10分後への希望

2013年6月9日 年間第10主日
・ 第1朗読:列王記(列王記上17・17-24)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ1・11-19)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ7・11-17)


【晴佐久神父様 説教】

 先週の初聖体、ホントにうれしい初聖体でした。
 今日も、ご聖体は人生2枚目っていう子どもたちが前に並んで座っていますけれども、ぜひ2枚目も、しっかりと食べていただきたい。ご聖体をいただけるのは、あなたたちの人生の中で、本当に一番うれしいこと、大切なことなんだから、「これさえ食べたら、後はもうだいじょうぶ!」っていう、そういう喜びを持って、これからも毎週毎週、神さまの愛を食べてくださいね。

 (座っている少年に)君は、松葉づえはなくなったんですか? ああ、おめでとうございます。先週の初聖体は、松葉づえでいただいてましたからねえ。
 松葉づえ取れたって、今朝、もうミサの前にわかってましたよ。実は、この松葉づえ君は、いつも日曜の朝に司祭館にやってくるんですよ。私が住んでる2階に、今は同居人が二人いるんですけど、日曜日の朝、この二人が朝寝坊していると、彼がドカドカドカッと上がってきて、二人に「起きてよ〜♪ 遊ぼうよ〜♪」って大騒ぎをするので、二人からは「人間目覚まし」と呼ばれてるんです。(笑)
 ところが最近しばらく、「人間目覚まし」が壊れちゃったようで、日曜の朝、静かでしたけど、今朝、久しぶりに「遊ぼうよ〜♪ 早く起きてよ〜♪」っていう声がしたんで、ああ、松葉づえ取れたんだなって。(笑)2階へは階段ですからね。松葉づえだと上れなかったんですよね。治ってよかったねえ。
 足の骨を折ったの? 何で折ったんだか知りませんけれど、まあ、折ったときは、がっかりしたでしょう? 長いこと松葉づえで暮らさなきゃなんない、病院通って治さなきゃなんないって思って、相当ショックだったんじゃないですか? 遊び盛りとしても、つらかったと思いますよ。

 でも、何でもそうですけれど、皆さんに申し上げたい。確かに悪いことはある。イヤなこともある。絶望するときだってあるけれど、それはすべて、その後にいいことが起こる前触れなんです。「すべて」ですよ。
 「もう終わり」ってことがないっていうのは、これ、キリスト教は「スーパーオプティミズム」ですから。超楽天主義。それこそが、キリスト教の一番の本質でもあるんです。だから、せっかくキリスト教信じていながらね、悪いことがあって、ただ落ち込んで終わりなんて、そ〜んなもったいない話はない。この世で最高の楽天主義なんだから。
 われわれは、どんなことが起こっても、「これはいいことの始まりだ!」って言える教えを知ってるんですよ。世界最高の教えを知ってるのに、それを使わないのは、もったいなさ過ぎますでしょ。
 折れたときは痛い。ギプスはめられて、自由に歩けないって、不便ですよ〜。私もやったことある。大腿骨の手術をしたことあるから、その不便さとか、イライラとかよく知ってます。でも、やがて、ギプスが外れる時が来る。そして、外れて元に戻るだけじゃなく、前よりもいいことが起こったりする。前よりもいいどころか、むしろ、「その試練があったからこそ」って、つらかったことに感謝するようなことさえある。
 たとえば、今突然気が付いたけど、私のことで言うなら、あの痛い手術、つらい入院があったからこそ、あの詩集が出来たんでしたよね〜。『だいじょうぶだよ』っていう詩集なんですけど、これが相当売れてですね、(笑)大勢の人が、「励まされた」「癒やされた」と言ってくれた。そうすると、私のささやか〜な試練がね、つら〜い思いや痛〜い体験もね、その後のいいことにすごく役立ったってことになる。・・・すべて、途中なんですよ。私の大好きなキーワード、「途中」「道半ば」。
 何かこう、「ああ、もうだめ!」って思うことがあっても、それは、喜びに変わる。
 ご聖体はね、そういう、人生の旅路の糧です。道半ばで「もうだめ!」っていうことがあっても、神さまがご聖体という恵みをくださるし、私たちはもう、赤ちゃんのように、ただそれを食べていればいいんです。ご聖体こそは、「すべては本当によいものにつながっていく」っていう神の恵みの最高のしるしだから、これだけ、ちゃんと食べてればいいんです。
 今日、2枚目を、しっかり食べてくださいね。
 「何はなくともご聖体」ですよ。

 これ、私たちの世代は、「何はなくとも」っていうと「江戸むらさき」ですけど、(笑)笑った人は、ちょっとした年代の方たちですね。(笑)戦後、「桃屋」という会社が、最高においしい海苔佃煮を発売して、大ヒットしたんですよ。そのキャッチコピーが「何はなくとも江戸むらさき」。
 まっ白なご飯に、あの黒々とした、おいしい海苔佃煮をのせれば、あと、おかずは何もいらない。・・・ホントにそうなんですよ。うそだと思ったら、今でもまったく同じ味で、桃屋は「江戸むらさき」を販売していますので、(笑)今夜、真っ白く炊き上げたご飯に、「江戸むらさき」だけのせて、食べてごらんなさい。
 「何はなくとも」とは、そういうことです。他のものが、何もいらない。
 まあ、もっともね、「江戸むらさき」だったら、実際にはずっとそれだけってわけにはいかないけれど、ご聖体は神さまの愛なんだから、本当に、他に何もいらない。神さまが、「これだけ食べていれば」「これだけわかってくれれば」というご自分の愛を、イエスさまの体として、ちゃんと渡してくれる。
 今日は2枚目、来週3枚目・・・、「何はなくともご聖体」ですよ。ちゃんと食べてくださいよ。生涯、ご聖体から離れないで。
 特に、「つらいことがありました、もうやっていけません」っていうとき、「困難にぶつかりました、ああどうしよう」って思ったときに、ハタと、「何はなくともご聖体!」って思い出して、「さあ、ミサに行こう!」って思ってほしい。
 そうしてミサに来て、永遠なる神の愛を食べたら、わかるはず。
 「さっきまで私は何を嘆いていたんだろう。何も失ってないじゃないか」
 「今まで私は何を恐れていたんだろう。何の心配もないじゃないか」
 ご聖体はそのためにこそ、イエスさまが残してくれた、最高の恵みなんです。
 人は落ち込むと、「ああ、もうだめ!」って簡単に思うけれど、やっぱり、われわれ、信仰のプロというか、キリスト者は、誇りを持って、だれもが「ああ、もうだめ!」って思いそうなときにこそ、「私たちは違う! だめじゃない!!」って思っていただかないと。

 先週のワールドカップ、日本対オーストラリア戦なんか、1点入れられたとき、みんな「ああ、もうだめ!」って思ったんじゃないですか?
 その日、ぼくらはですね、信徒館2階の壁におっきいテレビ付けたもんですから、「ワールドカップ、みんなで集まって見ようよ。集まってサッカー観戦っていえば、これはもう、ピザでしょ♪」っていうことで、ピザを取って、ワイワイ見ました。
 ご存じのとおり今回は、引き分けでもワールドカップ出場が決まるんですね。だから、もちろんできれば勝ってほしかったけど、後半もだいぶ時間がたってくると、みんな心でこう思い始めたんですね。「いいよ、もう引き分けでいいからね。ともかく点さえ入れられなければいいんだよ」って。
 まあ、そういう後ろ向きな気持ちって、選手の間にも、知らずに忍び込むんですかね〜・・・。どこかに隙が生まれて、結果、なんてことはない相手のセンタリングがね、ポ〜ンとそのままゴールに入っちゃったじゃないですか、後半35分。
 あの瞬間、後半35分に「0-1」になっちゃって、このままだとワールドカップに出られないっていうあの瞬間、皆さんはどう思いましたか? まったくがっかりせずに「よし! いいぞ! これでドラマが生まれるぞ」なんて思った人、いないでしょ? がっかりして「あ〜っ、ダメか、そんなもんだよね、世の中、思ったようにはいかないよね」って、一瞬、後ろ向きになっちゃったんじゃないですか?
 私は正直、そうでしたよ。口ではいろいろ強がってたけど、「あ〜、もうダメだな、あと10分しかない! ニッポンがんばれ! なんとかしてくれ!」みたいな。
 この後半35分、そのときに10分後の喜びを知ってる人は、誰もいない。誰ひとりいない。まあ、いろいろと期待した人はいるでしょうけど、未来を知ってる人は誰もいない。
 そしてその未来、終了間際のロスタイムに、1点入った。・・・これが「奇跡」なのかどうなのか、それはもう運命の女神というか、不思議な力が働いたわけですけど、実は、われわれが学ぶべきはそのロスタイムではなく、その10分前の「後半35分」です。
 後でニュースなんか見ていると、後半35分に失点したとき、パブリックビューイングかなんかに集まってる人たちがみんな、「アーーーッ!!」ってね。・・・あれ、おもしろいですね。私、気づいたんですけど、人ってショック受けたとき、なぜか手を、頭や顔に当てるんですよね。(笑)みんな(ジェスチャーを付けて)こうやって頭抱えたり、顔を覆ったり、口を手でふさいだり、こんな感じになる。これ、本能なんでしょうかね。
 何かもう、ショックのあまり、外界と自分の脳を切り離したいような雰囲気があるわけですよ。受け入れがたい現実から、壊れやすい脳を守るために、思わず手がいくんじゃないですかね。
 受け入れがたい現実、耐えがたい悲しみ、もうだめだという絶望的な瞬間に、人はもう自分のショックで頭がいっぱいになっていて、顔を覆っている。10分後のことなんて、まったく思いも寄らない。
 でも、人生には「10分後」があるんですよ。
 現にその10分後、同点になったら、みんな「ワーーー!!!」なんて叫んでね、10分前のあの顔はどこいったんだろうっていう感じで、顔を覆っていた両手を高く挙げて、ワイワイと騒いでいる。
 世の中はそれでいいかも知れないけど、われわれ信仰のプロは、一喜一憂じゃまずいでしょう。絶望的なときにこそ、「10分後」をイメージしなくっちゃ。
 プロも、本田クラスになると、絶望的なその瞬間に「10分後」をイメージしてるんじゃないですか。「こんな失点、なんでもない。勝負はここからだ。俺に任せろ」、本気でそう思っているし、そんな魂だけが前を向く。
 そして、その「前を向く」という姿勢だけが、「10分後」を生み出す。
 だから、実は勝負どころは、あのPKの瞬間じゃないんです。本当の勝負どころは、「後半35分」なんです。テレビはPKのときの本田ばかり映すけど、失点した直後の本田をこそ、映してほしい。その瞬間に、なおも前を向いている顔を。
 今までの皆さんの絶望は、どういう絶望でしたか。絶望のときに、どう振る舞い、どう考え、そこからどう歩き出しましたか。思い返してみると、やっぱり、まだまだだったなあって思うでしょ。
 前を向いてください。もう、ご聖体を頂いているんだから。キリストの体ですよ。完全で、永遠で、絶対的なる神の愛を頂いてるんだから。いつでも神さまと一つなんだから。「どんな状況でも救いは必ず来る!」っていう信仰を、絶望的状況の中でこそ取り戻さないと。

 子どもたちだって、そのこと、よくわかってますよ。
 先週、素晴らしいパーティーしましたでしょ? よかったよね、あのパーティー。中高生のお兄さんお姉さんたちが、輪つなぎとか風船とかで、飾ってくれましたよね。そして、あの素晴らしいケーキ。「はつせいたい おめでとう」って書いてある大きなケーキと、キティちゃんのケーキと、アンパンマンのケーキと、ぜんぶ揃ってたでしょ? 素晴らしいパーティーでした。
 そのとき、司会者が皆さん一人ひとりにマイクを向けてね、「さあ、ご聖体をいただいた、今のお気持ちを」みたいな質問をしましたけど、偉かったねえ。みんな立派なお答えでしたよ。松葉づえくん、君の素晴らしいお答えも覚えてますよ。
 「ありがたくいただきました」(笑)
 あれは・・・事前に質問もれてたんじゃないでしょうねえ。(笑)あまりに立派なお答えで・・・7歳でもね、ちゃんと立派に答えるんです。・・・「ありがたくいただきました」
 もう一人の子なんかね、こう答えたんですよ。
 「ご聖体の味がわかったとき、イエスさまのお体と一つになれたと実感しました」(笑)
 いやもう・・・親もビックリ。(大笑)素晴らしいお答えでした。・・・「実感しました」
 7歳だって、「ありがた〜くいただき」「イエスさまと一つって実感する」んです。まさに、神の愛がどれほど「ありがたい」かってわかってたら、そして「イエスと一つ」って実感できたら、あと、何が必要? 今どんな状況であれ、その他に、何にもいらない。
 「何はなくとも、神の愛」
 「何はなくとも、イエスさま」
 「何はなくとも、ご聖体」
 「何はなくとも、神の愛の秘跡によって生かされているという信仰」
 「何はなくとも、10分後への希望」
 これさえあったら! ありがた〜く、イエスさまと一つになって生きていけるでしょう。

 今日の福音書で読まれた、このやもめも、絶望してたんです。
 この絶望は、体験した人にしかわからない。お子さまを亡くした方が、ここにもおられますけれども、その痛みは、体験した者にしかわからない。ましてこの時代のやもめは、そうでなくともホントにつらい立場でしたから、唯一の希望であるひとり息子が死んでしまったとき、すべて終わったと思ったに違いない。・・・「すべて終わった」と。
 しかし、このやもめは、町から棺と共に出ていくとき、「10分後」のことを、まったく知りません。考えてもいない。寄り添う人たちも、誰一人知らない。
 そんなとき、この話だと、頼みもしないのに、イエスさまの方から来ますもんね。
 よく、「イエスさま、助けてくださーーい!」って頼んだり、叫んだりしてると、イエスさまが来て助けてくれたっていう話はありますけれど、この話だと、このやもめはイエスさまのことなんか意識してないふうですよね。息子が死んで、これから埋められちゃうっていう状況で、ただ泣いている。それを、通りすがりのイエスが見て、胸を熱くして、「なんてかわいそうなんだ!」と思い、近づいて、触れる。するとそこに、いのちが生まれる。
 これは単に「生き返った」って話じゃないね。イエスに触れられて、永遠のいのちがそこに実現するっていう、私たちが本当に願ってやまない、すべての人がそれを受けるべきである、神からの最高の恵みの世界が現れたっていう話です。
 皆さん、安心しててくださいね。まあ、私の得意フレーズですけれど、「どうぞ、安心して絶望してください」っていう、それを覚えといてください。
 絶望してもだいじょうぶです。だって、その絶望に、イエスさまが頼みもしないのに寄ってきて、「もう泣かなくともよい」って言ってくれるんだから。
 「もう泣かなくともよい」、・・・なんて優しいんだろう!
 「あなたは十分悲しんだ。あなたがつらいこと、絶望したこと、その心の痛み、神はすべてご存じだ。今、神があなたに救いをくださる。この私が救いだ。泣かなくていい」
 そう言ってイエスは手を伸ばし、絶望に手を触れる。・・・いのちが始まる。
 皆さんが、これから触れるご聖体は、そういう、神のいのちなんです。それ、ちゃんと頂きましょう。
 今日は皆さん、どんなふうに絶望しておられるんでしょう。今日も、つらい思いを抱えて、初めてミサに来られたっていう方、ここにおられるかもしれない。だいじょうぶですよ。「10分後」がありますから。
 昨日の夕方のミサにも「教会初めてです」っていう方、おられました。ミサの後で、私に相談しようと思ってやって来たようですけれど、「ミサに出て、福音を聞いたら安心して、もう相談しなくていいです」って言ってましたよ。
 こうして福音を聞いている皆さん、永遠なる神さまの愛の力を信じて、信じて、信じて。
 そして、「10分後」をイメージする。

2013年6月9日 (日) 録音/2013年6月13日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英