ずぶぬれの教皇フランシスコ

2013年10月27日 年間第30主日
・第1朗読:シラ書(シラ35・15b-17、20-22a)
・第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ4・6-8、16-18)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ18・9-14)

【晴佐久神父様 説教】


 正面に、洗礼盤の出ているミサはいいですね。
 今日は、幼児洗礼のお子さんが2人おられます。右と左のベンチに二組、それぞれ御両親と、そのすぐ後ろに、おじいちゃん、おばあちゃんが控えて、ひと固まりになっておられます。
 さっき、栄光の賛歌(※1)のとき、ふと前を見ると、この生まれたばかりの幼子を、御両親と、おじいちゃん、おばあちゃんの4人全員が見つめてるんですよ。(笑) いい光景ですよねえ。おもしろいな、というか、まあそうだろうなと思って、今度、もう一つのひと固まりを見ると、こちらも4人全員、赤ちゃんを見てるんですよ。これはいい光景ですよね。
 ご両親と、おじいちゃん、おばあちゃん、赤ちゃんをなんで見つめてるんですか? 泣かないかなとか、いろいろ気にして? そういうその時々の理由もあるかもしれないけど、親とか、おじいちゃん、おばあちゃんが赤ちゃんを見つめるのは、これはもう、見るのが使命っていうか、仕事っていうか、ともかく親が子を見るのは当然のことであり、じ〜っと見つめているそのまなざしが、赤ちゃんを育ててるわけですよね。
 キリスト教は秘跡の宗教ですから、目に見えない神の愛を、目に見えるしるしでちゃんと表してる。そのしるしで、私たちは神の愛を受けとめ、そのしるしによって、深く味わう。まあ、そういうことでいうなら、親に見つめられているこのお子さんお二人は、非常に秘跡的ですね。神のまなざしはそういうものだと、身を持って証ししている。このお子さんとご両親を見れば、神の愛が見えるようです。このお子さんこそは、私たち自身です。私たちは神に見つめられて、生きている。まことの親である神からじ〜っと、常に愛のまなざしを注がれて、見守られて生きている。そういう安心感を、今日ここにいるみんなで味わいましょう。
 私なんかは、もう両親、天ですから、まさに天からこんな私を見守ってるでしょうし、両親に限らない、大勢の信仰の先輩、聖人たちも見守ってくれているでしょうし、さらにその一番奥には、天の父のまなざしがあって、しっかりとこの私も見守られている。・・・ああ、安心、安心。
 あっ、お子さん、今何か祭壇前に投げ落しましたけど。どうぞ、お父さん、いいですよ、拾っても。(笑) もう、今日は、泣いても騒いでも、何を投げ落としても、ぜんぜん構いません。今日は、あなたたちが主人公。神の愛の目に見えるしるしである、秘跡を受けるんです。神さまに見守られ、神さまの愛をいっぱい受けとめて、すくすくと、信仰の中で成長していっていただきたい。私たちみんな、信仰の家族として、あなたたちのために心から祈ります。

 目に見えるしるしという意味でいうなら、先週の日曜日はローマで、全世界の信仰の家族のシンボルでもある、バチカンのサンピエトロ寺院の聖ペトロのお墓の、すぐ前の小聖堂でミサを捧げておりました。全世界のキリスト者と心を一つにして、イエスさまの弟子の頭であり、初代教皇である聖ペトロのお墓の前で、主日のミサを捧げていたんです。
 私はもちろん、カトリック信者ですから、全世界の教会の心を一つにするローマ教皇を一致のしるしとして、信じる家族が一つのキリストの体となっていくという、そういう秘跡的な教会感覚というものを、とても大切にしております。その感覚こそが、キリストの体がバラバラにならないために、絶対に必要だと信じています。そうでもなければ、せっせとバチカンまで行って教皇さまに謁見したりもしないわけですし、ヨハネ・パウロ2世の列聖決定記念ツアー(※2)なんてやらないわけです。私はやっぱり、みんなが一つであるということを具体的に形に表すこと、すべての人が神さまのまなざしの中にあることを一緒に味わうこと、これをとっても大切に考えております。今日も、このミサが、全世界のミサと一つにつながっているという思いを大事にしていただきたいです。

 今、バチカンに行くとですね、新教皇フランシスコを中心に、カトリック教会が本当に神さまの愛の中で一致しているということを、ひしひしと感じることができますよ。もちろん、今までも何度もバチカンに行ったことがありますから、それはもう、いつものことではあるんですけれども、あの教皇フランシスコが就任して以来、今、キリストの教会は、教皇を中心に心を一つにするという恵みを、いつにも増して深く体験しているところです。
 私、今回バチカンに行って、ホントによかったと思うのは、その雰囲気を、ひしひしと味わうことができたから。これはある意味、皆さんの代表として謁見してきたわけですし、皆さんに報告しなきゃならないな、と思います。
 カトリック信者はローマ教皇のことを、親しみを込めて「パパさま」と呼ぶわけですが、もちろん今までも、このパパさまを囲んで教会は一つであり、キリストの代理者として、キリストの教会が一つであることのシンボルであると、それはわかっておりました。でも、あの新しい教皇フランシスコは、今までにもまして、私たちを一つにする人格というか、センスというか、聖霊に満たされた特別なカリスマを持っておられる。そのことは、「貧しいものの教会であれ」という発言などから、この半年うすうす感じてはおりましたけど、今回実際目の当たりにして、ホントにそうなんだなあと、つくづくと思いましたよ。

 ローマ在住で、バチカンにいつも出入りしている日本人の神父がいるんですけど、今回も、夜一緒に飲んだりして、身近な教皇さまのいろいろなエピソードを聞く機会に恵まれました。
 ともかく、あの教皇さまが選ばれてバルコニーに出てきて、一番最初に、「ボナセーラ!」と言ったと、まあ、これだけで、みんなビックリ仰天した。普通なら荘厳な祝福から始まるところを、「こんばんは!」から始まったってことなんですよ。非常に庶民的な、まるで友達同士が、あるいは家族が交わすような挨拶から始まった。それがすべてを物語っている。それ以降、この教皇の人々との関わり方は、まあ、現地にしてみたら、何もかもがビックリ仰天なんですって。
 第一、教皇の宮殿に入らないんですよね。いまだに。サンピエトロ寺院の向かって右側の建物の上に教皇の宮殿があるわけですが、なんでそこに入らないのかっていうと、「そこではみんなに会えないから」なんだそうです。
 宮殿はですね、その神父の説明によると、「じょうご」のように、入口が細くって、その先が広がってる形になっていて、もちろん出入り口の所に門番がいて、中にはそうやすやすとは入れない。中はすごく広いんだそうで、寝室があり、執務室もあり、いろいろ係りの人がいたりするんでしょうけど、ともかくそんな所に入っちゃったら、すべてそこで事足りちゃうわけで、外部と触れ合うことがなくなる。普通にみんなと会えなくなるわけですよ。
 だけど、みんなと会って、やっぱり直接関わって親しく交わっていないと、これは司牧者として意味がないですよね。ちょうど、大企業かなんかのお偉方がね、立派な役員室に入っちゃって、一般の人や社員たちとは会わなくなって、そうなると都合のいい情報しか上がって来なくって、正しい判断もできなくなる。なんか、そういう企業、いっぱいありますよね、日本にも。そうすると、さまざまな不祥事が起こり、衰退してっちゃうわけですよ。
 今のパパさまは、そういうことに、絶対になりたくないんだと思う。だから、コンクラーベ(※3)の時に宿泊していた、サンピエトロ寺院の裏手にある「聖マルタの家」に入ったまんま、「もう、ここで充分ですよ」って、ず~っとそこにお住まいなんですよね。ということは、毎日、そこから宮殿の執務室に通うってことですよ。ある意味、その辺を歩いてるんです。それで、「ありえない! こんなことあり得ない!!」と、現地はビックリ仰天なわけです。
 でもそれは逆にいうと、どうしても、みんなと会っていたい、みんなと関わっていたいってこと。
 考えてみたら、「パパさま」っていうくらいだから、やっぱり私たちの「親」であり、「お父さま」なわけですけど、究極の親は天の父であって、そもそもは、天の父が、どうしても私たちに関わりたいといって、イエス・キリストとして、私たちのもとに来られたっていうのが出発点なんです。
 だから、イエスは町や村をくまなく回って歩いて、貧しい人、病人たちのところに近づいていって、声を掛け、手を触れて、神さまの愛を表した。これがキリスト教の始まりですから、キリストの代理者であり、私たち教会の一致のしるしである方がそのように振る舞うのは、考えてみたら当たり前っていえば当たり前のことなんですよ。これは、見習わなきゃならない。私たちにとって、この新しい第三千年紀のキリストの教会の、一つの大切な模範として、私たち、ホントに見習わなきゃならないと思う。・・・キリストのように、みんなに関わり、声を掛け、神の愛を表す。
 バチカンの衛兵がいますでしょ。黄色と青の縞模様の服着た「スイス衛兵」って呼ばれている。ご存じですかね。槍みたいの持って、きちんと立っている衛兵がいますよね?(※4) バチカンに行くと随所に立っていて、みんな若くて結構イケメンで、カッコいいですよ。隣りに行って記念写真撮ったりしても、イヤな顔しませんから、ぜひ並んで撮ってきたらいいですよ。
 この衛兵たちはバチカン内に住んでいて、遅い時間でも立ってるわけですね。で、パパさまはバチカン内をある意味通勤してるわけですから、いつもこの衛兵のところを通り過ぎるわけですよ。裏手の方はあんまり人通りもないし、遅い時間だったりすると、ちょっとこう、お飾りっていうか、形式的に立ってるって感じになりますよね。そうすると、パパさまが声を掛けてね、「ご苦労さま、もういいから、ずっと立ってないで、座んなさいよ」って言うんですって。すると衛兵が、「いえっ! それはできません!」って言ったそうな。パパさまが「どうして?」って聞いたら、「上司の命令ですから」。すると、パパさまが、「私が上司だよ」って言ったって。(笑)・・・いいでしょ? このパパさま。そう言われたら、座らないわけにいきませんよね。
 そういうのを聞くと、何ていうんだろう、神父とか司教とかね、ついついこう、偉そうにして、上から目線で命令する者になっているのが恥ずかしくなりますよ。キリスト者だってそうですよ、自分は救われているだか、信じているだか知りませんけど、まだ信じてない人を見下すようなね、なんか、奥さまが、信者じゃないダンナのことを、「この人も救わなきゃ」とかね。実際には、逆のように見えることが多いですけど。(笑)
 人間って、自分が偉いものであると思いたくて、いつもだれかを見下したがっていて、ついつい人を見下すようなふるまいが、ど~~したって出てきちゃうんですよ。特に周りからちやほやされると。キリスト者であれ、司祭であれ、司教であれ。ところが、トップの教皇が非常に謙遜な振る舞いを具体的に始めると、私たち、やっぱり「こうしちゃおれん!」って感じになるんですよね、やっぱりね。その雰囲気が、今、ローマに満ち満ちてる。

 イエスさま、さっき、福音書の中でおっしゃいました。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、お話になりました。たとえ話ですけど、「私は立派です。ちゃんとやってます。あんな悪い奴とは違います」って胸張ってるような人じゃなく、「こんな罪深い私ですけれど、なんとか憐れんでください。救ってください」って胸打っているこの罪人、その人をこそ、神さまは義となさった。つまり、神と神の子の、真の関係が結ばれた。ホントの親子になれたってことです。・・・「義とする」って、そういうことですよ。で、これが大事なんですよ。
 「こんな弱い私」「こんなダメな私」「こんな大変な思いをして、もうつぶれそうな私」、そこに神さまが関わってくださる。そこでつながらないと、キリスト教っていうものは、もう意味がなくなっちゃう。

 実際、今のパパさまが、豪華で偉そうな十字架じゃなく、素朴な十字架を胸に掛けておられる。そうすると枢機卿たちがですね、パパさまと並んだりしなきゃなりませんから、枢機卿の方が立派な十字架掛けてたら、なんかちょっとねって感じになるから、みんな慌てて素朴なものを掛け始めたとか。こういうのって、大事なんですよ。やっぱりトップがそういうことをすると、みんなが、「ああ、そうしなきゃね」って。
 これから、だから神父たち、大変だと思いますよ。今まで、信者の声に耳を傾けず、エラソ~にしていた神父たちも、・・・私がそうじゃないことを願うばかりですが、(笑)パパさまがああなんだからって、信者たちに伝わり始めると、信者さんもね、言えるじゃないですか。「でも、神父さま、教皇さまもそうなさってますよ」って。そうすると、これ、言い返せないですもんね。
 今のパパさまは、人に「こうしろ、ああしろ」ってね、要求したり命令したりしない。もちろんね、「キリスト者としてこうしましょう!」って呼び掛けはするけど、命令したりね、要求したりはしない。人にさせる前に、まず「自分で示す」、これがね、彼の真骨頂っていうか、新しい時代の、しかし考えてみたら、イエスさまがなさったこと、キリスト者の生き方の本質ってことなんじゃないですか。
 ですから、パパさまね、権威的な神父や、自己中心的な神父のことを、そうあってはいけないって、よく、口にします。厳しい(おきて)中心でなく、温かい母なる教会であれとか、司祭館にこもってないで現実の人間と関われとか。まずは神学より、司牧ってことです。やっぱり、はっきりとそう言っていただくと、そしてパパさま自らに範を垂れられると、司祭としては、「やっぱり、反省して、こうしていかなきゃならんよな」っていう気持ちになる。そういう意味でも、影響力、大きいと思う。
 ローマにね、何ていう名前だったか、反聖職者主義の新聞があるんですよ。無神論の共産系なのかな、徹底してバチカンを攻撃して、聖職者主義みたいなものをね、批判する新聞です。あらゆる批判をし、教皇批判も手厳しいものがあるわけですけど、先日、新しいパパさまが、そこの編集長にいきなり電話したんですって。
 あのパパさまは電話魔なんですよ。なにかあると、どんどん現場に電話が掛かってくる。多摩教会にいきなり掛かってこないことを願うばかりですけれど。(笑) 普段攻撃している教皇から、突然直接電話が掛かってきて、もちろん初めてのことですから、編集長ビックリしたわけですが、パパさまは「ぜひ会いたい」って。まあ、編集長にしてみたら、これはスクープだ!とでも思ったのか、「じゃあ、会いましょう」って、会ったんだそうです。そうして会っていろいろと親しく話してるうちに、お互い共感しちゃって、意気投合したそうです。そのとき、パパさまはこうおっしゃった。「私も、一部の神父たちを見ていると、反聖職者主義になります」って。(笑)
 こういうことをね、サラッと言われると、ドキッとするわけですよ。・・・ドキッとするし、うれしくなる。なんかこう、新しい息吹を感じますでしょ? 大切なことだと思うんですよ。やっぱり、理屈や神学じゃなく、まずは目の前の人間と関わって、一人ひとりを大切にすることで、自ら範を垂れる。模範となる。イエスさまのなさったこと。すごく大切なことだと思う。
 今、あの教皇の悪口言う人、誰もいないとか。ローマでも、批判の声がまったく聞こえて来ないそうです。みんな、何かを感じてるんですね。

 パパさまが謁見会場でね、私たちに直接、呼び掛けてくれました。忘れられない体験になりました。
 教皇の一般謁見、水曜日にあるんですけど、今、ものすごい人気で、先週は全世界から7万人以上集まってた。あの広いサンピエトロ広場に、月曜から椅子を並べ始めて、3万5千席、椅子を並べるんですよ。その周りにもう3万人くらいの立ち見があって、それでも広場に入りきれない人が大勢いました。押し合いへし合いの中、現地のガイドさんが、私たちを何とか広場に入れてくれましたけど、「新しいパパさまになってから、人出の予想がつかない。日に日に人気が高まって、これからどうなるんだろう」って心配してました。いやもう、大勢の人がギュウギュウ詰めに集まって、それでも、ともかくこのパパさまと会いたい、そのお言葉を直接聞きたいって。
 彼が入って来ると、みんな「ワァ~!」って喜ぶわけですけど、その中を、白いオープンカーで、ぐるぐるぐるぐる、あらゆる通路をず~っと、みんなに挨拶して回るんですよ。差し出される一人ひとりの子どもを抱き上げて、祝福してね、30分以上。前の教皇さまは、くるっと回ってそのまま祭壇に上っていたのが、今はもう、隅から隅まで。何度も行ったり来たりですよ。
 で、時には、その車から降りちゃって、車椅子に座っているお年寄りの所に近寄って行って、両方の(ほほ)をね、こうやって手で挟んで、祝福するんです。そんな様子が会場にいくつも用意された大きなスクリーンに映ってますから、よく分かるんですけど、もう、そのおばあちゃん、涙流して喜んで、何かしゃべってる。パパさまも、それに応えてる。何言ってるのかわかりませんけどね。で、そういうときって、普通なら、そうは言っても、すぐにまた車に戻るんでしょうけど、このパパさま、そのまんま、おばあちゃんと話し込んでるんですよ。(笑) で、おばあちゃんの方も、すっかりいい気になって、いろいろ熱心にしゃべってる。もしかしたら「うちの孫が最近ね・・・」とか。(笑) ともかくホントに、あの庶民的、秘跡的な感じはね、何て言ったらいいんでしょう、「ああ、これが教会だ、それがキリストだ、神さまって、そういう方なんだ」ってことが、そのまま目に見える。
 それから祭壇に上って、お祈りがあり、講話があって、祝福で終わるわけですけど、先週は、その後も、2時間以上、人々とあいさつし、交わっていた。2時間ですよ。広場に残って。2週間前の謁見のときなんか、土砂降りの雨の中、傘もささずに何十分もぐるぐる回って、ずぶぬれだったんですって。
 片肺なんですよね、あのパパさま。そんなに体、強くない。だから、神父になった時、「日本に行きたい」って言ったのに、来れなかったんですよ。イエズス会の宣教師として、日本に宣教に行きたいって言ってたけど、体が弱くて行けなかった。
 このたび、日本の司教団が、パパさまに、正式に、日本に来てくださいと招聘(しょうへい)しました。うれしいニュースです。みんなで盛り上げて、実現させましょう。なかには、「教皇を呼ぶよりも、他にやることあるだろう」っていう意見の人もいるけれど、そういう人はその「やること」をやってるんでしょうかね。2015年に、という情報もありますが、ぜひ、来ていただきたいですよね。あの素朴な語り口で、日本の信者たちに語りかけてほしい。「神は、あなたを愛しています。神の愛を、すべての日本人に宣言してください」と。

 彼の語り方は、本当に率直で、魂に響くんです。先週の謁見でも、自然体で、親しく語りかけてくださいました。その日は、福音書から、聖母マリアのエリサベト訪問の箇所が読まれて、それについて講話をしたんですけど、「聖母マリアは、おなかにイエスさまを宿してエリザベトを訪問した。これこそ信仰の模範だ。私たちキリスト者がなすべきことは、イエスをもたらすことだ。教会は、自分をもたらすんじゃない、イエス・キリストをもたらす。すべての人に、イエス・キリストをもたらしてほしい」と、パパさまは、そう言って、こう続けたんです。
 「仮に、教会がイエスをもたらさないなら、そのとき、教会は死んだ教会になります。教会は、イエスの愛を、愛のわざをもたらすのです!」って言ったら、みんな一斉に拍手したんですよ。
 そしてその後で、顔を上げてですね、「イエスの愛は、無償の愛です。私たちは、分かち合い、ゆるし、共に生きるイエスの愛をもたらしているでしょうか。それとも、見返りを求める、条件付きの愛をもたらしているでしょうか。利害のからんだ愛を、イエスさまがお喜びになると思いますか?」って問いかけた。そうしたら、みんな、「ノー!!」って叫んだんですよ。
 あのやり取りは、ステキでしたよ。心が通い合っていて。
 さらにはその後で、「私たちの小教区、共同体の人間関係は、どうなってますか? みんな、お互いに兄弟姉妹として関わってますか? まさか、あなたたちはお互いに、悪口なんか言ってませんよね?」って言ったら、みんなドッと笑ったんです。
 こうやって、私がしゃべってても、「まさか多摩教会の皆さん、お互いに悪口なんか言ってませんよね?」って言ったら、(笑)・・・ほら、こうして笑うでしょ? それとおんなじしゃべりかたなんです。まさに、自然体。イエスさまも、そんな感じだったんじゃないかなあ。

 さあ、今日、パパさまに語りかけられました。・・・「みんなにイエスを、無償の愛をもたらしてくれ」。
 パパさまが身をもって示している、その模範に、私たちも倣いたい。


 幼児洗礼を受ける子どもたち、次の時代に、あなたたちがイエスさまをね、みんなにもたらしてくれるよう、大人たちはしっかり模範を示しましょう。
 それでは、全世界のカトリック教会と心を一つにして、幼児洗礼式を行います。洗礼を受けるお子さんと、御両親、代母の方々は、前にお進みください。(※5)


【 参照 】

※1:「栄光の賛歌」
・ グロリア(Gloria)<ラテン語>
ルカ2:14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」を冒頭の句として、神への賛美とキリストへの賛美を歌う賛歌。現在、待降節、四旬節以外の主日や祭日、祝日に、ミサの開催のとき歌われる。
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※2:「ヨハネ・パウロ2世の列聖記念ツアー」
・ 福者ヨハネ・パウロ2世教皇(在位1978〜2005年)の列聖決定を受け、(株)阪急交通社が企画した巡礼旅行。期間は10月18日(金)〜10月25日(金)で、同行司祭は晴佐久神父さま。
(「福音の村」での、ご案内ページは→ こちらでした)
 その際のチラシは、以下のとおりです。(画像はそれぞれ、クリックすると拡大できます)

(チラシ表)
(チラシ表)
 
(チラシ裏)
(チラシ裏)

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※3:「コンクラーベ」
・ コンクラーベ(Conclave)<ラテン語>
  教皇選挙のことで、教皇の死後(辞任後)、15日〜20日の間に開かれる。
 詳細:「コンクラーベ(Conclave)とは?」(カトリック中央協議会)
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※4:「スイス衛兵」
・ バチカンのスイス衛兵隊
vatican-S参考:「スイス傭兵」(ウィキペディア)
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※5:「幼児洗礼式」
幼児洗礼式
カトリック多摩教会:2013年10月27日(日):幼児洗礼式
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2013年10月27日 (日) 録音/2013年10月30日掲載
Copyright(C) 2013 晴佐久昌英