神さまの特別扱い

【カトリック浅草教会】

2017年1月15日 年間第2主日
・ 第1朗読:イザヤの預言:(イザヤ49・3、5-6)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・1-3)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・29-34)

【晴佐久神父様 説教】

 つい先日、「あけましておめでとう!」なんて言ってたのに、今日、もう、ちょうど1月も半分ですよ。・・・早いですねえ。うかうかしてると、今年、終わっちゃいますねえ。(笑)
 なんかこう、毎年おんなじことの繰り返しじゃなくって、「今年こそは!」みたいにね、皆さんを励ますお仕事を私もしてるわけで、「今年こそは、受容の年、みんなを受け入れる年にしよう」っていうお話を、お正月にしましたけれども(※1)、それから2週間。・・・どうですか?
 「だれかを受け入れる」「だれかと共にある」「自分にとって嫌なことでも忍耐して、だれかのために、ちょっとの犠牲を払う」、そして何よりも、「キリストの教会として、苦しんでいる人、悩んでる人を、だれでも受け入れよう」、そういうチャレンジをする1年にしましょう。
 ごらんのとおり、少しずつ、ミサに参加する人も増えてきたじゃないですか。「もっともっと大勢の人をお招きしよう」ってね、この一年、「一緒に」、・・・これ、大事ですね、「一緒に(・ ・ ・ )」やっていきましょう。そう呼び掛けたいのです。

 そんなときに、私たちは、ついつい、「いや、そんなこと、できっこない」って思っちゃいがちですけど、それが一番いけない。
 だいたい、いろんな方の相談を聞いていて、一番思うことですけど、皆さん、自己評価が低すぎます。「自己肯定感」が、少なすぎる。「自分なんかは、大した存在じゃない。こんな自分は選ばれていない」って、勝手に思い込んでるんですよ。・・・絶対に、そんなことは、ありません。
 みんな、それぞれ、100人いたら100通り、神さまなりの、ある特別な選びを受けています。神の目から見て、「この人を選んで、この人は選ばない」っていうことはないんです。その選び方は、一律じゃないですよ。それぞれの人に合った、さまざまな選び方をしてるわけで、「この人は、こういうふうに選ぶ」「あの人は、ああいうふうに選ぶ」って、み心のままに。・・・もちろん、いい意味で、ですよ。ですから、「私は、ちゃんと神から目をとめられて、神から特別に思われて、神からの選びを受けているんだ」っていう、その自信、確信をね、持ってほしい。
 かくいう私自身も、やっぱり一番深いところには、自己肯定感を持ちづらい本質を抱えているんですけど、「でも、神は、そんな私を、選んだ」、ここは、譲らない。その事実にこそ、励まされて、救われて、たとえ人々から誤解されたり、いろんなことを言われたり、あるいは失敗したり、落ち込んだりしても、それはもう、この世的にはそうだというだけのことであって、「にもかかわらず、なぜかも分からないけれど、神は、私を重んじている。選んでいる」(cf.イザヤ49:5)、ここに希望を持って、そこに力の源を置いて、人々を受け入れるというキリストの(わざ)にチャレンジしたいのです。なかなか、現実には難儀なことも多いですけど、選ばれた者として、チャレンジし続けたい。

 第1朗読(※2)のひと言は、預言者に向けて言われたことですけれども、私たち一人ひとり、キリスト者に言われていることでもありますよ。預言者の言葉です。・・・5節。
 「主の御目(おんめ)にわたしは重んじられている」(イザヤ49:5)
 この1行をね、今日、特に大切にしてください。
 「主の御目にわたしは重んじられている」
 ・・・皆さんは、重んじられています。軽くないんです。特別なんです。
 表面的に見れば、世の中には立派な人、優れた人がいますし、まずはそういう人が重んじられていて、「私なんかはずっと後回しでしょう」「結局は、私なんかは役に立たないでしょう」なんて思うとしたら、それは違う。神さまの目から見れば、だれもが大きな存在ですし、神さまはすべての存在を用います。
 「あなたによってわたしの輝きは現れる」(イザヤ49:3)
 こんな私だけれど、重んじられていて、こんな私によって、神さまの輝きが現れる。
 神さまは、なにしろ、ご自分を現したいんですよね。すべての人を救っていることを現して、すべての人を喜ばせたい。そのために、すべての人を、一人ひとり特別に選んで、ご自分の役に立てている。そのことを、「信じる」こと。まずは、そのことに、「気づく」こと。
 実は、そのことに自分がまだ気づいていなくても(・ ・ ・)、・・・「くても」というか、たいてい気づいてないんですけど、それでも、もうすでに、気づく前から、神は私をお役に立てている。その事実を知ってほしい。・・・100歩譲って、自分が何かの役に立ってるっていうことに、最後まで気づけなかったとしても、神さまが特別なお役に立てているという事実は、変わりません。ただ、それを知らずに生きていることが、どれほどもったいないことかってことでしょう。

 でもまあ、神さまは意地悪じゃないんで、「いや、あなたは、こんなにちゃんと役に立ってるんだよ」っていうことを、何とか上手に分からせようとしておられますから、ちょ~っと心を開いて、神の選びを受け入れるなら、ちゃんと自らの素晴らしい存在意義を知ることができるはずです。その意味での、分かりやすい例も、そうと気づくなら、身近に常に見せてくださっていますよ。
 そのような、「神さまが、この私を特別に思ってくださっている」っていう気づきの感覚があると、「その神さまのために、私も何か特別なことをしよう」っていうモチベーションも湧いてきます。

 「特別」といえば、この教会のすぐ近くの美容室で、私、髪切ってるんですね。こんなボサボサ頭でも、月に一度は切ってるんですよ。去年、転任して来た時に、まあ、どこでもいいや、一番近くの店にしようって、プラプラと蔵前橋通りを歩いて行ったら、すぐそこにありました。で、ここでいいやって思ったんだけど、なんか独特な雰囲気で、薄暗くってね、ちょっと迷ったんだけど、「ものは試し」って入った。そうしたら、そこが、ギャラリーにもなっているユニークな美容室でね~。居心地よくて落ち着くし、上手だし、すっかり気に入って通ってます。
 ここ、なにしろ、一人しかいないんですよ。若いお兄ちゃんが一人でやってる。だから、椅子も一つしかない。・・・「どうぞ」って座らされたら、当然、ほかにだれもいないんですよ。二人っきりで静かだし、貸し切りって感じで、とっても特別感がある。
 で、まあ、私、以前から、美容室に行ったりすると、勧誘するんですね。(笑) 前の、多摩で通ってたお店の店長なんか、ついに、多摩教会のバーベキューまで来た。(笑) ミサには、ついに来なかったですけどね。でも、今度の彼は、二人っきりだから勧誘しやすいし、教会のことをいろいろおしゃべりしてるうちに、「ミサに来たい」って言い出したんです。だけど、日曜日が仕事だしね、去年のクリスマスの夜なんかも、来ることになってたんだけど、体調のせいだったか、結局来られなかった。・・・でも、まあ、たぶんそのうち現れますから、よろしくね。
 その彼がね、ホントにいいやつなんですよ。つい先週も行ったんですけど、一席だから、いつも次を予約しなきゃならない。それで、帰り際に手帳を見たんだけど、ちょうど、ぜんぜん空いてない。毎回、この、予約が難しいんですね。っていうのは、私が休みの日が、彼の店も休みなんで。(笑) で、ず~っと予定が埋まってるし、来月は巡礼旅行に行ったりもするんで(※3)、「来月は、このお店が休みの日しか空いてないですねえ・・・。まあ、いいや、来月はいいです。どっか、ほかのお店に行きますから」って言ったら、さみしそぉ~~な顔してね。(笑)
 でもまあ、しょうがない。その日はそれで帰ったんですけど、その夜、突然、お店から電話がきて、その彼が言うんです。「先ほどは失礼しました。来月のその日、休みの日にお店を開けますから、ぜひ、いらしてください」って。・・・びっくりしたし、なんだか、すごくうれしかったんです。愛されちゃったなあ・・・☺(笑)って。
 そう言われるとね、こっちも情が移るっていうか、「えっ? そんな特別扱いしてくれるの?」って、うれしくなって、感謝するでしょ。だって、休みの日にわざわざお店開けて、カットしてくれる美容師さんって、いますか? それはもうね、「特別扱いされた」っていう思いで、うれしかったんで、その電話でも、「え~!? いいんですか? 特別扱いって感じで、うれしいです」って言ったら、「・・・今度だけですよ」って。(笑) 分かってますって。(笑)
 当然ね、「ああ、これからも、このお店を応援しよう」って思いますよ。なんだか、絆が深まったような気持ちになる。

 「主の御目にわたしは重んじられている」(イザヤ49:5)
 ・・・「神さまは、私のことなんか特別に思ってないだろう」って、皆さん思うでしょうけど、それは間違いです。神はすべての人を特別に思うことがおできになりますし、その、「ホントに、あなたを特別に思ってるんだよ」っていうしるしが、神さまが送ってくださったイエス・キリストであり、イエス・キリストと結ばれたキリストの教会であり、キリスト者たちなんですね。
 皆さん、思い出してください。かつて、だれかから特別扱いされたはずですよ。それは元をただせば「神さまの特別扱い」ですし、それによって私たちは、神に重んじられているって気づくんじゃないですか。そうして大切に扱われるから、情が移るっていうかね、「大切にしてくれた神さまと、共にある喜び」が生まれるし、「その神さまのために、何かしよう」って気にもなる。

 使徒パウロの手紙でいうならば、「召された」っていう言い方ですね。・・・第2朗読(※4)ですよ。
 「神の御心によって召された」パウロから、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々へ」(cf.一コリ1:1-2) っていうのが、「使徒パウロのコリントの教会への手紙」の冒頭の言い方ですけれども、これは、「私は、神さまから召された使徒だけれども、あなたたちも、キリスト・イエスによって召されて聖なる者とされた人々なんだ」っていう、「召された私」から、「召されたあなた」への手紙なんですね。
 キリスト者っていうのは、もう、全員、召されてるんです。・・・招かれているんです。特別に、「あなただよ」と選ばれて、招かれて、だから、私たちは今日も、この聖堂に集まっているわけです。もちろんすべての人が召されているんだけど、キリスト者は、「召されたことに気づいた人たち」なんです。
 この「召される」っていう言葉、神さまが、「特別に重んじて、あなたを私のもとに呼びました」っていうこの言い方に、キリスト者は、特別な力を見出します。
 皆さん、「こんな私は・・・」って言わないでください。召されたのは、才能も健康も、何も関係がない。年齢も性格も、何も関係がない。・・・関係ないっていうか、まさに「そんなあなた」を、神さまが召したんですよ。気に入らないのに召して、それから教育して訓練して、ふさわしいもの変えてから使おうっていうんじゃない。その「あなたそのまま」を召したんです。そして、それを、お役に立ててくださる。だから、「ああ、こんな私だけれども、どうぞ、お役に立ててください」っていう希望を持ってほしい。
 やっぱり「役に立つ」って、うれしいことじゃないですか。キリスト者の皆さん、ホントに役に立ってるんですよ。神はあなたを、「聖なる者」として、お役に立てている。「こっちが選んだんじゃない。向こうが選んだんだ」(※5)っていう真実です。

 このたび、司祭の人事異動が発表されましたけれども、以前、ある神父さんが私に、「もう教会変わりたいなあ・・・」って言うんですね。私にだけじゃない、みんなにそう言うんです。だけど、あんまりね、「教会変わりたい、変わりたい」って言うの、その教会の信者さんが聞いたらどう思うんだろうって、(笑) 気になっちゃいました。でも、どうしても変わりたいと。
 だから、私、言ったんですね。「変わりたい、変わりたいって言うけれど、変わった先で、『これなら、まだ前のほうが良かった』ってことになるかもしれませんよ」って。(笑) そして、「自分では選ばないほうがいいんじゃないですか? 自分で選ぶんじゃなくって、『選ばれて、ここにいる』って思うほうが、気楽でいいんじゃないですか?」と、アドバイス申し上げましたけれど。
 この・・・なんでしょうねえ、自分が、「ここにいる」とか、「こんな仕事をしてる」とか、「こんな体である」とか、「こんな家族である」とか、「この教会である」とかに至るまで、ぜんぶ、「実は、自分が選んだんじゃないんだ。召されて、選ばれて、こうなんだ」って信じたとき、私たち、最強なんですよ。・・・ホントです。「自分が選んだんじゃない。神さまが選んでこうしてるんだ。だから、必ずいい意味がある」、そう信じられたとき。
 ぜひ、浅草教会の皆さんも、「私たちは、選ばれて、ここにいるんだ。必ず役に立ってるんだ」、そういう自信を持って、だれかを招くなり、「ぜひ、教会に来てくださいよ」って誘ったりしてください。だれでも受け入れて、今日の第1朗読でいうならば、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(イザヤ49:6)っていう、そういう者になっていきましょう(※6)。「こんな私を、『国々の光』としてくれる。『地の果てまで』『救いをもたらす者』としてくれる。私は、そのように選ばれた者だ」と、そう信じたときに、さまざまな素晴らしいことが起こります。
 パウロの手紙でいうならば、「召されて聖なる者とされた」(一コリ1:1)、そんなあなたがたに、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があるように」 (cf.同1:3)
 ・・・「召された者」は、そのような「恵みと平和」に満たされてるんです。

 今、洗礼を準備している人がおられます。・・・このミサにも、何人か出ておられますが。
 今ね、その人たちのための、洗礼面接っていうのをやっているんですけど、これは、神の選びを確かめるっていうことですね。まずはその人の思いを受け止めるわけですけど、最終的には、たとえば、「この人は、まだ入門講座の日も浅いけれども、神がキリスト者として選んでいることは、間違いない。洗礼の秘跡を受けていただいて、神さまからいっそう信仰を強めいただこう」みたいにね、神の招きとして、教会に迎えるわけです。つい昨日、また一人、受洗許可を出しました。
 受洗を許可したその「彼」にしても、私、彼が「神に招かれた」っていうことを、すごく感じます。それは、前もお話ししたかな(※7)、入門講座に来て、福音を聴いて、「自分は、実は、もうすでに、神の光を浴びていたんだ」っていうことに、はたと気がついた。・・・もう、目からうろこ状態ですよね。「自分が今まで、闇だ、闇だと思っていたのは、神の光が当たった自分の影にすぎなかった」って、気がついたんですね。
 で、その彼が言うんですよ。
 「この自分の気づき、自分の感じた光を、みんなにも伝えたい。こんな自分だけれども、その自分を通して、闇は光の影だって気づいてくれたら、どんなにいいか」
 これはぜひ、洗礼を授けてですね、光を輝かせる仲間となってもらって、共にやっていきましょうと、私、そう思いましたし、そう申し上げましたし、洗礼許可を出しました。ところがですね、ここに大問題があるんですよ。彼は、上野教会の入門講座に出て、上野教会のミサにも出てる。浅草教会の入門講座にも出て、浅草教会のミサにも出てる。さて、どちらで洗礼を受けたらいいかっていう問題です。本人も、「どっちの教会の所属になったらいいでしょうか?」って言うんで、「基本的には、自分で選べますよ」とお答えしました。
 私は立場上、あっちがいい、こっちがいいって言うのはおかしいですから、まあ、交通の便とか、いろんな事情もあるでしょうし、本人に決めてもらうしかない。で、面接で、「どっちにしますか?」って言ったら、「いやあ・・・どっちもいいんですけど・・・」って、迷って、「じゃあ、浅草にします!」って言ったんですよ。「ちなみに、どうしてですか?」って聞いてみたら、この前、・・・本人、そこにいるんですけど、あれ、ここ、浅草教会の、1月1日のミサですよね? ミサの後、「あけましておめでとう!」って、ちょっとしたお祝いをしたじゃないですか。ビール飲んだりして。彼、そこにいたんですよ。だから私、そのとき彼を紹介したんですね、そこにいた信者さんがたに。
 「この方、求道者で、今、洗礼を考えているんで、よろしくお願いします。もっとも、所属を上野教会にするのか、浅草教会にするのかは、まだ分かりませんけど」って話したら、そこにいた信者さんがたがですね、「浅草にいらっしゃいよぉぉぉ~!」って、(笑) 手をつかんで引っ張ったんですよ。ああ、手を引っ張った人も、そこにいますね。そこにいた何人かが勧誘した。彼も、うれしそうでね。で、彼が言うには、「それが決め手だ」って。(笑)
 ・・・いいですねえ。手をつかんで、引っ張る。・・・まあ、これ、パイの食い合いですから、どっちだって一緒ですけど、ただ、この、「ぜひうちに!」っていう、その情熱? それはあったかいし、うれしいことだし、「特別扱いされた」「自分が必要とされている」「私は招かれている」っていうその思いは、これはもう、スペシャルです。
 呼べば、来ますよ。人、救えますよ。皆さんが、そうして「主の目に重んじられた」(cf.イザヤ49:5)ように、だれかを重んじてほしいのです。皆さんの招きが、神の招きのしるしなんです。

 福音書で、イエスさまの上に聖なる霊が(くだ)った様子が描かれてましたけれども(cf.ヨハネ1:32)、皆さんの上にも、聖なる霊が注がれています。
 もうすぐ、洗礼式の日には、この聖堂で、信者さん方に引っ張られたあなたの上にも、滔々(とうとう)と聖なる霊が注がれているのを、みんなが見ることになります。闇の中にいるときから、あなたが特別に選ばれていたことを、みんなが知ることになります。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「『今年こそは、受容の年、みんなを受け入れる年にしよう』っていうお話を、お正月にしましたけれども」
(参考)
・ 「あなたは宇宙よりも広い」(「福音の村」2017年1月1日説教)
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※2:「第1朗読」
この日、2017年1月15日(年間第2主日)の第1朗読箇所は、以下のとおり。
 イザヤの預言49章3、5~6節
  〈小見出し:「主の僕(しもべ)の使命」49章1~9節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===(この日の第1朗読、朗読箇所から抜粋)
〔主は〕わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

主の御目にわたしは重んじられている。

わたしの神こそ、わたしの力。 (イザヤ49:3、5/赤字引用者)

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※3:「来月は巡礼旅行に行ったりもするんで」
 「福音の村」でも、過去一カ月間ほどご案内いたしましたが、今年(2017年)2月1日から11日まで、阪急交通社の主催で、スペイン巡礼が予定されています。
(参考)
・ 「スペイン巡礼のお誘い(’17/1/6受付終了)」(「福音の村」2016年12月3日~2017年1月6日掲載)
・ 「晴佐久神父様 スペイン巡礼 11日間」(阪急交通社)
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※4:「第2朗読」
この日、2017年1月15日(年間第2主日)の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒パウロのコリントの教会への手紙一 1章1~3節
  〈小見出し:「挨拶と感謝」1章1~9節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、
キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、
召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。 (一コリント1:1-2/赤字引用者)
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※5:「こっちが選んだんじゃない。向こうが選んだんだ」っていう真実です。
===(聖書参考箇所)===
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ (ヨハネ15:16/赤字引用者)
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※6:「今日の第1朗読でいうならば、(中略)、そういう者になっていきましょう」
===(聖書参考箇所)===
〔主はこう言われる〕
わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして、
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする
。 (イザヤ49:6/赤字引用者)
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※7:「前もお話ししたかな」
(参考)
・ 「振り向けば、光」(「福音の村」2016年12月18日説教)の最後の段落(この辺)から。
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2017年1月15日(日) 録音/2017年1月27日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英