ユルシ・キリスト

2013年6月16日 年間第11主日
・ 第1朗読:サムエル記(サムエル下12・7-10、13)
・ 第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ2・16、19-21)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ7・36-8・3)

【晴佐久神父様 説教】

 今日はこのイエスさまのお言葉が、この聖なるミサにおいて、ちゃんと皆さんに宣言されたと、そう信じて、安心して行きましょう。今、何てイエスさまに言われたんですか?
 「あなたの罪は赦された」(ルカ7:48)
 よかったですねえ、罪びとの皆さん。
 私たち、たくさん罪を犯してきましたし、すでに今朝だって思い当たることあるんじゃないですか? でも、実はすでに、人知をはるかに超えた神さまの恩寵(おんちょう)によって、ぜんぶゆるされているって信じてますか。
 反省し、改心するのは大切ですが、それは人間の(わざ)です。すべての人は神のゆるしの中に生まれてきて、神のゆるしに目覚めるように招かれているわけで、このゆるしに気づいたときにこそ、私たちのうちに救いが実現する。真の回心が生まれる。こっちから願ってゆるしてもらうって話じゃないんですよ。
 その意味では、われわれが自覚する「罪」って、実は大した罪じゃない。むしろ、すべてをゆるしている神のゆるしを知らない状態が罪なんじゃないですかね。

 今朝、私も罪を犯しました。
 今朝の私の罪はですね、日本時間の早朝、ブラジルで行われたサッカーの、日本対ブラジル、私のせいで日本が負けたんですよ。(笑)
 昔っからそうなんです。私がテレビをつけた途端に、点を入れられるんですよ。で、負けちゃう。野球でもそう。昔、西武ライオンズのファンだったころ、私がテレビをつけるとすぐに点を入れられて、結局、西武が負けたもんです。そういう体験、ないですか?
 今朝の日本対ブラジル戦の場合、NHKですけどね、そろそろ始まったかなと思ってテレビをつけたら、途端に点を入れられた。「あっ、やっぱり私がつけたからだ」と思って、あわてて消したけど、やっぱり気になって、「どうなってるんだろう・・・。そろそろ後半始まったな」と思って、そ〜っとつけたら、途端にまた点が。(笑)ホントですよ。で、また消してですね、ついさっき結果見たら、3-0で負けていました。私のせいです。本当に申し訳ない。

 これって、はたから見たら、ただの思い込みで、おかしいでしょう? でも、ぼくらの思う罪って、結構、こんな程度の思い込みなんですよ。「私が悪い、自分のせいだ」と思っていることでも、神さまの側では「あなたのせいだ」なんて思ってない。「いやいや、だいじょうぶだよ、安心していいんだよ。むしろ、最初っから、あなたを全部ゆるしている、この私の愛に気づいてくれ」っていう思いの方が、絶対強いんです。
 神の身にもなってみてください。まあ、なれませんけど、ほんの少しでも想像してみればわかると思いますよ。愛そのもである神さまにしてみたら、「あなたのここが悪い」って裁く思いよりも、「あなたがどうであろうとも、私はゆるしてるよ」っていう思いの方が強いに決まってます。これ、当たり前のことなんですけどねえ。
 にもかかわらず、私たちは自分が悪いと思い、だれかが悪いと思い、社会が悪いと思い、「悪い」「悪い」って、悪いものばかりを見つめて、神のゆるしを見損なう。
 「自分には、何かが足りないんじゃないか」「自分なんかは、だめなんじゃないか」「自分の人生は、恵まれてないんじゃないか」「自分には、何も与えられてないんじゃないか」・・・そんな、自分の「悪さ」ばかり見ていて、すべてをゆるして、すべてを祝福している神の愛を見損なわせる。悪の力って、そういうところがありますね。神の愛が見えないように、なんとか「悪」自身に注目させようとする。
 昨日も、ホントに些細なことを気にして「神父さま、ごめんなさい」って電話かけてきた方がおられましたので、お返事しました。
 「いやいや、そんなこと全然問題ない。謝ることじゃない。問題があるとすれば、あなたが、悪くないことを『悪い』と思っていること。神父に謝ったってしょうがない。神父があなたをゆるそうが、ゆるすまいが、どうでもいいことだから。大事なのは、神が、あなたのすべてをゆるしてるってこと。それに気づいて喜んでいないことが、あなたの問題です。あなた自身がどれほど悪人で、どれほど罪深くても、神はゆるし続けています。それに目覚めて、感謝して、自分を責めるのをやめましょう。あなたが悪いんじゃない。あなたが悪いと思い込ませている悪霊が悪いんです」

 さっき、アレルヤ唱で、「神は先にわたしたちを愛し」っていう言葉がありましたでしょう? それで言うなら、「神は先にわたしたちをゆるし」てるんです。徹底してゆるしてるんです。それをどうしても分からせたいからこそ、神は、イエス・キリストっていうゆるしを私たちに与えて、「これを見てくれ」って言ってるんです。
 「イエス・キリスト」って言われてもなんのことかピンとこないっていう人がいるんだったら、「ユルシ・キリスト」って、そう覚えてください。キリストは、徹底してゆるす神の「ゆるし」そのものです。神のゆるしであるキリストが与えられ、その十字架によって、もうぜんぶ、ゆるされている。そうして「ああ、よかった!」と神に感謝を捧げるとき、私たちの中に、神と私たちの本来の正しい関係というものが実現するんです。

 第2朗読でパウロが「義」について語ってましたけど、「義とされる」っていう言い方、ちょっと分かりにくい言い方なんで、その意味を説明しておきます。
 「義とされる」っていうのは、神さまと私たちが、本当にちゃんとした、あるべき正しい関係に入ることです。イエスのたとえでいうなら、神は親で、私たちは子どもなんだから、親子がきちんと親子の関係になることを、「義とされる」っていいます。・・・親子がちゃんと親子になること。
 親が子をちゃんと愛さなかったり、子が親の愛を知らなかったりしたら、親子じゃなくなっちゃう。親が「こんなの子どもじゃない」と思ったり、子どもが「こんなの親じゃない」と思ったりしたら、親子じゃなくなっちゃう。
 親は「あなたがどんな悪い子でも、大好きだよ」と言い、そういわれた子どもが「こんな悪い子だけど、ママ、ありがとう」って信頼し合っている様子が、「義」の世界。
 それを結んでくれるのは、まずは、あくまでも神の側です。初めに「神の義」ありきなんです。子どもの方で勝手に「義とされる」ことはできない。神さまが、ご自分の、本来の親としての正しいあり方で、真の親としての無償の愛で、私たちと、ちゃんと親子関係を結んでくれる。それを受け入れて、私たちは親子関係を知る。
 その関係に入るっていう話をするにあたって、パウロは何て言いましたか?
 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」、そう言いました。
 「律法の実行」っていうのは、まあ、人間として正しく生きるとか、罪を犯さないとか、もう神父さまに迷惑かけませんとか、そういうこと。しかしそれらは人間の業であって、義とされることに関しては本質ではない。
 そういう人間の業では、神さまとの正しい関係に入ることはできません。神さまとの正しい関係に入るのは、神さまが永遠の愛で私たちを包んでくれることを知り、神のゆるしを信じるときのみです。ユルシ・キリストを信じるっていうのは、そういうことです。
 ユルシ・キリストを信じるならば、「ああ、私はこんな罪びとだけれども、キリストとつながり、神さまの愛とゆるしの中にいる」って喜べるし、その喜びを持ったときに、神もまたうれしくなって、「ああ、これで本当に親子になれたね」って。

 パウロにしてみたら、まあ、キリスト者を迫害していたパウロですから、非常に罪深かったわけですけれど、「そんなときも、神はゆるし続けていてくれた」と、あのユルシ・キリストとの神秘的な出会いで知って、人生がまったく変わっちゃった。
 私たちにもそれが必要です。
 自分を責め続けている人、いませんか? 最近、なんか元気なくして、「自分はダメなんじゃないか」「自分なんか幸せになれないんじゃないか」、そう思ってる人がいるとしたら、それは「あなたの」考えであって、そこに「あなたを救うあなたの信仰」はありません。
 神さまはあなたを幸せにします。神さまはあなたを、ず〜っと愛してゆるし続けるし、やがて私たちは必ずそれに気づくときがくる。・・・希望のうちに、ユルシ・キリストへの信仰を持ち続けましょう。
 自分の貧しい思い込みにとらわれちゃってると、何かあったとき、これからもっと悪いことが起こるとか考えがちですけど、キリスト者ならば、自分はいつもゆるされているという前向きな自信を持ってほしい。それこそ、先日のワールドカップ出場決定のときの説教(※1)じゃないですけど、「今日負けたのだって、そのおかげで奮起して、本番では勝つ布石だぞ!」みたいにね、どんな出来事もきっといい話の一部なんだって、本物のサッカーファンなら信じるでしょうし、それは人生全般において、そう思うべきですよ。

 一昨日、うれしい手紙をいただきました。
 私が高校生の時からの友人ですけど、彼女は結婚して女の子が生まれ、その子が大きくなって結婚したんですけど、最初の子を流産しちゃったんです。そのとき、その子はとってもつらい思いをして、「つらくて祈れない」って、ママの友達である私にも相談してきて、私も祈って、励まして、ってことがあった。
 そんな友人からの手紙ですけど、その娘さんがその後、第二子を授かったんですね。で、今度は無事生まれたんだけど、染色体に一部欠けたところのある障害を持って生まれて、今4歳でやっと歩き始めたけれど、まだしゃべれないそうです。ニコニコして、「わが家の天使」だそうですけど、合併症が多くてすでに手術を2回、あと十数回手術をしなければならない。そういう、生活全般に全介助の必要なお子さんだそうです。
 そんな中、その娘さんのことを、娘さんのある友人が励まそうと思って、パウロの言葉を用いてこう言ったんですって。「神さまは乗り越えられない試練はお与えにならない(※2)って言うよね」、と。ご存知、有名な聖書の言葉です。
 すると、その娘さんは、友人にこう答えたんですって。
 「息子を授かったことは、試練じゃないよ。神さまからのギフトだよ」
 私の友人は大変感動して、「娘の内に素晴らしい信仰が育っていることを感謝しています」っていう手紙でした。
 「息子を授かったことは試練じゃない、ギフトだ」これは、信仰です。
 もちろん、大変重い障害ですよ。障害は、障害です。しかし、その障害を持った子を授かったことはただのつらい「試練」ではない。・・・これはキリスト教の信仰ですね。
 だって、それを試練だと思うっていうことは、「この子に悪いことが起こっている。本当はいい人生であるはずなのに、悪い人生になってしまっている、私はそれをつらいと感じている」っていう見方でしょ? でも、そのお母さんにしてみたら、「この子は何ひとつ悪くない。この子は素晴らしい存在だ。この子のすべては神のみ心の内にあって、何も悪いことは起こっていない。神さまはこの子をギフトとして与えてくれたし、神に愛され、人々に愛され、この子は本当に恵まれた、素晴らしい人生を生きてるんだ」、ただそう思ってるわけですよ。その子にしたって、親にとって自分が「試練」だなんて思いたくないはず。
 手はかかります、手術はかわいそう、だけれども、その存在のすべてを、素晴らしい神からのギフトだと信じる。・・・これは、神さまの愛の中を生きている者の信仰です。

 ふと気づくと、私の大切な友人が、このミサに来て目の前に座ってます。(座っているご本人に)今日来るって、言ってましたっけ? 突然来てるんで、ビックリしましたけれど、隣にお母さまも一緒に来られてますね。実は、彼は最近、お父さまを亡くされたんですよ。お母さまにしてみたら御主人ですね。つい先日、亡くされました。
 そのお父さまを私も知ってますが、亡くされたときは、さぞショックだったことでしょう。「何か突然悪いことが起こった」、当然、そう思ったと思う。「なんでこうなっちゃったんだろう」とか、「もっとこうしてあげればよかった」とか、「こうしていたら亡くならずに済んだのかも」など、さまざまな思いもあるかもしれない。
 そう思ってしまうのは当然のことですが、でも、それは違うんです。偉大な神の目から見るならば、何も悪くないし、誰も悪くない。すべて、神さまのみ心のうち。
 神さまが、人知を超えて、本当に素晴らしいことをなさっているっていう徹底した信仰があれば、神に召される死でさえもまた、ただの「試練」ではありえない。「いのちを神から授かる」のがギフトであるのと同じく、「いのちを神に召される」のもギフトなんです。
 私たちの信仰は、すべてを神のみ心に委ねることにあります。「神さまは、本当に、この私たちのすべての弱さや罪をゆるし、受け入れてくださっている」「私たちが悪だと思いこみ、こんなことは起こらない方がいいと思っていることでさえ、神さまは大いなる恩寵をもって包みこんでいる」と、私たちは信じます。

 今日の福音書に出てきたこの娼婦も、自分の人生を呪っていたに違いない。
 「私はこんな生まれで、こんな環境で、こんな事情で、こんな現実を生きていかなければならない。ここから逃れたいけれども、逃れられない。こんな罪深い私は、神にも見捨てられている。人々には(さげす)まれ、死ねば地獄に落ちていくしかない」
 そんなふうに思っている、ひとりの女性の絶望を想像してください。
 ここからは私の想像ですが、そんな彼女の奥底にも、救いへの(かす)かな希望はあったに違いない。そんななか、イエス・キリストという、評判の預言者だか説教者だかが、ガリラヤ湖畔にやって来た。彼女は隠れるようにして、そっと聞きに行ったんじゃないですか? 群衆の一番後ろで、必死に耳を澄まして聞いたんじゃないですか?
 その人は、こんな話をしていた。
 「神は、あなたを愛している。あなたは、神の限りない愛の中を生きている。あなたがどんな人であろうとも、どんな過去であろうとも、神はあなたを愛し、ゆるし、癒やして、生かしてくださる。あなたのまことの親である天の父の親心を信じなさい。天の父は、苦しんでいるあなたのために、この私を遣わした。だから、あなたはこの私に会って、このゆるしの言葉を聞いて、もう救われている。神の愛を信じなさい。神のゆるしに目覚めなさい。私の言葉を信じなさい。あなたは本当に美しい魂を持った、神の子なんだから」
 そんな言葉を聞いて、彼女はボロボロ泣いたんじゃないですか? そうして、痛悔の思いと救われた喜びを、なんとか、この聖なるお方に伝えたいって思ったのも、当然のこと。
 イエスがファリサイ派の家にいると聞いて、今がチャンスだって、最高の香油を持って行って、イエスさまの所に近づき、その足を涙でぬらして、髪の毛で拭いて、尊敬の接吻を浴びせかけて、その足に必死で、敬意のしるしである香油を塗る。
 神のゆるしに目覚めた者の、精いっぱいの思いの表現。・・・美しい瞬間でしょう?
 それをファリサイ派の人は何て言ったか。
 「こんな罪びとに触れられて、よく平気でいられるもんだ。この女が娼婦だってこともわからないのか」
 イエスは答えます。
 「この女を見ないか。どういう思いでいるか、何が起こっているか、見てわからないか。神の赦しがこの人の内にある。この人は今、自分を受け入れ、人生を受け入れ、神の愛とゆるしを受け入れて救われたんだ。この愛の行為を見れば、そんなことくらいわかるだろう」
 そう言って、まあ、最高のサービスですよね、彼女に直接、「あなたの罪は赦された」と、宣言してくださる。
 これ、私の想像ですよ。でも、きっとそうだったに違いないって思う。彼女は、どこかでイエスの福音を聞いているし、だからこそイエスの所に来て、救われたものの愛の表現をしているし、そして、直接二人称でね、「あなたの罪は赦された」って、言ってもらえた。・・・人生で最高の美しい言葉。
 「ああ、このひとことを聞けて、もう私の人生には、何の問題もない!」
 そう思えたその瞬間、これ、彼女の洗礼式でしょう。
 私たちもイエスに触れ、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」って、そう言ってもらいましょう。
 いたずらに自分の罪を見つめるのは、もうよしましょう。福音によってのみ、人は救われます。イエスとの出会い、触れ合いによって、真のゆるしを知ることができるのです。

 先日、名古屋で講演会しましたけど、数日前に匿名のお手紙が来ました。
 「講演会に、大勢の人に隠れるようにして、そっと御衣の裾に触ったものです」とありました。これ、福音書に出てくるエピソードのことですね。血の止まらない出血症の女性が、群衆に隠れるようにしてイエスに近づき、そっと衣の裾に触ったら病が癒やされたという話です(※3)
 この方、何か魂の世界で苦しんでいることがあって、しかしなかなか、みんなの中には出て来れない理由か事情があったんでしょう。でも、あの日、救いを求めて必死に講演会に来たようです。そして、癒やされました。こう書いてありました。
 「長い間流れていた、心の血が止まりました。魔法の言葉を聞いたから。そんな者がおりましたことをお伝えしたくて、勇気を出してペンをとりました」
 ホントによかったねえ、とも思います。「心の血」が流れ続けるってことがどんなにつらいことか、だからこそ、福音に触れて、ずっと流し続けてきた心の血が止まったことがその人にとって、どれほど大事な瞬間かっていうことを思うと、心から神さまに感謝したい。まるで聖書の娼婦のような、「勇気を出して」お手紙を書くという愛の行いを見れば、この人が本当にゆるされて、「義とされて」いることが、よく分かります。
 そんなお手紙で、私もどれほど励まされたかを伝えたいし、私もイエスのように、「あなたのすべての悪、罪、恐れは、もう消え去りました!」って、直接宣言したいけれど、匿名ですから、お返事できません。
 そんなとき、私はいつものように、この説教で話して、「福音の村」を読んでいればですが、そこでお返事するというツールを持っているんで、あなたに申し上げたい。
 「あなたの罪は、ゆるされた。あなたの信仰が、あなたを救った。安心して行きなさい」


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「ワールドカップ出場のときの説教」参照HP
「福音の村」2013年6月9日説教 「10分後への希望」 →  http://goo.gl/Ywaod
・・・< 文中へ戻る

※2:「神様は乗り越えられない試練はお与えにならない」
 → コリントの信徒への手紙一:10章12節
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」
・・・< 文中へ戻る

※3::福音書に出てくるエピソード(イエスの服に触れる女)
→ ルカ8章42~48節(他、マタイ9章、マルコ5章にも平行箇所あり)
・・・< 文中へ戻る

2013年6月16日 (日) 録音/2013年6月22日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英