目覚めれば、天国

2015年6月21日年間第12主日
・ 第1朗読:ヨブ記(ヨブ38・1、8-11)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント5・14-17)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ4・35-41)

【晴佐久神父様 説教】

 今日の、この聖書の箇所(※1)を読みますとですね、無人島キャンプ28年目という私なんかにはもう、思い出すことがたくさんあります。荒れる海で、ゴムボートでの闇夜の撤収なんていうのもやりましたから、海がどれほど怖いか、夜、波にもまれる舟の上がどんな恐怖かっていうのは、私、体験したことあるんですよ。まあ、イメージしてみてください。
 それでいうんなら、皆さんの人生も、ホントに波風の中を、大嵐の中を、真っ暗闇の中を、「ああ、もうこれで終わりなんじゃないか・・・」って思うような瞬間もありましたでしょう。そんなことも思い出してください。
 そんなイメージを持った上で、今日のこの聖書を読みますと、・・・真っ暗な海の上で、嵐の中、一(そう)の舟が揺られている。これはもう、水が入ったら、舟というのは終わりですから、「水浸しになるほど」(マルコ4:37) というのは、下手すると、沈没して全員死んでしまうという、そういう、恐ろしい現場です。
 その舟の中に、イエスがおられる。
 全能の救い主ですよ。天地の創造主の御子(おんこ)、イエス・キリストがそこにおられて、ぐっすり眠っている。まさしく、究極の平和がそこにある。
 ・・・この対比! 真っ暗な荒れる海の上に、天国のような平和がポツンと乗っかっています。
 この強烈なイメージは、私にとっては、・・・何でしょう、究極の希望であり、安心です。
 確かに現実には、大嵐ってことがあります。しかし、主が、ここに、私と共におられる。だから、周囲がどうであれ、私の内に平和がある。逆に言えば、このような平和の主を知らない人たちって、真っ暗闇の嵐の中で、いったいどうやって耐えてるのか、不思議でしょうがありませんが。
 私は、たとえば今だって、この聖堂にいて、とっても心穏やかです。見てください、聖堂って、舟みたいでしょう。教会はよく、舟にたとえられるんですよ。ノアの箱舟みたいに、希望の地、約束の地に向かって、みんなを乗せて、主イエスと共に進んでいる、安全な舟。「この舟に乗っていればだいじょうぶなんだ」っていうこの安心こそは、どれほどの闇の中にあっても、揺るがぬ希望です。
 この対比のイメージが、大事です。嵐だけ見て(おび)えていてはいけない。舟の中、平和の主を見つめなくてはいけない。この聖書の箇所を読むと、「どんな大嵐に襲われようとも、平和の主、イエス・キリストと共にいさえすれば、それでいいんだ」っていう希望がわいてきます。

 それを信仰っていうのに、この弟子たちの慌てぶりったらね。
 まあ、これ、イエスにしてみたら、体験学習させてるんですね、弟子たちに。弟子たちにはもうすでに、神の国について教えたし、神の国の素晴らしい(わざ)も見せています。だから、「あとは、本当にお前たちがそれを信じて生きるだけだよ〜!」って言いたいんですよ。弟子たちに、実際に現実の中で信じてほしい、神の国の平和を味わってほしい、神のみ心を受け入れてほしいっていう思いで体験学習させてるんですね。だから、暗くなる頃になって、舟を海に出すわけでしょ。案の定、突風が起こったりするわけですけれども、そこでイエスは、模範を示します。
 「どれほどの波風であろうとも、わたしはすべてを天の父に委ねて、ぐっすりと平和のうちに眠る」。そういう模範。
 だから弟子たちも、先生の模範に倣って、「主が共にいてくださるんだ。その主がすべてを神に委ねて眠っておられるんだ。周囲がどれほど恐ろしくっても、私たちも心の内に平和を保って、安心して一緒に寝よう」と言って、一緒に寝ちゃえばよかったんですよ。
 でも、弟子たちは、この体験学習、弟子の試験に失格いたします。まあ、最終的な試験はね、十字架の時に受けるわけですし、その時は神さまがちゃんと復活の栄光を見せてくれて、全員合格させてくれるわけですけど、それは期末試験の話で、これはまあ、中間試験みたいなもんですね。途中でちょっとこう、たるんでる弟子たちをギュッと引き締めるわけですね。
 弟子たちは、この試験に落第いたします。だって、慌てふためいて、平和の主をたたき起こして、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか~~~!ヽ(゚Д゚*)ノ 」(マルコ4:38)だなんて。・・・情けないね。
 イエスさまは起き上がって、波風を叱ります。
 「黙れ。静まれ」(マルコ4:39)と。
 でもこれね、誰に向かって言ってると思います? ・・・お分かりですよね。波風に向かって、「黙れ。静まれ」と言っているようですけれども、波風が一番立っているのは、どこなんですか? 「海の上」じゃないんですよ。弟子たちの「心の中」なんです。
 考えてみてください。波や風なんていうものは、何億年も前から、ただ、ザバザバと揺れてるだけで、急に「黙れ。静まれ」とか言われても、波風にしてみれば「いや、そう言われても、私、何か悪いことしました? 神さまの定めた自然界の(おきて)どおりに、ザバザバ嵐やってるだけなんですけど・・・」って言うしかないですよね。かわいそうですよ、なんだか急に悪者みたいに叱られて。
 「黙れ。静まれ」って言ってるのは、これは、弟子たちの心の中の嵐のことでしょ。
 皆さんも、あの眠れぬ夜を思い出してください。実際に周囲が嵐だから眠れないんじゃないでしょう。あなたの「心の中」が嵐だから、眠れない。現に、周囲は平和な夜でね、お月さまが静かに夜空に浮かんでたりしてるってのに、この私の心の中が暴風雨なんです。
 だからイエスが、「黙れ。静まれ」って一喝するのは、これは、皆さんの心に向かって言ってるんですよ。弟子たちに向かって言ってるんですよ。先生がぐっすり眠っているのにたたき起こしてね、「わたしたちがおぼれてもかまわないんですか〜!」なんて、もう、何言ってんの、って感じ。「かまわないんですか〜!」って、そんなの、ぜんっぜん構わないんです。イエスと一緒に沈みゃあいいんですよ。
 たとえ舟がひっくり返って海の底に沈んでも、主と共に沈むんなら、その海の底に天国の入り口があると思いますよ。
 平和の主の静かな眠り。
 ・・・私たち、この眠りに結ばれてね、ホントに今晩、こんな福音聴いた夜は、ぐっすり寝てくださいね。もう、自分の心の波風をイエスさまに「黙れ。静まれ」って静めてもらって、これ以上何も考えずに寝ましょうね。・・・だいたい頭の中って、おんなじことの繰り返しですからね、いつまでもぐるぐる、ざばざば、波風が立ってる。だから主に一喝してもらいましょう、「黙れ。静まれ」と。

 今日、どうして第1朗読(※2)にヨブ記が読まれるかっていうと、この心の「波風」に向かって、神さまが「黙れ。静まれ」って言うってのが、ヨブ記のテーマだからなんですね。
 「ヨブ記」、ご存じですか。面白いですよ。お金持ちのヨブが、正しい人で信仰深くて神様のご自慢だったんだけど、悪魔が「それはあいつが恵まれてるからだ、試練を与えれば信仰を失うよ」って言って、ヨブを試すんですね。まあ、試験ってやつです。ヨブは財産を奪われ、全身を皮膚病にされて、最初はがんばって信仰を保ってたけれど、最後にはついに苦しみに根負けして神を呪い始めるっていう、まあ、そういうお話です。「神よ、わたしは正しく生きてきたのに、なぜこんな苦難を与えるのか〜!」ってね。これ、私たちの日常の姿ですね、このヨブは。
 「なぜ、私だけがこんな目に遭うのか〜!」
 「神が愛なら、なぜこんな苦しみがあるのか〜!」
 「何も悪いことしてないのに、神は何を考えているのか〜!」
 ・・・これ、私たちの心の叫びですね。
 それに対して、このヨブ記は38章に、・・・38章までヨブは文句言ってんですけど、38章になって、面白いんですよ、突然、神御自身が現れて語り始めるんです。それが今日読んだ第1朗読のところです。最初のところは、今日のところの直前ですけど、こうあります。
 「嵐の中から神はヨブに答えて言われた」(cf.ヨブ38:1)と。
 ・・・この「嵐の中から」っていうのがね、皆さんの「心の嵐」の話でしょう。
 「お前は何者か」と。
 「私の計画を暗くするものよ。ごちゃごちゃいうなら答えてみろ」と。
 「わたしがこの宇宙を創ったとき、お前はどこにいたのか」と。
 「この星々をつくったのは誰か」と。
 「このいのちを育てているのは誰か」、
 「お前を生み出したのは誰か」と。
 ・・・「答えてみろ。お前がやったのか?」と。(cf.ヨブ38章、39章)
 まあ、この神の一喝ですね。ひと言で言えば、神さまがヨブに、
 「ごちゃごちゃ言うな! すべてわたしが創ってるんだ、ただ私を信じてればいいんだ」と。
 「お前のごちゃごちゃ言ってる言葉なんて、私の偉大なわざを前にすれば、吹き飛ぶような言葉だ、取るに足りない言葉だ。黙れ! 静まれ!!」って言ってるんです。それで、ヨブは最後に、こう答えます。
 「申し訳なかった」と。
 「私は今、自分の口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう語りません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」
 そう言ってヨブは、自分の口に手を置きます(cf.ヨブ40:3〜5)
 このね、まあ、「聖なる沈黙」ってやつですね。これ、皆さん、心に嵐が起こったときに、覚えといてください。簡単ですから、やったらいいですよ。右手が動くんだったら、右手を上げて、自分の口を押える。・・・「黙ります」と。
 神父のとこには、いろいろな人がいろいろな相談に来ますけど、中には深刻な話もありますが、まあ、だいたいはみんな、似たような相談なんですよね。人間関係のこと、家庭のこと、仕事のことなどなど、ごちゃごちゃ言うわけですよ。もちろん、その苦しみは分かりますし、同情もしますよ、大変だなあとも思いますけど、そう思いながらも実をいうと私は心の中で、いつも、「黙れ! 静まれ!!」って、(笑) そう叫んでおります。ホントに言ったら身もふたもないから言いませんよ。(笑) でも、今度相談に来た方は、「ああ、神父は今、そう思ってるんだな〜」って思ってください。だって、心の中の嵐は、いくらそれを繰り返ししゃべったって決して静まらないし、でもそんな嵐、神の創造の御業(みわざ)を前にしたら、何の意味もないこと。
 「うちの主人も、洗礼を受けてくれればいいのに・・・」とかって(笑)、ホントにもう・・・。
 「黙れ! 静まれ!! そんなもの、神がちゃんとやってんだから、信じなさい。ちゃんとすべて救ってくれるに決まってるんだから、ごちゃごちゃ言うな」と。
 あれやらこれやら文句言ったところで、それは「あなたの」心の中の波風なんです。嵐が吹きすさんでも、イエスはそれを一喝です。「黙れ。静まれ」で静めることができます。
 私のこの説教だって、皆さんの心の嵐に向かっての「黙れ。静まれ」なんですよ。でも、そうして(なぎ)になったときの心の平和、静けさ・・・。

 先月から来られている目の不自由な方、今日も来てくださって、ありがとうございます。
 今日は娘さんを連れて来てくださったんですよね〜。うれしいねえ。4歳なんですって? よく来ましたねえ、いい子だね、パパが連れて来てくれたんですよね。全盲の方ですけれども、先月からもう4回目ですか、日曜日に毎週通って、入門講座にも出てくださってます。
 多摩教会、いい教会でしょう? 待降節に入ったころに、「洗礼志願書」(※3)というものが配られますので、(笑) それをどうお使いになるかは自由ですけれども、(笑)ぜひもらってください。ともかく、あなたが毎週こうして来てくださって、うれしいです。
 最初に来てくださったときに、私、あなたに、それこそ「黙れ。静まれ」みたいなこと、言いましたよね。
 ちょうど、「ぼくを、信じて!」っていう説教の日(※4)。確かにあれやら、これやら、心の中にとらわれはあるかもしれないけれども、ともかく神の御業を「信じて」、自分が勝手に生み出している心のとらわれから解放されて、ホントに自由になろうというお話をした日です。
 ミサの後、あなたは話してくれました。今まで、どうしても自分の試練について受け入れられなかった。どうして自分がこういう中途失明という障害を背負うことになったのか。あの時もっとこうすればよかったんじゃないか。もう自分には本当の幸せは訪れないんじゃないか。そういうとらわれを持ち続けて来たけれど、今日のミサの説教はとても心に響いた。自由になりたいと思った、と。
 それはもちろん、現実の苦しさの中で、心の中に波風は立つでしょう。しかし、今、神さまが、
 「わたしを信じてほしい。わたしが共にいる。だから、あなたがどのような状況だろうとも、この世界をつくったわたしを信じていれば、そこに真の平和がある」と言ってるんです。
 だから、まあ、あなたの思いを受けて、はっきり申し上げました。「ぼくを、信じて」っていう思いで宣言しました。思い出しますよ。お御堂(みどう)の外でね、
 「さあ、もう、自由になりましょう。あなたが今までず〜っと心の中で繰り返してきた、『なぜ?』『どうして?』『神がおられるなら、この試練はいったい・・・?』、そういうすべての思いから解放されて、『私は今、神に愛されている。それを信じる。それによって、真の自由を生きることができるんだ』と、そういう思いで生きていきましょう。あなたの中に今、それが始まっています」と。
 ・・・そういうのをね、「新たな創造」っていうんです。
 先ほど、第2朗読(※5)のパウロの言葉の最後に出てきました。
 「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(二コリント5:17)
 「新しく創造される」っていうことは、「かつての創造」もあるわけですね。旧約聖書に出てくる「創造」です。神さまが宇宙をつくりました。命をはぐくみました。人間を生み出しました。これは、創造ですね、天地創造の御業(みわざ)。そんな中で神は人間だけに、「新たな創造」の恵みを与えたんです。人間が神を知り、神と出会い、神と結ばれる恵みです。
 「こんな私が、なんで生まれてきたのか」
 「この世界は、なぜ存在するのか」
 「神なんて、ホントにおられるのか」
 「だったら、なぜこの苦しみがあるのか」
 そういうことを、人間だけが考える。そして、考えた末に、神を見いだします。愛によってすべてを生み育て、その愛を受け止める者として人間を特別に愛し、最後はすべての人をご自分のうちに迎え入れてくださる愛の神を見出します。
 キリストを通して、キリストと結ばれることによってその神の愛を知ったときに、「新たな創造」が起こる。これこそ、人間の意味であり、人生の目的です。神にしてみれば、ただ宇宙を創造し、人類を創造しただけじゃ、まだ創造は完成してないんです。すべては「新たな創造」の準備に過ぎないんであって、「新たな創造」が起こったときこそが、完成の始まりです。
 この「新たな創造」は、神に出会って、神の愛を知り、神を信じたときに起こります。人間が、自分の頭の中で、ぐるぐるぐるぐる考えている、「この世の言葉」を黙らせて、全宇宙に響き渡っている神さまの思い、すべての人に語られている神さまの言葉を受け入れて、その思いと言葉を自分の思いと言葉とするときこそ、「新たな創造」のときです。
 これは犬や猫には、絶対できない。人間が、「そうか。この私の思いを静めて、神の思いにすべてを委ねよう」って信じたとき、とてつもないクリエイトが起こる。
 あなたが招かれているのは、そういう世界ですし、あなたの娘さんが招かれているのもそういう信仰です。今日初めて娘さん連れて来られましたけど、娘さんのうちに、今、新しい創造が始まってるんです。(その娘さんに向かって)「よく来たね、ミサ、面白いでしょ?(笑) また来てほしいな〜。また会おうね。^^ ここ来ると楽しいこと、いっぱいあるよ。『はつせいたい』とかね、(笑)いろいろ♪」

 今日、来てくれてうれしい人が、他にもう一人いるんですよ。
 私の教え子です。そこに来てるんです。うれしいですねえ。今日、君はミサ、2回目ですね。
 私、7年前から、早稲田の理工学部で非常勤講師してるんですよ。「世界の宗教」っていうタイトルの講義です。・・・理工学部ですよ。もう、理系の超エリートですよ。ある意味みんな科学者なわけですけど、そんなとこで宗教教えてるんですよ。宗教なんて、ある意味、非科学ですし、みんな興味津々なんですね。
 だから、面白いんですよ。たとえば先週の授業の後、「質問があります」なんて言って、ひとりの学生が教壇のとこに来て、言うんですね。
 「先生の講義はすごく興味深くて分かりやすいし、特に普遍主義の話とか、納得したし、感動しました。ただひとつだけ、先生が『聖なる霊が働いてる』とか、そういう話を当たり前のようにするのが、本当に驚きで、一体どう捉えていいか、まったく分からなくなっちゃうんです。先生自身は、『霊の働き』とかって、本気で信じてるんですか?」(笑)
 だから、「もちろん信じてますよ。っていうか、今、ここでも働いてるんですよ」って言うと、
 本当に、文字通り目を丸くして、
 「ホントにあるんですか? 先生は感じられるんですか? どうやって分かるんですか?」って。
 ・・・やっぱり理工学部って、まあそういう感じなんですよねえ、「どうやったらそれが分かるんですか?」と。理工学部だけじゃない、現代社会全体がそんな感じですもんね。計測不能なものは存在しないと同じなんでしょうね。ですから、
 「いや、それはね、幽霊みたいに漂っていて、鬼太郎(きたろう)の髪の毛のアンテナ(※6)みたいに、『おっ、妖怪が近くに来たな!』って、(笑) ピンと立つみたいには計測できないよ。でも、確かにある。この世界の本質には、そういう、人間には計測できないけれども、確かに働いていて、深いところで感じることもできる、『聖霊の働き』っていうのがあるんだよ。
 その『聖なる霊』は、神の愛の働きとして、この世界の始まりから宇宙全体を満たしているし、あなたを生んだのもその働きだし、あなたをこの学校に入れて、こうしてこの授業に導いたっていうのもその働きだし、今、私に出会って、こうしているひとときも、そういう『霊の働き』によってるんだ」
 そう言ったら、
 「・・・ホンットに信じてるんですか?」(笑)
 そう繰り返すんですよ。
 「信じてますよ」って言ったらね、
 「いつからですか?」(笑)って。
 ・・・だからね、もうたぶん、普通にこの社会で生きて来たら、まったく分からないんだと思うんですよ。ホンットに目を丸くして、「いつからですか?」って。
 だけど、ああいうところで教えているっていうのは、私にとってはひとつのチャレンジでもあるし、すごく勉強になって面白い。み〜んな、結局は人間の考えですべてを支配できると思い込んでるんですよ、どっか。私に言わせれば、そんな思い込みだって立派な「宗教」だろうって思うし、何を信じようとその人の自由と言われればそれまでですけど、だけど人生、そういう人間の思いを、ぜんぶ黙らせなきゃなんないときが、必ず来るんです。そんなときに、じゃあ、誰が語るのか。
 ヨブ記ではね、神がこういうようなことを言うんですよ。
 「黙れ。わたしが語る。お前はごちゃごちゃ言うな。今からわたしが語るから、いいから聞け」(cf.ヨブ33:31)って(※7)
 さらに、それを聞けなかったら、私たちに「新たな創造」なんて起こらない。でも聞くためには、黙んなきゃなんないでしょ。自分はしゃべりながら、人の話聞けますか?
 ・・・静まりましょうよ、っていう話なんですよ。

 私、実は早稲田の授業も7年目だし、もうやめようかと思ってたんです。いままで毎回、いろいろ上手に福音を話して、最後に、さりげな〜く、「まあ、多摩教会にも、ちょっと来てみてくださいね〜♪」(笑) なんて言ってきましたけど、だ〜れも来やしない。まあ、何人かはね、立ち寄ってくれて、一緒にお茶飲んだりもしたけども、実際に来てほしいのはミサであり、入門講座なんですよ。でも、7年間やっても、そんな人は現れないし、忙しいし、もう今年でやめようかな〜・・・と思ってたら、先週、来たんですよ〜、君が、ミサに〜!(笑) もうホントに、7年間の苦労がぜんぶ報われたっていうのは、このときだよね。「・・・えっ!? ホントに来たの???」ってね、ミサの後、思わずハグしましたよ。(笑) 「よく来たね〜!!」って。ホンットにうれしかった。
 で、また、一度来ただけだったら、「へ〜、そういうこともあるもんだな」で終わっちゃうけど、今日、見てください、また来てるんですぅ〜〜♪(笑) ・・・うれしいねえ。
 まあ、もっとも先週、君が初めてミサに来た翌日の月曜日の授業の後、私、君を車に乗せて拉致してね、(笑) 多摩教会まで連れ帰って(めし)食わせて酒飲ませてね、(笑) 福音語りまくりましたからね。君もね、小さいころから抱えているいろんな思いを、涙ひとつこぼしながら、しゃべってくれましたよね。
 そのとき私が言ったことも、ある意味「黙れ、静まれ!」ですよ、あれね。
 君が自分のことをどう思おうとも、世の中が君のことをどう思おうとも、そういうこの世の言葉に惑わされるな、まずは、神の言葉を聞こう、と。そう言いたかったんです。人の心の中で荒れ狂う波風を、「黙れ。静まれ」と、黙らせる。しかし、黙れば、神が語りだします。というか、ようやく神の声が聞こえてくるんですね。
 「わたしが、お前を、愛して、生んだ」
 「恐れるな。だいじょうぶだ。信じなさい」
 この声はもう、嵐の中を生きている私たちにとっての、最後の(とりで)でもあり、そして、「新しい創造」の始まりです。

 今日は安心して、「黙って」、休むことにいたしましょう。
 まあ、不眠症とかでつらい人もいるかもしれないけれども、本当に信じて、心の波風をイエスさまに静めてもらったら、ぐっすり眠る日が来るんじゃないですか。そんな日を夢見つつ、今日一日、また今日一日を、信じて過ごしていきましょう。
 先々週話した菅井日人(すがい にっと)さんなんか(※8)、お話したとおり、夜、天丼食べて、午前3時に亡くなってるんですよ。ぐっすりと寝て、その後は、ぜんぶお任せで、いいんじゃないですか? 目覚めたら天国なんて、最高ですよね。もちろん、明日もこの世で目覚めるっていうのも、なかなかいいもんですけど、じゃあそれが永遠に続くかっていうと、そうじゃないですもんね。とりあえず、もう一日この世に目覚めたけど、その夜は今度鰻丼食ったら、それが最後でしたとかね、それはもう人には分かんない。神だけがご存じ。余計な言葉は、黙らせる。
 そして、目覚めれば、天国。
 ・・・そう思ってたら、ぐっすり眠れるんじゃないですか?


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「今日の、この聖書の箇所」
2015年6月21日〈年間第12主日〉の福音朗読箇所
 マルコによる福音書4章35〜41節〈小見出し:「突風を静める」〉
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※2:「第1朗読」
2015年6月21日〈年間第12主日〉の第1朗読箇所
 ヨブ記38章1、8〜11節〈小見出し:「主なる神の言葉」38章1〜41節からの抜粋〉
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※3:「洗礼志願書」
 (画像はクリックすると拡大します)
 カトリック多摩教会で洗礼を希望する方は、原則として待降節第1主日(主の降誕〈クリスマス〉前の準備期間が始まる日)から、四旬節(復活祭前の準備期間)の始まる2週間前までに、「洗礼志願書」と「洗礼志願動機書」を提出し、主任司祭との面談を申し込むことになっている。
 カトリック多摩教会での洗礼までの流れは、教会月報の主任司祭(晴佐久神父)巻頭言、「洗礼シーズン到来」(2013年1月19日発行分)に詳しく書かれていますので、そちらをお読みください。
(参考)
・ 「洗礼シーズン到来」(『多摩カトリックニューズ』2013年1月号 主任司祭〈晴佐久神父〉巻頭言)
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※4:「『ぼくを、信じて!』っていう説教の日」
>>> 「ぼくを、信じて」(「福音の村」2015/5/31日説教)
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※5:「第2朗読」
2015年6月21日〈年間第12主日〉の第1朗読箇所
 コリントの信徒への手紙二 5章14〜17節〈小見出し:「信仰に生きる」4章16節〜5章10節の抜粋〉
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※6:「鬼太郎の髪の毛のアンテナ」
 「鬼太郎」は、水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の主人公で、妖怪の男の子。妖怪と人間が共存できる世界を目指して戦っている。
 「アンテナ」は、「妖怪アンテナ」という。敵の妖怪の気配(妖気)を察知すると敏感に反応して、鬼太郎の頭頂部の髪の毛がアンテナ状に逆立つ。これによって、鬼太郎は、相手の接近、相手までの距離、方向、移動速度、妖気の強さなども知ることができる。
(参考)
・ 画像は、著作権の問題があるので、こちらなどをご参照ください。
・ 「妖怪アンテナ(妖気計算髪)」(「鬼太郎」:ウィキペディア)
・ 「妖怪アンテナ」(「鬼太郎の秘密」:『ゲゲゲの鬼太郎』東映アニメーション)
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※7:「ヨブ記ではね、神がこういうようなことを言うんですよ。『「黙れ。わたしが語る。お前はごちゃごちゃ言うな。今からわたしが語るから、いいから聞け』って」
(参考)
・ ヨブ記 33章31節
 「ヨブよ、耳を傾けてわたしの言うことを聞け。沈黙せよ、わたしに語らせよ 」
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※8:「先々週話した菅井日人さんなんか」
 菅井日人さんは、1944年生まれの、カトリック信徒として有名な写真家。先の5月30日未明、帰天された。
 詳細は、「今、ここで信じます」(「福音の村」〈2015年6月7日「キリストの聖体」〉)をお読みください。説教後半、下から2段落目この辺です。菅井日人さんについては、【参照】の※10 をご覧ください。
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2015年6月21日 (日) 録音/2015年6月28日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英