奇跡が起こりました!

2014年8月17日年間第20主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ56・1、6-7)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ11・13-15、29-32)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ15・21-28)

【晴佐久神父様 説教】

 最近はもはや、「今日のミサに、晴佐久神父は果たして出てくるのかどうか」(笑)・・・。
 入院やら台風やらでご迷惑をおかけしっぱなしですけれども、それこそ、今日のミサのテーマは、「神のあわれみ」で、まさに、神さまのあわれみなしには、私たち、何一つできない。
 われわれは、まあ、自助努力っていうんですか? 自分で何か頑張るのもいいですけど、何をおいてもまず第一に、神のあわれみを願い求める。これが、私たちのなすべきことの第一です。
 これ、信仰の基本ですけれど、分かってるようで、やってない。みんな、まず、自分の力を使おうとするから。
 しかし、まず第一にすべきことは、神に向かって、
 「もう、万事休すです。弱い私には、どうすることもできません。完全に無力です。・・・(あと)は、ただひたすら、あなたのあわれみに寄りすがります」と、そう祈ること。
 「神のあわれみ」、これさえあれば、あとは何があろうとも、真の安らぎが生まれるからです。

 
 おそらく、聖母マリアっていうのは、そのような神のあわれみを取り次ぐという、特別な奉仕をしてくださるお母さん、教会の母、すべてのキリスト者の模範、弱い私たちのために祈ってくださる方。・・・聖母マリアっていうのは、そういう存在でしょう。
 おとといの聖母被昇天のミサ、それを強調いたしました。青いカズラ(※1)を着てね。ご覧になってない人、いるでしょう。聖母被昇天にしか見られないんですよ。一年に一度。去年信者さんに作っていただきました(※2)。空の青のような、美しい青でね。
 青いカズラは、まるで、青い地球が人類を包んで守っているかのような、まさに聖母のいつくしみのマントです。神のあわれみを引き出すために、全人類と一緒に祈ってくださる、その聖母の汚れなき尊さを表すマント。
 空色は、私にとっては、そういう色です。安心の色、神のあわれみを引き出してくださる聖母の色。
 聖母マリアの祈りっていうのが、どれほどありがたいかっていうことを、この夏も、私、いっぱい体験いたしましたし、神のあわれみを引き出してくれる仲間たちの祈りっていうのは、これはもう、ホントに尊いっていうことを、強調したいと思う。

 そもそも、「『聖母』ってよくわからない」って言っておられる方、時々おられます。「聖母への崇敬ってどういうことかわからない」とか、「聖母マリアを敬う意味がわからない」みたいな。
 だけど、これは、素朴に考えてください。私にとっては、聖母っていうのは、こんな私のためにちゃんと祈ってくれる、こんな私のために神に祈り、取り次いでくれる、まあ、「特別な方」なんですよ。ありがたいじゃないですか。そういう方がいてくれた方がいいって思いませんか? 祈ってもらうのは嫌だっていう人はいないでしょう?
 ここが私はよく分からない。なんか困ったとき、つらいときに、「私は自分一人で祈りますから、聖母マリアに祈っていただかなくとも結構です」って言うのか、「こんな信仰薄い私の祈りだけでは到底足りないから、聖母マリア、ぜひ一緒に祈ってください。あなたのことはちゃんと理解できていないけれども、あなたが祈ってくだされば、きっと神さまのあわれみを深く感じられるでしょうから」って言うのか。だれだって、祈ってもらった方がいいに決まってるでしょう。
 祈ってくれるって、ありがたいことじゃないですか? 素直に、素朴に、教会の母が祈ってくれることを、私たちは喜ぶべきじゃないか。
 使徒言行録の第1章には、主の昇天の後、聖母マリアが弟子たちと共に祈っていたと書いてあり、そこへ聖霊が降って教会が誕生するわけですけれど(※3)、聖母マリアは、教会の母として、われわれのために祈ってくださる方。これはあの、・・・まあ、変な言い方ですけど、「利用しない手はない」と、そう思っていただきたいんですよ。
 だって、われわれの祈りなんて、貧しい祈りでしょう? でも、聖母が祈ってくれれば、聖母と共に教会の仲間が祈ってくれれば。・・・そういう、祈り合う仲間でいたい。

 聖母被昇天の日に、ですから、「最後はロザリオ!」っていう話もしました。・・・最後はロザリオ。
 まあ、いろいろ万事尽くすわけですけども、困りました、悩みました、苦しみました、で、最後はもうどうすることもできないから、最後はもう、ロザリオを握ります。
 ・・・これを、偶像崇拝といいますか?
 人間、そんな強くないですね。むしろ、私に言わせれば、自分の力で何とかしようっていう方が、「自分」という偶像を崇拝してるんじゃないかって、私はそう思う。
 偶像崇拝を否定する、・・・そんなの当然ですよ、偶像なんかを崇拝する必要はまったくない。しかし、いつの間にか、自分の信仰、自分の努力、なんか、そういうものが偶像になって、それにすがっていたら、それがよほどの偶像崇拝。
 むしろ、仲間たちの祈り、聖人たちの祈り、聖母の取り次ぎの祈り、・・・そんなのに支えられて、神のあわれみを、全面的に信じて受け入れる。これが「信仰」ってことじゃないですか? 最後はそういう信仰のはずです。
 さっき集会祈願(※4)で、私、ハッとさせられたんですけど、いいお祈りでしたね。
 「弱さや無力さを感じるときにも、神の救いを信じ続けることができますように」
 弱いのは、私たちのスタンダードですね、「弱さや無力さを感じる」って、当然です。何もできません、苦しいです、自分で自分は救えません、そういう弱さや無力さを感じる。しかし、たとえそういうときにも、神の救いを信じ続ける。ここだけは譲れない。これだけは手放さない。
 その意味においては、「神の救いを信じる」という強さだけは、最後まで持ち続ける。あとはぜんぶ弱くていい。しかし、最後の最後、神の救いを信じ続ける。
 ですから、さっき、お気づきでしたかね、集会祈願のとき、思わずここを、
 「弱さや無力さを感じるときにも、神のあわれみを(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)信じ続けることができますように」
 って読み替えてしまいました。
 まあ、そういうことですね。・・・神さまのあわれみ。
 この神のあわれみによって世界は成り立っているし、それを受け入れるときに、私たちはホントに神と一致する。これほど弱いのに、そこを信じるという意味では、これほど強い。・・・「最後はロザリオ」って言ってんのは、そこなんです。
 聖母マリアの祈りにしっかりと支えられて、神のあわれみを最後まで信じ続ける。

 この前、入院する前夜、眠れなかった夜の、まあ苦しかったこと。ホントに、ロザリオ握り締めましたよ。ギューッとね。
 ・・・そういうことじゃないですかねえ。
 「どうか神さま、あなたのあわれみを示してください。あなたのみこころならば、私に癒やしを。そして、癒やしを与えてくださったら、あなたのために、日々を捧げます」と、私、聖母の祈りに支えられて、お祈りいたしました。だからもう、約束した手前、日々ですね、神のあわれみを信じ続けようと。
 入院してからも、次の週に、「心の病で苦しんでいる若者のためのキャンプ」を、半年も前から計画して、仲間を集めて、ひと月ごとにミーティングを繰り返して来ましたから、ひたすら祈りました。統合失調、定型うつ、パニック障害、発達障害・・・、いろんな問題を抱えている若者たちが集まっていて、互いに「だいじょうぶだ」「信じよう」「一緒に祈ろう」「みんなでキャンプを成功させよう」「神さまが、きっと素晴らしい恵みをくださるよ」って言い続けてきたのに、私が突然、「退院できませんから、キャンプは中止です」って言ったら、ホントにみんながっかりするだろうし、「なんだ、やっぱり神さまは見捨てるのか」って思われたらどうしよう・・・とかって、ずっと。
 ・・・で、やっぱりロザリオなんですよ、最後は。握り締めて、お祈りして。

 参加者の一人は古い友人ですけど、統合失調症を患っていて、いつも私の携帯に電話をかけてくるんですよ。まあ、しょっちゅう、しょっちゅう。で、あまりにも、しょっちゅうだと、ホンット申し訳ないんですけど、忙しいときは出なくなるんですよね、「ああ、またあいつか」と。話は大体同じですし、私の答えも一緒ですし。そうすると、私が出ないから、留守番電話に入れてくる。それがまた、長い、長い。もうず~~っとしゃべってる。
 ず~っともう、そんなことが10年くらいですかねえ、続いてたんですけど、今回、私が入院中にもその彼から電話が入っていて、病院ですから切ってたら、いつものように留守電が入ってたんです。内容はいつもとおんなじような感じです。
 「神父さま、苦しいです。でも、み心に委ねます。弱い私のために祈ってください。来週の合宿よろしくお願いします。神父さまのためにお祈りしています。早く良くなってください。必ずキャンプできるって信じてます」と、まあ、そういうようなことを、長々としゃべってる。
 病院の食堂で、この留守電を聞いたんですけど、「神父さまのためにお祈りしてます」っていう言葉に、思わず込み上げてくるものがあった。うれしかった。いつもだったらね、ハイハイって感じで、聞き流してた言葉が、全然違って聞こえるんです。
 ・・・だからやっぱり、人って、弱るの、いいですね。(笑)
 だってホントに、元気だとね、「ああ、またあいつか」ですよ。ひどい神父ですよね。(笑) ホントにひどいと思う。でも、そうなっちゃうんです、元気で忙しくしてると。でもね、ありがたいことに、弱ってるとね、「神父さまのためにお祈りしてます。早く良くなってください。必ずキャンプできるって信じてます」なんて聞くと、思わずクーッときて、「ああ、あいつに会いたいな~」って思った。だから、今までもよく会ってたやつで、ものすごく長い付き合いですけど、キャンプ中は、なんか初めてのようにいろんな話が素直にできたし、やっぱりちょっと私、病んでるあいつに対して、元気な人間として上から目線だったな~って感じましたね。
 キャンプ中に、いっそう仲良くなれたし、こいつと来年も、なんかやってこうかなっていう、そういう気持ちも生まれて、楽しみ増えたというか。

 まあそういう意味では、「弱った方がいい」は言い過ぎかもしれないけど、でも、さっきの第2朗読(※5)に、驚くべきことが書いてあったでしょう。最後の行なんですけど、
 「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ11:32)
 これ、ビックリする言葉ですね。「不従順の状態」っていうのは、神から離れている状態ですよね。だからこそ、私たちは弱いし、苦しむし、すごく恐れるし。まあ要するに、不従順なる罪の状態に閉じ込められて、ぼくらはもうホントに、闇の中を生きてるんですよ。
 だけどこれ、「神が(・ ・)閉じ込めた」って書いてあるんですよ、これ。パウロの言い方だと。神がその状態に、私たちを閉じ込めた。「なんでそんなにひどいことするの?」っていうと、それは、
 「すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ11:32)
 「え? じゃあ、最初から閉じ込めなきゃいいじゃん」って思うとしたら、それは違う。「神のあわれみを知るということが、どれほど(・ ・ ・ ・)素晴らしいか」っていう、おそらく神さまはそのことをちゃんと、・・・ちゃ~んとわかっているから、そうなさってるんですよ。
 逆にいうと、ぼくらは神のあわれみを知るために存在しているし、神のあわれみに寄りすがるときに、神とホントにつながるっていう、歓喜、平和、希望が、そこに与えられる。
 聖母マリアが取り次いでいる祈りの目的もそこにあるし、あの、病気の彼がね、私のために祈ってるっていう時に、要するに、彼を通して神のあわれみを、ちょっと感じたってことでしょ。そんなときに、私の心にも、何かまた新しい、こう、「自由」っていうのか、喜びがあふれてくる。
 「神のあわれみ」、それを、私たちは引き出すべきですし、神さまが、「すべての(・ ・ ・ ・)人を」って書いてある、ここに。「すべての人を(・ ・ ・ ・ ・ ・)憐れむため」に、何か素晴らしいみわざをなさっておられるということに、最後は信頼する。

 イエスさま、ちょっと冷たいでしょ。今日の福音書(※6)のイエスさま。「いや、あなたのためには、癒やしのわざを行えない」みたいなことを言うわけですよ。まあ何か事情があるんでしょう。私たち、イエスさまを信頼しますから、「イエス、ひどいじゃないか」とは言わない。何かイエスなりのご都合、ご事情がおありで、そうなさってるんでしょうけど、でも、このカナンの女性にしてみたら、そんなこと関係ありませんからね。・・・「わが娘」が、「悪霊」に苦しめられてるんだから。(cf.マタイ15:22)
 今回のキャンプもそうですけど、精神的な問題、心の病、障害で苦しんでいるっていうのは、ホントに、時には悪霊の働きを思わせるような現場、ありますよ。そんな時、その当事者のお母さまが、どれほど心配したり祈ったりするかっていうのは、想像つきますでしょ。
 だから、このカナンの女は、イエスの所に来て、言うんです。
 「主よ、憐れんでください!」と。(マタイ15:22)
 「あなたの憐れみが必要です。娘が悪霊に、ひどく苦しめられています」(cf.マタイ15:22)
 今までどれほど自助努力をしたか。あらゆる手だても講じたことでしょう。でも、どうにもならない。だからもう、
 「イエスさま、あなたを信じます。あなたがあわれんでくだされば、娘は癒やされます」
 でも、イエスさまは、何も答えなかったり(マタイ15:23)、「わたしは遣わされていない」って言ったり(マタイ15:24)、「パンを子犬にやってはいけない」まで言い出す(マタイ15:26)
 でも、その女はイエスの前にひれ伏します・・・イエスはどんどん先に行こうとしてる、それをもう歩かせないんです。イエスの前にひれ伏して、行かないでくれと。そして、「どうかお助けください!」って、言ってるんです。(cf.マタイ15:25)
 そして、「パンを子犬にやってはいけない」まで言うイエスに、女は言います。
 「主よ、あなたのおっしゃるとおりです。でも、あわれみの(くず)くらいは、くださってもいいじゃないですか! 屑でいいです。一粒でも残ってませんか?」と。(cf.マタイ15:27)
 そこまで言うこの婦人に、イエスは、
 「あなたの信仰は立派だ」と、「あなたの願いどおりになるように」と、そう言う。(マタイ15:28)
 「最後はロザリオ」って、おととい言いましたけど、ホントに、「そのかけらでもいい、屑でもいい、あなたのあわれみがあれば、もう私には、それだけが、かけがえのないすべてだから、何とかお願いいたします!」と、まごころから祈る。
 おとといも話しましたけど、ある方は、本っ当に苦しい夜、わざわざ教会の聖母像の所に来て、必死に祈って、最後は聖母像に抱きついたって。私、その話を聞いたとき、「あっ、この人は、神のあわれみを得るな」って、そう確信しました。
 ・・・皆さんは、あんまり抱きつかないでくださいね。あれ、倒さないでよ。(笑) でも、抱きついた方の気持ち、分かりますでしょ? 聖母像の前で神のあわみを取り次いでくれと祈っていて、「お願いします! お願いします!!」ってにじり寄って、最後は抱きしめたって。これを偶像崇拝と言うとしたら、そういう人の方が「自分の信仰」という偶像崇拝をしてると言いたい。
 何かこの「最後は」っていうところにね、神と人が真につながる一瞬が感じられて、この婦人もそうですけど、「あわれみの屑でもいいから、私にくださいませんか」、こういう祈りでね、なんか、世界は変わってくんですよ。
 信じてね、祈り続けてください。

 私も、信じて、願かけて、入院中、一生懸命祈って、ちゃんとキャンプできました。
 天国みたいな素晴らしいキャンプでしたよ。奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)に私が建てた合宿所ですけど。
 せっかく合宿所を建てたんでね、こういう所に、普通に考えたらとてもじゃないけど来られないっていう人のためのキャンプができたら、どんなにいいだろうって思い付いちゃったんですよ。
 まあ、準備は大変でしたよ。
 「どうしても行けない。自分は飛行機とかも怖いし」っていうやつもいたので、私、「だいじょうぶ。ぼくが付いてるから」って言ったら、「じゃあ、飛行機で隣の席にしてくれるなら行きます」って。(笑) 約束守りましたよ。でも、LCC(※7)って格安のチケットだし、そんなに簡単に席をどうこうできない。だから、仲間内の二人並びとチェンジしてもらって、私と彼が座ったんです。
 でも実際にはぜ~んぜん平気そうでね、(笑)なんか、拍子抜けでしたけど、まあでも、「隣りにいるから」っていうんで安心したんでしょうか。
 もう、一人ひとり、いろんなもの抱えている、そういう仲間たちで、何とか過ごしました。
 合宿所で食事をしても、「みんなで食事をするのは緊張してつらい」っていうんで、一人だけ別な所での食事とか。精神看護師もね、ちゃんと付いてってもらって、ずいぶんお世話になりました。やっぱりプロは違いますね。一人ひとりにちゃんと対応して、で、よく見てるんですよ。「彼は今ちょっとつらそうだから、ひとりにした方がいいでしょう」とかね、でも、そういう仲間たち、薬飲み飲みの仲間たちがね、信じ合って一緒にいるっていうのは、ホントに素晴らしい。
 毎日ミサしましたけど、このミサが、ホントによかった。ミサなんて、今まで山のようにやってきましたけど、ミサっていうのが、ここまで私たちをひとつにして、そして、弱さゆえに、神のあわれみを引き出すっていう現場がこんなに尊いかっていうこと、実体験できるんですよ。そういうのを体験したくて企画したようなところがあるんで、これはホントに私自身、あの毎日のミサで励まされました。・・・先日の列聖式の歌を繰り返し歌いながら、捧げたミサ。
 ところが、台風に閉じ込められて帰れなくなって、3泊余計にしたんですよ。中には、薬が切れそうになって不安になるのもいる。ホントに、まいったな~と思いましたけど、そのおかげで、もう3回余計にミサができたわけです。
 ・・・この後半のね、台風に閉じ込められたときのミサが、またすごくよかった。

 余計にいたおかげで、しかも出ていけないから、部屋ん中にいるじゃないですか。そうすると、みんな、いろんなこと話し合っているうちに、だんだんこう、一致できて、分かり合えて、これがすごくよかった。台風に閉じ込められるのもみ心かと思ったくらい。
 だってね、A君のことを、B君は、すごく嫌いだったんですよ。さらに、このB君のことを、C君はゆるせなかったんです。みんなすごく傷つきやすいし、感じやすい人たちなので、そういうことは起こりやすい。だけど、台風に閉じ込められている間にですね、A君とB君、仲良くなったんです。
 これ、私の目の前で起こったことですけど、B君がね、A君に、はっきり言ったんですよ。
 「君、思ったよりいいヤツだな」って。(笑)
 A君は、「『思ったより』って、どう思ってたんだよ」って言ったら、B君も正直で、こう思ってた、ああ思ってたって。「でも、今はいい奴だって思う」って。
 それ聞いて、なんかとってもうれしそうでしたよ、A君。
 そのB君を、C君は嫌ってた。
 でも、最後のころには、このC君が、私の所に報告に来たんです。
 「神父さま、奇跡が起こりました! B君は以前のミーティングの時に、ぼくがあいさつしても無視した。ぼくはそのことが赦せなくって、ず~っと気にかかっていた。でも、今日、B君がぼくに話しかけてくれたんです! ぼくたち、仲良しになれそうです」
 ・・・簡単な話だなあって。(笑)
 でも、「奇跡が起こりました!」って、台風のさなかでしたけど、祈り続けて、ミサで神のあわれみに触れ続けてたら、ちゃんと神の愛が示されて、そんな奇跡を味わえる。
 私たち、弱ければ弱いほど、素直に、正直に祈り求めるし、神のあわれみを得ることができる。
 ・・・信じましょう。

 皆さん、今はホントにつらくても、出口なしに見えても、神のあわれみがあります。
 この神のあわれみは、今は気づかないかもしれないけど、もう来ていますから、それに目覚めていただきたい。
 第1朗読(※8)の最初の所、見てください。
 「主はこう言われる。
 正義を守り、恵みの業を行え。
 わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い」(イザヤ56:1)
 ・・・「間近い」んですよ。
 昨日、雨上がりに、多摩センターのところにものすごい美しい虹がバーーンと出てましたけど、「ああ、何かいいこと起こるぞ~!」っていう気持ちがして、なんかス~ッといたしました。
 ・・・「間近い」んですよ、皆さん。・・・「もうチョット」なんです。
 イエスによって神のあわれみは表されました。神の国は来ています。
 「もうチョット」の辛抱。


【 参照 】

※1:「カズラ」
 司祭が祭儀(ミサ)のときに着用する祭服の種類のひとつで、盛衣。
 色は「赤」、「白」、「緑」、「紫」などで、典礼暦や、各祝日などの意味を視覚的に表現しており、それに従って変更される。衣には、彩色や刺繍が施されている。
 各、色の意味とは、以下のとおり。
「白」:  (意味) 神の栄光、清らかさ、喜び。 
      (用いられる日)復活節と降誕節、受難の日以外の主の祭日。
              聖母、天使、殉教者以外の聖人の祝祭日
              諸聖人の祝日(11/1)、洗者ヨハネの誕生(6/24)の祭日
              聖ヨハネ使徒福音史家(12/27)、聖ペトロの使徒座(2/22)、
              聖パウロの回心の祝日(1/25)
「赤」:  (意味) 殉教、愛、炎
      (用いられる日)受難の主日、聖金曜日、聖霊降臨の主日、主の受難の諸祝日
              使徒、福音史家の帰天日、殉教者の祝日
「緑」:  (意味) 希望、平和、自然、充足、堅実など
      (用いられる日)年間の典礼
「紫」:  (意味) 償い、回心、節制、待望、つつしみなど
      (用いられる日) 待降節、四旬節、死者のための典礼
「黒」:  (意味) 死、悲しみ
      (用いられる日) 現在はあまり用いられていないが、葬儀のときに使用されることもある
「バラ色」:(意味) 喜び
      (用いられる日) 待降節の第3主日(喜びの主日)、四旬節第4主日(バラの主日)
「金」:  (意味) 王位、尊厳など
      (用いられる日) 盛大に祝い事が行われる日には、上記の典礼色にかかわらず、
               より高貴な祭服として、金色を用いることができる。
「青」:  (意味) 天
      (用いられる日) 聖母マリアの信心のミサなどに用いることができる。
(参考)
・ 「ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)[PDFファイル](2004年4月8日)
    - p.73 「Ⅳ 祭服」の「346[=308]」祭服の色について 
祭服(ウィキペディア) など
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※2:「去年信者さんに作っていただいた」青いカズラ
下の画像は、その青いカズラを着た晴佐久神父と、祭壇脇にある聖母子のイコン。
(クリックすると大きく表示されます)

(2014年8月15日 聖母被昇天の祭日のミサより)
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※3:「使徒言行録の第1章には、主の昇天の後、聖母マリアが弟子たちと共に祈っていたと書いてあり、そこへ聖霊が降って教会が誕生するわけですけれど」
(参考)
「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒1:14)~「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(同:2章終わりの47節)
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※4:「集会祈願」
(以前、「福音の村」(2014年6月15日説教「金色の光に包まれて」)の【参照】※6でも掲載しましたが、改めて、以下にまとめてご紹介しておきます。)
*******
 カトリックのミサは、1.開祭 2.ことばの典礼 3.感謝の典礼 4.閉祭 の順に進められる。
 ミサの導入部に当たる「1.開祭」はさらに、①入祭の歌、②あいさつ、③回心への招きと祈り、④あわれみの賛歌、⑤栄光の賛歌、⑥集会祈願から成る。
 ⑤の栄光の賛歌の後、司祭は会衆を祈りに招き、一同は、司祭とともにしばらく沈黙する。それは、自分が神のみ前にいることを意識し、自分の願いを思い起こすためである。
 その後、司祭は、「集会祈願」と呼ばれる祈願を唱える。この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
 教会の古くからの伝統に従い、集会祈願は通常、聖霊において、キリストを通して、父なる神に向けられ、三位に言及することばによって結ばれる。
(参考)
・ 2006年『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』オリエンス宗教研究所
・ 「ミサについて」(カトリック東京大司教区>ようこそカトリック教会へ)
・ 「ミサの式次第-開祭の儀」(ウィキペディア)など
・ 2004年カトリック中央協議会「ローマ・ミサ典礼書の総則<暫定版>(PDFファイル)」p22 「集会祈願」など
*******
 本日(2014年8月17日〈年間第20主日〉)の「集会祈願」は、以下のとおり。
 「救いの源である神よ、ここに集まった一人ひとりの思いを受けとめてください。弱さや無力さを感じるときにも、神の救いを信じ続けることができますように。
 聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
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※5:「第2朗読」
本日(2014年8月17日〈年間第20主日〉)の第2朗読箇所
「使徒パウロのローマの教会への手紙」
  11章13~15節〈小見出し:「異邦人の救い」の一部〉と、
  29〜32節〈小見出し:「イスラエルの再興」の一部〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※6:「今日の福音書」
本日(2014年8月17日〈年間第20主日〉)の福音朗読箇所
「マタイによる福音書:15章21節〜28節」
〈小見出し:「カナンの女の信仰」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※7:「LCC」
ローコストキャリア(Low Cost Carrier)の略称。格安航空会社のこと。
低運賃を最大の特徴とする。
機内サービスの廃止、または有料化、大都市周辺のセカンダリー空港や、使用料の安い空港の利用、航空券のインターネット直販、契約社員活用などでコストを削減している。
(参考)
・ 「LCC」(コトバンク-「知恵蔵2014の解説」より)
・ 「LCCについての質問」(CAN 「よくあるご質問」より)
・ 「格安航空会社とは?」(「世界の格安航空会社 完全ガイド」より)など
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※8:「第1朗読」
本日(2014年8月17日〈年間第20主日〉)の第1朗読箇所
「イザヤの預言:56章1節、6~7節」
〈小見出し:「異邦人の救い」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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2014年8月17日 (日) 録音/2014年8月31日掲載
Copyright(C) 2014 晴佐久昌英