いつも失敗ばかり。私は変わりたい。変わりたいんだけれども、どうしても変われない。どうしたら変われるでしょうか」って聞いてきた。
 そういう話をしてたら、突然、停電になったんですよ。みんな「あ~っ」とか言って、店内真っ暗。お店の人が、「すみません、すみません」とか、「すぐに直します」とか言ってるけど、一向に明るくならない。だから、その方と、続きは暗い中でお話してた。
 で、私が、「自分はダメな人間で、変わろうと思っても変われない」って言うこの人に、なんて答えたらいいかって言えば、もう答えははっきりとしているんで、お答えしました。
 「変わるな。変わらなくていい。神は今のあなたのままでも愛している。あなたは、変わらなきゃならない、ならないと思っていることで、いつも自分をおとしめている。それを神さまはお喜びになっていない。あなたは本当に神に愛されているし、恵みの世界を生きているし、現にあなたがこうして信仰のうちに、この信仰の家族と巡礼の旅を一緒に歩んでいるのは、すべて神の恵みのうちにある。あなたはそれを、ただただ、感謝して受け止めなければならない。これほどの恵みを受けていながらまだ、私はまだ足りない、変わらなければ、変わらなければと思っているとしたら、変わらなければ愛されないということであり、それは神さまに失礼だ。神はあなたを愛しているし、この旅に連れ出して、喜ばせて、ご自分の無償の愛に気づかせようとしている。もし変わりたいのであれば、今までそれを知らずに苦しんでいた、そのとらわれから解放されて、神の恵みに目覚めて安心することをもって、『変わった』と言いなさい」
 彼女は驚き、そして喜んで、「いいんですか? それでいいんですか?」
 「はい、それでいいんです」
 「分かりました。私、今やっと分かった気がします。神さまを信じるってことが、分かった気がします」
 そう彼女が言ったとたん、レストランの人が、ろうそく持ってやって来たんです。で、テーブルの上に、ろうそくを置いてくれた。
 私、感動しました。だって、これって復活のろうそくじゃないですか。彼女に言いました。
 「これ、洗礼式ですね。あなたの長~い洗礼式、今ちゃんと完成しました。神があなたに語りかけてくれたんです。『そのあなたを、愛しているよ』と。それに気づくこと、目覚めることが、ホントの洗礼。おめでとう。これ、洗礼式だよ。あなた今、福音を聞いて洗礼受けたんだよ。ほら、ちゃんと復活のろうそくが、ともったじゃないですか」って言ったら、今度はお店の明かりがパッとついて、彼女の目から涙がこぼれているのが見えました。
 人生って、巡礼の旅ですよ。理屈じゃなくって、神さまがちゃ~んと導いてくれていて、長~い年月かけてちゃ~んと見守っていて、そしてあるとき、「聖地」で、聖なるみ言葉が、その人に宿る。救いが実現する。

 安心してください。皆さん、信じるならば、「毎日が巡礼、ここが聖地」です。歩んで行こうじゃないですか。そんな歩みのうちに、私たちは一つになります。
 イエスさまが、私たち羊の群れを、養ってくださいます。まさに日々、聖地に連れて行ってくださってるんです。毎日毎日、私たちにず~っと語りかけてくださるし、日々、永遠の命を与えてくださる。巡礼の人生において、私たちは決して滅びないし、誰も私たちをイエスの手から奪うことはできません。
 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」(ヨハネ10:27)
 皆さん、聞いてますか? 皆さんに、今、語りかけているイエスさまの声。
 ・・・「お前を愛しているよ」


【 下記のインターネットホームページをご参照ください。 】

※ クロアチア(地図) → Google マップ( http://goo.gl/IVAm0

※ エウフラシウス聖堂(説明) → ウィキペディア( http://goo.gl/2WXyD

※ ポレッチ(地図) → Google マップ( http://goo.gl/EVSOk

※ エウフラシウス聖堂(写真画像) → Dlift(ドリフト)( http://goo.gl/MMdPq

2013年4月20日 (土) 録音/2013年4月28日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英