目には見えない救いの世界

2013年6月30日 年間第13主日
・第1朗読:列王記(列王記上19・16b、19-21)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ5・1、13-18)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・51-62)

【晴佐久神父様 説教】

 今日の、子どもたち奉仕のミサ、いいですね。心洗われます。私は大好きですよ。大人たちの奉仕は汚れている、(笑)・・・というつもりは毛頭ありませんが、この邪心のない子どもたちの声を聞いているだけで、いつもつまらないことにとらわれて、どうでもいい目先のことばかり追い求めている大人の世界からちょっと離れて、子どもたちの無邪気さに心洗われる気持ちです。

 第2朗読を中学生が朗読してましたけど、「しっかりしなさい!」って言われちゃいましたね。パウロの言葉です。「キリストはもうすでに私たちを自由にしてくれたんだから、しっかりしろ! つまらんことにとらわれるな、奴隷状態に戻っちゃだめだぞ」と。
 この「奴隷状態」というのは、神の無限の愛を見失って、脳ミソの考え、自分の判断、人間の計画にとらわれてる状態のことですね。
 この一週間、何か悩みましたか? オロオロしましたか? うまくいかなくって、イライラしましたか? それ、ぜ~んぶあなたの考えでしょ。人間の思いでしょ。せっかく洗礼受けて自由の身になったのに、神の愛を忘れて、また奴隷状態に戻ってしまっている。そんな日曜日に、ミサで子どもたちに「しっかりしなさい!」って言われちゃいました。
 この聖なるミサにおいて、私たちは浮世を離れます。「浮世離れ」は悪いことじゃないですよ。週に1時間でも、いつも下を向いて、目の前の浮世ばかりを見ていた目を天に上げて、共にいてくださる神の愛に心を開く。そんな1時間をこうして過ごせるんですから、「恵まれた者たちよ!」って思う。

 先週は、ありがとうございました。
 聖ペトロのお祝い日ということで、私の洗礼名、ペトロのお祝いをしていただいて、霊的花束(※1)をいただきました。去年より、お祈りが増えてましたけど、「去年よりこの神父、アブナイ・・・」って思われてるんでしょうか。(笑)どうぞ、たくさんお祈りしてください。
 神父なんてまさに、この浮世では何の役にも立たない存在ですが、逆に「浮世で役に立つ神父」って、ちょっとどうかと思う。神父が役に立つのは、浮世離れした、目には見えない世界においてです。だから、目には見えない祈りで支えるのがいいに決まってるわけです。霊的な応援が最高です。目には見えない、祈りの世界で支えることが必要です。
 「え~っ、祈りなんて、ホントに役に立つの?」って言うとしたら、それはもう、まったくわかってない。祈りの世界こそが、われわれが本来あるべき世界。「霊的」な世界でこそ、私たちは神とつながれる。「人は祈るために生まれてきた」、そう言ってもいいくらい。
 「何かのために祈る」どころか、「祈るために生きている」というべき。
 小さな子どもとお母さんのつながりにたとえるなら、祈りっていうのは、子どもがお母さんとおしゃべりしたり、遊んだりして、一緒にいる状態のこと。子どもがお母さんから離れて、たとえば家でお留守番かなんかしてるとき、寂しいでしょ? 不安でしょ? 一人でお遊びしたり、絵本開いたりなんかしてても、だんだん寂しくなって、だんだん不安になっていく。それが、祈りを忘れた状態。
 そこへお母さんが「ただいま~」って帰ってきて、ぎゅっと抱きしめて、「ごめんね~、一人にして。さあ、一緒に遊ぼうね♪」って一緒に遊んでくれたら、子どもは、「ねえ、あのね、あのね、あのね!」って、夢中になって、いっぱいいっぱい、おしゃべりをする。これが、祈りの時間です。・・・目には見えない神さまと共にある、無心の時間。
 そんな時間を持たずに、いつも、一人で頑張って、一人で積み木積んで、絵本読んで、「私はこれから一人で生きていくの」なんて、そんな子どもが幸せなわけがない。
 「天の父と共にある時」っていうものを、本当に自分の最高の時としていなければ、他の時間、一体何してんだろうってことですよ。
 祈りの世界で神と結ばれている時に、私たちは支えられるし、お願いもできるし、深い安らぎを味わう。特に、この「ミサ」という祈りで、私たちは決定的に天とつながっていますから、このひとときで励まされてください。
 特に今日は子どもたちの無邪気な声に支えられてますから。今日の先唱もいいですね。いいお声ですよ。・・・なんて、プレッシャーかな。(笑)

 昨日のうれしい電話の話をさせてください。
 半年前から、よく電話してくる大阪の青年がいるんですよ。30歳くらいです。月に2、3度のペースで、もう半年以上ですから、15、6回はしゃべってると思います。まだ一度も会ったことがありません。
 彼は仕事が忙しくて大変で、周囲とうまくなじめないストレスもたまっていて、ちょっとした病気も持っていて、生きづらさに苦しんでました。たまたまFEBC(※2)のラジオ放送で私の説教を聞いて関心を持ち(※3)、恐る恐る電話してきたんですよ。
 それで私もいろいろと福音を語りましたけど、彼はとっても遠慮深くて、「こんなぼくと話してくれて、ホントにすいません」って感じなんですね。普通、電話相談って、長いとすぐに1時間越えますし、正直、もうそろそろ切りたいなって思っちゃうこともある。だけど、彼の場合は、こっちがもっと福音を語りたいなって思っても、向こうが「また次回」って感じなんです。毎回そう。1回、15分から20分かな。一生懸命福音語ってると、「あの、すみません・・・次の予約を」って。(笑)
 それでも今まで、いろ~んな話をしてきました。教会の話、福音の話・・・。素朴な質問にも、答えてきましたし、「こうして電話でお話しできる時が何よりうれしい時間だ」とかって言ってくれて、最近はだいぶ元気になってきたようにも思う。もちろん、彼の家の近くの教会や修道会をいくつか紹介したりもしてるんですけど、なかなかこう、どこかの教会に通うっていうふうでもなく、半年過ぎた。
 だけど! 昨日の電話、5時半の約束だったのに、5時にかかってきたんで、「いつも時間ピッタリなのに、珍しいな~」と思ったら、なんと大阪の教会からの電話なんです。
 「家の近くの教会に来ました。教会からかけてます!」って言って、「ちょっとお待ちください、今、神父に代わります」って。(笑)
 で、そこの神父さんがね、「晴佐久神父さん、いい青年を紹介してくれてありがとうございます。ホントに美しい魂の青年です。神さまが素晴らしい出会いをつくってくれました」なんて言うんで、私も「ぜひ、よろしくお願いいたします」って。
 いや~、昨日のあの電話はうれしかったね。半年間、少しずつ仲良くなった、顔も見たことないけど今やすごく親しい大事な友人が、ついに教会に行ってくれた。
 またこれが不思議なご縁でね、そこの神父さんが、何カ月か前に多摩教会を訪ねて来てたんですよ。「晴佐久神父さんにお会いしたい」って来て、1時間ほどお話したっていうご縁。・・・偶然でしょ? おもしろいですね。
 神さまが、目には見えない世界でちゃんと素晴らしいことなさってるんですよ。ひとりの青年が悩んで苦しんで、生きてる意味がわからなくなってるときに、ラジオのご縁で、電話のご縁で、多摩教会でお会いした神父とのご縁で、今日あたり、彼、主日のミサに行ってるんじゃないですかねえ。初めてのミサかもしれない。

 神さまはね、神の国をちゃ~んとつくってるんですよ。目に見えるこの世の国なんかじゃない。目には見えない、永遠なる神の国です。
 今日の福音書で、イエスさまが「あなたは、行って神の国を言い広めなさい」って言ってましたけど、神の国は目に見えない愛の世界、祈りの世界、ミサの世界、不思議なつながりの世界であって、見えないけれど、確実に出来上がってます。着々と。それを言い広めるんです。そんな神の国に奉仕するっていうのが、神父として楽しくってしょうがないし、信者としてもそこに生きがいを感じてもらいたい。
 世の中は、目に見える、数字で計れる、科学で説明できるものだけを価値あるものとしているけれども、私たちは違う。永遠なる世界を信じ、目に見えない神の愛の中で、私たちは祈り合う教会家族であるとか、神の国であるとかを信じてるわけですからね。
 「神の国を言い広めなさい」ってイエスさまに言われました。「後ろを振り向くな。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と。
 「父親の葬儀に出たい」って言ってるのに、「そんなの、ほっとけ」って言ってるんですよ、イエスさまは。「ひどいじゃないですか」って思うかもしれないけど、イエスさまの言い方がおもしろいですね。
 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」
 究極のカウンターパンチですね。「死んでいる者たち」っていうのは、神の国を知らない人たちのこと。目には見えない、まことの命、永遠の命の世界を知らずに、目に見えるこの世のことだけになっている状態を「死んでいる」って言ってるんですよ。
 実際、われわれキリスト者は、そりゃ親父(おやじ)の葬儀で泣いたりもするけれども、その信仰の本質は、
 「親父は死んだんじゃない。神のみ心によって、天に生まれていったんだ」
 「私だって死ぬんじゃない。神の愛によって、天に生まれていくんだ」
 「やがてみんな、浮世からは想像もつかないような神秘の世界、大いなる神の国に入って永遠なる存在になる。今はその『種』の段階であり、準備期間にすぎない。目に見える種の中だけ見てても何にも見えない。今は見えない、種から生え出る立派な大木をイメージしながら、種の段階を超えて、神の栄光の世界を目指していこう」ってことでしょう?
 そういうことを知らずに、「親父が死んじゃった。もう終わりだ」としか思えないとしたら、それは「死んでる状態」なんですよ。・・・永遠なる命の世界を知らない状態
 「死んでる者たちに、葬儀をやらせとけ。あなたは、生きている神の国のために働きなさい。わたしについて来い。後ろを振り向くな」 
 このイエスの招きは、浮世離れした司祭にとっては、ホントに励まされます。
 「おっしゃるとおりだ。ついて行こう。神の国を言い広めよう。確信を持って、誰が何と言おうとも、自分の弱さや汚れをものともせずに、神の国を言い広めよう」、そういう決心を新たにします。

 実は先週、所用でその大阪に行く機会がありました。電話の彼は日中は仕事をしてますから会えませんでしたけど、とある舞台を見て、素晴らしい元気をもらいました
 前々から、「一度は見てみたいものだなあ・・・」と思いつつも、なかなかチャンスがなかった舞台ですけど、ついに、ナマを見ることができました。「なんばグランド花月」(※4)の「吉本新喜劇」(※5)。(笑)
 前半はね、1時間半、漫才とか漫談みたいのがあって、後半が1時間、コメディのお芝居の「吉本新喜劇」。ま~あ、全国から大勢集まってて満席でね、それを2時間半退屈させずに笑わせて、立派なもんですよ。あれだけ笑うと元気になりますね。ホントに、パワーもらいました。
 ただ、私の場合は、単に「笑って元気になる」っていうだけじゃすまなくって、ある種、同業者的な気持ちがあるわけです。
 神父もまた、人前に立って、大勢の人たちを励ます。元気づける。そこにいる人たち、み~んなをしらけさせず、一人ひとりに、一番大切なことを伝えよう、みんなの心を一つにして、この場をホントに幸せな場所にしようっていう奉仕をしてるわけですから。
 だから、あの舞台上で、みんなを笑わせて、飽きさせず、緩ませず、ホントにプロの仕事をしてる人たちを尊敬もするし、「くそっ、負けるものか!」みたいなね、思いもあるわけで。今日もし、この説教が、いつもよりちょっとテンション高く思えるんでしたら、もう、その影響ですね。(笑)「負けてなるものか」ですよ。
 私もやっぱり、人前に立つ仕事をしているわけですから、わかるんです。これはすごいことしてるんだっていうのが。
 中でも感心したのは、「オール阪神・巨人」(※6)の漫才です。私、もう高校生の頃から見てますから、40年くらいになるんじゃないですか。テレビによく出てた、あの背の高~い人とよくしゃべる人のコンビ、くらいにしか思ってなくて、ステージに出てきたときは、「へ~、まだやってんだ~」みたいな感じだったんですけど、しゃべり始めたら、もう「まいりました」ですよ。こういう舞台をナマで見るの初めてってこともあって、打ちのめされました。初めから終わりまで、0.1秒も緩むところがない。それだけ二人、修行したんでしょう。微調整を続けてきたんじゃないですか? 「ここもっとこうしよう」「あそこ、まずかったね」って二人でいろいろ工夫しながら40年。今も第一線で、満席のみ~んなを幸せにできる。すごいなあと思うし、まあ、そりゃうらやましいですよ。
 でも、一番印象に残ったのは、「笑福亭松之助」。明石家さんまの師匠って言ってましたけど、もう80代後半なんですよ。これが落語のような、そうでないような不思議な芸で、あの存在感はもう一生忘れられないな。だってね、こう、舞台袖からゆっくりゆっくり出てきただけで、もうみんな笑い出すんですよね。それで、こうゆったりと座ってですね、あたりを見回して「え゛~・・・、え゛~・・・」なんて言ってるだけで、もうみんなドッカンと笑うんですよ。まだ何にも話してないんですよ。「え~、え~」だけで、満席の人を幸せにできるなんて、これはもう、・・・「嫉妬」以外なにものでもない。(笑)
 私も80過ぎて、金祝なんて頃にはね、「え~」だけの説教でみんなを救いたいもんですね。(笑)夢に見ますよ。
 (かすれた声で)「え~・・・、え~・・・、まっ、だいじょうぶですよ ^^」(大笑)
 ・・・みたいな説教。
 でもね、イエスさまとかって、私思うに、もうイエスさまを見ただけで感動して泣きだす人、いたと思うね。イエスさまが口を開いただけで癒やされた人、たったひと言、「あなたたちは幸いだ!」って言われただけで、もうこれだけで生きていけるって思った人、いたんじゃないか。だって、神さまの言葉ですから。目に見えるイエスさまという存在に出会っただけで、目に見えない神の世界に触れことができる。これが、救いなんです。
 まあ、お笑いに嫉妬するなんてどうかと思われるかもしれないけど、私は、神の言葉こそは最高の言葉であり、何よりも人を喜ばせ、元気にするもので、ひとこと語ればみんな救われるんだって信じてるんですよ。ただそれを、ちゃんと相手に語れるかどうかっていうところにね、やっぱり勝負どころがあるというか。自分のことは棚に上げてでも何でもいい、ともかく目の前の人に、「あなたはもう今、救われてるんだ。目には見えない救いの世界があるんだ」っていうことを、ちゃんと告げることができるならば、その人はキリストの弟子であり得る。
 私自身、そんなことがホントにできたらいいな、と思いながら、この25年、微調整と研鑽を続けて生きてきたし、これからも生きていくつもりであります。どうぞ応援してくださいってことですね。

 福音書で、イエスをサマリア人が歓迎しなかったっていう所、読みましたよね。弟子たちが「焼き滅ぼしましょうか」って言ったら、イエスが振り向いて戒められた。
 ユダヤとサマリアって対立してたわけでしょ。ユダヤはエルサレムが聖地。サマリアはゲリジム山が聖地。お互いに、どっちも自分が正しいと思ってる。おんなじモーセ五書に従っている仲間なんですけど、互いに反目して、敵対している。だから、イエスがユダヤ人だ、エルサレムに向かってるって聞いて、サマリア人は、イエスを歓迎しない。軽蔑する。それでカチンときて、弟子たちは「焼き滅ぼしちゃいましょう」みたいなことを言う。
 でも、イエスにとっては、ユダヤとサマリアの対立なんていうのは、ある意味もう、ど~でもいいんです。それがまさに、罪にとらわれている人間の世界。この世における自分たちの宗派、派閥、国家、民族、文化、伝統、そういうのがすべてだと思っているのを、イエスは「死の世界」って呼んでるんです。
 それらを超えた「普遍的な命の世界」、イエスはそれを目指しておられます。
 彼はユダヤ人ですから、ユダヤで生まれましたし、ユダヤで死ぬ。事実、エルサレムで十字架にかかります。しかし、そのエルサレムでの死という目に見える現実から始まって、すべての民族に、すべての人に、すべての時代に、目には見えないイエスが復活しておられます。それが私たちの信仰。目には見えない世界をこそ信じましょう!
 今もし、ここに、つらい思いをしている人がいるなら、
 「神はこの私を救っている」
 「みんなもう、救いのうちにある」
 「復活の主は、時間も空間も超えてここにおられる」
 「今、ここは永遠の命への入り口だ」
 ・・・そう信じて、このミサを捧げましょう。
 ここに、元気をなくして、なかなか試練から抜け出せないでいる人がいるなら、
 「ぜったいにだいじょうぶ! 必ず元気になる。必ず救いはある。いやもう、ここに救いがある。このミサのうちにある」
 ・・・そう信じて、安心してください。


【 参照 】

※1:霊的花束 (英:Spiritual Bouquet)
 カトリック教会では、ロザリオや「主の祈り」、「アヴェ・マリアの祈り」などの祈りや、何かを少し我慢すること(たとえば、たばこやお酒などを断つこと)を祈りの「花」と見立て、それらを集めて「霊的花束」ということがある。
 特に、お祝いやお礼、お見舞いなどに、この「霊的花束」を贈る習慣があり、どのような「花」を何本ささげたかをカードに記し、「霊的花束」として贈ることもある。
 また、個人としてだけではなく、教会として、教会に集う一人ひとりの「花」を「霊的花束」としてまとめて、特に、司教、司祭へのお祝いやお礼に贈ることが多い。
( カードの記入例 )
  ・主の祈り ××回
  ・アヴェ・マリアの祈り ××回
  ・ロザリオ ××連
  ・ロザリオ ××環
  ・十字架の道行 ××回
  ・聖体訪問 ××回 など
 ・・・< 文中へ戻る

※2:「FEBC」(日本キリスト教放送局)
オフィシャルサイト(インターネット放送) →  http://www.febcjp.com/
AMラジオ放送 → AM1566kHz (全国放送)
 ・・・< 文中へ戻る

※3:「FEBC」で放送中の晴佐久昌英神父の説教放送(2013年9月30日終了)
 → 「あなたは救われた‐『主日の福音』ミサ説教から」
   (毎週月曜日更新 <パソコンでも、スマートフォンでも聴くことができます>)
 ・・・< 文中へ戻る

※4:「なんばグランド花月」
ウィキペディア(フリー百科事典) →  http://goo.gl/aEjln
オフィシャルサイト →  http://www.yoshimoto.co.jp/ngk/
 ・・・< 文中へ戻る

※5:「吉本新喜劇」
オフィシャルサイト →  http://www.yoshimoto.co.jp/shinkigeki/
 ・・・< 文中へ戻る

※6:「オール阪神・巨人」
ウィキペディア(フリー百科事典) →  http://goo.gl/2v6mi
吉本興業芸人プロフィール(「オール阪神・巨人」) → http://goo.gl/WVMVo
 ・・・< 文中へ戻る

2013年6月30日 (日) 録音/2013年7月4日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英