今、ここで、信じます。

2015年6月7日キリストの聖体
・第1朗読:出エジプト記(出エジプト24・3-8)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ9・11-15)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ14・12-16、22-26)

【晴佐久神父様 説教】

 今日は待ちに待った初聖体(※1)の日。
 本日、聖体の主日に、7人の子どもが初聖体を受けます(※2)。真っ白いドレスを着た花嫁さんのような4人の女の子と、キリリとネクタイをしめた3人の男の子。・・・3人とも立派なネクタイですねえ。パパのネクタイですか? なんだか、ネクタイが座ってるみたい、(笑)ですよ。カッコいいですねえ。^^
 この7人を見れば、神さまが私たちを愛してくださっていることが、そのまま見える。
 ご聖体は、神の愛の目に見えるしるしですけど、パンですから、食べるためにあるわけですね。いつまでも誰も食べないご聖体がここにあったって、何の意味もない。食べる人がいる、食べる信仰がある、食べた喜びがある、食べてひとつになる。・・・そこに、信仰の家族、目に見える一致の集いが生まれる。これが、しるしってことです。パンに意味があるというよりも、そのパンを信じて食べる私たちの存在そのものに意味があるわけですね。
 今日初めて、そのパンを食べる7人の子どもたち。今はまだ食べていないけれど、もうすぐ食べるあなたたち7人は、教会の希望、神の国の現れ、神さまが本当に愛である方を表す美しいしるしになるのです。神さまはこの7人を選び、今日ここに並べてくださった。あなたたちを見れば、本当に私たちが神さまに愛されていることがわかります。あなたたちが私たちと一緒にご聖体を食べてくれることが、どんなにうれしいことか。

 何だかいろいろ言われて、もじもじと、恥ずかしそうにしておりますが、説教ネタにされるのは、いやですか?(笑)(あきら)めてください。この神父はね、目の前のものは何でも説教ネタにするんです。(笑)
 そういえば先週、三位一体の主日にね、香部屋(※3)に入って、ストラ(※4)をかけようとしたとき、白いストラが用意してあったんですけど、今日は三位一体の主日だから、三位一体の栄光を表す、黄金色のストラにしようと思って取り替えたら、侍者(※5)が笑うんですよ。「クククク・・・」って、顔見合わせて。「なんで笑ってるの?」って聞いても、教えてくれない。ところが、ミサが終わったら教えてくれたんです。「神父さんが来る前に、きっと神父さん、このストラを取り替えるよってみんなで話してたら、ホントにそうしたから笑った」って。「どうして、さっきはそれ、教えてくれなかったの?」って聞いたら、「ミサの前に話すと、説教ネタにされるから」って。(笑)
 子どもの浅知恵だね。その日はミサの後に話しても、次の週のミサがある。(大笑)・・・結局翌週、こうしてネタにされるのです。(笑)
 あのね、神父さんは別にね、ネタに困ってて、なんでもいいからと手当たり次第ネタにしてるわけじゃない。見るもの聞くもの、どんな出来事にも福音のヒントが秘められていて、すべてに福音的な意味があるから、それを見つけてみんなと分かち合っているだけです。
 いうなれば、説教なんて福音を語っているわけですし、福音のネタ、福音を表すしるしは、目を開けてその辺を歩いてればいくらでもあるわけですから、それをせっせとみんなと分かち合って、「本当に、神さまは私たちを愛してるんだ」っていうことを一緒に喜ぼうって、そういうことですね。
 だから、今日なんかは、もう、この目の前の7人で十分なんです。説教なんかいらないくらい。皆さん、この7人を見てください。神が生み、神が育て、神が今、ご自分の愛であるキリストを食べさせようとしている子どもたち。ほら、神の愛が見えるでしょう。・・・そういうことでしょう。

 え〜、といって説教終わるのも何なので、先週の話をするわけですが、先週ね、日曜日のミサの後、上智大学での講演会に行きました。「オールソフィアンの集い」(※6)といって、上智の卒業生がみんな集まる大きなお祭りを毎年やっていて、この3年間、私が講演をしてるんですね(※7)。3の521という一番大きな教室が満席になります。
 私は、この講演会が大好きで、・・・というのは、気配がいいんですね。私自身もノリノリだし、聴いてる方もワクワク聞いてるし、毎年、笑いあり、涙あり、拍手ありで、いきのいい講演会になる。
 で、先週は、その一つの理由をお話ししました。
 「この教室は、私が神学生時代、毎週講義を聴いていた教室です。私の指定席は、あの一番後ろの席。他の席は椅子だけだけれど、一番後ろだけ前に机がある。だから真っ先にその席に座って、机の上に畳んだバスタオルをポンと置いて、頭をゴンと載せて、そのまま爆睡する。(笑) まる90分。授業の初めのベルの音も覚えてない。なんだか周囲がガヤガヤしてるから、何だろうと思ったら、もう終わってる。(笑) 毎週、毎週、そこで私は、ホントによく寝ていた。午後一の授業で、昼食後だから眠いっていうのもあったでしょうが、何といっても朝早い神学校生活と、慣れない勉強で疲れ果てていましたから。・・・だから皆さん、この部屋は、私の寝室なのです」と。(笑)
 「そのせいか、この教室に来ると何だか安心して、もう、後はぜんぶ神さまにお任せっていう気持ちになる。今、あの一番後ろの席に座っている、昔のぼくが見えます。ぐっすり寝ているそのぼくに、今のぼくから言ってあげたい。『きみ、だいじょうぶだよ。そうやって寝てても、ぜんぜん構わないよ。きみはだらしがなくて、ダメな神学生だけど、自分を責めずに、信じて生きていっていいよ。やがて30年たったら、きみは目の前の教壇でマイクを握って、福音を語ってるよ。大勢の人を喜ばせて、救っているよ。だからぜんぶ神さまに任せて、今は安心してゆっくりお休み〜』。・・・そう言ってあげたい」っていうお話から、先週、始めたんですよ。
 すべてのことを、神さまが支配しておられます。すべてを通して、神さまはご自分を表しておられます。それに気づいたときに、私たちはホントの幸いに満たされます。「福音を語る」とか、「説教をする」なんていうのは、そういう幸いをもたらすお手伝いなんでしょうねえ。

 講演の最後に質問コーナーがあってね、面白い質問があったんですよ。
 その日、主催者が決めたテーマは、「生きにくい世の中で生きていくには」っていうようなものでした。だけど、「生きにくい世の中で生きていくには」って、そんなの答えははっきりしてるわけで、自分の力では生きていけないから「生きにくい」んであり、自分の力を超えた愛の力、完全な力、絶対の力とつながっていれば、どんな世の中でも生きていける、それしかないわけですね。
 だからもう、「どうしたらいい」「こうしたらいい」っていう以前に、まず第一に、これ聴いてる今、ここで、あなたが、そのような、「神の愛」というか、「永遠の力」というか、そういうものに気づけば、この世の中がどれほど生きにくくても、だいじょうぶなんだっていうことに、カケラでもいいから気づいてほしい。・・・ってまあ、そういうお話をしたんです。『アラジン』の話をしながら。
 実は先週、ここでも『アラジン』の話をしましたけど、説教では時間が短くて、不完全燃焼だったんですよ(※8)。だからもう、その午後の講演では、「ぼくを、信じて!」っていうあの話を好きなだけ話したんです、「いうなれば、イエスさまが、『ぼくを、信じて!』って言ったんです」と。
 「・・・アラジンが、ジャスミンに言ったように、イエスさまが手を伸ばして、『ぼくを、信じて!』と言ってくれた。そういう、愛情のこもった、直接の熱い呼び掛けが、どれほどありがたく、うれしいか。それは、『今、ここ』のことなんだ、イエスさまが、つまり、神さまが、今、ここで、『ぼくを、信じて!』と言って手を伸ばしてくれている。だから、私たちは、『信じるわ!』と言って、ジャスミンのように手を伸ばして握ればいいだけ。簡単なこと。ホンットに簡単なこと。さあ、今ここで信じましょうよ」
 ・・・まあ、そんなような話を、先週ずっとしてたわけです。
 すると、質問タイムでね、ひとりの青年がすっと手を挙げて、「私は、先生のお話を『いいお話でした』と言うわけにはいきません」って言うんですね。
 おっ、ケンカ売ってきたな、勇気あるじゃんって一瞬思ったんですけど、なんと、「というのは、実は私、今来たところで、お話を聴いていないからです」って。(笑)
 おい、おい、おい・・・と思いましたよ。それどころか、「つきましては、『生きにくい世の中を生きるには』どうしたらいいか、ひと言で教えてください」って。(笑)
 だけど私ね、実は、とっても感心したんです。だからまず、褒めました。
 「普通、遅れて来て、もう終わろうっていうときに入ってきた人は、手を挙げて質問なんて、絶対にしない。なのにあなたは手を挙げて、しかも、言うに事欠いて、『聴いてなかったから、ひと言で言え』って、・・・いや〜、すごい。そう聞けるあなたはとてもいい資質を持っている。聖書には『求めよ、さらば与えられん』とある。その求める思いは素晴らしい。そして実は、あなたが今、勇気を持って質問したという、この事実の中に、すべての答えが入っています」
 ・・・そうお答えしました。
 それは、事実そうなんです。私、いつも、いろんな人の相談に乗ったり、質問を受けたりしますけど、・・・何ていうのかな、内容よりも、モチベーションに反応するんです。なぜその人は、それを質問しているのか。実はそれは本人が一番知らないことなんですよ。そこには必ず隠された動機があって、そこにちゃんと答えも用意されている。そこが見えてくると、その人に対する一番適切な神からの言葉が現れてきます。
 相談なり質問なりの内容だけ聞いていると、「Aとも言える」「Bと言えなくもない」「しかし、Cかもしれない」って、答えの歯切れが悪くなる。内容って本当に千差万別で、とってもこの世的で、相対的で、答えもひとつじゃない。しかし、その答えを求める動機には、とても単純で本質的な答えが秘められているんです。
 その青年が、「自分は遅れて来て、講演を聴いてない」ってことを、何百人もの聴衆の前で語って、「生きにくい世の中で生きるにはどうしたらいいかについて、ひと言でもいいから聴きたい」って願っているのは、「生きにくい世の中」を生きてるからだし、そこから救われたいと思ってここに来たからだし、そして今、勇気を持って手を挙げれば、その答えが聴けるんだと信じたからです。
 だから私は、お答えしました。
 「あなたのその思いは素晴らしい。あなたがそう思っていることの中に、もう答えがある。というのは、まあ、あなたが来る前に90分間お話してたことだけれど、あなたが答えを聞きたいと願っている、その願いは、神からのものだからだ。それこそが、聖霊の働きだ。私たちが『ああしたい』とか、『こうあってほしい』とか、『神よ!』とか言ってるんじゃない。実は、聖なる霊、神さまの霊が私たちに宿って神を求め、『神よ!』って叫んでる。パウロがそう言っている。『神の霊が、あなたがたの中に宿って、アッバ、父よと叫んでいるのである』(cf.ローマ8:15)と。
 あなたがこの講演会に行こうと思ったのも神の霊の働きだし、遅れて入ってきたのも神の御摂理(みせつり)の中にあるし、そして勇気を持って手を挙げて、『生きにくい世の中を生きるにはどうしたらいいか』って聞かせたのも神さまの導きだし、そして今、私が答えているこの答えを、あなたに、そしてみんなに聴かせるために、神さまがあなたを立ち上がらせた。
 では、その答えは何かというならば、神が今、ここで、あなたに、『わたしを信じて!』と言ってるということ。あなたは、それを聞きに来た。『わたし』というのは、晴佐久じゃない。神が、イエス・キリストによって、晴佐久を通して、『今、あなたは、生きにくい世の中を生きている。いろいろ大変な思いも抱えている。だから、ぼくを信じて。他の何ものでもなく、このわたしを信じてほしい』、そう呼びかけている。これを聞きに、あなたは聖霊に連れられて来たし、私はそれを語るお手伝いをしているし、あなたは今、実際に、聴いてるでしょ? この声、聞こえるでしょ? これであなたは、生きにくい世の中を、本当の希望を持って生きていくことができる。・・・今、ここで、『信じます』と言えばいい」
 まあ、聞けば信者じゃないってことでしたので、当然最後に、「続きは多摩教会で聴いてください」と申し上げましたけれど。(笑)・・・まさか今日、ここに来てたりして。
 いや〜、それはもう、何て言うんでしょう、ホントに簡単なことなのに、みんなができないこと。あるいは、一度できたはずなのに、またやらなくなっていること。
 今、ここで、「信じます」っていうこと。
 これは毎週でも、毎日でも、繰り返し繰り返し、「ぼくを信じて!」っていうその声に応えていくのが、信仰生活です。これが、やっぱり、初聖体の日に、子どもたちにも、一番言いたいことですよね。
 子どもたちに、今、イエスさまが言ってるんですよ。初聖体拝領する皆さん、皆さんにお話ししているこの晴佐久神父は、イエスさまですよ。イエスさまが語っているんです。あなたたちに。
 「わたしを、信じなさい」って。
 今日初めて渡すご聖体は、イエスさまですよ。イエスさまがご聖体として呼びかけているんです。「ぼくを信じて!」って。
 ず〜っと忘れないでいて、信じ続けてくださいね。
 30年ご聖体をいただかなかった方(※9)、2週間前には30年ぶりにいただいて、顔を覆って泣いていらっしゃいましたけど、そのとき、ご聖体が叫んでいたはずです。「ぼくを信じて!」って。その方先週は2枚目を頂いてましたし、今日が3枚目になるんじゃないですか? 再び頂くようになってから。何度でもイエスさまは言うでしょう、「ぼくを信じて」って。
 初聖体の子どもたちも、ご聖体をこれから何枚も何十枚も食べていくことになるわけですし、途中で何年か教会から離れちゃうことも、もしかしたらあるかもしれないけど、必ず、また、ミサに戻ってきて、ご聖体を頂いてください。そのときに、イエスさまは必ず言いますよ、「ぼくを信じて!」って。あのパンは、皆さんに、そう語りかけています。
 さあ、皆さんは何て応えるんですか? 神父さんが、「キリストのからだ」って言ったとき、それはイエスさまが、「ぼくを信じて!」って言ってるんですよ。皆さんは、何て応えるんですか?
 ・・・そう。「アーメン」って応えるんです。
 ジャスミンのように、「はい、信じます!」って言って、そして、イエスさまの手を握る。あのパンが、イエスさまの手です。しっかりと頂いて、そうして、ひとつになる。
 生涯、イエスさまはいつまでも私たちと共にいるし、私たちは、だからもう、何も心配することがない。安心してほしい。死を超えて永遠のいのちにいたるまで、イエスさまと一緒。

 先週、菅井日人(すがい にっと)(※10)さんのご葬儀があって、私、通夜でポロポロと泣かされました(※11)
・・・菅井さん、ご存じですか? ルルドの写真集とか、アシジの写真集とか、カトリック信徒として大変有名な写真家ですね。素晴らしい写真集をたくさん出しておられます。私はもう、25年来のお付き合いです。カトリック映画視聴覚協議会(現シグニス・ジャパン〈カトリックメディア協議会〉)で、彼が副会長をしていて、私がその次の副会長で、一緒にいろんな活動をいたしました。カッコよくってね、歯切れがよくってね、ホントに、キラキラ輝いて仕事をしている人でした。
 私、彼の写真が大好きでね、ずいぶん以前に、彼の写真を使った1枚のカードに感動したのが最初です。古い石造りの建物の小さな窓から、部屋の中に(つた)が入りこんでいて、逆光で緑の葉っぱが輝いている、非常に雰囲気のある美しい写真でした。暗い部屋の中でね、緑の葉っぱが透過光で光っている。ああ、こういう写真、好きだなあ・・・って思ったら、「Nitto Sugai」って署名があって、そこに詩編の言葉が刷り込まれているカードでした。
 「あなたは生命の道を 私に示された」
 詩編ですね。16の11。輝く蔦の光る葉っぱの流れが、その「生命の道」を何よりも雄弁に物語っている、美しい写真のカードでした。
 私はずっと彼を尊敬していましたし、いつか一緒に仕事をしたいとも願ってた。だから、青梅教会(※12)の新聖堂を建てたとき、菅井さんに頼んで組み写真のカードを作ってもらいましたし、『家庭の友』で連載を頼まれたときは、最初は「宗教画にエッセイを付ける」っていう注文だったのを、「菅井さんの写真に詩を付けるページにしたい」と願って、何年も連載をいたしました(※13)。それが、『天国の窓』っていう写真詩集になりました(※14)
 彼は10年前に脳こうそくで、写真が撮れなくなっていましたので、彼が撮りためたものの中から選んで、詩を付けてきたんです。彼の写真への、最大の敬意と思ってね。写真集が出たときにお訪ねしとき、奥さまが、かいがいしく世話をしていらしてね。彼も後遺症でうまくしゃべれないんですけれども、「ホントにいい写真集を出してくれた」と言って、とても喜んでおられました。
 10年間、奥さまが彼を献身的に支えてこられましたけれども、先週亡くなりました。突然です。前の日の夜、天丼をパクパク食べて、「お休み」と言って寝て、午前3時ごろには亡くなった。
 奥さまは非常につらかったと思うんですけど、お通夜の席ではしっかりと皆さんのお相手をしていて、私を見つけると駆け寄ってきて、「夫は『天国の窓』開けてさっさと行っちゃいました」って言って、(ひつぎ)の所で日人さんの顔を見ながらこう言うんですよ。
 「見てやってください。ホンットにいやなヤツでした」(笑)
 もうそれで、私、泣きそうになってね。だって、すっごい愛情こもった言葉でしょう? ・・・お通夜の席で「ホンットに、いやなヤツでした」って言えるって。それって、いろいろ大変な思いもさせられたけど、そんな彼を愛していたっていう意味ですから。きっと夫婦って、そういうもんなんでしょうね。だから、遺族挨拶のときに、奥様、こう言ったんですよ、「彼は、カッコよくって、ハンサムで、おしゃれで、だ〜い好きでした!!」って。・・・泣かされたね。
 ・・・「だ〜い好きでした」
 昨日、その奥様から電話があって、こう言ってました。
 「お通夜に来ていただいてホントにありがとうございました。倒れてからの10年間は、私の隣に彼がいて、彼の隣に私がいた。今も、ずっと一緒にいるんです。彼、生きてます。だから、すっごく安心な気持ちで、ちっとも寂しくないの」
 カッコいいなあと思ったし、死んでなお、「今も生きている、ず〜っと一緒にいるから安心」ってね。・・・うん。

 今日の第1朗読、第2朗読、福音書に、全部に「血」っていう言葉が出てくるでしょ。(※15)
 この「血」っていうのは、特別に重要な約束、契約をするときに使うんですね。遊牧民の文化では、本当に大事な契約を交わすときに、大切な動物を殺して、その血を使うわけです。その意味するところは、非常にシンプルです。「この約束は命がけ」っていう意味です。
 ・・・「命がけで」約束する。
 イエスさまは、何て言ったか。
 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14:24)
 この「多くの人」っていうのは、元の言葉の意味するところでいうなら、「すべての人」って置き換えても構わない。
 「これは、すべての人のための、命がけの約束だ」と。
 ・・・ミサって、イエスさまの命がけの約束を思い起こして、イエスさまとひとつになって、救いの喜びを味わう儀式なんですよ。
 イエスさまのことが「だ〜い好き」だった弟子たちにとっては、その約束は永遠です。それこそ、さっきの奥様のように、愛するイエスは死んだのに、「生きている」んです。「イエスは生きている。ず〜っと一緒にいるから、安心だし、ぜんぜん寂しくない」そういう、「命がけの約束を信じる安心」を、キリストの教会は二千年間生きてきたし、今日、特にこの聖体の主日にですね、この「命がけの約束」を思い起こして、私たちも、言いたいのです。イエスさまに、「だ〜い好きです!」と。
 今、だ〜い好きなイエスさまと共にある喜びさえあったら、もうあと、何もいらない。
 今日、初聖体の子どもたちと一緒に、私たちもイエスさまの命がけの約束をいただきます。
 心して、いつもの倍くらい大きな声で、「アーメン」と応えてください。
 「今、ここで、信じます!」と。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「初聖体」
◎「初聖体」〔英語:first communion〕
 洗礼を受けた後、初めて聖体拝領する機会のこと。
 カトリック教会ではピウス10世が1910年に、子どもの初聖体の年齢を、子どもが理性を働かせるようになる7歳ごろと定めた。’83年に公布されたカトリック教会の現行の教会法では、理性を働かせるに至った子どもの両親、後見人、主任司祭は、子どもが罪の告白(告解)を澄ませてから聖体拝領にのぞむよう配慮することとなっているが、特に具体的な年齢は定められていない。成人の場合は通常、洗礼式が行われるミサの中で、初めて聖体を受ける。(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
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※2:「7人の子どもが、初聖体を受けます」
 カトリック多摩教会では今年、男の子3人と女の子4人が初聖体の恵みに与った。
【教会学校:晴佐久神父と初聖体準備中の子どもたち】
 
【初聖体のお祝い日】
 
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※3:「香部屋」
 典礼の準備をするための小さな部屋で、司祭や侍者などの奉仕者が、聖堂に入退堂しやすい場所に設置されている。典礼で用いる祭器具や、祭服、典礼書などを保管し、祭服を着用する際にも使われている。
 「香部屋」の名前は、元来、ミサの間に、香炉の種火を取り替えるために待者が出入りしたことから付けられた。
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※4:「ストラ」既出
 「ストラ」(stola)は、カトリックでの呼称で、司祭が、祭服の上から首の周りに掛ける細長い帯のこと。叙階された者の権威を示す。
 長さは2m30cmか2m60cm 、幅は12cmから25cm。色は4色あり、典礼暦によって変えて着用される。
 ☆ 下の画像で、神父が首からかけている刺繍の付いている帯が、「ストラ」。
 
(2015/5/7「キリストの聖体」(祭)のミサより)
(参考)
・ 「祭服・・・アルバ、ストラ」(Laudate-キリスト教マメ知識)
・ 「典礼の色」(Laudate-キリスト教マメ知識)
・ 「ストラ」(ウィキペディア)
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※5:「侍者」既出
 ミサや他の典礼祭儀において、特に祭壇の周囲で司式司祭を補佐する。
 通常、アルパ(体全体を包む長い白衣)を着用し、司式司祭や他の奉仕者と共に入退堂する。主な役割としては、典礼書、十字架、ろうそく、パンとぶどう酒、水、香炉などを運ぶこと、福音朗読のときに司祭、あるいは助祭に付き添うこと、祭壇の準備を手伝うことなどがある。
 従来、少年が務めることが多いが、年齢に特に規定はない。また、男性が務めることが慣例であったが、近年では女性が務めることもある。
(参考)
・ 「侍者」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「侍者とは何をする人ですか」(カトリック大阪教区 典礼委員会) など
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※6:「オールソフィアンの集い」
 正式には、「オールソフィアンズフェスティバル(All Sophians’ Festival)」(ASF)
 上智大学の現役生、卒業生、教職員、そしてその家族が、母校である上智大学に集まる「ホームカミングデイ」。講演会や模擬店など、各種イベントが行われている。
 (画像はクリックすると拡大します)
(参考)
・ 「ASF2015 開催報告」(ASF2015)
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※7:「この3年間、私が講演をしてるんですね」
 5月31日、今年は、『生きにくい世の中で生きていくには』というタイトルで、14時から16時までの2時間行われた。(於:上智大学四谷キャンパス3号館521教室)
 
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※8:「説教では時間が短くて、不完全燃焼だったんですよ」
先週の説教をご参照ください。
 > 「ぼくを、信じて!」(「福音の村」〈2015年5月31日:三位一体の主日〉)
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※9:「30年ご聖体をいただかなかった方」
先々週の説教の最後の段落をご参照ください。
 > 「30年ぶりの聖体拝領」(「福音の村」2015/5/24説教)
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※10:「菅井日人」(すがい・にっと)
 1944年東京に生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。朝日TVニュース制作部、日経映画社を経てフリーランスの写真家となる。日本写真家協会会員。
 「福音の村」でも、氏の写真と、晴佐久神父の詩の写真詩集、『天国の窓』をご紹介し、販売しているが、その他にも、『奇跡の聖地ルルド』『聖フランシスコの世界』『ザビエルの旅』『聖母マリアの奇蹟』『祈りの大聖堂シャルトル』『スペインの大聖堂』『奇蹟の聖地ファチマ』『キリストの道』『聖フランシスコはいま』『古都アッシジと聖フランシスコ』『ホーリィ・ルルド』『ルルド』など、多くの作品がある。
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※11:「ご葬儀があって」
 2015年5月30日未明、帰天。6月3日に通夜、4日に告別式が、所属教会のカトリック赤堤教会で行われた。
(参考)
・ 「カトリック写真家の菅井日人さん逝く」(「シスターのつぶやき」ラウダーテ)
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※12:「青梅教会」
◎カトリック青梅教会 (カトリック東京大司教区)
 住所:〒198-0041 東京都青梅市勝沼1-197(JR青梅線「東青梅駅」から徒歩5分)[Google地図]
 創立年月日: 1959年10月
 信徒数  : 306人 (2014年12月31日現在)
 主任司祭 : 李 宗安(イ ジョンアン)神父 <あきる野教会主任兼務> (2015年6月現在)
 主日のミサ: 土曜日 19:30、日曜日の奇数月 11:00、日曜日の偶数月 8:30
 週日のミサ: 水〜土曜日 6:30、火曜日 19:30、金曜日 10:00
 電話   : 0428-84-2258
(参考)
 ・「カトリック青梅教会」(カトリック東京大司教区)
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※13:「何年も連載をいたしました」
 月刊誌『家庭の友』(サンパウロ)に、2007年の4月から現在(2015年6月現在)も連載が続いている巻頭詩「一行目は光」。
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※14:「『天国の窓』っていう写真詩集になりました」
◎『天国の窓』 (発行:サンパウロ)
 詩: 晴佐久昌英 写真:菅井日人
 サイズ: 198×198
 ページ数: 80ページ(オールカラー)
 ISBN: 978-4-8056-6125-3
 価格: 2,484円(税込)
 
 とても美しく心にしみる写真詩集です。「福音の村」では、2,500円(税・送料込)でお送りしております。記念として晴佐久神父のサイン入りで、オマケ付き。お勧めです。(>>> こちらから。)
 Amazonではこちらで、サンパウロ(パウルスショップ)では、こちらで扱っています。
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※15:「今日の第1朗読、第2朗読、福音書に、全部この『血』っていう言葉が出てくるでしょ。」
 本日、2015年6月7日〈キリストの聖体(祭日)〉の各朗読箇所と、『血』という言葉が出てくる箇所。

①第1朗読箇所 
出エジプト記24章3〜8節 〈小見出し:「契約の締結」(1〜17節)から抜粋〉
――――――――――――
☆『血』

モーセはの半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセはを取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約のである。」(出エジプト24:6〜8)

②第2朗読箇所
ヘブライ人への手紙9章11〜15節 〈小見出し:「地上の聖所と天の聖所」(1〜22節)から抜粋〉
――――――――――――
☆『血』

雄山羊と若い雄牛のによらないで、御自身のによって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストのは、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 (ヘブライ9:12〜14)

③福音朗読箇所
マルコによる福音書14章12〜16節、22〜26節〈小見出し:「過越の食事をする」(12〜21節)からの抜粋と、「主の晩餐」(22〜26節)〉
――――――――――――
☆『血』

 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの、契約のである」 (マルコ14:24)
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2015年6月7日 (日) 録音/2015年6月14日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英